第127話「チョコレート狂騒曲」
包み紙をひらく
かすかに胸が高鳴る
あのせつなくも甘い時間
今はもう
遠い日のおぼろげな記憶
【北斗星環群、瑞穂(居住星環)】
瑞穂に到着した礼文慎を待っていたのは、過去の亡霊だった。
ホテルにチェックインすると、ホテルマンからウェルカムサービスです、と瑞穂の新しい名物の菓子を勧められた。
チョコレート。
その菓子の名前に覚えがある。
名前しか覚えていなかった菓子。
それは記憶の扉を開くタイムカプセル。
『飛鳥の大好物』。
そのホテルマンに勧められるままに、機械的な動作で包み紙から取り出した粒チョコレートを慎は無造作に、口内に放り込んだ。
それは、ほとんど二十年ぶりに味わうチョコレートだった。
かつてカカオは、釣瓶で大規模に生産されていたのだ。
その当時には、丹鶴でも珍しくなかった黒い甘味。
懐かしいカカオの風味。
一大農業星環であった釣瓶を失った諸角星環群では、必要な食糧の生産計画の見直しにより、優先度が低めであったカカオ豆については、諦めるしかなかったのだ。
慎の口内で失われた二十余年が広がっていった。
口に含んだ次の瞬間から舌の上で溶けていく固形。
解けていく甘味。
厚みを感じさせるコク。
遅れてやってくる深い闇の罠のような苦み。
ほのかな淡い果汁のような酸味。
溶けたチョコレートを飲み込んだ喉の奥から、鼻腔に抜けていく焙煎香の余韻。
それぞれは、さざ波に過ぎない。
しかし、それらが合わさると甘美な衝撃波となって、慎の脳を揺さぶるのだった。
強い懐古感に包まれて我知らず陶然とした表情を浮かべる慎の様子を見て、そのホテルマンは満足げな笑みを浮かべた。
また一人、瑞穂の味覚の虜にできたのだ、と。
「礼文様、北斗星環群、瑞穂のご来訪、よい思い出を……」
鋼谷宅。
二時間ほどタレに漬け込んだ大量の鶏のもも肉を大きな冷蔵庫から取り出した大地。
週に三日は鋼谷家に居着いている身からすれば、勝手知ったるどころではない。
そして、前もって唐揚げ粉を仕込んであるバットに、大地は手慣れた様子でもも肉をひょいひょいと放り込んでいく。
なにせ、食べ盛りがいるからね。
いっぱい、作らないと。
「なあ、大地?」
鋼谷琢磨が話しかけるのをさらっと聞き流した大地は、もも肉を転がしてまんべんなく粉まみれにすると、バットごと再び冷蔵庫にしまい込んだ。
寝かせたもも肉をこのまま揚げてもうまいけど、
粗めにすり下ろしたパンの粉が
クリスピーな歯ごたえと食べごたえを演出してくれるから、
取り出したらまぶすのを忘れないようにしないとね。
「手間暇かけているところ、悪いんだがな……」
鶏の唐揚げに合うサラダドレッシングの仕込みに取り掛かった大地の腕を、家主の鋼谷琢磨が掴んで止めた。
「お前、この一週間、実家にも帰ってなければ、
佐祐倫さんのところにも、ろくに顔を出してないだろ」
大地は一瞬だけ唇をへの字にして、目線を逸らした。
「料理のことは、俺……
いや、全力にやってもらうか。
出来上がったら届けてやるから、未来の嫁のところに行ってこい。
すでに機嫌を損ねてしまったのかもしれんが、経験者が教えておいてやる。
詫びを入れるなら、とにかく早い方がいい。
後に回して改善することは、絶対にない」
それでも渋る大地の手首を、捩じり上げる勢いで掴んだまま、鋼谷は玄関の方を指さした。
「佐祐倫さんのところまで、今から俺が送ってやるから。
四の五の言わずに、一緒に来い。
お前は……父親になるんだぞ。
全力、
あと一時間したら、そこのパン粉をもも肉にまぶして、唐揚げにしとけ。
判っているとは思うが、パン粉をまぶしたら、間を置くなよ。
それから、味見くらいは良いが、先に食い散らかすなよ」
雰囲気を察して、少し前から居間からのぞき込んでいた全力が父に向けて親指を立てた。
「途中で、手土産にお菓子の詰め合わせでも仕入れるか。
大地、佐祐倫さんの好きそうなものぐらい、わかっているな?」
……チョコレートだったら、何でもいいと思うよ?
カフェ/千代の音。
千代の音は、チョコレート好きに大人気の甘味処。
今をときめく沖大地の御用達とも言われている。
先日に公表された大地の婚約にあやかり、恋人たちや夫婦者の予約が殺到しており、本来は飛び込みで入れる店ではなくなっていた。
ホテルでチェックインを済ませた慎は、普段はやらない散策の途中、その評判の店にふらりと立ち寄ったのだった。
――おひとり様であれば。
運の良いことに、慎はたまたまキャンセルの出た席に、待たされることもなく案内されることになった。
「こちら、ビターチョコレートセットになります。
お飲み物は……深煎り笹茶ですね。
ご注文は以上でよろしかったでしょうか」
慎は軽く手を挙げて肯定の意思表示をした。
湯呑みから、ほのかに漂ってくる笹茶の爽やかな香り。
付け合わせの素焼きの胡桃に生姜の砂糖漬け。
沖大地の婚約に合わせた、大地の赤と、花嫁を表すピンク、それぞれに彩られたアイシングクッキー。
そして、主役のチョコレートは……
酸味が強いベリー系の風味を楽しむチョコレート。
焙煎されたナッツの豊潤な香味を漂わせるチョコレート。
肉桂のスパイシーな刺激を予感させるチョコレート。
この先に控えている試合の会場は、北斗星環群の遊架(廃棄星環)。
目の前には今は亡き親友の飛鳥を想い出させる菓子。
郷愁という甘い猛毒が、自分のひび割れた信念に生じた隙間を埋めてくれるような気がして。
一つ一つ、時間をかけて味わう慎。
『二人、先に入りなさい』
『脱ぐな』
『慎くん。君に義弟ができるよ』
釣瓶の災害に巻き込まれて近しい繋がりをすべて奪われた慎に、新たな家族、近しい存在が再生される――
――できるのか、僕に……
そこにあるのは、近い未来に命を懸けて戦う男の顔ではなかった。
大地と戦うことになる慎の姿は、宣伝PVですっかり北斗星環群、特に瑞穂では知れ渡っていた。
つまり、千代の音の店員はもとより、他の席にいる客たちも慎がいることに気付いていたのだった。
敵地に乗り込んだ他星環群代表なら、普通は当てこすりや嫌がらせを受ける。
現に大地も相応に嫌がらせをされてきたのだ。
大地が熱狂的に支持されている地元であれば、お返しとして、なおさら嫌がらせがあってもおかしくなかった。
それなのに、誰一人として慎の邪魔をしない。
そう、『星環騎士だけではなく星環騎士戦を支えるすべての者たち』は、星環文明最高の時代のはじまりを支える、この先の百年を『ともに』戦う『同志』だと。
対戦相手だから気に入らない、などと。
前期王者だから気に入らない、などと。
そのような、狭い感情で行動することは、これからの星環文明に生きる我らに相応しくないと。
感情までは、否定しない。
ただ、気高く振舞え。
そうあれかしと、彼らの王、大地が示してきたから――
気もそぞろ
刃合はせと
酔い待てば
時もかなひぬ
今ぞ討ち出でな




