幕間「大地推し、襲来」
空を見ろ
飛行機だ
鳥だ
いや――
沖希倫は看板娘である。
安くて割とおいしいと評判のパン屋のアルバイトをしている。
平日の昼は学校で、夕方と休みの日にはアルバイト。
1年余り前、家計が急速に安定し、貧乏長屋から少し治安のいいところに引っ越して、所帯じみた生活疲れもすっかり抜け、薄幸な雰囲気も随分影が薄れてきた。
「最初の頃の、あれはあれで良かったが、今の方が全然いい」
「あの娘に、幸運を分けてもらっている気がするんだよね」
真面目な勤労学生で、幸運を呼び込む小さなお守りとして、店主はじめ店の一同にもお客様にも愛されている、明るい看板娘なのである。
そんな彼女に事件が舞い込んだ。
正確ではない、彼女の兄、沖大地にある転機をもたらす種が舞い込んだのだ。
とある休日、いつもどおりの午後。ピークを過ぎて落ち着いてきた時間帯のこと。
馴染みのお客さんから、いつものように兄の勝利を祝われていた時のことだった。
「沖さん、さっきもお兄さん、勝ったみたいよ。
これで、次からトップリーグ、
いよいよ本格的にランキングの騎士様ね。
うらやましいわ」
さっきまで、騎士戦のセカンドリーグをどこかで観戦していたのだろう、そのお客さんは希倫の肩を軽くはたいた。
「ありがとうございます。兄も喜びます」
希倫は営業スマイルを絶やさない。
ランキング入り。
もしも、何かの間違いでこのまま勝ち続けて、それで優勝なんかしてしまったら。
この星環群連合で最も貧弱な、瑞穂から、大統領誕生なんてことになりかねないのだ。
これぞ、地元の誉れよ、瑞穂の奇跡。
気の早い人は瑞穂から念願の大統領を、と叫んでいる。
少し前まで、地元の恥とそしられていたのが嘘のようだ。
自分が生まれる前であるが、とある貧乏な星環が事故的な幸運で騎士戦を勝ち抜いたことを遠因とした、財力も政治力も、統率できる人材も乏しい中、無理に無理を重ねた挙句の失政の連鎖が引き起こした大災害。
文字情報だけのひよこリーグや、音声配信のみだったサードリーグの頃と違う周囲の目の変化に、むしろ希倫は熱から冷め始めていた。
(前は、兄が勝つとうれしくて、
自慢して回ってたけど、何か違うかなって。)
この頃の希倫は、星環騎士戦を落ち着いて見返すようになった。
今はトップリーグの第1位を走る礼文慎、前回王者がお気に入りだ。
折悪しく、大地に熱狂し始めた瑞穂の空気の中では、よその代表格、前王者を応援するのはいかにも肩身が狭かった。
ひっそりと応援するのではなく、一緒に力強く応援できる仲間が欲しい今日この頃の希倫である。
からんと入口のドアベルが鳴った。
次のお客さんだ。
「……チョココロネ、
という美しい数式があると聞いたのですが。
まだ、ありますか?」
初老の紳士が尋ねているのは、この店の1番売れ筋のパンの在庫だろう。
残念ながら、この時間に店に並べていた最後の1個は、兄の噂話をしにやってきたお客さんにたった今お買い上げいただいたところだ。
「申し訳ありません。
当店の人気商品でして、ただいま在庫を切らしております」
希倫はわざとらしく掛け時計の方を見た。
「お時間に余裕があるのでしたら、
次の焼き上がりは…30分ほどお待ちいただければ。
もし、お時間がないようでしたら、こちらの――」
「じゃ、沖さん、お兄さんによろしくね。
サインとかもらえるならお願いね。
ああん、セカンドのうちにもらえたら、
後で価値上がったりするのかしら」
希倫が2番人気、3番人気を案内しようとしたとき、さっきのお客さんがくねくねしながら出ていった。
「はい、毎度ごひいきに」
そのときだった。
ふいに初老の紳士が希倫の腕を掴んできた。
防御反応で咄嗟に振り払ってしまった。
余談だが、希倫はずいぶん長いこと兄の大地に喧嘩で負けたことがない。
今はおとなしくしているが、貧乏長屋暮らしだった頃、近所の喧嘩の仲裁に入っては両者をノックアウトなんてしょっちゅうのことだった。
しかして、初老の紳士はパン屋の床に尻もちをつくことになった。
お客様に対して、店員として、倒してしまったことを、謝るべきか。
暴漢に対して、腕をいきなり掴まれた少女として、警察を呼ぶべきか。
「沖、さんかな。
