第15話 全部を話していない
翌日の三時間目が終わった後、透は担任に呼ばれた。
「野崎、ちょっと職員室まで」
教室が少しざわつく。
誰かが、
「何やった?」
と笑った。
「何もしてない」
透は答えた。
自分ではそう思っている。
廊下へ出る。
担任は職員室へ入らず、そのまま応接室の方へ向かった。
透の足が少し遅くなる。
前にもひかりが呼ばれた場所。
扉の前で、何となく分かった。
中には大庭佳澄がいた。
前に学校で見た時と同じ落ち着いた服装。
机の上にはノートとペン。
窓から午前の光が入り、壁際の観葉植物の葉に細い影を作っている。部屋には古い紙と暖房の乾いた匂いが混じり、廊下より少しだけ温度が高かった。
「授業中にごめんね」
大庭が言う。
「座って」
透は向かいへ座った。
「何ですか」
「梶原芽衣さんに連絡した?」
透は大庭を見る。
すぐに答える。
「しました」
「宮前奈緒さんのことで?」
「はい」
「どうして?」
説明できる。
ICレコーダー。
そこまで考えて、透は止まった。
レコーダーの存在をまだ警察へ話していない。
その判断が急に重く見えた。
大庭は待っている。
「昔のことが気になったからです」
「奥村さんが亡くなった後に?」
「はい」
「坂東祐生さんにも?」
透の指が膝の上で動いた。
「まだ連絡はしてません」
大庭は少しだけ頷く。
「梶原さんには何を聞いた?」
「奈緒のこと」
「それだけ?」
「坂東の名前を出されました」
「梶原さんから?」
「はい」
大庭はノートへ何かを書く。
透はその手元を見る。
「どうして俺が梶原に連絡したって知ってるんですか」
「聞き取りをしてるから」
「梶原にも?」
「必要な人にはね」
詳しくは言わない。
当然だと思った。
自分がやっていることと違う。
警察は情報を集めても、それを誰にでも話さない。
「野崎君」
大庭がペンを置いた。
「事件を調べるのはやめた方がいい」
「何でですか」
「危ないから」
「何が」
「それを今から調べるのが私たちの仕事だから」
透は黙る。
「気になるのは分かる。宮前さんも昔の知り合いで、奥村さんも同じ学校。中原さんまで事情を聞かれたら、自分で確かめたくなるのも分かる」
「でも?」
「でも、自分で聞いて回ると相手を警戒させる。相手が嘘をつく理由も作るし、本当に危ない人がいたら、自分が何を知ってるか教えることにもなる」
透は机の端を見る。
反論が浮かばない。
大庭は続けた。
「それに、記録だけ見てると間違えることがある」
透が顔を上げる。
「どういう意味ですか」
「時間が合う。場所が合う。言ったことと行動も合う。それでも、その人が何を考えていたかまでは記録に残らない」
大庭は少し間を置いた。
「逆もある。人が嘘をつけば、数字の意味まで変わって見える」
ひかりの名前が頭へ浮かんだ。
奥村との会話を全部話さなかった。
梶原へ会ったことも言わなかった。
自分も同じだ。
レコーダーを隠している。
透は視線を落とした。
「何か持ってる?」
大庭の声。
心臓が一度だけ強く鳴った。
「何かって」
「宮前さんに関するもの。記録とか、昔のメッセージとか」
レコーダー。
答えなければいけない。
そう思った。
けれど口から出たのは、
「今は、特に」
だった。
大庭は透を見た。
長くはない。
ただ、その数秒が嫌だった。
「そう」
それ以上は追及しなかった。
「何か見つけたら、自分で判断しないで持ってきて」
「はい」
応接室を出る。
扉が閉まる。
透は廊下で立ち止まった。
今は、特に。
嘘だった。
完全な嘘ではないと思いたい自分がいる。
レコーダーに事件の証拠があると確定したわけではない。
ただ名前が聞こえただけ。
だからまだ。
その言葉が、自分でも聞き飽きた言い訳に思えた。
昼休み。
ひかりは一人で中庭のベンチに座っていた。
風が少し冷たい。
木々の葉はまだ緑を残しているが、足元には黄色くなった葉が何枚か落ちている。購買で買った温かいミルクティーから甘い香りが上がり、缶を両手で包むと指先へじんわり熱が移った。
芽衣へメッセージを送る。
《昨日はごめんなさい》
少し迷って、
《もう一つだけ聞かせてほしい》
と続けた。
《三人って、奥村君と梶原さんと坂東君のこと?》
送信。
既読はつかない。
ひかりはスマートフォンを膝に置いた。
「ここいた」
透の声。
顔を上げる。
「何」
「昼食べた?」
