第123話「忘れじの面影」
したためる
文に決意の
行き詰り
筆を取る手に
迷い重なる
こうして、大地と佐祐倫の婚約報告は、つつがなく終わった。
佐祐倫の実家である黒崎家には、二人そろって挨拶に行った。
妹の希倫にも、二人一緒に伝えた。
仕事で家を空けていることの多い父親の恒一には、やむなく通信で伝えた。
それで、近しい親族は回り終えた。
大地はそう思っていた。
いつもの悪夢を見た後、母親のことが脳裏に浮かぶまでは。
普段なら、思い出すこともない。
幼い大地たちを残して家を出ていった母親に、婚約したことを知らせる必要があるのか。
考えるまでもない。
何年、会っていないのか。
母が家に居た時でさえ、面倒を見てもらった記憶は少ない。
婚約の報告といったところで、今さら何を話すことがあるのか。
――知らせなくても困らない。
これで終わるはずだった。
その翌朝。
珍しく予定のない日だった。
大地の喉の奥に妙に何かが引っ掛かっていた。
母のことである。
大地にしてみると、是非とも祝ってほしいかというと、そうではない。
何かが劇的に変わることを期待しているわけでもない。
それでも、何も知らせずに結婚の日を迎えるのは、後々引っ掛かるものがありそうな予感があった。
メールを送ろう、文章で婚約したことを伝えて、それで終わり。
そう思い当たった。
大地は端末を立ち上げると、ふんと鼻を鳴らして、メーラーを開いた。
文章を打ち込もうとして、キーボードの上に置いた手が止まった。
『婚約しました』だけでは、あまりにも素っ気ない。
キーボードを前にして、書きたい気持ちはいっぱいある。
それがうまく言葉になって出てこない。
今まで育ててくれてありがとう。
違うな。
何年顔を合わせていないのか。
お元気ですか。母上様。
違う。
これじゃ、一休さんだ。
大地は端末の電源を落とした。
不正規な終了で、端末が不満げな音を立てて落ちた。
止め、止め。
メールなんか、止めだ。
文章を考えるのも億劫になってきた。
億劫ということは、知らせたくないってことだと大地は自分を納得させた。
飯、飯。
面倒くさいついでに、冷凍弁当でも温めよう。
簡単な朝ごはんの後。
食事の前は、母に知らせずとも良いと思った大地であったが、歯を磨いているうちにまたぶり返してきたのだった。
――前歯は『いー』のお口だよ。
鏡を見て、歯ブラシがちゃんと当たってるか確認してみてね。
――どっちが先にピカピカにできるか、勝負よ?
――すっごーい。
大地のお口の中、綺麗だぞ……
連絡先までわかってて知らせないっていうのも、違う気がしてきたな。
でも、メールっていったって、文章にまとまる気がしねえ。
その時、大地の脳裏に天啓が下りてきた気がした。
直接会えばいいじゃん。
言いたいことが整理できてなくても……
会えば、ノリで何とかなるだろ。
我ながらいい案だ、と大地は頷いた。
なんでこんな簡単なことを思いつかなかっ――
――違う。
会いたくねえんだよ。
顔も見たくない。
婚約報告するのに、出て行った母親に会う必要がどこにあるのか。
メールの文章を考えるのが億劫だから、わざわざ会いに行くのか。
そもそも、会いたくねえんだよ。
もし母親に会ってしまえば、婚約の報告だけでは済まなくなる予感もある。
今までどうしていたのか。
何故、家を出ていったのか。
どうして戻ってこなかったのか。
そんなこと、聞きたくもない。
会わない方がいい、と大地は考え直した。
お昼ご飯を準備している頃、大地はまた同じことで思い悩んでいた。
知らせない。
手紙を送る。
会いに行く。
どれもしっくりこない。
自分は、何をしたいのか。
母親に婚約を知らせたいのか。
知らせたくないのか。
会いたいのか。
会いたくないのか。
あれこれ悩みながら料理して上手くいくはずもない。
大地は鍋の中身を焦げ付かせ、コンロの魚を焦げ炭にしてしまった。
放っておけば済むことに、いつまでも引っ掛かっているんだよ。
生ごみを処理しながら、自分一人で思い悩んでいても仕方がないと思った大地は希倫に相談することにした。
――同じく、母親に置いていかれた妹。
立場は似ていても、自分とは違う考えにたどり着くかもしれない。
あわよくば、当事者である自分より客観的な答えを出すかもしれない。
大地は妹の部屋へ向かった。
希倫は自室の入り口で兄の話を最後まで聞いた。
「……それで?」
大地は廊下に正座している。
母さんに、婚約したことを知らせようかと思ってるんだ。
「そう」
会って、話してみたい。
「……メールにすれば?」
即答だった。
いや、メールなんかでいいのか?
