第18話「ひとりごち」
世間の悪意と熱狂は
家族すら巻き込んでいく。
気晴らしに訪れた先で
希倫が出会ったものは――
電話が鳴った。
「はい、赤銅騎士団事務所です」
受話器を取った事務員の声は、最初の数秒だけ丁寧だった。
すぐに表情が曇り、言葉の調子が固くなる。
少し離れた希倫にも、何やら不穏な怒鳴り声が漏れて聴こえてきた。
「……そういうお問い合わせにはお答えできません。
失礼いたします」
受話器を戻す動作が、わずかに乱暴だった。
廊下の端で、希倫はモップを動かしていた。
水気を含んだ床が、光を鈍く反射している。
希倫はここ最近、週一回くらい赤銅騎士団の事務所の掃除を買って出ている。
兄はセカンドリーグでも狂ったように勝ち続けて、良くも悪くも世間からの注目が集まっている。
何となく、何となくだが、事務所くらいは希倫が自分の手で綺麗にしてあげようと思ったのだ。
それに、掃除という行為が、ここを新たな居場所として繋いでくれるようになった。
また電話が鳴る。
事務員が、今度は深く息を吐いてから受話器を取った。
言葉の内容は聞こえない。やはり、空気は伝わってきた。
軽い怒り。疲れ。呆れ。
「……大地くん、露出が増えて来たからね。
昨日の試合が試合だったし、あと2、3日は騒がしいわね」
背後から声がした。
振り向くと、手にした端末を眺めながら白石がこちらにやってくるところだった。
「最近、増えたわぁ。
みんな、暇なんだから。
SNSなんて無法地帯だもの」
うんざりした口調で、しかし白石は満面の笑みを浮かべていた。
「反応があるのは、いいこと。
人気商売は無視されるのが一番、堪えるんだから」
白石は事務員にコーヒーを入れてくれるように頼んだ。
事実上、休憩してこいという命令である。
「だからね、希倫ちゃん。
しばらくはあまり危ない場所に一人で行かないのよ」
言い方は柔らかいが、内容は命令に近い。
それが分かるから、希倫は一瞬だけ返事を遅らせた。
「……はーい」
礼儀としての返事は出来たと思う。
だが、言葉の重さが希倫の中にはどうにも落ちてこない。
電話はまた鳴った。
今度は誰も出なかった。
白石は番号だけ確認すると、関心を失ったようだ。
奥の給湯室から事務員が慌てて戻ってこようとしたが、白石は手で制し、コーヒー頂戴のジェスチャーをした。
程よい時間になった。
希倫はモップを洗い場に立てかけて、手の水気をタオルで軽く拭った。
「お疲れさまでした」
「今日もありがとう、希倫ちゃん」
事務所から出て、すぐに日が落ちた。
空気は冷たいというほどではない。
むしろ、夕方までの暖かさがどこかに残っていた。
先ほどの白石の言葉が、想い出された。
危ない場所に一人で行かないように――
分かっている。
でも、従う気にはなれなかった。
行き先は、朝から決めていたのだ。
最近お気に入りの私営競技観戦施設。
理由は単純だ。
夜営業時間のご飯がとても美味しいのだ。
公営よりも明るく、広く、おかしな油の匂いもしない。
入口の自動扉が開くと、中から温かい空気と一緒に、香ばしい匂いが流れ出てきた。
希倫のお腹がクウとなった。
まだ食べ盛りである。
最初にここへ来たとき、食事の選択肢の多さに戸惑ったのを覚えている。
去年の今ごろは、貧乏長屋の台所で、鍋の中身を気にしながら火加減を見ていた。
腹が満たされるかどうかが、食事での一番の関心ごとだった。
今は違う。
何を食べるかを選べる。
制服だって転校して、仕立てが良いものになった。
端末の動作も速さが全く違う。
周囲の会話の速さも、内容も違う。
最初はついていけなかった。
分からない単語が多すぎて、笑うタイミングさえ分からなかった。
それでも、希倫は慣れていった。
それが日常になっていった。
もう、戸惑うこともない。
「私はまた、一つ大人になったのです」
施設の中央部の大型スクリーンでは、過去の試合のダイジェストが流れていた。
歓声はどこか軽く、祭りの残り火のように揺れていた。
今日は試合のない日なのだ。
兄、大地の名前も、ときどき聞こえてくる。
だが、音として耳に入るだけで、意味としてはもう強く残らない。
「何度観ても、やってることがわかんないしな。
お兄ちゃんのは、結果だけ、わかればいいか」
兄の応援に飽きたわけではない。
むしろ、希倫は星環騎士戦そのものに興味が湧いてきた。
これも経済的な余裕のなせる業かも知れない。
人の流れから外れながら、希倫はフードコートに向かった。
今日はどれにしようかと考えながらトレーを手に取る。
選択肢の多さは、もう怖くない。
だが、どれを選んでもいいという自由に浮かれて、ときどき足を止めた。
この一年で、希倫が見る世界は大きく広がった。
スクリーンの光が、テーブルの表面を白く照らしている。
その光の中で、希倫は静かに席を探した。
皿の端に残ったソースを、希倫は再生ナプキンで軽く拭い取った。
施設の明かりは明るすぎるほどで、夜の時間帯であることを忘れさせてくれる。
スクリーンゾーンから歓声は遠く、どこか別の場所の出来事のようにも思える。
夕食を済ませた希倫が立ち上がり、返却口へ向かったときだった。
「あれさ、見たことねえ?
