第16話 二人目
朝になっても、梶原芽衣から返信はなかった。
ひかりは目を覚ますと、枕元のスマートフォンを手に取った。
《ごめん。心配だから、無事ならそれだけ返事して》
昨夜送ったメッセージ。
未読。
画面に表示されている時刻は六時十七分。
まだ早い。
寝ているだけかもしれない。
スマートフォンを伏せ、布団から出た。
顔を洗う。
制服へ着替える。
朝食を食べる。
その間に二度、画面を確認した。
変わらない。
玄関を出る前にもう一度。
未読。
「ひかり、行かないの?」
母親の声で顔を上げる。
「行く」
靴を履く。
外へ出た。
空は低い雲に覆われていた。
昨夜より気温が下がり、吸い込んだ空気が喉の奥まで冷たい。隣家の庭から湿った土と落ち葉の匂いが漂い、道路にはまだ朝の光が十分届いていなかった。
透は少し先で待っていた。
「おはよう」
「おはよ」
歩き出す。
透が何か言うかと思った。
昨日のこと。
梶原のこと。
大庭に呼ばれたこと。
何も言わない。
ひかりも聞かなかった。
スマートフォンが制服のポケットにある。
振動していないのに、何度も震えた気がした。
「昨日」
透が言った。
ひかりは顔を上げる。
「何?」
透は数秒黙った。
「ちゃんと夕飯食った?」
予想していなかった。
「食べたけど」
「昼ほとんど食ってなかったから」
「クリームパンもらったじゃん」
「あれ一個だろ」
「お母さんみたい」
「嫌ならもう買わない」
「嫌とは言ってない」
透はそれ以上言わなかった。
どうでもいい会話。
前なら本当にどうでもよかった。
今はそういう会話ほど、なくしたくないものに思えた。
学校へ着く。
昇降口。
いつものざわめき。
靴箱。
制服。
誰かの笑い声。
ひかりが上履きへ履き替えた時、同じクラスの女子がスマートフォンを見ながら、
「ねえ、これ」
と言った。
別の女子が画面を覗く。
「どこ?」
「隣の市」
ひかりは聞くつもりではなかった。
けれど次の言葉が耳に入った。
「女子高生だって」
手が止まる。
何でもない。
高校生なんてたくさんいる。
隣の市だって広い。
そう思ったのに、体が勝手にそちらを向いた。
「どうしたの?」
ひかりが聞く。
女子が画面を見せた。
ニュース速報。
文字が小さい。
十代女性。
死亡。
自宅近く。
事件の可能性。
学校名までは出ていない。
ひかりの指先が冷たくなった。
「名前は?」
自分でも驚くほど早く聞いた。
「まだ出てないみたい」
透が隣に立った。
画面を見る。
顔が変わった。
ほんの少しだけ。
でもひかりには分かった。
透も同じ名前を考えた。
「違うよね」
ひかりが言った。
誰に言ったのか分からない。
透は答えなかった。
一時間目が終わる頃には、学校名が出た。
梶原芽衣が通っていた高校だった。
二時間目の途中。
名前も出た。
教師の声が遠くなった。
黒板には数式。
チョークが動いている。
ひかりは机の下でスマートフォンを握った。
見てはいけないと分かっている。
授業中。
それでも画面を開く。
梶原芽衣。
十七歳。
死亡。
文字はそれだけだった。
昨日会った。
昨日、同じテーブルに座った。
ストローで氷を回していた。
「私たち三人は、もう関係ないから」
そう言った。
そして店を出ていった。
あれが最後になった。
ひかりはスマートフォンを閉じた。
机へ置く。
指を離せない。
昨日送ったメッセージが頭に浮かぶ。
《無事ならそれだけ返事して》
返事がなかった。
返せなかったのだ。
「中原」
教師に呼ばれた。
ひかりは顔を上げる。
「大丈夫か?」
クラスの何人かがこちらを見ている。
「はい」
声は出た。
何が大丈夫なのか分からない。
「気分悪いなら保健室行けよ」
「大丈夫です」
また言った。
その言葉だけが、口から勝手に出ていく。
隣の列に透がいる。
目が合った。
透は何も言わない。
でも視線が外れない。
ひかりは先に目を伏せた。
黒いファイルが浮かぶ。
奥村。
死亡。
梶原芽衣。
その次。
坂東祐生。
違う。
ただ並べてあっただけだ。
透は事件を調べている。
そう言った。
でも。
奥村が死んだ。
透の資料に梶原の名前があった。
そして梶原も死んだ。
