第97話「優しい牢獄」
甘い罠?
心地よい束縛?
過保護な檻?
いいえ、愛の鎖
市民体育館小ホール。
使い古されて柔らかい空手着を纏った白波。
あのプロモ動画そのままだ。
希倫は学生時代の指定ジャージだ。
『空手着とか武道着、どれがいいのか、ですか?
ああ、不要です。
僕は慣れているので空手着ですけど。
教わる方も本来なら普段着の方が良いのですが、
初めての習い事であれば、
動きやすくて、着慣れている服が一番です』
伝統を大事にしているってことだから、買わなきゃと思ってた。
『この空手着は、
あくまで「空手」というわかりやすい記号でしかありません。
伝統とは……
技を生み出す体の作り方であり、
技の研鑽の積み上げであり、
それらに負けない自分の心の持ちようのことです』
心技体ってよく聞くけど、順番が逆なんだね。
『仕方のないことです。
体も技もない者が人に教えようとすれば、
あとは心しか口にするものがありませんから』
……なかなかに辛辣だね。
『残念ですが、今の私の空手も……
五体満足だからこそ、
覚えた技が生きているわけです。
今後、星環騎士戦で僕が両脚でも失えば、
二度と「突き」の技も
「蹴り」の技も見せることはできません。
そしてそれは、ただの事実です』
あっけらかんと白波は言う。
『だからこそ、体のあらゆる部分をあらゆる手法で鍛えようと、
実家の空手以外の先生方に、
ご指導を賜ってきたのです』
例の、『優しい牢獄』もその一つなんだね?
『?
「優しい牢獄」とは?
なんにせよ、恐れることはないのです。
今回の希倫さんのように……
僕の空手の一部でも伝えることさえできれば。
僕の弟子たちもそうです。
祖先から紡がれた空手という伝統を、繋ぐ一つの糸でさえあれば。
僕は充分です』
……凄いね。
大野間が惚れこむのも、わかる気がするよ。
ああ、俺もって意味じゃないぞ?
お、着替え終わったか、希倫。
こちらが、白波十三郎先生だ。
大地はそのまま希倫に付き添いとして留まる。
これが白波の条件の一つ。
『希倫さんの指導の際は、
必ず目の届くところに大地さんが居てください』
大地は特にすることもなく、小ホールの端にあるパイプ椅子に腰かけた。
軽い挨拶の後、入念に柔軟体操を始める二人を眺める。
――ま、男女で二人きりにするつもりは、端からありませんけどね……
『魔法のパン屋』
前の週の出来事。
白波にスケジュール調整してもらったところ、祝勝会から翌々週なら、まとまった時間を取れそうだとの回答だった。
とてもとても忙しい白波とその関係者一同には、相当な無理を言って呼び寄せるので、希倫の方も仕事は都合をつけてもらうことになった。
希倫の職場には、大地と全力も一緒になって頭を下げた。
大将も女将さんも他の従業員たちも、狂信者の観戦施設襲撃事件に希倫が巻き込まれて怪我を負ったことは承知しているので、次の週に5日ほどの休みを入れることを了承してもらえた。
『希倫ちゃんもだけど、
全力くんまで、そう言うなら』
おや……もしかして、俺はいらない子でしたか?
『正直な話をすれば、護身術を習うよりも。
危ない場所に近寄ってほしくないのだけど』
ええ、女将さん。
まったく同意ですよ。
とはいえ、希倫に公営観戦施設や私設観戦施設に行くな、という方が危ない……
希倫のローキックのような足払いが、きれいに大地に決まった。
こいつが荒事をもっと荒っぽくしないためにも、白波の護身術は必要なんですよ。
床に転がった大地の言葉に、希倫以外の全員が頷いた。
市民体育館小ホール。
――大変、筋がよろしい。
2日目の終わりに、希倫は護身術指南役の白波からある程度のお墨付きが貰えたようだ。
何でも、相当に力が強いにもかかわらず、力の抜き加減、緩急が既に身についているとのこと。
技術は当然日常生活とは違う、慣れぬ動きではあるから、もっと滑らかにするには、回数をこなすしかないとのことだ。
破格の誉め言葉じゃないかな?
