第14話「またね」
さっぱりした、と笑う。
埃も思い出も、風に飛ばして。
最後の鍵を預けたら、
振り返らずに角を曲がる。
荷物は、少ないほうがいい。
未来は、軽いほうがいい。
壁の薄い貧乏長屋の路地には、昼間から澱んだ空気が溜まっていた。
沖大地の悪い評判が、まことしやかな尾ひれをつけて界隈に広まり始めたのは、それほど前のことではない。
大地を知る者には笑って許される彼の奔放な振る舞いも、巷では悪い意味で目立つようになり、連勝は喜ばしいが、距離を置きたいという冷ややかな評価が瑞穂住民の間でじわじわと浸透していた。
そんなある日、貧乏長屋の一角にある狭い沖家に、場違いなほど洗練された空気を纏った白石が訪問した。
白石はてきぱきと引越しの手配を進める。
困惑する大地。
「どうしたの?
今頃になってまだ自分の価値をわかってないようね」
白石はわずかに眉をしかめた。
「地元のアイドルが住んでいていい場所じゃないわよ。
皆が皆、あなたを好きなわけじゃないのよ。
まず、あなたとあなたの家族の安全、これを確保しないと。
あと、職場から近くて、
それなりに出費を抑えられたら、文句ないわよね。
フットワークを考えたら、賃貸にしましょう」
淀みのない彼女の言葉は、まさに正論。
弾丸のように大地の脳に入り込み、あっさり思考を奪ってしまった。
その背後に控えていた希倫は決然とした意志を持って兄と美しき闖入者の間に割って入った。
「まず私たちの意見を聞いてください」
希倫は魂を抜かれた兄ではなく、白石を正面から見た。
希倫が最も恐れているのは、兄の大地だけが白石の都合の良い場所に連れ去られてしまうことだ。
希倫は知っている。
大地が夜な夜な、白石との写真を使って掘削作業の練習に励んでいる姿を。
そのあまりにだらしない兄の回想を、頭を振って追いやる。
とにかく、ここから大地だけを持っていかれることだけは阻止しなければいけない。
「家って、そういうものだけじゃないと思うんです。
近所付き合いも考えなくっちゃいけなくて」
希倫は年長の白石を完全否定しないよう、慎重に、だが譲れない一線を引く。
もし周りが金持ちばかりになったら、自分たち家族、特に家にいる時間が長い希倫が住みにくくてたまらない。
それは、効率と利便性だけを突きつける白石に対する、希倫なりの必死の牽制だった。
だが結局、議論の主導権は白石に握られたまま、精一杯の妥協として、大地、希倫、白石の三人で連れ立って不動産屋へ向かうことになった。
その道中、白石が不意にふざけたような笑みを浮かべ、大地の左腕に自分の腕を絡めた。
「ふふ、ちょっとエスコートしてくれない?」
洗練された香水の香りと、薄い服越しに伝わる柔らかな感触。
大地は瞬間的に思考が飛び、心拍数が跳ね上がる。
あ、白石さん……、大地の声が裏返った。
希倫が反対側の右腕を掴んだ。
しかし、そこには埋めがたい格の差があった。
白石は隙間なくべったりと大地の二の腕に重みを預け、完全に彼を独占している。
対する希倫は、兄妹という理性が働いているのか、肌を密着するかしないかギリギリのところで腕を組むのが精一杯だった。
右腕から伝わる必死さよりも、大地の意識は完全に左腕に伝わる熱さに持っていかれていた。
顔はだらしなく緩んでいく。
瞳はやや焦点が定まらない。
どれほど持て囃されても、中身はまだ若い青年なのだ。
激しい動悸が時々触れる兄の腕を通して伝わってくるのが希倫には腹立たしい。
白石は大地の様子を横目で見やり、してやったりとばかりにニヤリ、と笑みを浮かべた。
武器の使い方と割り切り方は、彼女が歩んできた時間の厚みを物語っている。
こうして大地をメロメロにしておけば、将来的な引き抜き防止の鎖になるだろう。
あるいは、もし彼が他所へ引き抜かれてしまった際には今度は自分もワンセットでバーターの交渉材料とすることも考えている。
彼女は大抵の場合は集団の幸福を望むが、さすがに沈みゆく船と心中するほどではない。
いざとなれば見切りをつけて次の船を探す現実主義者でもある。
希倫は何がとは言わないが負けた気がして腹が立ってきた。
不動産選びの場でも、結局は押し切られてしまいそうだ。
兄のあまりのチョロさ。
白石美月の老獪さ。