その順番だけが、頭の中で嫌なほどきれいに並ぶ。
胸の内側が縮む。
そんなわけがない。
透が。
そんなはずない。
なのに、そう思えば思うほど、昨日見た紙の文字が濃くなる。
昼休み。
ひかりはトイレの洗面台の前に立っていた。
水を出す。
冷たい。
両手へかける。
指先の感覚が少し戻る。
鏡を見る。
顔色が悪い。
後ろでドアが開く。
丹羽朱音が入ってきた。
同じクラスではない。
廊下でひかりを見かけ、追ってきたらしい。
「ひかり」
「朱音」
朱音は鏡越しにひかりを見る。
「大丈夫じゃない顔してる」
ひかりは少しだけ笑った。
「みんなそれ言う」
「じゃあ本当に大丈夫じゃないんじゃない」
朱音らしい言い方だった。
遠慮がない。
ひかりは蛇口を閉めた。
「梶原さん、知ってた?」
朱音の顔が止まる。
ほんの一瞬。
「中学一緒だったから、名前は」
「奈緒と同じクラスだったよね」
朱音は視線を外した。
「そうだったと思う」
「思う?」
「二年前のクラス全部覚えてる?」
「朱音も同じクラスだったでしょ」
少し間があった。
「そうだけど」
朱音は髪を耳へ掛ける。
「急にどうしたの」
「別に」
今度はひかりが隠した。
朱音は何か言いたそうにしたが、やめた。
「ひかり」
「何」
「変なこと調べてるなら、やめた方がいいよ」
ひかりの背中を冷たいものが通った。
「何で?」
「今、二人死んでるんでしょ」
「二人?」
言った後、朱音の口が閉じた。
ひかりは鏡越しにその顔を見る。
奥村。
梶原。
二人。
ただそれだけなら誰でも知っている。
ニュースを見れば分かる。
そう思う。
それでも今の朱音の言い方が耳に残った。
「朱音、何か知ってる?」
「知らない」
答えは早かった。
「じゃあ何で」
「ひかり」
朱音は一歩近づいた。
「知らないから言ってるの。危ないことに首突っ込まないで」
その声は少し低かった。
ひかりは返事をしなかった。
廊下から昼休みのざわめきが聞こえる。
トイレの中だけ、空気が一段冷たいように感じた。
放課後。
透は教室を出るひかりを呼び止めた。
「ひかり」
振り返る。
「何」
透は一度口を開き、閉じる。
それから、
「梶原と昨日会った?」
と聞いた。
とうとう来た。
ひかりは透を見る。
「会った」
隠さなかった。
透の肩が少しだけ下がる。
安心したようにも見えた。
「何話した?」
その問いで、また元へ戻る。
ひかりは少し考え、
「奈緒のこと」
と答えた。
「それだけ?」
透が聞く。
あの時、自分が透にした質問と同じだった。
ひかりは唇を結んだ。
「透も梶原さんに聞いたんでしょ」
「聞いた」
「何を」
「奈緒のこと」
「それだけ?」
今度は透が黙る。
二人の間に、同じ形の質問だけが残った。
ひかりは鞄の紐を握った。
「透」
「何」
「梶原さんが死んだこと、どう思ってる?」
透の顔がわずかに変わった。
「どうって」
「二人目だよ」
言った瞬間、その言葉が自分の耳に重く落ちた。
二人目。
連続している。
透もそれを感じたらしい。
しばらく何も言わない。
「偶然じゃないと思う」
やがて透が言った。
ひかりは透を見る。
「どうして?」
「同じ名前が出てるから」
「どこに?」
透は答えなかった。
ひかりの喉が締まる。
やっぱり。
何か持っている。
何か知っている。
そして話さない。
「もういい」
ひかりが言った。
透が眉を寄せる。
「またそれ?」
「透も同じじゃん」
「何が」
「何も言わない」
「まだ確定してない」
「梶原さん、死んだよ」
声が少し強くなった。
教室に残っていた何人かがこちらを見る。
ひかりは声を落とす。
「それでも、まだ?」
透は何も言わなかった。
ひかりはその顔を見ていた。
一番言ってほしい言葉は簡単だった。
俺じゃない。
そんなことするわけない。
でも、ひかりはまだ一度も透を犯人だと言っていない。
だから透も否定できない。
そのことに気づいた。
言えばいい。
聞けばいい。
透が殺したの?
口まで来た。
出なかった。
そんな言葉を一度でも透へ向けたら、何かが戻らなくなる気がした。
「帰る」
ひかりは言った。
透は、
「一緒に?」
と聞かなかった。
それが少しだけ痛かった。