希倫もそう思ったのか、緊張で強張り続けていた表情が一気に緩んだ。
「ありがとう、ございます」
それでもやはり、疲れていたのだろう。
稽古とその日の総評が終わった瞬間に、希倫は腰が抜けたようにへたり込んだ。
「……すぐに、立ちなさい。
疲れたときほど、平気を装う訓練と心得て」
――座り込んだままなら、
稽古を続けるとみなして、どこかに蹴りを入れますよ。
無表情だった白波は眉を顰めると、わざと希倫の頭のはるか上を蹴るデモンストレーションをした。
本人としては牽制ですらない軽い蹴りなのだろうが、尋常でない風切り音が大地の元まで聞こえてきた。
真下にいた希倫には、なおさらだったのだろう。
バネ仕掛けのように、すぐ飛び起きた。
白波が一転して笑顔になった。
「それでは、今日の稽古は終了です」
最期まで気を抜かないように、と玲瓏たる声で白波が稽古を締めた。
しかし、あの『優しい牢獄』って、
初心者が2日目で教わるような初歩の技術だったの?
大地は許可を得て記録した動画を見返しながら、今日のレッスンを振り返る。
要点は3つ。
一つ、点ではなく面を意識する。
二つ、相手の体、力の入らない方向を意識する。
三つ、自分と相手の重心移動、体幹との連動を利用する。
それにはまず、指先を使い過ぎない。
握りこまない。
掴まない。
手のひらと親指の付け根、そして自分の前腕部を、相手の腕など固定したい箇所に密着させる。
……極端にいえば、爪を立てるのではなくて、
接面を増やすことで摩擦を利用するってことか。
そうすることで、相手の動きの初動を制限もできる。
外れない、よりも動かしにくいをまず作るんだな?
確かに、関節を逆に極めないから、痛みはないね。
そうやって、相手の動きの支点を奪う。
そうか、意識したことはなかったけど、
各関節ってそれぞれテコの原理が働いているのか。
人間の動作の中に、日常的に支点にしている場所が必ずあって、重心をずらせたりして制限をかけることで、『記憶にある日常的な動作』をさせない。
これって、相手に軽くパニックも起こせそうだね。
ほかに、筋肉同士はじん帯、筋肉と骨は腱、関節は筋肉を収縮するラインのハブでもある。
たとえば、これが相手の腕であれば、手のひらを上に、肘を下になるように捻りを加えると、筋肉は連動した動きをさせづらくできる。
相手の手首の小指側、尺骨のある側に自分の親指の付け根を当てて上から包み込むように密着させる。
そうすると、相手の腕を外側に捻る力が使いにくくなる。
んー、腕を掴んで固定しているんじゃなくて、
相手が自分の腕を持ち上げられない状態、
つまり重心が崩れた状態を作りだしているのだね。
……椅子から立ち上がるとき、
額の一点を指でさされただけでも立ち上がりにくい、アレだね。
あの手品のタネを、さらに理屈として組み立てるとこうなるってことか。
そこに、自分の重心を利用する。
腕の力に頼らず、自分の腰を沈めることで、相手の腕を自分の体幹の重心にロックしてしまう。
そうだ、レスリングにもあるよね。
タックルも腕と肩だけでは相手に切られやすい。
だから、腕と胸全体を使うことで切られにくくしている。
……繋がってるねえ。
これが歴史を積み重ねた集合知。
これが伝統かあ。
今は、動画もあるから、本当に便利だよね。
天才が何となくできちゃったことを、
誰でもできるように技術として言語化してきたんだ。
古くは『見て覚えろ』と投げ出されていた技術体系。
歴史を紡ぐには、実践だけではなく、
映像や言葉として残していくことも大事なのだ。
鋼谷宅。
昨日から居間に巨大テーブルが置かれている。
白波専用の食卓だ。
