猫
“猫を拾った
路地裏に、ひっそりといた
猫を拾った
ぐるぐると、大きな瞳だった
黒くて、丸い
猫を、拾ったのだ”
デスクの上には、大量の紙束が積み重なっている。天音香子は、紙束の真ん中で悲痛な声を上げた。
「おーん」
「声を出しても片付かないですよ姐さん」
ほら、手を動かす。と天音の横にいた鮫島キヨが声をかける。
「ひどいよーあんまりだよ。私が何をしたっていうんだ」
「何もしてないんすよ姐さんは」
なにかしてください、そこにいるなら。と後輩からピシャリと怒られ、天音は泣く泣く紙束をぺらりと捲る。
「覚えてないよー」
「覚えてるうちに書かないからっすよ。書かないうちにすぐ違う事件に走るの止めたほうが良いっす」
「おぉーん」
ぺそぺそと鳴き声を上げる天音を無視して、鮫島は自分の机の書類を片付けていく。天音の机と違い、そこまで書類が積みあがってる様子はない。
「大卒ってすごいなぁ」
「高卒でキャリアと張り合ってる姐さんの方が凄いっすよ」
「鮫島ぁ……!」
「だからこんなことで株落とさないでほしいっすね、さっさと手を動かしてください」
「鮫島ぁ……」
そんな会話で書類から目を逸らしていると、別のデスクから天音を呼ぶ声がした。
「おーい、メスゴリ。お客。バケ課の坊ちゃん」
そう言ってデスクの男は、入り口をくいっと親指でさす。
「あ?」
天音が入口の方を振り向くと、漆黒の男がぬらりと立っていた。ギラギラとした爬虫類の瞳を髪の間からちらつかせ、一条夏鈴は天音を見据える。
「天音香子。協力してくれ、事件だ」
天音は待ってましたとばかりに立ち上がった。あーあ、知らね。と鮫島は呟きながら書類をまたひとつ書き終わった。
真っ黒な髪に覆われた一条の旋毛を見ながら、天音は怪異対策課までの道のりを歩く。
怪異対策課、通称バケ課は表向きは捜査一課を名乗っていることが多い。本当に表向きだけで、実際ほとんど関わることはない。
そんなバケ課に呼び出しをくらったのは、あの電車のせいだろうなと天音は少し前の出来事を思い出す。
一ヶ月ほど前、幽霊電車にダイブしたおまけに幽霊が見えるようになったあれだ。まじで最悪だ。
神父にどういうことだと話したら、あっさりと「見えるようになったんです。戻りません」とか言いやがるし。シスターのミニスターには笑われるし。本当に災難だ。
そんなことを考えていると、目の前の人物が急にぴたりと止まった。止まり損ねた天音はそのまま一条にぶつかる。
「ぶえ」
「脳みそまでゴリラだから前も見れねえのかよ」
一条はそう言って馬鹿にするように笑う。ぐぬ、と押し黙る天音に得意げな顔をした後、一条は真面目な顔で目の前の扉を開けた。
「やあ、よく来てくれたね」
扉の向こうでは優しい顔の刑事が微笑んでいた。くたりとくたびれたシャツとネクタイが、彼の会釈と一緒にお辞儀する。笑うとできる目尻の皺が、彼の優しさと年齢を示していた。
「いえ、自分になにかできることがあれば、手伝わせてください」
天音はその男、澤平に頭を下げた。澤平はうんうんと頷きながらよろしくね、と天音の肩をポンと叩いた。
「僕はちょっと別の事件を見なきゃいけないんだ。そっちは頼むよ」
そう言って、信頼しているよ。と、一条の頭をポンポンと叩く。一条が返事をすると、澤平はうんうんと頷いて怪異対策課を出て行った。
澤平を横目で見送りながら、一条は捜査資料を広げる。そこには、気弱そうな女性が映っていた。くるくると大きなタレ気味の瞳。小さめの唇。守ってあげたくなる、とはこんなタイプなのだろう。
「片倉愛美。猫を拾ったと友人に話していた。どうもその辺りから様子がおかしいらしい。体に傷が絶えないとのことで、DVでもされているんじゃないかと言うことで生活相談課に依頼が来た」
