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第97話 偶然に名前をつける

 クララ・ヴェルムが静かなときは、たいてい危ない。


 怒っているわけではない。


 落ち込んでいるわけでもない。


 ただ、頭の中で長い分類名が増殖している。


 それはそれで、近くにいる人間には危険だった。


 翌朝、クレストフォールの資料室を借りたクララは、机いっぱいに紙を広げて黙っていた。


 迷子一号。


 グレイ。


 フィーニスの旗痕跡。


 封印布の銀輪。


 クレストフォール式召喚陣。


 第七部でリリィが使っている簡略召喚陣。


 それぞれの写しを並べ、赤と青の線で結んでいる。


 見た目は、事件の捜査資料みたいだ。


 ただ、被害者が石と綿くずで、容疑者が白い旗というだけで。


「何か言いたそうだな」


 俺が言うと、クララは顔を上げた。


「言いたいことは多いです」


「知ってる」


「しかし、今日は短く言う必要があります」


「なぜ」


「リリィさんが聞くからです」


 クララの視線の先に、リリィがいた。


 彼女は資料室の窓際に座り、迷子一号とグレイを小皿に乗せている。


 迷子一号は相変わらず石だ。


 グレイは灰色の綿くずのような姿で、ぷるぷる震えている。


 弱そう。


 昨日より少しだけ丸くなった気もする。


 育っているのか、湿気を吸ったのかはわからない。


「聞いていますよ」


 リリィが言う。


「難しい話なら途中で寝ます」


「寝るのはノルさんの役目です」


 クララが真面目に返す。


 ノルは長椅子で本当に寝ていた。


「呼んだ?」


「呼んでません」


「起きてる」


「寝ていてください」


「ひどい」


 ノルはまた目を閉じた。


 資料室には、クレストフォール側からセラとフェルン先生も同席している。


 ユアンは肩の狐を連れて入口近くに立っていた。本人は興味なさそうな顔をしているが、狐の耳がずっとこちらを向いている。


 コレットは記録板を持ち、ネルは机の端に座り、ロイはグレイの反応を見るために指先をそっと机に置いている。


 ガレスは水を置いた。


 水は大事。


 もう誰も突っ込まない。


 クララは大きく息を吸った。


「まず、結論から言います」


 全員が少し身構える。


「迷子一号とグレイの反応は、完全な偶然ではない可能性があります」


 リリィの笑みが少し動いた。


「可能性」


「はい。断定はしません」


「偉いですね」


「偉いですか」


「断定されると、こちらは逃げ道を失います」


 クララは少し黙り、頷いた。


「では、逃げ道を残したまま説明します」


 その言い方に、リリィは少しだけ目を丸くした。


 クララも、山やクレストフォールで少し変わっている。


 知識を置くとき、人の足場を見始めている。


 クララは一枚目の紙を示した。


「リリィさんの召喚は、対象を指定できません。通常の召喚術では、契約名、媒体、陣、魔力の質をそろえて、呼び出す個体を絞ります。クレストフォールでは特にそれが徹底されています」


 フェルン先生が頷く。


「その通りです」


「一方、リリィさんの召喚は、絞り込みが壊れています。だから、何が出るかわからない」


 リリィが拍手する。


「見事な悪口ですね」


 クララは首を横に振った。


「悪口ではありません。絞り込みが壊れているから、逆に広い範囲へ触れています」


 リリィの指が止まる。


 クララは二枚目の紙を出す。


「迷子一号は、石としてはほぼ無力です。しかし、召喚由来の痕跡を持ち、フィーニスの旗痕跡へ弱く反応しました。グレイも同じです。弱い。ほとんど動けない。危険性は低い。でも、旗痕跡を追いました」


