第34話 どうして、そこまで
朱音と話した翌朝。
ひかりは家を出る前に、隣の窓を見た。
透の部屋のカーテンは閉じている。
まだ寝ているのかと思った時、玄関の開く音がした。
少し遅れて透が出てくる。
目が合った。
「おはよ」
「おはよう」
それだけで歩き出す。
昔なら、何も話さない朝があっても気にならなかった。
隣にいること自体が会話みたいなものだったから。
今日は靴音の間に、昨夜ひかりが送ったメッセージが残っている。
《朱音は「あの日そこにいなかった」って言った》
《でも、それが嘘かはまだ分からない》
透から返ってきたのは、
《うん》
だけだった。
「朱音のこと」
透が言った。
ひかりは横を見る。
「何」
「大庭さんにも送った?」
「送ったよ」
「そっか」
また沈黙。
朝の住宅街は、昨日より空気が冷たかった。
低い位置から差す陽射しが家々の壁を斜めに照らし、道路の端では乾いた落ち葉が風に押されている。どこかで朝食の魚を焼いているのか、少し焦げた匂いが冷たい空気に混じっていた。
「透はどう思う?」
ひかりが聞いた。
「何が」
「朱音」
透は少し考えた。
「嘘かもしれない」
「うん」
「でも、嘘でも理由までは分からない」
「うん」
「今の犯人かどうかも別」
ひかりは少しだけ息を吐いた。
同じことを考えていた。
それが分かっただけで、胸の中の固いものが少し緩む。
「前だったら」
ひかりが言う。
「何?」
「朱音が嘘ついたって思った瞬間、犯人かもって決めてたかもしれない」
透がこちらを見る。
「今は?」
「分からない」
透の口元が少し動いた。
「俺のせいでその言葉嫌いになったんじゃなかった?」
「今はちょっと好き」
「変なの」
「透ほどじゃない」
信号が赤になる。
二人で止まる。
横断歩道の向こうに、小学生が数人並んでいる。
誰かが走り出そうとして、隣の子にランドセルを引かれていた。
ひかりはそれを見ながら、
「でも」
と言った。
透が待つ。
「分からないままにしておくのと、分からないから調べるのって違うよね」
「何が言いたいの」
「透、私のこと調べてたじゃん」
空気が変わった。
信号はまだ赤。
透は前を向いたまま何も言わない。
「ファイルも」
ひかりは続ける。
「奥村君と会った時間。大庭さんに呼ばれた日。梶原さんと会ったこと」
「事件に関係あることだけだよ」
「分かってる」
「それ以上は書いてない」
「それも分かってる」
青。
向こうの人たちが歩き出す。
ひかりたちも渡る。
白い線を踏む。
途中で、ひかりが言った。
「じゃあ、なんで尾行したの」
透の足が一瞬遅れた。
横断歩道を渡り切る。
二人ともそこで止まらない。
歩きながら話す。
「前にも言っただろ」
透の声が少し低くなる。
「心配だった。それと、疑ってた」
「何を」
透が黙る。
ひかりは横を見る。
「何を疑ってたの」
「それ今聞く?」
「今だから聞いてる」
透は前を向いた。
学校へ向かう生徒が増えてきた。
ここでは話せない。
それは二人とも分かった。
「放課後」
透が言う。
「話す」
ひかりは、
「逃げない?」
と聞いた。
透が少し眉を寄せる。
「お前も」
「何が」
「ファイル開いた理由、ちゃんと話せよ」
ひかりは口を閉じた。
今度は自分の番だった。
「分かった」
そう答えた。
放課後。
文化祭準備が一段落した教室には、まだ数人残っていた。
透とひかりは何となく同時に教室を出た。
屋上へ続く階段。
以前、奈緒のことで言い合った場所。
窓から入る夕方の光はあの時より低く、踊り場の壁を橙色に染めている。外気が入り込んでいるのか、階段の上は教室より冷たく、少し埃っぽい匂いがした。
ひかりが手すりへ触れる。
前にも同じことをした。
冷たさを確かめるように。
「で」
透が言う。
「何から?」
「そっちから」
「なんで」