そんで、一度相談者と一緒に警察官が家を訪ねたんだが、と一条は言葉を切った。その不穏な間に、天音は資料から顔を上げて一条を見る。
「……なにかあったのか」
「ああ」
一条はスマートフォンを取り出し、天音に見せる。そこには、マンションの一角が映し出されていた。ドアにはべっとりと血がついており、赤黒く光っている。
「こりゃ……」
「警察官は意識不明の重体。相談者は隣にいた警察官が突然血を流して倒れたもんだから、とりあえず玄関から出て救急車を呼んだらしい。片倉は今マンションで鍵をかけて立て籠もっている」
「それで、なんで私が呼ばれたんだ」
正直今の話を聞いても戦力になれるところはなさそうだ。天音は首を捻りながら一条に聞く。
「そりゃ、ご指名だからだ」
そう一条が言ったと同時にドアがノックされる。
一条がドアを開けると、そこには真っ白の服の男が、ニコリと微笑んで立っていた。
「そんで神父さん」
「牧師です」
「牧師さん、どうしてここに」
社用車の後部座席にすし詰めになりながら、天音は隣の真っ白の男、華岡麗に話しかけた。
「呼ばれたから来ました」
「いやだからなんで呼ばれてんだよ!」
ニコニコと微笑む華岡に、天音は眉を寄せる。どうもまだ、このペースに慣れない。
「センセーは怪異対策課のレギュラー外部協力者だぞ」
知らなかったのか、と運転席から一条が声を飛ばす。目を丸くして天音を見ると、華岡は笑顔を崩さないままうんうんと頷いた。
そんな華岡に、天音は少し違和感を覚える。そのなにか、を考える前に、華岡が運転席に話を振る。
「それで、準備はできましたか」
「ん」
そう言いながら、一条は後部座席に箱を手渡す。たばこケースくらいの大きさのそれは、天音は見たことがあるものだった。
「弾?」
「はい、銀の弾です」
そう言って、華岡は天音にそのまま弾薬ケースを手渡す。
「よろしくお願いしますね」
「は?」
牧師はにっこりと笑った。
二階建てのアパートの、二階の角部屋。備え付けの階段を登りながら、天音は腰に携えた拳銃を触る。
銃を撃つことは得意だが、中に入っているのは撃ったこともない銀の弾。果たして狙い通りに撃てるのだろうか。
そんな天音を横目に、華岡は血まみれの扉をコンコン、とノックする。
「片倉さん、こんにちは。牧師の華岡麗と申します」
いつもと違う声色に、天音は少し驚く。紅茶に一滴ミルクを垂らしたような、甘くはないが優しい声だ。
「突然のことで驚いたでしょう。猫ちゃんはご無事ですか」
微かに扉の向こうから声がする。なにかを言っているようだが、少し離れている天音や一条には聞こえない。華岡はうんうんと扉前で頷いた。
「そうですか、猫ちゃんも突然知らない人が入ってきてびっくりしてしまったんですね。怪我させるつもりはなかったと思う、と。なるほど」
そう言いながら華岡はこちらをちらりと見る。天音はぐっと親指を立てた。流石は神父。こういう話し合いにはもってこいだな。
華岡はにこりと笑って会話を続ける。
「猫ちゃんとの話、もう少し聞きたいな。私、猫ちゃん大好きなんですよね。三毛とかトラとか……いろんな柄があると思いますが、貴女の猫ちゃんは何色ですか?」
うんうん、真っ黒なんですね。と華岡は扉越しに頷く。先程よりもゆっくりと、慎重に片倉に話しかける。
「大きさはどのくらいなんでしょうか。はい、大きさです。とても大きい……どのくらいでしょう。ビーチボールくらい?もっと大きい?」
扉の向こうの声が聞こえなくなる。華岡は、片倉さん、と声をかける。
「その猫ちゃんは、あなたより大きいんではないでしょうか」