 グレイがぷる、と震えた。


 ロイが小さく言う。


「褒められてますよ」


 リリィが返す。


「弱いと二回言われましたけどね」


「でも、悪口じゃないです」


「そうですね」


 リリィはグレイを見た。


 昨日までは「弱い」を自分で先に悪口にしていた。


 今は少し違う。


 弱いまま、机の上に置けている。


 クララは三枚目の紙に移る。


「フィーニスは、未登録、不規則、増加、召喚由来の痕跡を嫌います。つまり、リリィさんの召喚を拒絶する可能性が高い」


「はい、嫌われ担当です」


 リリィが言う。


 ネルが即座に言った。


「リリィじゃない」


「早い」


「違うから」


 リリィは少し笑った。


「ありがとうございます。そろそろ慣れてきました」


 クララは頷いた。


「正確には、リリィさんではなく、召喚由来の未登録痕跡を拒絶します。しかし、その拒絶がリリィさん本人に向くように見えてしまう。ここが危険です」


 フェルン先生の表情が少し硬くなる。


 セラも記録する手を止めた。


 クレストフォールの過去に、その危険があったからだ。


 召喚物への扱いが、召喚者への扱いになる。


 登録外を処理する言葉が、本人を処理する言葉になる。


 リリィはそこにいた。


 クララは声を少し落とす。


「だから、この反応を作戦化する前に、記録の言葉を決めたいです」


「記録の言葉?」


 コレットが聞く。


「はい。『リリィさんの召喚が旗に嫌われる』ではなく、『リリィさんの召喚によって現れる未登録小型個体が、フィーニスの旗痕跡と反発または追跡反応を起こす』」


 長い。


 でも、今日は誰もすぐには短くしろと言わなかった。


 リリィが少しだけ目を伏せた。


「私が嫌われる、ではない」


「違います」


 クララははっきり言った。


「ただし、あなたは嫌われたように感じる。その感情も記録から消しません」


 リリィは顔を上げる。


「そこまで書くんですか」


「あなたが許可するなら」


 許可。


 その言葉を、クララがちゃんと置いた。


 リリィは少し困ったように笑う。


「許可しなかったら?」


「書きません。ただ、作戦記録には『本人感情に配慮』とだけ書きます」


「便利なぼかし方ですね」


「研究者としては不満ですが、人としては必要です」


 リリィはしばらく黙った。


 それから、小さく言う。


「書いていいです」


 コレットがペンを取る。


 リリィは続けた。


「ただし、私が嫌われた、とは書かないでください」


「書きません」


「私は、嫌われたように感じた。正確には、昔の記憶が勝手に嫌われに行った」


 その言葉で、資料室が静かになった。


 昔の記憶が、勝手に嫌われに行く。


 俺はその表現を、少しだけ理解できる気がした。


 俺の記憶は抜ける。


 リリィの記憶は、先に走って痛い場所へ戻る。


 違う種類の不自由だ。


 コレットが丁寧に記録する。


 リリィ、フィーニスの反応を「自分が嫌われた」とは記録しないことを希望。


 ただし、過去の記憶が嫌われた感覚を呼び起こしたことは本人許可のもと記録。


 リリィがそれを見て、少しだけ肩をすくめた。


「丁寧すぎて、逃げ場が狭いですね」


「狭いですか」


「でも、閉じ込められてはいません」


「なら、よかったです」


 クララは四枚目の紙を出した。


 そこには、迷子一号とグレイの動きが矢印で書かれている。


「ここからは共鳴パターンです」


 クララの目が明らかに輝いた。


 危ない。


 コレットがすぐに言う。


「短く」


「はい」


 クララは自分の頬を軽く叩いた。


「迷子一号とグレイは、フィーニス本体ではなく、旗痕跡へ反応しました。フィーニスは未登録痕跡を嫌う。ですが、未登録痕跡側もフィーニスの境界を追う。これは一方向の拒絶ではなく、双方向の反応です」


 アルフが言う。


「反発と誘導が同時にある?」


「そうです」


 クララは嬉しそうに頷く。


「磁石みたいなものか」


 ジャックが言う。


「かなり雑ですが、近いです」


「雑で悪かったな」


「助かります」


「どっちだよ」


 クララは続ける。


「フィーニスは未登録小型個体を遠ざけたい。しかし、その拒絶反応が境界を強くし、迷子一号やグレイのような弱い召喚物は、その境界を匂いとして追う。つまり、嫌われることで、逆に旗の位置や境界がわかる可能性があります」


