第55話「再騎動」
かつて
遥かな水平線を眺めた
揺るぎなき王者
東に北に
南に西に
風は常に吹く
見たこともない波紋を広げるうねりが
王者を飲み込む
【望澪星環群、澪安(研究星環)】
澪和騎士団、候補生コース。
訓練用プール。
酸素……
呼吸……
水面から杉原行成が顔を出した。
息も荒く、クロールでプールサイドに向かう行成。
ストップウォッチを手にしていた双向が縁につかまった行成を引き上げる。
「……何分だった?」
双向は4分ちょうどで止められたストップウォッチを耐水ウッドフロアに寝転がる行成に突きつけた。
「やったぞ、杉原」
だが、これまで出した中での最短記録にも、行成は笑わない。
ようやく、スタートラインに立ったところだ。
まだ、クラウチングすらできていない。
人が余裕で入れる鉄籠を水中に8割沈め、底にある出入口から3桁の数字錠を解除して外に出る――
3桁の数字錠の組み合わせは、1000通り。
落ち着いてさえいれば、どんなに運が悪くても17分もかからない。
桁に限らず、順番にシリンダーを回していけば必ず開くため、鍵と呼ぶには頼りない。
取り掛かった当初は、1日かけても行成は檻から出ることができなかった。
「……あと10回は、やる。まだ恐怖があることは否めない」
奥底にまだ眠る恐怖をすべて掻き出すまで。
双向は消耗して立ち上がれない行成に手を差し伸べた。
「俺の手を取って、今日は上がりにするか、
5秒で立ち上がって用意した飯を食うか、選べ?」
誰かの助けがなければ、この、閉所恐怖症克服の訓練は継続できない。
消耗した体では、訓練は続けられない。
食わねば、体力は回復しない。
「……わかった。まず、補給だ。効率が、落ちるからな」
態度は変わらないように見える一歳下の旧友に、双向は苦笑した。
だが、
――他人の意見を聞くようには、なったじゃないか
閉所恐怖症克服以上の成果である。
【諸角星環群、丹鶴(居住星環)】
礼文本家、応接室。
部屋の主である礼文・但馬・太陽は、直立不動の礼文慎にソファにかけるよう勧めた。
背骨骨折は完治、長かったリハビリを終え、騎士艇に体を慣らし、満を持しての星環騎士戦への復帰、その報告である。
「4年度は、残念だったね」
しらじらしく太陽が慎を慰撫する。
しかし、この男に珍しく笑顔がないのは、本当に残念がっているのかもしれない。
「これから、最終年度だ。
3年度まで総合ではぴったり2位につけていた杉原くんまで、
ほとんどいなかったから……
面白いことになりそうだよ。
4年度だけではあるが、
ダントツの沖くんの4年度の勢いが止まらなければ、
総合順位でも優勝する可能性が出ている」
トップリーグは鎬を削る場だ。
年度内とはいえ近年での全勝優勝は、第42期最終年度の礼文慎くらいである。
奇しくも、慎が復帰するのはその5年後の最終年度。
絶対王者を倒して第42期を取った慎が、前期王者として、大地を迎え討つ――
慎が太陽の前を辞したしばらく後。
「うんうん、それで、盛り上げようよ。
ここに、反旗の炎城くんと逆襲の杉原君が絡むと、なお、よしだね」
総合優勝の箔がつく前の大地くんを、この最終年度中に釣りあげたいねー、と、どこかにいる誰かと、楽し気に会話する太陽。
【平柱星環群、紫若(居住星環)】
不知火騎士団事務所 会議室。
次の年度に向けた打ち合わせを終えた騎士団マネージャーが退室した。
会議室に残ったのは、炎城志朗ただ一人。
直近では沖大地が記録したデビューからの28連勝に並んで、再デビューからの27連勝でひよこリーグから来年度のトップリーグまで駆け上がった炎城。
テーブルに置かれた端末には、再デビュー戦からの合計試合時間が示されている。
ちょうど60分だった。
炎城が設定していた目標数値は、ギリギリ達成だ。
パイプ椅子の背もたれにもたれかかった炎城は、ため息をつくように大きく鼻を鳴らした。
炎城は近くの椅子に引っかけた鞄を手に取った。
取り方が横着だったせいか、ショルダーストラップがパイプ椅子の端に引っかかった。
それでも強引に引っ張り、パイプ椅子は音を立てて横倒しになる。
唇を噛みしめてパイプ椅子を元に戻す炎城。
足先で。
元絶対王者の自分がトップリーグに、ただ戻るなどと、ありえない。
セカンドリーグまでは順調であったが、さすがにサードリーグになるとすんなり進められなかった。
……一人、死なせてしまったな。
目標をクリアしなければ、炎城、不知火騎士団、紫若、平柱、いずれかに何らかの不都合が生じるわけではなかったのだが。
ただ、目標とした合計試合時間内に、トップリーグへ戻るというためだけに。
ただ、時間を短縮したかった結果の、40秒。
本気の炎城と能力全開の『轟焔騎』が生み出した惨劇。
あれは、誰だったか……
これ以降、炎城が気の毒な騎士のことを思い返すことはなかった。
【北斗星環群、瑞穂(居住星環)】
沖家宅。
瑞穂の空は、青より青い青。
早朝ならなおのこと――
あの……
「なに?」
大地が正座のまま、おずおずと仁王立ちの希倫を見上げた。
ついさっき顔面に見事な蹴りを食らって、目の下周りがとても熱い。
「……なに?」
正座させた瞬間に顔を蹴るのは、今後は控えていただきたく……
硬い十字ブロックで、蹴りは防いだはずなんだ。
何で、蹴りの衝撃が防御をそのまま貫通してくるのさ。
うちの妹さんは、怪獣か何かですか?