扉の向こうから声がする。その声は、天音や一条にもしっかりと届いた。
「そんなことあるわけないでしょ!猫なのよ?!」
ヒステリックな女性の声は、かなりの動揺が伺えた。華岡は片倉さん、落ち着いて、と声をかける。
「今お隣に猫ちゃんがいるでしょう。触ってみてください。大きさを、確認して。目はどこにありますか。あなたの目線より上ではないですか」
華岡はちらりと目線を二人に向ける。二人はこくりと頷いた。天音は拳銃に手をかける。
「あなたの隣にいるものは、本当に、猫ですか?」
「うるさいうるさいうるさい!これは猫よ!猫って言ったら猫なのよ!」
見なさいよ!!!!という大声と共にアパートの扉が開け放たれる。
大きな瞳を更に見開き、真っ赤な目をした女の後ろに
大きな黒い塊が、みっちりと部屋に鎮座していた。
華岡が土足で部屋に上がり込む。一条と天音はそれに続き、玄関ドア付近で銃を構えた。
ぎゃあぎゃあとヒステリックに叫ぶ女の後ろに、銃を向ける。向けたと同時に、あぁこりゃ見えてねえんだなと悟る。
天音の目には、叫んでる女とやけに物がないワンルームしか見えていなかった。奥の部屋のカーテンが、不自然にくにゃりと押し返されているのを見て、なにかいるんだろうなと感じられるくらいだ。
しっかりと銃を構えながら、先程の車の中での会話を思い出す。
「今回の怪異は、恐らく動物的なものだと思います」
なので、狩猟をしてもらいます。と華岡はにこにこと笑いながら天音の手に銃弾をぎゅうぎゅうと押し付ける。
「なんで私!?」
貴女だけじゃないですよ、と言いながら華岡は運転席を見る。一条はすこし不機嫌そうに言葉を返した。
「俺が見えてるから俺がいればいいって言ったんだけどな」
「一条さんが撃てることが一番です。なので、天音さんは保険です」
なにがあるか分かりませんから、と華岡は笑みを崩さずに言う。天音はやっぱり何か引っかかると眉を寄せる。あ、分かった。こいつずっとニコニコしてんだ。余所行きスタイルってことか。
「頼みましたよ」
そう小さく天音に囁き、華岡は真っ直ぐに天音を見た。水晶のような瞳が、天音を射貫く。さっきまでの、彼じゃない。教会の時の、華岡麗だ。
「……分かった」
真剣な彼の瞳に、天音はしっかりと頷いた。
パアンという発砲音の後、ワンルームの天井に弾丸がめり込む。
一条が大きなため息を吐いたのが聞こえた。天音には何も見えないが、恐らく狙いを外したのだろう。
見えるから撃てる。されど、見えるからブレる。華岡は黒い塊に向き直ると、キュッと口を結んだ。
一条は震えながらももう一度銃を構え直す。片倉は目の前の華岡には目もくれず、一条に「何してんのよ!」と掴みかかった。もつれあい、銃弾は窓を割る。
「あんた私の猫になにすんのよ!!!!」
「あれが猫だと!?頭打ってんのかラリってんのか分かんねえけどとりあえずてめえは黙って見てろ!!!!」
そう言って一条は拳銃を手放し、片倉を押さえつける。バタバタとそれでも抵抗する女を押さえつけながら、一条は「頼む!!!!」と叫んだ。
黒い塊の中から、ぎょろりとした目が覗く。その目はぐるりと辺りを見渡したかと思うと、白い塊をしっかりと視界に捉えた。
華岡は天音の方を振り向いて頷く。やるしかない。天音はしっかりと銃を握った。黒い塊から、大きな獣の手が華岡に近づく。
「前!」
華岡が叫んだと同時に、天音は華岡の前方に照準を合わせる。何も見えねえ、けど。天音は華岡の言葉通りに引き金を引いた。
華岡の横を、銃弾が駆け抜けていく。それを肌で感じながら、華岡は獣と目を合わせて不敵な笑みを浮かべた。目の前まで迫った大きな手が、銀の銃弾に撃ち抜かれる。
