第10話 まだ言えない
翌日、透は学校を休まなかった。
ひかりは朝、隣の家の玄関が開く音を聞いて少し安心した。
何に安心したのかまでは考えなかった。
登校中。
二人の間には昨日のファイルがあった。
実物は透の部屋にある。
それでも一緒に歩いている気がする。
「英語やった?」
透が聞く。
「やった」
「昨日全然進んでなかったけど」
「帰ってからやった」
「珍しい」
「私を何だと思ってるの」
「追い込まれてからやる人」
「合ってるけど」
いつもの会話。
ひかりは少し笑う。
透も笑う。
それなのに、信号待ちで沈黙すると、昨日の黒い表紙が浮かんだ。
「透」
「何」
「昨日のファイル」
透の肩がわずかに動く。
「まだ言う?」
「言う」
「何」
「私にも見せて」
「駄目」
即答だった。
ひかりは前を向いたまま歩く。
「どうして」
「まだ整理できてないって言っただろ」
「整理できたら?」
「見せる」
「いつ」
「分かんない」
「それ、見せない人の言い方」
透が足を止めた。
ひかりも少し先で止まる。
朝の通学路を他の生徒が二人の横を通っていく。雲は薄く、陽射しは柔らかい。民家の庭から金木犀の匂いが流れ、秋が近いというより、もう来ているのだと今さら気づく。
「ひかり」
透の声が低くなる。
「何」
「何をそんなに知りたいの」
質問に、少し腹が立った。
「透が何を調べてるか」
「それは言っただろ」
「奈緒のこと、奥村君のこと。それだけじゃないよね」
透は黙る。
「梶原さんとか坂東君とか、何で出てくるの」
透の目が変わる。
ほんの少し。
ひかりはその変化を見逃さなかった。
「何で梶原の名前知ってる?」
しまった。
昨日ファイルの表紙しか見ていない。
透は梶原という名前を自分からひかりに話していない。
ひかりの頭が一瞬止まった。
「前に、坂東のこと聞いた時」
「梶原は言ってない」
透はこういうところだけ正確だ。
ひかりは息を吸う。
「昨日、ファイルの付箋に名前見えた」
嘘ではない。
実際、端から見えた文字があった。
透は何も言わない。
「何?」
「勝手に見た?」
「開いてない」
「本当に?」
その言い方。
ひかりの喉の奥が熱くなった。
「本当」
透は数秒こちらを見た後、
「ごめん」
と言った。
謝られると余計に腹が立つ。
「なんで私ばっかり聞かれてるの」
「別にそういうつもりじゃ」
「じゃあ透が答えてよ」
「何を」
「何を調べてるの。なんで奥村君が死んだ後に梶原さんと坂東君を調べてるの。なんで私が奥村君と会った時間まで書いてるの」
透はすぐには答えなかった。
道路の向こうで小学生が走っている。
黄色い帽子。
ランドセル。
母親らしい人が「危ないよ」と声を掛ける。
そんな普通の朝の音の中で、二人だけ立ち止まっていた。
「まだ言えない」
透が言った。
ひかりは一度目を閉じた。
昨日も。
その前も。
同じ。
「私には?」
「そういう意味じゃない」
「またそれ」
「確かめたいことがあるだけ」
「何を」
「それを確かめてから話す」
「私に関係ある?」
透は答えなかった。
その沈黙が答えに見えた。
ひかりは鞄の紐を握った。
「関係あるんだ」
「あるかもしれない」
「どういう意味」
「まだ分からない」
「分からないばっかり」
透の眉が寄る。
「適当に話す方が嫌だろ」
「何も話さないよりはいい」
「違ってたらどうする」
「何が違ってたら?」
透は口を閉じた。
これ以上は言わない。
そう決めた顔だった。
ひかりは分かった。
分かってしまった。
昔から何度も見てきた顔だ。
壊れた機械を直している時。
答えが出るまで余計なことを言わない。
中途半端な状態を人に見せたがらない。
その性格を知っている。
知っているから、これまで待てた。
今日は待てなかった。
「もういい」
歩き出す。
透が追いつく。
「ひかり」
「学校遅れる」
「怒ってる?」
「別に」
「それ怒ってる時の言い方」
「よく知ってるね」
言った後、胸の奥が少し痛んだ。
よく知っている。
お互いのことを。
たぶん誰より。
なのに今は、透が何をしているのか分からない。
その日の放課後も文化祭準備があった。
教室の後ろでは段ボールを切る音。
前では装飾用の紙を貼る生徒たち。
窓から入る夕日は昨日より赤く、黒板に斜めの光を作っていた。絵の具と接着剤、それに誰かが買ってきたポテトの匂いが混ざり、文化祭前らしい雑多な空気が教室へ溜まっている。
透はスピーカーを直していた。
ひかりは少し離れた場所で看板へ色を塗っている。
会話はない。
それでも何度か目が合った。
すぐ逸らす。
また合う。
昼休みなら話せた。
昨日までなら。
今は一言目をどちらが出すかで、何かが変わってしまう気がした。
「中原、そこ赤お願い」
クラスメイトに言われる。
「うん」
ひかりは筆を取った。
赤。
明るすぎる。
少し黒を混ぜる。
色が変わる。
見えているものに少し別のものが混ざっただけで、元の色とは違って見える。
ひかりは筆を止めた。
奥村が言っていた。
二年前を調べている人がいる。
その人は透ではない。
透が調べ始めたのは奥村が死んでから。
そこは信じている。
なら何を調べている。
なぜ梶原。
なぜ坂東。
なぜ自分の行動時間。
分からない。
本人に聞いた。
答えてくれなかった。
ではどうする。
そこまで考えて、ひかりは筆を水へ入れた。
赤い絵の具が水の中へゆっくり広がる。
透明だった水が薄く濁り、形のない色が底へ沈んでいく。
透の机の黒いファイルを思い出した。
見れば分かるかもしれない。
すぐに自分で打ち消す。
勝手に見るのは違う。
でも。
もし何か危ないことをしていたら。
もし透自身が何かに巻き込まれていたら。
知らないままでいいのか。
ひかりは透を見る。
彼は俯いたまま、スピーカーの配線を直している。
指先だけが器用に動いている。
こちらには気づいていない。
この人を疑いたいわけじゃない。
むしろ逆だ。
違うと知りたい。
大丈夫だと確認したい。
それだけ。
そう思った時、自分の中で何かが一つだけずれた。
本人に聞いても答えてくれない。
なら。
ひかりは視線を落とした。
明日の夜も、透の家で勉強する約束がある。
黒いファイルは、たぶんまだあの机にある。
そこまで考えた自分が嫌になり、ひかりは筆を強く握った。
指に赤い絵の具が付く。
落とそうとして水へ入れる。
薄く広がった赤は、何度すすいでもすぐには消えなかった。




