第32話 女の声
音声を聞く部屋は、以前の面談室とは違った。
小さい。
窓もない。
机の上にパソコンとスピーカーが置かれ、壁には吸音材らしい黒い板が貼られている。
大庭が椅子を三つ並べた。
「音源自体は前と同じ」
最初にそう言った。
「新しいデータが見つかったわけでも、壊れていた部分が突然戻ったわけでもないから、そこは勘違いしないで」
透が頷く。
ひかりも座る。
「警察側で音を分けて聞き取りやすくしたものと、元の音に近いものを両方流す」
「声を変えたりは?」
透が聞く。
「ノイズ処理はしてる。でも人の声そのものを別物にするような加工はしてない」
大庭がマウスへ手を置いた。
「まず元の方」
再生。
ザッ。
衣擦れのような音。
遠くで何かがぶつかる。
ひかりは息を浅くする。
知らない時間。
二年前。
奈緒が持っていた機械だけがそこにいた。
『……違うって』
男の声。
聞き取りにくい。
ノイズ。
『……奥村が……』
透のメモにあった言葉。
実際に耳で聞くと、文字よりずっと曖昧だった。
『梶原……』
誰が呼んだのか分からない。
音が重なる。
ひかりはスピーカーを見つめる。
そこから人が出てくるわけでもないのに、目を離せなかった。
しばらく雑音。
そして、
『もうやめよう』
女の声。
ひかりの背中がわずかに伸びた。
大庭は止めない。
さらに、
『……四人……』
音が潰れる。
誰かの息。
遠くで何かが擦れる。
その後、ほんの短い声。
『きゅう……』
ひかりが眉を寄せた。
すぐノイズへ沈む。
録音が終わる。
大庭が停止した。
「今の最後」
透が言う。
「俺、前は拾えてない」
「そうだね」
大庭が答える。
「でも音源には最初からある。新しく出てきたものじゃない」
「何て?」
ひかりが聞く。
大庭は机の紙を見る。
「複数の聞き取り候補がある。『急に』、『九人』、『救急』。どれとも断定できない」
救急。
その二文字だけが耳に残った。
「もう一度、処理した方を流す」
再生。
雑音が少し薄い。
人の声だけが前へ出てくる。
『……奥村が……』
『梶原……』
『もうやめよう』
女。
透は横で何も動かない。
ひかりは目を閉じた。
声だけにする。
高校二年の今ではない。
中学三年の頃。
教室。
廊下。
放課後。
誰かと笑う声。
「朱音」
口から出た。
大庭がすぐ停止した。
ひかりは目を開ける。
透もこちらを見ている。
「似てる?」
大庭が聞く。
ひかりはすぐに頷けなかった。
もう一度頭の中で再生する。
『もうやめよう』
朱音の声。
普段は少し早口。
苛立つと語尾が短くなる。
二年前なら今より少し高かったはずだ。
「似てる気がします」
ひかりが言う。
言葉を選ぶ。
「でも、朱音だとは言えない」
大庭は頷いた。
「それでいい」
「もう一回いいですか」
再生。
『もうやめよう』
ひかりは今度は目を開けたまま聞いた。
似ている。
聞けば聞くほど似てくる。
そう思った瞬間、大庭の言葉を思い出した。
聞こえた気がする、で人を犯人にしない。
耳も頭も、一度形を与えたものへ寄っていく。
「分からない」
ひかりが言った。
「さっきより?」
透が聞く。
「さっきより分からなくなった」
透が少しだけ頷いた。
「たぶんその方が正しい」
ひかりは横を見る。
「何それ」
「何回も聞くと、知ってる声に寄せて聞こうとするから」
「じゃあ最初の方が正しい?」
「それも分からない」
「また分からない」
「でも決めない方がいい」
ひかりは黙った。
以前なら、透のそういう言い方が嫌だった。
今は少し違う。
決めない。
待つ。
確認する。
その慎重さが誰かを疑うためではなく、間違って疑わないために使われるなら、悪くないのかもしれない。
大庭が再生位置を少し戻す。
「もう一つ」
短い音。
『きゅう……』
今度も分からない。
その後ろで、何か金属が鳴る。
「これは?」
ひかりが聞く。
「場所までは特定できない」
大庭が答える。
「でも、宮前さんが亡くなった当日の可能性は高い」
部屋の空気が少し重くなる。
奈緒が亡くなった日。
旧立体駐車場。
自殺とされた転落。
そしてこの音声。
「奈緒の声は?」
ひかりが聞いた。
「ある」
大庭が言う。
「ただ、今聞いてもらった部分ではかなり重なってる」
「何て?」
大庭は少し考えた。
「はっきりしたところだけなら、『先生に言う』に近い発言がある」
ひかりは目を伏せた。
奈緒らしいと思った。
正しいことをすれば分かってもらえる。
そう信じていた人。
橋爪は止めた。
それでも奈緒は自分で確かめようとした。
「四人いたんですか」
透が聞く。
大庭は首を横へ振る。
「録音だけでは人数を確定できない」
「でも奈緒は四人って言ってた」
「相談記録にもある」
「うん」
大庭は透を見る。
「だから警察も四人目がいた可能性を高く見てる。でも『四人』という言葉が、その場に四人いたという意味とは限らない」
透は少しだけ視線を下げた。
ひかりはその横顔を見る。
前なら、透は数字が一致した時点で線を引いたかもしれない。
今はその線を引かない。
「朱音に聞きたい」
ひかりが言った。
透と大庭が同時に見る。
「声のこと?」
大庭が聞く。
「それも。でも一番聞きたいのは、奈緒が死んだ日どこにいたか」
大庭は少し考えた。
「警察からも確認はする」
「私から聞いちゃ駄目ですか」
「駄目とは言わない」
大庭は言葉を選ぶ。
「ただし、問い詰めない。音声を聞かせて反応を見るようなこともしない。何か知っていても、その場で全部言うとは限らないから」
「分かりました」
透が横から、
「俺も行く?」
と聞いた。
ひかりは少し考えて首を振る。
「朱音とは私が話したい」
「一人で大丈夫?」
「警察に黙って行くわけじゃない」
透はそれ以上言わなかった。
「分かった」
その返事が、ひかりには少し嬉しかった。
任せる。
前の透なら、そう言いながら後ろから来た。
今度はたぶん来ない。
「尾行しないでね」
念のため言う。
透が嫌そうな顔をした。
「しない」
大庭が笑いを堪えている。
「二人とも、事件終わったら一回ちゃんと話した方がいいよ」
ひかりと透が同時に大庭を見る。
「何をですか」
透が聞く。
大庭は、
「それを私に聞く?」
と返した。
ひかりは顔を逸らした。
部屋の中は暖房が効いている。
なのに耳だけ少し熱かった。