獣の大きな咆哮と共に、鮮血が飛び散る。ビリビリと空気が震える。なるほど、姿は見えなくても音と血は見える。これは勝ち筋が見えてきた。天音はそう思いながら銃を構えなおす。
華岡は天音を見て親指を立ててニッと笑った。そうしてまた黒い獣に向き直る。
獣は、また自分を襲ってくるだろう。そう思い華岡は身構える。華岡をギョロギョロと見つめていた獣が、すん、と鼻を動かした。獣の視線が、ぐるりと片倉へと変わる。
獣は大きな鳴き声と共に、その大きな爪を片倉に向かって振り下ろした。
「ねこ、ちゃん……?」
ずぶり、と
嫌な音がした。
取っ組み合っている一条と片倉の前に、大きくて白い背中が映る。
白い布が、みるみるうちに鮮血に染まる。てらてらと獣の爪が赤く輝いた。
華岡の体が宙に浮く。ぼたぼたと腹から血が垂れる。
「華岡!」
天音が声を上げて引き金を引こうとするが、華岡は首を横に振る。ずるり、と滑りそうな拳銃を握り直し、天音は合図が来るのを待った。
数秒の後、華岡は天音を見つめて頷いた。
天音が引き金を引くと、銃弾は獣の頭を貫通した。
目を開けると、白い天井だった。起き上がろうとすると腹部に鈍い痛みが走る。顔を顰めたまま華岡は白いベッドに体を預けた。
「起きたか」
声がした方を振り向くと、琥珀色の瞳がこちらを見つめていた。いつも欄々と輝いているその瞳は、今は少しだけ濁っている。らしくないですね、なんて声を出そうとしたが、傷口が痛んで顔を顰める。無理するな、と天音は困ったように笑う。
「内臓は無事ってことだ、良かったな」
腹の傷が治るまでは安静だとよー、と天音はのんびりと大きく伸びをした。わざとらしいその振る舞いに、華岡は少しだけ眉を寄せる。
ミニスターに聞けば、着替えとか分かるか?と聞かれたので、少し考えた後に頷いた。多分大丈夫なはずだ。
「教会は暫く休みの看板を下げとくよ。お前は安心して休んでくれ」
そう言って天音は微笑んだ。その目は少し赤みを帯びているようだった。医者を呼んでくる、という天音の腕を華岡は掴んだ。
驚いたように目を見開く天音に、華岡は言葉を絞り出す。
「自分を、責めないで、くださいね」
天音はキュッと目を細めた。
「まず自分の心配をしろ、馬鹿」
窓からの夕日が、二人を熱いくらいに照らしていた。
夏に差し掛かった夕暮れの太陽が、教会を照らす。季節を少し過ぎてしまったが、鈴蘭は元気に咲いていた。
そんな花たちに水をやりながら、ミニスターは空気に声をかける。
「Mr。もう門を閉める時間です」
そう言って、門を見る。ありがとうミニスター。という柔らかな声がしないことで、そういえば今日はまだ警察から戻ってきていなかったのだと思い出す。
「……大丈夫、でしょう」
大丈夫、そう言いながら最近教会に住み着いている大型猫のことを思い出す。
「大丈夫です、絶対に」
そう言いながらホースを片付けていると、こつこつと門の方から音がした。長い影が、教会内へ伸びる。
いつもと同じ長さの影。ミニスターは安心したように骨を震わせた。
「Mr。遅かったですね」
安心した声色で、そう言いながら振り向いた。
夕焼けに溶けるような栗色の髪が揺れていた。彼のものではない長い長い髪は、夏風に煽られて揺れる。
「あ、えっと、大丈夫だ。いや、大丈夫ではないんだけど、命に別状はない。ただ、少し入院が必要で、その」
収拾のつかない説明のあと、天音は唇をきゅっと結んだ。すまない、と頭を下げたその声は震えている。
いつでもふてぶてしく居座っているその大型猫は、今は小さく震える仔猫のようだ。
「……メインクーン、遅かったですね。まだギリギリ大丈夫ですよ」
ミニスターは門を開けた。夕暮れに染まる鈴蘭が、天音を優しく迎え入れた。