さあ、初っ端は小手調べ。
絹ごし豆腐をあえてのさいの目切り。
そこに蜂蜜と梅肉と醤油で甘酸っぱいソースで。
「うわあ……
蜂蜜のねっとりした甘みと
梅のフルーティーでキリッとした酸味。
醤油の香ばしさが、
絹ごしのまろやかなコクを見事に引き立てている。
……これは大地さんと僕だ!」
お次は疲れた体に
トマト、きゅうり、オクラで
さっぱりかつ食欲回復だ。
味付けはシンプルに塩昆布に少しのごま油。
タコは手に入らなかったんで、
未完成サラダだ。
勘弁な。
「うんうん。
トマトの瑞々しい酸味に
きゅうりの心地よい歯ごたえ、
それにオクラの豊かなとろみ。
これら野菜の旨味をさらに引き立てる塩昆布、
そこにふわりと香るごま油のコクが絶妙に絡み合って。
……これは大地さんと僕だ!」
ここで落ち着け。
冷静ならぬ冷製スープ。
手を抜かずに裏ごししたじゃがいも。
もちろん、
それだけなんて芸のないことはしない。
そこに浮かべた採れたて枝豆、
もちろんすり潰したものも
ジャガイモに合わせてあるぜ。
特製のビシソワーズだ。
「おおう……
丁寧に裏ごしされた
ジャガイモのシルキーな口溶け、
採れたて枝豆の、
まるでヴァニラを思わせる豊かな風味が織りなす、
飲める極上のハーモニー。
冷製スープという概念にとどまらない、
素材の息吹を最大限に活かした……
……まさに大地さんと僕だ!」
くらえ、ここで必殺のアクアパッツア。
いつもはタラだが、今日はなんと鯛だ。
アサリもあるぜ。
ズッキーニ、パプリカ、
珍しく手に入ったオリーブもだ。
呑んでも美味しい日本酒と魚介と野菜で、
俺のこれまでの会心の出汁になった。
ここに搾ったレモンを適度に、
さっぱりかつ、がっつりの
いくらでも入るメイン料理だ。
「鍋の中でふつふつと踊る黄金色のスープ。
鯛のふっくらとした身から滲み出た上品な甘み。
アサリの力強い磯の香りが、
ズッキーニとパプリカをトロトロに染め上げている。
オリーブの深いコクが全体を引き締め、
日本酒が魚介の生臭さを消し去るどころか、
驚くほど芳醇な奥深さへと昇華させている。
口に運べば、鯛のしっとりとした旨味。
追いかけるように鼻腔をくすぐるスープの風味。
そこに、レモンのキュッとした酸味が加わることで、
濃厚な出汁の輪郭がくっきりと際立つ。
こってりとした旨味のなかに、
鮮やかな一筋の光が射し込むような、絶妙な引き算。
完璧なマリアージュだ。
……ああ、やっぱり大地さんと僕じゃないか!」
残念ながら、
最後のお時間が近づいてまいりました。
〆はまるごとスイカのフルーツポンチ。
割った半分の中身をくりぬいて器に。
スイカの器には、
キウイ、パイナップル、グレープフルーツ。
スイカは水分が多過ぎる。
繰り抜いた実は果汁を搾ってゼリーにして、
お腹に優しいデザートだ。
「真っ赤に熟したスイカを大胆に真っ二つ?
それだけでも、
夏の香りが広がる。溢れて出る。
そして天然の器の中には、
そう、まるでこれは果実の宝石箱やぁ。
……間違いない。大地さんと僕じゃないか!」
少し離れたダイニングキッチン。
余った食材でまかないというには豪勢な夕食を摂っている鋼谷親子。
居間では大立ち回りのような大地と白波の食事風景が繰り広げられている。
「美味しいし面白いけど、もう食傷ぎみだな」
一方、琢磨の方はただ黙って食べている。
これがほぼ毎食。
あと3日、続くのだ。
規則正しい目覚め
終わりなき静寂
優しい牢獄のなかで
自由の痛みを忘れていく
高い壁に切り取られた
どこまでも透きとおる青
ここには何もない
だというのに
不思議と凪いでいる




