第12話 違うと言ってほしい
翌朝、ひかりは透より先に家を出た。
珍しいことだった。
いつもなら時間が合えば何となく一緒になる。
今日は玄関を閉めた後、隣の家を見なかった。
空気はひんやりしていた。道路脇の植え込みには夜露が残り、朝日が当たるたび細い光を返している。どこかの家からトーストの焦げる匂いが流れ、曲がり角では登校する中学生が眠そうな顔で自転車を押していた。
普通の朝。
昨日、自分が透のファイルを勝手に開いたことだけが普通ではない。
スマートフォンを取り出す。
検索画面には昨夜見つけた梶原芽衣のSNS。
透のファイルに書かれていた学校名と一致している。
鍵のかかっていない古い投稿に顔写真。
卒業アルバムで見た顔より少し大人びている。
連絡する。
そこまで決めたのは昨夜だった。
目的は一つ。
透が梶原に何を聞いたのか知る。
それが分かれば、あのファイルの意味も分かるかもしれない。
ひかりはメッセージ欄を開いた。
《突然すみません。中原ひかりです》
打つ。
少し待つ。
続ける。
《宮前奈緒と同じ中学だった中原です。野崎透から何か聞かれませんでしたか》
読み返す。
名前を出していいのか。
透には許可を取っていない。
けれどもうファイルを勝手に見ている。
今さらそこで止まるのも、何か違う気がした。
送信。
画面を閉じた。
胸の奥に細い重さが残る。
違うと知りたいだけ。
透が危ないことをしていない。
奥村の死と関係がない。
あの資料も、ただ調べているだけ。
それを確認したい。
ひかりは何度もそう考えた。
同じ言葉を繰り返すほど、言い訳に近づいていく気がした。
教室へ入ると、透はもう来ていた。
「早いな」
ひかりを見るなり言った。
「たまには」
「待ってたら来なかった」
「待ってたの?」
透が一瞬黙る。
「時間一緒だから」
「そう」
鞄を机へ置く。
それだけなのに、顔を見づらい。
「昨日、ちゃんと勉強した?」
透が聞く。
「したよ」
「嘘」
「した」
「最後二十分、ほぼ止まってた」
ひかりの手がわずかに止まった。
見てたんだ。
その言葉が最初に浮かんだ。
すぐ違うと思う。
一緒に勉強していたのだから当然だ。
普通の言葉が、昨日見た記録のせいで別の意味に聞こえる。
「透って、人のことよく見てるよね」
ひかりが言った。
「急に何」
「別に」
透が眉を寄せる。
「今日変だぞ」
「透に言われたくない」
チャイムが鳴った。
助かったと思った自分に気づいた。
昼休み。
スマートフォンが震えた。
梶原芽衣。
返信が来ていた。
《中原さん?》
ひかりは窓際へ移動する。
《そうです》
すぐには返ってこない。
一分。
二分。
《野崎くんと仲いい人だよね》
指が止まる。
どうしてそこを確認するのだろう。
《幼馴染です》
送る。
また少し待つ。
《何が聞きたいの》
ひかりは短く息を吐いた。
《透から何を聞かれたのか知りたいです》
既読。
返事が来ない。
窓の外では校庭の端を運動部の生徒が走っていた。昼の日差しは少し強く、窓ガラスの近くにいると頬だけが暖かい。教室からパンや弁当の匂いが流れてきて、誰かの笑い声が途切れず続いている。
五分ほどして画面が光った。
《宮前奈緒のこと》
ひかりは唇を結んだ。
透が言っていたことと一致する。
《それだけ?》
《あと坂東》
《どうして坂東君?》
しばらく返事がない。
《私が言ったから》
ひかりは画面を見た。
透が勝手に坂東へ辿り着いたわけではない。
芽衣が名前を出した。
黒いファイルに書いてあった通りだ。
一つずつ確認するたび、透の説明が正しかったことが増えていく。
それなのに胸の重さは減らなかった。
《会って話せませんか》
送る。
すぐに、
《無理》
と返ってきた。
ひかりはもう一度打つ。
《透を疑ってるわけじゃないです。むしろ違うって確認したくて》
送ってから、自分でその文章を見た。
違うって。
何が違う。
書いた自分が一番分かっている。
数分後。
《明日なら少しだけ》
場所が送られてきた。
芽衣の学校から少し離れた駅前。
ひかりは画面を閉じる。
「誰?」
すぐ横から声がして肩が跳ねた。
透がいた。
「びっくりした」
「そんな驚く?」
「急に後ろ立つから」
「立ってない。普通に来た」
透の視線がスマートフォンへ落ちる。
ひかりは反射的に画面を伏せた。
その動きを透も見た。
一秒。
何も言わない。
「購買行くけど」
透が言う。
「何かいる?」
「ミルクティー」
「また?」
「好きだから」
透は頷き、歩いていく。
その背中を見ながら、ひかりはスマートフォンを握った。
今の動き。
隠した。
自分から。
秘密にした。
透が何かを隠すことに腹を立てたばかりなのに。
ひかりは机へ額を付けたくなった。
でも顔を上げたまま待った。
数分後、透は何も聞かずにミルクティーを一本置いた。
いつもと同じように。