自分の平穏な生活が、白石の用意した完璧な管理へと飲み込まれていく予感に、希倫は唇を噛み締めた。
最後まで二対一の構図を逆転することができなかった。
悔しい……
予定日だけは、私が決めた。
父の恒一が帰って来る予定日の次の日です。
引越し当日。
住人たちは始めこそ遠巻きだったが、すぐに沖家の荷出しを手伝い始めた。
長屋の住民たちの沖家の評価は、
お姉ちゃんは、気の毒だった
下の希倫ちゃんは、不憫でならない
それに引き換え、
兄貴の方は、まあ、やんちゃというか。
自分の都合ばかりでちょっと距離を置きたいが、人当たりは良いんだよな。
ついつい構っちゃうけど。
父親の恒一については、あんまり見かけないからよく知らない
母親の幸恵に至っては、
子供を置いて自分だけ金持ちについていくなんてね、と今更な毒が吐かれる。
大地は隣人のおばちゃんに、
まだまだよろしくね、おばちゃんと言いながら握手していた。
「はいはい。
あんたみたいな調子のいい子は、いなくなって清々するよ。
せいぜい向こうで真面目にやりなさいよ」
煙たがられながらも、結局隣人たちに可愛がられている。
大地という存在は、この寂れた場所において、どこか憎めない活力を与えていた。
一方、希倫は住人たちの前で深々と頭を下げ、顔を上げられずにいた。
「お世話になりました。
本当にいっぱいいっぱいお世話に……」
言葉が詰まり、涙が溢れ出す。
彼女にとって、この長屋は苦しくも温かい、唯一の現実だった。
希倫の涙に誘われるように、周囲の住人たちも鼻をすすり、現場はしめやかな感動に包まれた。
大地はそれを、他人事のようにからりと笑って眺めている。
そこに、これまでずっと影の薄かった父・恒一が、借りてきた猫のような不自然な足取りで歩み寄った。
「……私がいない間、子どもたちを可愛がっていただけて
……ありがとうございます」
不器用極まりない挨拶。
あまり見慣れない顔の登場に、近所の子供たちは、誰この人と不思議そうに囁き合っている。
それが、この家における恒一の希薄な存在感を物語っていた。
「戻ってくるんじゃないぞー」
誰かがそう叫んだ。
厄介払い半分、彼らなりの最大級のエールだった。
大地は傍で観る分には面白いが、直接絡むと面倒と思われている。
同時に、ここに戻らなくていいくらい、立派にやっていきなさいという願いも、粗野な言葉に込められていた。
感動と毒づきが入り混じり、希倫の感情がピークに達しようとした、
まさにその時だった。
ベイエリアの方から、空気を裂くようなけたたましい警笛が鳴り響いた。
続いて、興奮した叫び声が路地を伝わってくる。
遠出していたメタルハンターが戻ってきた知らせだ。
それから、すぐに警笛に続いて、端末に一斉に速報が届いたことで、劇的に空気が一変した。
「記録にないくらい大富鉱だって?」
さっきまで希倫を囲んで涙を流していた住人たちの半数以上が、引越しの見送りなどなかったかのように、我先にベイエリアへと駆け出していく。
新しい仕事の確保。
この長屋の住人にとっては、一家族の門出を祝うよりも優先される。
希倫が呆然と口を開けた。
あまりの現金さに、止まらなかった涙がぴたりと止まる。
ふと見れば、父親の恒一までもが、職業病のように群衆に混じって駆け出していた。
恒一はすぐに我に返り、希倫たちの方へ引き返してきた。
希倫は、気まずそうな恒一の顔を見つめた。
涙はすっかり引いてしまった。
狭い路地を走り抜けていく住人たちの足音。
隣人たちの背中には、もう自分たちへの関心は一片も残っていない。
そんな中、大地だけは変わらぬ調子で、自分たちを置き去りに去っていく住人たちの背中に「バイバーイ」と大きく手を振った。
そこに余計な感傷は一切なかった。
未練など感じさせない大地の軽やかな声が、風に吸い込まれていく。
大地はこの光景を寂しいとも冷たいとも思っていない。
むしろ、この現金なまでの潔さを受け入れている。
大地はトラックに乗り込んだ。
遅れてトラックに乗り込んだ希倫は、最後にもう一度だけ慣れ親しんだ長屋を振り返ったが、そこには、自分たちのいない風景が広がっているだけだった。
巻き上がった砂ぼこりが
午後の陽光に溶けていく。
さっきまでそこにいたトラックは
もう見えない。
さよならは言った。
手も振った。
追いかけない。