もしかして、騎士の沖大地のご家族か?」
どうやらこの紳士、兄の関係者か何かのようだ。
謝罪は不要。
警察も不要、とりあえず。
何にせよ、他の店員がいない時間帯でよかったと希倫は安堵する。
「怪しいものじゃない。
これでも学者だ。
この店は初めてだが、決して怪しい者じゃない」
「どちら様ですか。
初対面だと、思いますが」
「珍しい苗字だ、
君、沖大地くんのご家族でしょう。
決して損はさせない。
直に感謝と、それから力の限り、
そう、私の財力、人脈の限り、大地くんを応援したいんだ」
まず名乗れや。
希倫は、肩をすくめた。
「熱意は、こちらにも十分に伝わりました。
ですが、どなた様かを存じ上げませんので、
まずは自己紹介していただけませんか?」
紳士は目を丸くした。
少しおいて合点がいったのか、手を打った。
「常々、名乗る必要がなかったものだから、
ついうっかりしていた」
紳士は立ち上がってズボンを手で払った。
食べ物屋の中だぞ。
つい希倫が睨みつけてしまう。
「そう、学者。
博士号もあるよ。
数学博士の風鈴寺弾」
名前は確かに聞いたことがあった。
聞いたどころではない。
小さな子供でも知っている有名人だ。
もし本人なら。
瑞穂が生んだ不世出の天才。
星環群連合の頭脳。
大統領から二度も表彰された英傑。
そして、瑞穂の奇跡。
兄の大地の二つ名は、元々その人を讃えるためのものなのだ。
「とりあえず、何か買ってください。
それから、お支払いの際にIDチェックしていいですか?」
風鈴寺博士(仮)を名乗る紳士は頷いた。
2番人気と3番人気のパンをあるだけ籠に入れると、買い物の清算と身分確認のため、希倫にIDを渡した。
これはこれで美しい数式だ、と呟きながら。
IDチェックが示した名は風鈴寺弾その人だ。
見た限り、同姓同名。
苗字の珍しさは沖より風鈴寺の方が上だ。
だが、兄の例があるだけに同姓同名がやけに引っかかる。
「私は兄の秘書ではありませんが、
危険があるなら近づけるわけにはいきません」
風鈴寺博士(仮)は片手を顎にやり、もう片手を近くのミニテーブルについて数秒間だけ何か思案した。
「君の仕事は、何時までかな。待たせてもらうよ」
「あの…」
「紹介の時に、君が横に居ればいい。
立派な護衛ができそうじゃないか」
風鈴寺博士(仮)は大量のパンが入った袋をミニテーブルに置くと、わざとらしく自分のお尻を痛そうにさすった後、にっこり笑った。
食えねえおっさんだな。
「私の連絡先、渡しておくよ。
終わったら連絡してほしい。
車で、すぐに飛んでくるよ」
大量のパンが入った袋を抱えなおした風鈴寺博士(仮)が去った後、奥からパンの焼き上がりを告げるベルの音が聞こえてきた。
赤銅騎士団。
事務所がある場所は今も変わらない。
大地が初めて訪問した時と違って、事務所周辺だけは小ぎれいになった。このところ、大地のファンが自主的にきれいにしてくれるようになったのだ。
ギャンブル中毒しかファンがいなかった頃とはずいぶん変わったのだ。
「やあ、希倫さん。こんばんは」
「大地兄さんなら、さっき戻ってたよ。
今ならいるんじゃない?」
もはや大地込みで希倫まで家族扱いである。
一度仲間や家族と認定したら、瑞穂の人たちは徹底的に助け合う。
父や母と違い、ここ瑞穂で生まれ育った希倫は、他所の空気を知らない。
初めからこんな風に、みんなが助け合えるなら……
ふと胸によぎる過去の痛み。
「……このおじさん。だれ?」
「見たことあるぞ。……元祖、瑞穂の奇跡。あれ、何でこんなとこに?」
「失礼しました。元祖、瑞穂の奇跡を遮る門はここにはありません」
瑞穂の奇跡なら、他人じゃない。
そういうことらしい。
初見の風鈴寺博士(仮)、もとい風鈴寺博士は、お掃除ボランティア兼私設ガードマンのセキュリティチェックを顔だけで難なく通過してしまった。
「普段は、こうだからさ」
風鈴寺博士の眉が下がって、口が声を出さずにナハーと動いた。
面白がっているだけで、希倫を責めているわけではないようだ。
初対面で名乗るのをうっかり忘れるのも、わかるでしょう、と。
邪魔する者もなく、二人で入口のIDチェックを済ませる。
ちょうどドアが開いた。
見覚えのある、背の高い、紺の外套で全身を包んだ大男。
