影がない女
日が傾いて、外からの光が長く射し込んだ。
暑いなと、華岡麗は顔を顰める。
真っ白なベッドから体を起こし、ぺろんとパジャマの裾を捲る。三週間前に刺されてできた、脇腹の傷を優しく摩る。順調順調。うんうんと頷きながらベッドから降りる。
自分の部屋よりも広く、空調の効いたこの個室は、治療費も込みで警察が支払ってくれるらしい。
なんとも至れり尽くせり。いただけるものはいただいておこう。そう思いながら華岡はゆっくりと伸びをする。ぴり、と脇腹が痛んだ。
季節はもうすっかり夏。がらんと広い部屋で、華岡は窓の外を見る。
爛々と輝く向日葵が、こちらに顔を向けていた。その色合いと元気の良さに、ある人物が頭を過る。入院中の楽しみは少ない。時計を見ると、午後五時を指していた。
そろそろ、来る頃か。
そう思いながら窓越しに向日葵を眺めていると、ぬるりとした低音が耳を這う。
「センセー、落っこちないでくださいよ」
「おわー!?」
驚いて飛び上がると、一条夏鈴はとっさに華岡の腕をつかんだ。窓が閉まっているのを確認して、ほっと一息ついて手を離す。彼女と似ているが、全く異なる長い髪がぬらりと蛇のように揺れる。
「び、びっくりさせないでください!」
「そんだけ声出せるなら、だいぶ腹治ってきたんですね」
胸に手を当てて叫ぶ華岡の言葉を無視して、一条は脇腹を見つめる。キュッと眉が動いた。華岡は笑いながらパジャマを捲って見せる。
「そうですよ、割とね~僕って治りが早いんですよ」
「……そりゃ、よかった」
へらへらと笑う華岡に、一条は顔を背ける。少しの沈黙のあと、それで?と華岡は優しく聞いた。
「片倉さんの事件について、なにか分かったんですか?」
アパート一室のあの事件。華岡が気を失ったあと、少し目を離した隙に獣は忽然と姿を消してしまったらしい。『見える』一条がすぐさま周りを捜索したが、それらしき痕跡すら見当たらなかったという。
手掛かりは容疑者であり被害者でもある、片倉愛美だけということだ。
「あ、ああ。彼女について、少しだけ進展があったので持ってきました」
そう言って一条はビニール袋に入った本を取り出す。可愛らしい絵のついたそれは、よくよく見るとDiaryと記載されている。
「日記です。毎日毎日なにかしらの鬱憤や自殺願望が書かれていました。気になったのは、このページ」
一条はビニール袋から日記を取り出し、該当箇所を開く。
日記には、こう書かれていた。
“☓日
路地裏で、女の人と話した
どうも、ここに猫がいるらしい
でも女の人は飼えないらしい
私もマンションだから飼えないなと思いながらそれを見た
真っ黒な目がこちらを見下ろしていた
可愛い猫ちゃんでしょ、と女の人は言った
それは、じっと私を見た
放っておけなかった
猫を拾った
路地裏に、ひっそりといた
猫を拾った
ぐるぐると、大きな瞳だった
黒くて、丸い
猫を、拾ったのだ”
可愛い猫ちゃん、か。と華岡は呟く。刺された脇腹がビリリと痛んだ。一条は華岡をソファに促し、日記をテーブルに置きながら続ける。
「この女、というのが誰なのかが分かればいいんですけどね」
片倉は今、精神病院に入院中ですから、聞き取りが出来る状態ではありませんし、と一条は頭をわしゃわしゃと掻いた。
「そうですね、この女性が事件の引き金になっていますもんね」
華岡はうんうんと頷く。
「少なくとも彼女は、はじめはあれを猫だと認識していなかったようですし」
華岡がそう言うと、一条は首を傾げた。
あのですね、と前置きをして華岡は日記の文章を指す。
「自分より小さな存在は、よほど高いところにいない限り自分を見下ろせません」
「……あ」
「それに、片倉さん自身は最初は猫だと書いていないんですよ。後から、自分に言い聞かせるように文章を書いている」
もしかしたら、ずっと猫に見えたことなんてなかったのかもしれませんね。と、華岡は呟いた。一条は少しの沈黙の後、ぱらぱらとページを捲る。
“◇日
猫ちゃんは丸まってこっちをじっと見つめている。
少し大きいから、部屋がとっても暗く感じる。
□日
ご飯を全く食べてくれない、どうしたものか。
いろんなものを作って与えてみる。
名前はまだ決められない。
〇日
今日も仕事で怒鳴られた。
でも猫ちゃんのためにも働かないとね。
今日は少しすり寄って匂いを嗅いでいた。
慣れてきてくれたのかな?