なにぶん、大地は今や瑞穂にとどまらない、北斗の有名人である。
顔は、まずい。
希倫は大地から視線を外さず、深くため息をついた。
控えめに言って、怖いぞ。
「お兄ちゃんも、いい大人だから、黙ってたけど」
……ごくり。
「鋼谷さんちは、まあいい。
琢磨さんに懐くのも、
全力くんを可愛がるのも」
うん、うん。
お陰で、料理の腕、上がったろ?
先週も、美味しいって食べてただろ?
希倫が大地の腿を踏みつけた。
正座している大地には、とても痛い。
控えめに言っても、拷問です。
早く、その足をどけてぇぇ……
「嫁入り前の、佐祐倫さん……」
大地がびくっと震える。
佐祐倫に対して、本来は不必要な罪悪感を積み上げている大地は、妙な後ろめたさがある。
「朝帰りが、多過ぎませんかね……おにいさま?」
頸の角度だけ変えて迫ってきた希倫と、大地は目を合わせない。
怪獣映画に次いで、大地の至近距離で上映されるホラー映画。
映画と違うのは、撃退する方法がいつまでも示されないこと。
「……おねえさまを、ごしょうかいして、いただけませんこと?」
あの、ひらがなでしゃべられると、とても、こわいのです。
希倫は大地の腿から踵をどけて、近くにある椅子に腰かけた。
「……事務所で会ってもね」
佐祐倫さんと会って、かな?
「見かけによらず、もともと腰の低い人なの。
でね、このところ、私に対して本当にすっごく遠慮してて、
こっちの方が、いたたまれないの。
わかる?」
いや、仲良くしてあげて?
兄にもこんなに自然に手が出る妹、そりゃ普通に敬遠されるだろ。
……黙って、聞きます、はい。
「前からの……
白石さんとの件がどうなったとか、そっちはもういいわ。
そもそも嘘くさかったし、くっついてもなかったんでしょ?」
痛いとこ、突くじゃないか。
「佐祐倫さん、はっきりとさせてあげない?」
えーと、はっきりとは?
「……ミズホウドウの旗傍さんから、
耳打ちされたんだけど……」
耳打ち?!
あのおっさん、希倫の耳に何しやが……
はい、正座、続けます。
「……お兄ちゃんと、白石さん。
マスメディア界隈では、
報道側は差し控えているけど、
婚約が秒読みの関係だって……
公然の秘密ってことになってるのよね?」
えーと、それ、俺のせいじゃなくて……
――白石さんの情報操作というか
いつの間にか果物ナイフを手にした希倫を前に、大地は凍り付いた。
希倫は空いた方の手でテーブルに置かれたリンゴを掴むと、するするっと皮を剥いていく。
「佐祐倫さんって、良い人だよね……
知らないけど。」
お前、本当は佐祐倫さんのこと、嫌いなんじゃないの?
「そんな筈ないのに、
略奪愛みたいに陰口叩かれてるの、
お兄ちゃんのせいだぞ」
それに関しましては、まったく抗弁いたしません。
かといって、ただちに身を固める方向性に向かないのが、沖大地という青年。
赤銅騎士団事務所。
「希倫ちゃんが詰めても、駄目か……」
ソファにもたれ掛かった竹島健司は、天井を仰いでため息をついた。
大地の兄貴分である身としては、さっさと観念しろと何度も言い聞かせてきたところである。
割と切り札の希倫で効果が薄いなら、もう手札はない。
白石マネージャーなんて『私が結婚相手になる手間が省けた』『本気なのは佐祐倫の方だから、あの娘に任せてあげて』とか言って、乗ってこない。
「ふらふらしてる大地のことだから、
このままズルズルと行きそうだし、
となると、佐祐倫さんが気の毒過ぎてなあ」
竹島のいつもの軽い語り口に、希倫はテーブルをバシバシ叩く。
「佐祐倫さんの1年は、お兄ちゃんの1年とは、比べ物にならないの!
正式にくっつかないのなら、さっさと自由にしてあげなきゃでしょ!」
むしろ、大地よりも佐祐倫の方が執着しているのだが、兄妹ともに自己評価が低いので、そこに考えが至らない。
「……フクスケのおにぎり、食べる? さっき大安売りだったんで多めに買っちまって」
竹島が脇に置いていた袋から、十数個のおにぎりをテーブルに転がした。
「……いただきます」
希倫は好物のなめろう入りを手に取った。
――おはようございます。沖大地、入ります!
名もなき息吹が吹き荒れるころ
大地にかつての王者が這いあがる
揺り戻せ
螺旋を描く異なる思想
すべてを飲み込まんとする互いの渦
水平線には、遠過ぎる