 リリィが笑った。


「嫌われる才能が、探知能力に昇格しました」


「違います」


 ネルが言う。


「早い」


「違うから」


「では、未登録痕跡追跡能力」


 クララが言う。


 リリィは顔をしかめた。


「名前が硬い」


「では、旗の匂いを追う力」


「急に素朴」


 ノルが寝たまま言った。


「匂い追い」


 全員がノルを見る。


 ノルは目を閉じたまま続ける。


「夢じゃない。言葉」


 リリィは少し考える。


「匂い追い」


 グレイがぷる、と震えた。


「採用で」


 クララは少し不満そうだったが、記録に書いた。


 仮称、匂い追い。


 リリィが笑う。


「古代旗理論が急に生活感を帯びましたね」


「わかりやすいことは大切です」


 クララは少しだけ悔しそうに言った。


 フェルン先生が資料を見つめている。


「この反応が確かなら、フィーニスの境界維持にとっても重要です」


 コレットが尋ねる。


「クレストフォール側としては、リリィさんの召喚を危険視しますか」


 フェルン先生はすぐには答えなかった。


 慎重に言葉を選ぶ。


「危険の可能性はあります。ただし、昨日までのように未登録だから危険と一括りにするのは不正確です。迷子一号とグレイは、現時点では低危険、低出力、旗痕跡反応あり。観察価値があります」