★日
猫ちゃんから腕を噛まれた。
噛んだ後ぺろぺろと舐めていたから悪気はないのかな?
ちゃんと躾しないとね。
▽日
猫ちゃんは、猫ちゃん。
名前は猫ちゃんでいいんじゃないかと思う。
だってこれは、猫ちゃんなんだから。
猫ちゃんは、あれから毎日少しだけ噛んだりひっかいたりしてくる。
じゃれて遊んでいるのかな。
◆日
明日は友達が猫ちゃんを見に来てくれるらしい。
嬉しいな、いっぱいオシャレしようね。
猫用の服を買ったけど、どれも全然入らない。
大きすぎるのかな、私の猫ちゃん。”
「……猫かどうかなんて、どうでもよかったのかもしれませんね」
白紙のページを見つめながら、華岡はそう呟いた。一条は目を瞑り、日記を閉じて元通りに仕舞う。
「引き続き、この女に関しては調査を続けます。センセーにも進展があればお話しますので」
ご協力をお願いします、と一条は頭を下げる。こちらこそ、と華岡も頭を下げた。
頭を上げると同時に、ちらりと時計を見る。
「ゴリ、天音警部補は今日有給休暇の申請していたので、面会ないかもしれないですよ」
「え」
「あ、違いました?」
先程から時計を何度も見ていらっしゃるので、と一条は言う。華岡は照れくさそうに笑った。
「いえ、正解です。仕事以外の話し相手が、今のところ彼女しかいないので」
「あ……すみません。そんなつもりじゃ」
「分かってますよ、分かってます。ありがとうございます」
一条の顔がサッと青ざめたのをみて、華岡は慌ててぶんぶんと手を振った。
「でもそうか、今日は来ないとなると寂しいですね」
「えっと、いましょうか」
「うん、結構です」
「そうですよね」
お互い真面目な顔で向き合った後、ゲラと笑う。
「それではまた。俺は、事件の進展があった時に来ます」
俺は、ね。と一条は含みのある笑みで病室を出た。
がらん、と広い個室に、また一人きりになる。
会いたいな。
窓の外の向日葵に、もう一度目を向ける。
オレンジ色の光に照らされたそれは、先程より少しだけ頭を垂れているように思えた。
「え、ミニスターって名前じゃないの?」
教会の床を磨きながら、天音香子は呆けた声を上げた。いつもは乱雑に結ばれているローポニーは、今は丁寧に編み込まれ、美しいアップスタイルになっている。アクセントに差し込まれた生花も、誇らしく咲いている。
「香子。もう少し人の話を咀嚼することを覚えた方がよいと思いますよ」
天音より頭一つ分大きい骸骨、ミニスターは呆れた声でそう返す。かっちりとした白いワンピースの上に、シワのない真っ白なエプロンを纏った彼女は、教会の椅子をひとつひとつ丁寧に拭き上げながら続けた。
「ミニスターというのは牧師、という意味です。シスターと同じ。名前ではありません」
「じゃあシスターでいいじゃん。私シスターが役職でミニスターが名前だと思ってたよ」
「宗派の違いで呼び方が違うんですよ。鈴蘭とミュゲは同じ花でしょう」
「鈴蘭ってミュゲっていうの!?」
「ああ、もう!話が進まない!」
そう言いながらミニスターはきゅっと最後の椅子を拭き上げ終わる。
天音も床の掃除を終わらせ、モップを片付けにかかる。
「そっかー、そしたらミニスターにも名前がいるな」
ぐいぐいと天音のスカートを引っ張る手の平大の人形を肩に運びながら、香子はうーんと首を捻る。その人形のような見た目をした精霊、フラワーは得意げに天音の編み込みの隙間に生花を差し込んでいく。
「ミニスターで良いではないですか」
「なあ、ミュゲってどうだ?」
「聞いてます?」