「まだ」
「パン買ってきた」
透が袋を差し出す。
ひかりの好きなクリームパン。
「なんで」
「購買行ったから」
「私の分まで?」
「昨日昼ほとんど食ってなかっただろ」
ひかりは受け取った。
「よく見てるね」
言った瞬間、二人とも少し黙った。
透の顔から、ごく薄く表情が引く。
ファイル。
ひかりの行動時間。
そのことをお互い思い出したのかもしれない。
「そういう意味じゃない」
透が言う。
「分かってる」
包みを開ける。
甘い匂い。
一口食べる。
いつもと同じ味。
「大庭さんに呼ばれた?」
ひかりが聞いた。
「見てた?」
「教室で先生が呼んでたから」
「少し話した」
「奥村君のこと?」
「うん」
透が隣へ座る。
ベンチは二人で座るには少し狭い。
制服の袖が触れそうになる。
少し離れようと思えば離れられる。
二人とも動かなかった。
「ひかり」
透が言う。
「何」
「梶原に」
そこまで。
ひかりの手が止まる。
透も止まった。
視線が合う。
知ってる。
そう思った。
透は梶原に会ったことを知っている。
どうして知った。
梶原が話した。
そこまで一瞬で繋がった。
「梶原さんが何?」
ひかりは聞いた。
透は数秒黙った。
「いや」
また。
ひかりはパンを包みへ戻した。
「透って最近、それ多いね」
「何が」
「言いかけてやめる」
「ひかりもだろ」
「私?」
「昨日、駅で何してた」
心臓が少し速くなる。
「用事」
「それは聞いた」
「じゃあいいでしょ」
「よくないから聞いてる」
ひかりは透を見る。
いつもの彼とは違う。
怒っているわけではない。
でも目がこちらを確かめようとしている。
その視線を知っている。
壊れた機械を見る時の透だ。
どこがおかしい。
何が原因。
一つずつ確かめる。
自分がそれを向けられている。
「透だって全部話してないよね」
ひかりが言った。
透の口が閉じる。
「私にだけ話せっていうの?」
「そういう意味じゃ」
「またそれ」
風が吹いた。
足元の葉が一枚だけ転がる。
乾いた音が地面を擦り、少し離れたところで止まった。
二人とも何も言わない。
授業開始を知らせる予鈴が遠くで鳴る。
ひかりは立った。
「戻ろ」
透も立つ。
並んで歩く。
少し前までなら、沈黙は苦にならなかった。
話さなくても分かる。
そう思っていたから。
今は違う。
話していないから分からない。
それだけなのに、その間へ何か別のものが入っている気がした。
放課後。
文化祭準備が終わった後、ひかりは教室に残った。
透は先生に頼まれて機材を返しに行っている。
窓の外はもう暗くなりかけていた。
校庭の照明が点き、ガラスに教室の中が薄く映る。段ボールや絵の具の匂いは数日で染みついたようになり、誰もいない教室では昼間より強く感じた。
ひかりはスマートフォンを見る。
芽衣へのメッセージ。
まだ既読がない。
もう一度送るか迷う。
やめた。
しつこくしたくない。
透が言ったからではない。
大庭に止められたこともまだ知らない。
それでも芽衣の顔を思い出す。
私たち三人は、もう関係ない。
あの言葉。
関係ないと言う人ほど、何かとの関係を切ろうとしている。
そんなことを考えた。
スマートフォンが震える。
ひかりはすぐ画面を見る。
芽衣ではない。
母親。
《今日は何時?》
《もう帰る》
送る。
芽衣との画面へ戻る。
変化なし。
教室のドアが開いた。
透が戻ってくる。
「まだいたの」
「今帰るとこ」
「一緒に帰る?」
一瞬だけ、ひかりは迷った。
それから、
「うん」
と答えた。
校舎を出る。
夜の空気は昼よりずっと冷たい。
二人の吐く息はまだ白くならない。それでも冬へ向かう匂いのようなものがあり、正門近くの木から落ちた葉が風に押されて歩道を滑っていた。
透と並んで歩く。
いつもの道。
手を伸ばせば届く距離。
それなのに、互いに持っているものの方が距離より大きくなっている。
ひかりのポケットの中でスマートフォンが震えた。
足が止まる。
透も止まった。
「どうした?」
「何でもない」
ひかりは画面を見る。
通知はなかった。
振動したと思っただけだった。
芽衣からの返事を待ちすぎている。
「行こ」
歩き出す。
その夜、ひかりはもう一度だけ芽衣へ送った。
《ごめん。心配だから、無事ならそれだけ返事して》
送信。
一時間。
二時間。
日付が変わっても、既読はつかなかった。