 リリィがぼそりと言う。


「観察価値」


 嫌そうではない。


 少し不思議そうだ。


 自分の召喚が、迷惑ではなく観察価値と言われる。


 それをどう受け取ればいいのか、まだ決めかねている顔だった。


 セラが言う。


「ただ、公式戦でフィーニス本人がいる場では、反応が強くなる可能性があります」


「グレイが飛びつく?」


 ロイが聞く。


「飛びつけるほど強そうには見えません」


 リリィが言う。


 グレイは皿の上でぷるぷるしている。


 たしかに飛びつく姿は想像しにくい。


 セラは少しだけ笑った。


「移動速度は低いですが、フィーニスが拒絶のために近づく可能性があります」


 アルフが反応する。


「旗側が寄る」


 コレットも記録する。


「つまり、グレイが旗を追うだけではなく、フィーニスがグレイを排除しに来る可能性がある」


 フェルン先生が頷く。


「はい。距離と境界次第です」


 作戦の匂いがした。


 全員が少しだけ前のめりになる。


 リリィはそれに気づいた。


 顔が少し硬くなる。


 自分の召喚が、作戦材料になる。


 今まで「迷惑」として扱われてきたものが、今度は「使える」として見られる。


 それは救いであると同時に、怖いことだ。


 俺は手を上げた。


「まだ作戦にしない」


 みんなが俺を見る。


 自分でも少し驚いた。


 でも、言う必要があった。


「今は、反応を知っただけだ。グレイを餌みたいに使う話はしない」


 リリィの目が、少しだけ揺れた。


 餌。


 言葉が強すぎたかもしれない。


 でも、曖昧にすると危ない。


 コレットは頷いた。


「同意します。作戦化は、リリィさん本人が使うと言った後です」


 リリィが笑おうとして、少し失敗した。


「先輩方、私に逃げ道を残すのが上手になってきましたね」


「逃げ道っていうか」


 ネルが言う。


「選ぶ道」


 短い。


 でも、リリィには届いたようだった。


 彼女はグレイを見た。


「選ぶ道」


 それから、迷子一号を見る。


「迷子には難しい言葉ですね」


 ノルが目を閉じたまま言う。


「迷子でも道は選ぶ」


「夢ですか」


「寝言」


「なお悪い」


 少し笑いが起きる。


 クララはまだ説明したそうだったが、コレットが手を上げた。


「今日はここまでにしましょう。情報が増えすぎています」


 リリィがすぐに言う。


「珍しく部長さんが優しい」


「情報過多は事故になります」


「やっぱり事務的でした」


「はい」


 資料室での会議は終わった。


 ただ、終わり際にフェルン先生がリリィを呼び止めた。


「リリィさん」


「はい」


「今日の記録、クレストフォール側にも残してよろしいですか」


 リリィの表情が固まる。


 記録。


 この学校で、彼女の召喚は何度も記録されてきた。


 失敗として。


 迷惑として。


 登録外として。


 その言葉が、また目の前に置かれる。


 フェルン先生は続ける。


「今回は、過去の記録と同じ分類にはしません。未登録召喚物の事故記録ではなく、旗痕跡反応の共同観察記録として扱います。カルミア側の写しと照合し、リリィさん本人の確認欄を設けます」


 リリィは黙っている。


 毒舌が出ない。


 俺は口を挟みそうになり、止めた。


 これはリリィが選ぶところだ。


 リリィは長い沈黙のあとで、言った。


「確認欄に、私が文句を書いてもいいですか」


 フェルン先生は少し驚いた。


「内容によりますが」


「内容によるんですか」


「誹謗中傷は困ります」


「では、皮肉は」


「程度によります」


 リリィは少しだけ笑った。


「普通の返事ですね」


「普通の返事です」


「なら、いいです」


 彼女は迷子一号とグレイを見た。


「記録してください。ただし、『迷惑』ではなく」


「はい」


「『匂い追い』で」


 フェルン先生は真面目に頷いた。


「匂い追い、仮称として記録します」


 クララが少しだけ悔しそうに、でも嬉しそうに震えていた。


 リリィはそれを見て、ようやくいつもの笑みに近いものを浮かべた。


「クララ先輩、古代旗理論に生活感を入れてしまってすみません」


「悔しいですが、良い名前です」


「素直」


「記録名として機能します」


 資料室を出ると、廊下の白さが少しだけ違って見えた。


 昨日までは、汚れを許さない白に見えた。


 今日は、紙の余白みたいにも見える。


 何を書くかは、まだ決まっていない。


 決まっていないから怖い。


 でも、決められていない余地もある。


 リリィはグレイの皿を両手で持って歩いていた。


 迷子一号は小袋の中。


 石と綿くず。


 計画通りにいかない召喚の、最初の二つの足場。


「リリィ」


 俺が呼ぶ。


「なんですか」


「記録、怖かったか」


 リリィは少しだけ目を細めた。


「先輩、最近直球を覚えました?」


「ネルの影響かもしれない」


「悪影響ですね」


 ネルが後ろから「聞こえてる」と言った。


 リリィは笑う。


 それから、小さく答えた。


「怖かったです」


 その声は、毒舌ではなかった。


「でも、今回は確認欄があります」


「文句を書くのか」


「書きます」


「誹謗中傷にならない程度に」


「努力します」


 それでいいのだと思った。


 記録されることは、怖い。


 でも、自分の言葉で確認できるなら、少しだけ違う。


 偶然に名前をつける。


 迷惑ではなく、匂い追い。


 それが完全な救いではない。


 でも、次の足場にはなる。


 その夜、控室でロイが完了音を出した。


 コン。


 グレイがぷるりと震え、迷子一号の小袋へ寄った。


 リリィが言う。


「匂い追い、音にも反応していますね」


「俺、旗の匂いしませんよ」


 ロイが慌てる。


「どうでしょう。最近、山の音の匂いがするかもしれません」


「音の匂い?」


「混乱してきました」


 リリィは笑った。


 その笑いは、今日一日でいちばん自然だった。


 俺は記録板を見る。


 匂い追い。


 仮称。


 本人確認欄あり。


 計画通りにいかない力が、少しだけ記録の中に居場所を得た。


 明日以降、それをどう使うかはまだ決めない。


 でも、もう「ただの迷惑」ではない。


 そのことだけは、紙の上にも、俺たちの間にも残った。


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