変態騎士の妹かな?」
軽いあざけりの混じった声だった。
どうでもいい話題をさも大事のように拾う調子で。
複数の笑い声。
同じ高校の制服が混じっていた。
知らない顔だった。
なら、足を止める必要もないだろう。
彼らを相手にしたっていいことなんかない。
「ほら、あの娘。名前なんだっけ……
オニギリンちゃんじゃね?」
彼らの方から距離を詰めてきた。
視線が肌に絡まる感覚が、伝わってきた。
周囲には人がいる。
だが、誰も希倫をかばおうとしない。
スクリーンゾーンからの歓声が無神経に響いてきた。
「ずっと、調子いいじゃん。お兄さんはさ」
言葉は軽め。
だが、囲まれたせいで出口が遠く感じる。
トレーを手にしてなければ、拳を握っているところだ。
5人。
いや、後ろの方にニヤニヤしているのを合わせたら8人?
蹴散らすには少しばかり多いか。
「記念にさ、高く売れそうな写真、撮らせろよ。
あの沖の妹なら、欲しがる奴多いぜえ」
両脇から腕が掴まれた。
「どうせなら、本人、出しちゃう?」
ええい、トレーを投げ捨てて――
その瞬間だった。
「おい、やめろ」
別の方向から、同時に声がした。
方々からこちらに駆けてくる足音。
2、3名ずつのグループがいくつか、同時に助けに入ってきたのだ。
彼らは揃ってはいなかったが、迷いもなかった。
「沖の妹だって?
なら、黙って見過ごせねえな」
カメラのフラッシュが焚かれた。
「5秒でその手を放せ。
さもないと顔を晒す。
沖ファン舐めんなよ。
きっちり特定して、炎上させんぞ」
「万一、試合なくなったら、こうだぞ」
膨らませた袋を手でパンと音をさせて叩き潰した。
後から参戦してきた少年たちは、希倫と希倫を連れ去ろうとしたグループの隙間に強引に割り込んできた。
誰が先頭でもない。
全員が同じ目をしていた。
絡んでいた男たちは、顔を見合わせて体を引いた。
周囲の視線が、ようやくここに集まり始める。
「……ちっ、めんどくせえ」
吐き捨てるように言うと、希倫に興味はなくなったとばかりに去っていった。
守ってくれた少年の一人が、振り返って希倫を見た。
「大丈夫だった?」
答えを待たず、別の少年がぼそりとつぶやく。
「礼文だったら、こんなこと起きねーのかもな」
その言葉は、誰に向けられたものでもなかった。
スクリーンゾーンからの歓声が、また響いてきた。
施設は、先ほどのことがなかったかのように動き続けている。
希倫の心臓の鼓動はまだ速いままだ。
少し深呼吸して落ち着くのを待った。
今夜はもう帰ろう――
出口の方へ向かいかけた希倫は、何かの予感にとらわれて振り返った。
スクリーン前の人だかりが、さっきより厚くなっていた。
誰かが勝ったのだろう。
興奮ではなく、多くの観客に理解された結果への納得の声。
希倫は、スクリーンゾーンに引き返した。
気まぐれだった。
ただ、空いている席を見つけたから座る、という程度の動きだった。
スクリーンに表示された勝者は、礼文慎。
試合のリプレイ映像が流れるところだった。
動きが速い。
だが、なぜか追える。
何を狙っているのか、どこで決めるのか、素人の目にも分かる。
兄の試合とは明らかに違う。
戦っているというより、流れを作っている。
攻防が一瞬で切り替わる。
次の瞬間、相手の機体が明確な形で崩れる。
その理由が、分かる。
すごい、というより、納得できる。
無駄がない。
迷いもない。
勝ち方に説明がある。
わかっていても避けられないやつだ、これ。
希倫は、腰を落ち着けて映像を見続けた。
さっきの出来事は、もう遠い場所の話のようだった。
スクリーンの中の動きだけが、現実の中心にある。
試合のリプレイは何度も流れた。
礼文の回になるとスクリーンに集中した。
なぜ礼文が勝つのか。
その分かりやすさが、妙に心地よかった。
推し、という言葉をクラスの誰かが使っていた気がする。
その意味を、正確には理解していなかった。
これが、推しか――
今の希倫には、それで、十分だった。
希倫は誰に聞かせるでもなく、ひとりごちた。
礼文、慎――
少女の胸に灯ったのは
恋慕ではない
憧憬でもない
まだ、名前はついていない――