「聞いたのお前だろ」
「逃げた」
「逃げてない」
「じゃあ話して」
透は窓の外を見る。
運動部の掛け声。
ボールが地面へ当たる音。
遠くの道路を走る車。
「坂東と会うって聞いた時」
透が言う。
「ひかりが危ないと思った」
「坂東君から?」
「それも」
「それも?」
またその言葉。
ひかりは透を見る。
今度は透も視線を逸らさなかった。
「ひかりが何するか分からなかった」
前にも聞いた。
でも今日はそこで終わらせない。
「何すると思ったの」
透の喉が動く。
「分からなかった」
「それじゃ分かんない」
「だから」
「違う」
ひかりは一歩近づいた。
「透が私を追った時、何を確かめたかったの?」
透は黙る。
「坂東君と会ってるか?」
「それも」
「どこへ行くか?」
「うん」
「何をするか?」
返事が遅れた。
「うん」
ひかりは一度目を閉じた。
聞かなければよかった。
まだ核心を聞いていないのに、もう胸の辺りが重い。
「私が坂東君に何かするか見たかった?」
透はすぐには答えなかった。
その沈黙だけで十分な気もした。
「ひかり」
「何」
「先にお前も言えよ」
「何を」
「俺のファイル、どうして開けた」
ひかりの指が手すりから離れる。
「言ったじゃん。透が何も話してくれなかったから」
「それだけ?」
返された。
同じ言葉。
ひかりは透を見る。
「何」
「俺が何か危ないことしてると思った?」
「思った」
「どんな」
「分からなかった」
「ほら」
「でも」
ひかりの声が少し強くなる。
「奥村君が死んで、透が急に奈緒のこと調べ始めて、梶原さんと坂東君の名前が出てきた。私のことまで記録してた」
「だから見た?」
「違うって確認したかった」
透の表情が止まる。
ひかり自身も、自分が言った言葉を聞いていた。
違うと確認したかった。
何と違うのか。
まだ口にはしていない。
「何が違うって?」
透が聞く。
ひかりは答えられない。
階段の下を生徒が通る。
笑い声。
二人は話を止める。
足音が遠ざかる。
また静かになる。
透がもう一度、
「何が違うって?」
と聞いた。
ひかりは手すりの傷を見る。
誰かが鍵か何かで付けた細い線。
「透も同じでしょ」
「何が」
「私が違うって確認したかったんじゃないの」
透の顔がわずかに動く。
ひかりは続ける。
「だから見てたんでしょ」
「ひかり」
「坂東君を待ってる私を。ずっと」
あの日。
道路の向こう。
コンビニの前。
視線が合った瞬間。
「私が坂東君に会ったら、何をするか」
透は何も言わない。
「奥村君の時も、梶原さんの時も、私が会ってたから?」
「……そう」
小さい声。
聞こえた。
ひかりは笑いそうになった。
笑えるわけがないのに、口元がわずかに歪んだ。
「じゃあ同じじゃん」
「何が」
「私も透のファイル開いたの、透が違うって確認したかったから」
視線が合う。
二人とも、その先の言葉を知っている。
言わない。
言えない。
透が先に目を逸らした。
ひかりはその横顔を見る。
「どうして、そこまで私を調べたの?」
声は思ったより静かだった。
責めるより、聞きたかった。
透はしばらく黙っていた。
夕日が少しずつ沈み、踊り場の色が薄くなる。
「明日でもいい?」
透が言った。
ひかりは体が固まった。
その言葉。
二年前。
奈緒。
自分が言った。
――明日でもいい?
同じ。
透も気づいたらしい。
顔が変わる。
「ごめん」
すぐ言った。
ひかりは首を振った。
「明日は嫌」
「うん」
「今聞きたい」
透は息を吐いた。
「分かった」
そう言ったのに、続きは出なかった。
ひかりも待った。
一分も経っていない。
それでも、夕暮れが一段暗くなったように感じた。
最後に透が、
「帰りながらでもいい?」
と聞いた。
ひかりは頷いた。
二人で階段を下りる。
並んでいるのに、肩は一度も触れなかった。