「ああ、希倫ちゃん。
ちょうどいい。
もうすぐ祝勝会へ移動なんだ。
俺は先に段取りするから。
何なら、乗ってくかい?」
希倫の鼻先で車のキーを指でくるんと回したのは、黒崎健吾だった。
騎士ではあるが、赤銅騎士団所属ではない。
スタッフでもない。
ましてファンでもない。
デビュー戦で一度対戦しただけの、兄の腐れ縁。
普段は顔を出さないのに、祝勝会には必ず現れるものとして、不思議に馴染んでしまった。
ファンの子たちには「宴会のおじさん」で通っている。
嫌いな人ではないが、兄とつるんでいるだけで、一歩引いてしまう。
「兄に合わせたい人がいて、先に行っててください」
黒崎はおうと言うと小走りで去っていった。
いい人なんだけどなあ。
事務所の入り口すぐにあるのは、商談スペース兼来客対応スペース兼打ち合わせなどの会議スペースだ。
セカンドリーグ全勝突破でいつもより人の多い、今日はレセプション会場となっているスペース。
すでに出来上がっている者もいて姦しい。
黒崎は気の毒にも待ちぼうけを食らうかもしれない。
「希倫さん? いらっしゃ~い」
特に出来上がっている一人が希倫の元に現れた。
白石美月。
希倫はこの、そこそこ年上のお姉さんのことが、出会う前からずっと苦手だった。
お姉さんの正体は面倒見のいい、この赤銅騎士団の経理と人事を仕切る姉御でありおっかさんである。
「どうしたの、祝勝会の場所、わかんなかった?」
陽気にけらけらと。
細いキツネ目がいつもより細くなっている。
普段はこんなに酔っぱらう人ではないと思う。
よほどセカンドリーグ突破が嬉しかったのだろう。
できる人である以前に、艱難辛苦の人であることは察しがついている。
自分が苦手でも、今日は笑顔を返すべきだ。
「おめでとうございます。
ところで、兄はまだここにいますか?」
それでもかける言葉は最小限。
希倫はまだ十代半ばなのだ。
「んー、大地くーん?
ダイチーーー、
可愛い妹がきてるローーーーー」
最後の方は白石の舌が回っていなかった。
横を見ると、さっきまでいたはずの風鈴寺博士が消えていた。
一足先に大地を見つけて駆けていったのだ。
「沖大地くん、大地くんだね?」
風鈴寺博士は悪人ではないが、空気を読む人ではない。
「君の戦いは美しい。
実に、美しいぃぃぃぃぃぃぃ」
出来上がった人が数人いる空間でも異様さを放つ悦に入った声色。
「もしかして、風鈴寺博士?
数式がどうしましたか?」
セカンドを勝ち上がった自分なら、ここ瑞穂の名士である風鈴寺博士が来てもおかしくはない。
しかしながら、明らかに何かおかしい。
瞳が常軌を逸している。
「そう、数式、数式、数式、数式、数式、数式、数式ぃ。
そうなんだ。君の星環騎士が動くたびに、
数式たちが楽しそうに舞い踊っているんだよぉぉぉ」
両の手を大きく広げてにじり寄ってくる風鈴寺博士から逃れようと大地は後ずさる。
しかし、人が多くて逃げられない。
大地は回り込まれてしまった。
「え?」
大地は腕を掴まれ引き寄せられた。
そして強引に手を重ね合わせられて、この変人、もとい躁状態の風鈴寺博士と握手をする羽目になった。
「数式?
楽しく?
俺が、戦ってるときに?
何かオカルトなもん見えてるの?」
さすがに名士を突き飛ばして逃げるわけにはいかない。
さらに興奮して握手したままの腕をぶんぶん降る風鈴寺博士をよそに、助けを求めた先は、酔っぱらった白石マネージャーだった。
白石美月は満足そうににっこり笑って、親指と人差し指で輪を作るハンドサインを見せた。
「白石さん、それ、うまくやれってこと?
それとも、お金?
ねえ、どっち?」
風鈴寺博士は止まらない。
握手していた手を放すやいなや、大地をがばっと抱きしめた。
「君ほど数式に愛された騎士は見たことがない。
いいや、これからもないっ。
微力ながら、君のサポーターをしたい。
いや、是非させて欲しいっ」
数学博士の風鈴寺弾。
瑞穂の奇跡。
数々の事業を成功に導いて、今では有数の資産家でもある。
そんな彼に肩書が一つ増えた。
沖大地の初めての個人スポンサー。
少し離れて見守っていた希倫は、
事実だけを切り取って、こう感じた。
希倫「好きなものは、好きで、いい……」