「メールも、いらないと思う」
おい、母さんだぞ。
大地は思わず立ち上がった。
「……そのつもりで、答えたんだけど」
一度、直接会って――
「どうして?」
希倫が大地を見る目が冷たい。
「どうして、会おうって気になるの?」
大地は言葉に詰まった。
「私の意見を聞きたいのよね?
母さんに知らせるのは、そもそも反対。
まして会うとか、意味が分からない」
……だから、母さんだぞ。
希倫の両眉が吊り上がった。
そして、固く結んだ唇を開いて、ゆっくりと息を吐いた。
「母さん?」
希倫に鋭く睨みつけられ、大地は目線を落とした。
「私たちを捨てた人だよ。
忘れたの?
向こうは、私たちを捨てて、出ていったんでしょ。
もう、家族じゃないよ」
希倫はその厳しい表情に似つかわしくない静かな声でそう告げた。
大地は言葉に詰まってしまった。
希倫にとっては、とっくに終わった話なのだろう。
残された子どもとしての辛さ悔しさは、もちろん大地にもわかる。
だが、そういわれたからこそ、大地は引き下がれなかった。
メールを書きあぐねていたときにはまとまらなかった考えが形を持ち始めた。
俺たちを産んだ。
希倫は、何を言うのかと眉を顰めた。
大地は手で希倫を制して、続けた。
産んでくれただけで、完璧じゃないか。
大地と希倫の間に、気まずい沈黙が支配した。
希倫は訝し気に兄の目を見つめた。
――何を言っているの。
――あの人がきちんと面倒を見ていたら、お姉ちゃんだって……
大地の言い分は理解できないわけではない。
それが、母でさえなければ。
だからこそ、何倍も腹が立った。
「……ふざけないでよ」
本気で殴るつもりでは、なかった。
加減するつもりで、本気ではなかった。
――少なくともそのつもりだった。
拳は肩の横に。
肘は100度ほどに固定。
力みの抜けた踏み込み。
柔らかな膝。
しなやかな腰の回転。
強靭な背中は回転軸に生じた力を正確に上半身に伝える。
肩には無駄な力を込めず。
水平に振る。
希倫の全身が、ひとつの機械になった。
パン屋の看板娘として二十五キログラムの小麦粉袋を運び、大地のツテで空手と護身術、身体操作まで叩き込まれた身体が、本人の意識を置き去りにして動いた。
それは、白波直伝の鉤突き。
相手の意識の外から、殴りつける。
廊下にごつんという音が響いた。
大地の目が泳いで裏返り、膝から崩れ落ちた。
大地が床に倒れてから、自分がとんでもないスピードでこめかみを打ち抜いたことに気づいて固まった希倫。
「……お兄ちゃん?」
大地からは返事がない。
「お兄ちゃん!」
希倫から血の気が引いた。
倒れた大地に慌てて駆け寄り、様子を窺う。
まだ心臓の鼓動も呼吸も、ある。
「……よかった」
いや、よくない。
大地の意識はないのだ。
それと、大地のこめかみが赤く腫れあがり始めている。
希倫は台所へ走り、絞った濡れタオルを携えて戻ってきた。
「……冷たいよ?
乗せるよ?」
だが、返事はない。
「気持ちいい?」
変わらず、返事はない。
希倫は兄の様子をじっと見つめた。
それから、自分の拳を見る。
もう一度、大地を見る。
廊下と部屋を見回す。
――これ、どうしよう。
何かにつまずいたことにできないだろうか。
転んだ大地が床で頭を打った。
それなら、自分は何もしていないと言い張れる。
希倫は部屋にあった椅子に目を留める。
廊下まで持ち出し、大地の足元へ倒してみた。
廊下に椅子が転がっている方が不自然だった。
希倫は諦めて椅子を元へ戻した。
「……ごめん、お兄ちゃん」
大地の呼吸は静かだが、安定している。
「加減はしたんだからね」
まだ、大地からの返事は返ってこない。
信号を待つ位の時間、そうしていただろうか。
希倫の呼びかけに反応するように、大地は目を覚ました。
大地は目をしばたいて天井を見た。
続いて希倫を見た。
自分のこめかみに当てられている濡れタオルに手を伸ばした。
……何で俺、寝てるの?
「……えーと、なんでだろ?」
希倫は惚けることにした。
えーと、俺、何してたっけ。
「知らないよ―」
希倫はもう一度、兄のこめかみに濡れタオルを押し当てた。
そうか。
「そうだよ。大きな音がして、びっくりしたんだよ」
大地は首を傾げた。
大事なことがすっぽり外れてしまっている感じがする。
何か、忘れている気がする。
けれど、どうしても思い出せない。
母親に婚約報告をするのかしないのか。
メールにするのか。
直接会って伝えるのか。
そのあたりの記憶だけが、綺麗に抜け落ちていた。
文字どおり。
白波直伝の鉤突き。
恐るべし。
踏み込みの
タメを伝える
軸回旋
水平の弧を
拳で描け




