第94話「革命記念日」
冷えていく暖かさ
癒えない傷で
留め置けたら
黒崎住建邸/佐祐倫の実家。
ダイニングルーム。
夕食の片付けを終えた食卓には、湯呑みが3つ並んでいた。
佐祐倫は自分の湯呑みを手に取ったが、しばらく口をつけなかった。
向かいに座る紬生は、そんな娘の様子を不思議に思って声をかける。
「……どうしたの?」
佐祐倫は小さく息を吐き、湯呑みを置いた。
「ねえ、聞きたいことがあるの」
紬生は黙って頷いた。
「大地くんのことなんだけど」
紬生と佐祐倫に挟まれるように座っている住建は、二人の会話を静かに聞いていた。
「昔のことで、今でも苦しそうにしている時があるって、
前から相談してたじゃない」
佐祐倫は膝の上で指を組む。
「もし……催眠術とか催眠療法で、その……
辛い記憶を消せたら、少しは楽になれるのかなって」
紬生はすぐには答えなかった。
自分の湯呑みに手を伸ばし、少し冷めたお茶を一口だけ含む。
佐祐倫がそう考えてしまうことを、紬生は責める気にはなれなかった。
専門家を両親に持つからといって、佐祐倫が心理療法の知識を身に着けていないのは不思議なことではない。
家の中で診察内容や相談内容を話すことはもちろん、曖昧にして愚痴をこぼすことさえ避けてきた。
佐祐倫が目にする機会が多かったのは、どうしても娯楽として紹介される催眠術の方だったろう。
そこでは、催眠術者によって相手が眠ってしまったり、指示に従ってしまったり、記憶が消されたように見える演出が行われたりする。
「佐祐倫、
大地くんを楽にしてあげたいと思う気持ちは分かるわ」
佐祐倫は頷いた。
けれど心の奥では、別の疑問が浮かんでいた。
――大地のためと言いながら、
本当は自分が苦しさから逃れたいだけなのではないか。
そう考えてしまい、視線を落とす。
「でも、その前に知っておいてほしいことがあるの」
佐祐倫が顔を上げる。
「あなたは、たぶん……
催眠術と催眠療法を、同じようなものとして考えているようだけど」
「違うものなの?」
紬生は頷いた。
「テレビや舞台で見る催眠術は、
見る人を楽しませるための演出として行われるものと思っているわ。
魔法みたいで、見ている側にとっては楽しいものよね」
あんなものが本当にあれば、すぐにでも導入したいわね、と本音が漏れる。
それから一度、言葉を選ぶように間を置く。
「娯楽として見せられているものと、
心理療法として扱われるものは別なものと考えて。
エンターテイメントでない実際の催眠術については、
私自身が直接見たわけでもかかったわけでもないから、
語ることはできないけれど」
紬生は続ける。
「心理療法として使われる催眠療法は、
眠らされて意識を失うようなものでもないの。
基本的には、療法を受けている間だって周囲の声は聞こえているし、
自分で考えて判断することもできるのよ」
佐祐倫は静かに聞いていた。
「じゃあ……嫌な記憶を消したり、
終わった後に何も覚えていなかったりするものじゃないんだ」
施術中のことを本人が覚えているのなら、そもそも大地は二度と受けたいとは思わないかもしれない。
「詳しい話は、お父さんからお願いしていいかしら」
紬生は、住建へ視線を向ける。
住建は小さく頷いた。
空になっていた湯呑みを静かに置く。
「その……催眠療法について、だな」
住建は少し考えてから口を開いた。
医師として説明すること。
父親として娘の不安を受け止めること。
その二つは、まったく違う。
――大地くんを心配する気持ちは伝わっている。
だが、感情だけで判断してはいけない場面だ。
住建は慎重に言葉を選んだ。
「催眠療法は、
心の問題に向き合うために用いられる心理療法の一つだ」
まず、強い精神的外傷を受けた人への支援方法の一つとして扱われてきた歴史があることを説明する。
外科手術で原因となるものを取り除くようにはいかない、と住建は静かに続けた。
住建は、記憶というものが単純な一つの情報ではないのだと説明した。
その時に感じた感情も。
その後に積み重なった経験も。
周囲の人との関係の変化も。
自分自身をどう見るのかも。
その人を構成する経験だけでもない。
周囲との人間関係だけでもない。
それぞれが複雑に結びついているのだ。
当てが完全に外された佐祐倫は俯いた。
「じゃあ、大地くんは、この先も苦しむことになるの?」
「……そういう意味では、ないんだ」
住建は静かに首を横に振った。
治療で目指すものは、苦しい記憶そのものを消すことではない。
その記憶が存在していることを前提にして、今の生活を少しでも穏やかに送れるように支えていくこと。
過去に縛られ続けるのではなく、過去を抱えたままでも、自分の人生を歩めるようにすること。