「まあまあ、名前があると楽しくなるぞ?」
なあフラワー?と天音がフラワーに話しかけると、フラワーはキラキラと目を輝かせながら頷く。陶器のような肌が、ぴかぴかと光った。
そんな二人を見ながら、ミニスターはお好きにどうぞと投げやりに言う。人間だったらため息をついていたところだろう。天音がフラワーに向けて手の平を向けると、フラワーは嬉しそうに天音にハイタッチをした。
「さーて、次は何するんだ?手伝うぞ」
「……Mr.のところへお見舞いには行かないんですか」
お休みなのに、ずっとここにいらっしゃるんですか。とミニスターは続ける。ん~?といいながら天音は腕時計を見た。
「そうだなー、まあぼちぼち行くか」
時間も潰せたしな、と天音はカラカラと笑う。文字盤は午後五時を指していた。
全く、この人は。ミニスターは首を横に振った。そんなミニスターを見ながら、天音はふ、と頬を緩める。
「教会のこと、お願いしますね」と華岡から言われて数週間。教会と病院のどちらにも顔を出しているが、本当に二人はよく似ている。
「華岡とミュゲってさ、ずっと一緒にここで住んでるの?」
「そうですね、十年程前にMr.がきてからは」
「ふーん」
さて、お見送りしましょう。と門の方に足を向けるミニスターに、天音は柔らかく微笑んだ。
空が赤みを帯び始め、鈴蘭の葉が青々と揺れる。
その、石畳の先。
門の前に、女が一人、立っていた。
「こんにちは」
淡い色のワンピースが、西日を受けて綺麗にオレンジ色に染まっている。
上品に日傘を傾けた女は、にこりと笑って門の外からこちらを見る。
「牧師様はいらっしゃるかしら?」
そう言われて、天音は、はっと息を吸った。女は、にこにこと笑ったままこちらを見ている。
「あ、えっと、牧師は今ちょっと怪我してて入院中で」
天音がしどろもどろにそう答えると、女はまあそうなんですかと口を押さえる。
「丘の下からみてね、すごく雰囲気のあるところだと思いましたの。ですから、中を見てみたいと思いまして」
ねえ、見せてくださらないかしら。と、女は首を傾げる。生暖かい風が、天音の頬を撫でる。
漆黒の女の瞳が、じっと天音を捉える。
「香子」
思わず後ずさろうとした天音の背中に、固い物がぶつかった。骨骨とした手が、天音の肩に触れる。
「入れては、ダメです」
そう言って、ミニスターは女を真っ直ぐと見つめた。女はにこにこと笑っている。
なんで、と言いかけて天音は口を閉じる。とりあえず彼女を入れないための言い訳を、頭の中から引っ張り出した。
「ええと、牧師の許可がないと入れさせられなくて」
ここも今私が牧師から言われて管理してるだけなので、と天音が言うと、女はそうなの、と目を伏せる。
「いつお戻りになるのかしら」
「ま、まだ目処が立っておらず」
「ですが恐らく、来週には戻るでしょう」
ミニスターが天音の声に被せるようにそう言う。女は、そう、と言ってニッコリと笑った。
「では、また日を改めましょう。さようなら、大きなお手伝いさん」
女は優雅に向きを変え、軽やかに階段を降りていく。西日が、彼女をオレンジ色に照らしていた。
女が見えなくなったところで、天音はぶはっと息を吐いた。
「なんだ、ありゃ。なんだったんだ」
「わかりません」
ミニスターはそう言いながら門の先をじっと見つめる。
「わかりません、けれど」
「あの女性、影が、ありませんでした」
ざわ、と生暖かい風が、教会を吹き抜ける。
西日が、鈴蘭の葉をじわりじわりと照りつけていた。