「人は強い苦痛を経験すると、
その後も危険を探し続けてしまったり、
人を信じることが難しくなったり、
自分を責め続けたりすることがある」
住建はゆっくりと言葉を続ける。
「そうした反応と、
うまく付き合えるようになることを目指す治療が多いんだ」
佐祐倫は小さく頷いた。
「つまり……医師と患者さんの間に築く関係も大事なんだね」
住建は頷いた。
苦しい経験を扱う時ほど、『この人なら話しても大丈夫だ』そう思える信頼関係や、安心して向き合える環境が必要になる。
無理に過去を掘り起こすためではない。
本人が向き合う準備を整えた上で、必要な時に必要な範囲で扱っていくのだ。
「それにね、
心理療法は受ければ必ず楽になれるというものでもないんだ」
住建は続けた。
つまりは、過去の傷ときちんと向き合うということだ。
短期的にみれば、非常に辛いことを強いる。
「だから、その人の状態を確認すること。
そして本人が望んでいるかを大切にすること。
その方法が本当に合っているのかを、
専門家と一緒に考えていくことが重要なんだ。
お前が望んでいた催眠療法が合う場合もあるだろうし、
別の心理療法や支援方法の方が適している場合もある」
佐祐倫は湯呑みを両手で包んだ。
「大地くんに……合うのかな」
住建はすぐには答えなかった。
「それは、専門家の判断に任せるしかない」
静かに言う。
「家族になるかもしれない俺たちが、
最初から答えを決めてしまうのは違うと思う」
残念そうに言いながら、住建は紬生を見る。
二人とも医療に関わる仕事をしている。
それでも家族という立場になると見えなくなることもある。
専門家だからこそ、慎重に扱わなければならない。
「俺たちにできるのは、
大地くんが普段どんなことで困っているのか、
どんな時に苦しそうなのかを、日頃から見ておくことだ。
大地くんが表面的には自覚していないだけにね」
必要ならば信頼できる専門家にすぐ繋ぐよ、住建はそう言って軽く膝を叩いた。
紬生は空になった住建の湯呑みにお茶を注いだ。
これは、医師によっても考え方は違うだろうがと前置きして、住建は静かに続けた。
「すぐに治るような症状なら別として、
医療というのは、
医師が良かれと思って
誰かの人生を変えることではないんだ」
湯呑みを見つめながら言葉を選ぶ。
「患者本人が、自分の人生を取り戻していく。
そのための方法を、一緒に探していくものだと思っている。
偉そうに言ってしまったが……
これが絶対に正しいのかは、正直なところ分からん」
過去の何かを思い出したのか、住建は苦笑した。
佐祐倫はしばらく黙っていた。
最初は、大地を苦しめている過去の記憶を消せる方法があるなら、縋りたいと思っていた。
それが大地のためになるのだと思っていた。
けれど、父の話を聞くうちに少しずつ考えが変わっていった。
佐祐倫は湯呑みを両手で包んだ。
「……曖昧な手立てに頼るんじゃなくて、
大地くんが、辛い記憶に苦しむことがあっても、
向き合っていける方法を探すんだね」
紬生が頷く。
住建も静かに頷いた。
ダイニングルームには、穏やかな時間が戻った。
……かに見えた。
それはそうと、と紬生が手を打った。
「大地くんの実家に、お呼ばれしたんですって?」
佐祐倫は一瞬、言葉に詰まった。
「結局、この前の顔合わせって、あなたが中心だったじゃない」
紬生は少し楽しそうに笑う。
「この前は大地くんって、
あなたが緊張するからって『付き添い』で来たって言っていたけど?」
佐祐倫は思わず目を逸らした。
このところは父でさえ大地を家族扱いするものだから、勝手に紹介済みだと思い込んでいた。
あの日のことを思い返せば、まさしくその通りだった。
「大地くんを、私たちにいつ正式に紹介してくれるのかしらね?」
紬生は少し意地悪な笑顔を浮かべる。
「恥ずかしがるから言っていなかったけど……
お父さん、息子が増えるかもしれないって、ずっと楽しみにしているのよ」
住建は言うんじゃない、とでも言いたげに咳払いをした。
先ほどまでの落ち着きぶりもどこかへ忘れてしまったようだ。
佐祐倫は思わず、からからと笑ってしまった。
大地とのことを考えていた時、このところは不安や心配が先に立つことが多かったように思う。
どうすれば大地を過去から解放できるのか。
けれども……
大地が抱えているものだけを見るのではなく、これから築いていくものにも目を向けてもいいのだ。
自分ができることは、過去に負った傷を消してあげようとすることではない。
隣にいることなのだ。
「……えーと? すぐにでも?」
佐祐倫が呟く。
大地本人の知らないところで、外堀が埋められていく。
嘆かないで
痕が消えないと
大事にしてね
想い出を
家族を
これからを




