第96話 弱そうなものが匂いを追う
翌朝、第二召喚庭はフィーニス不在で開放された。
不在、といっても、完全に空っぽではない。
止まり木はそのまま。
三重の銀線もそのまま。
昨日、フィーニスが羽を整え続けた場所には、白い綿のような魔力の残り香が漂っている。
見えるわけではない。
でも、わかる。
空気が少しだけ、畳まれている。
使い終わった布を丁寧にたたんだあとのような、妙に整った気配。
クレストフォールの教師陣は、それを「旗痕跡」と呼ぶらしい。
クララはその言葉を聞いて、朝からずっと目を輝かせていた。
「旗痕跡。非常に簡潔です。悔しいほど簡潔です」
「悔しがるところなのか」
俺が聞くと、クララは真剣に頷いた。
「はい。古代旗の残留契約波形、地域競技媒体の場記憶、召喚由来魔力との接触可能性、などと長く言いたいところを二文字で」
「二文字ではない」
「短いです」
ミラがいない場所でも、クララは自分で短さを意識し始めていた。
成長なのか、我慢なのか。
たぶん両方だ。
第二召喚庭の外縁には、セラ、フェルン先生、ユアン、記録係の眼鏡の生徒が立っている。
クレストフォール側の安全手順は、昨日よりも厳しい。
銀線の外側にさらに仮の白線。
その外にカルミア側の立ち位置。
リリィが立つ場所は、そこからさらに半歩後ろに指定された。
ただし、指定したのはクレストフォールだけではない。
リリィ本人が、そこを選んだ。
「遠いですね」
ロイが小声で言う。
リリィは笑った。
「石の大冒険は机の上から、という予定でしたが、いきなり庭付き物件です」
「緊張してる?」
ネルが聞く。
リリィは少しだけ目を丸くする。
「ネル先輩、直球が癖になっていません?」
「答え」
「しています」
リリィは意外なほど素直に答えた。
それから、すぐに付け足す。
「緊張する価値のある石かどうかは、石材業界に聞いてください」
「緊張してるなら、してるでいい」
ネルはそう言った。
リリィは少し黙り、やがて肩をすくめた。
「便利ですね、第七部」
「便利でいい」
ネルが言う。
雑だ。
でも、悪くない。
コレットが手順を確認する。
「今日は三段階です。一、迷子一号の封印布状態での旗痕跡反応確認。二、封印布の向きによる反応差確認。三、リリィさんが希望する場合のみ、最小召喚を試す」
リリィが手を上げる。
「質問です」
「はい」
「三段階目、希望していません」
空気が少し止まる。
リリィは笑っている。
「現時点では」
コレットは頷いた。
「では、三段階目は保留に変更します」
フェルン先生も記録係に頷く。
「クレストフォール側も同様に記録します。召喚実施は本人の申告後」
リリィはフェルン先生を見た。
「本当に、本人の申告を待つんですね」
「はい」
「昔の先生なら、試験のためと言って陣に立たせました」
フェルン先生の顔が少し曇る。
「そうでした」
逃げない。
リリィは少し困った顔をした。
「そこは、教育上必要でした、くらい言ってくれたほうが噛みつきやすいです」
「教育上必要だったと考えていました。今は、その必要の扱い方が雑だったと考えています」
リリィは黙る。
毒舌が遅れる。
セラが静かに記録している。
ユアンは肩の狐を撫でていた。
昨日より、誰も逃げない。
それがリリィには少しきつそうだった。
最初の確認が始まった。
迷子一号は小袋から出され、封印布に包まれたまま、白い皿の上に置かれた。
白い皿。
銀の線。
登録外の石。
見た目だけなら、何かの検査みたいだ。
リリィは皿のすぐ横に立つ。
手は離している。
ただし、いつでも取れる距離。
ガレスが机の代わりになる低い台を確認する。
「傾きなし」
ネルが床を見る。
「揺れなし」
ロイが耳を澄ませる。
「音、なし」
アルフが結界を遠くに置く準備だけする。
「張りません。必要時のみ」
レイナが少し離れた場所で腕を組む。
「一度目の失敗を置く場所がないと、落ち着きませんわね」
「今日は失敗を置かないのが仕事かもしれない」
俺が言うと、レイナは眉を寄せた。
「それはそれで難しいですわ」
フィーニスはいない。
けれど、止まり木の周りの空気が白い。
迷子一号は動かない。
十秒。
二十秒。
三十秒。
何も起きない。
リリィが小さく言う。
「石、やる気なし」
「リリィさん」
コレットが確認する。
「はい?」
「それは不安ですか、冗談ですか」
リリィは少し考えた。
「六対四で冗談です」
「不安四」
「記録しないでください」
コレットは記録した。
リリィ、不安四。
「部長さん」
「はい」
「性格が悪い」
「すみません」
そのやりとりのあと、迷子一号がほんの少し動いた。
皿の中心から、銀線側へ。
一ミリあるかないか。
でも、動いた。
ネルが即座に言う。
「動いた」
ガレスが台を見る。
「台は動いてない」
ロイが言う。
「音、ほぼなし。でも、布が擦れた」
クララが身を乗り出す。
「旗痕跡方向への微小移動」
セラも記録する。
フェルン先生の表情が真剣になる。
「もう一度、位置を戻して確認しましょう」
リリィが皿へ手を伸ばす。
途中で止まる。
フェルン先生を見る。
「私が戻します」
「はい。召喚者が触れてください」
リリィの指が、封印布に触れる。
石を皿の中心に戻す。
その動作は、思ったより丁寧だった。
まるで本当に使い魔を扱うように。
二回目。
十秒。
二十秒。
また動く。
今度は少しだけ速い。
銀線側へ。
フィーニスがいた止まり木の方向へ。
リリィの笑みが消えた。
すぐには戻らない。
「迷子一号」
彼女は小さく呼んだ。
石は答えない。
でも、皿の上で止まり木のほうを向いているように見えた。
「向きがあるのか、石に」
ジャックが呟く。
「あるかもしれません」
クララが言う。
全員が彼女を見る。
クララは短くする努力をしながら続けた。
「召喚された石なら、通常の石ではなく、召喚痕跡を持つ媒体です。向きというより、反応面がある可能性があります」
「短いのかそれ」
ジャックが言う。
「かなり短いです」
クララは真剣だった。
リリィは皿を見たまま言った。
「つまり、私が適当に呼んだ石が、旗の匂いに鼻を向けていると」
「鼻はありません」
ネルが言う。
「比喩です」
「知ってる」
ネルが少しだけ口元を緩めた。
三回目。
封印布の銀輪の向きを変える。
すると、迷子一号は動かなかった。
四回目。
銀輪の縫い目を止まり木側に向ける。
動く。
五回目。
銀輪を二重に重ねる。
動かない。
結果が、少しずつ形になる。
封印布は反応を弱める。
ただし、縫い目や隙間から、召喚痕跡が旗痕跡へ向かう。
迷子一号は、フィーニスそのものではなく、フィーニスが残した境界の匂いに反応している。
クララが興奮を抑えきれない顔で言った。
「弱い追跡反応です」
リリィが笑う。
「弱い」
「はい。非常に弱いです」
「最高ですね」
みんながリリィを見る。
彼女は皿の上の石を見て、少しだけ目を細めた。
「弱いなら、クレストフォールっぽくなくていい」
その言葉は、半分冗談で、半分本音だった。
セラが静かに聞く。
「強いほうが、よいのでは?」
リリィは首を横に振った。
「強い召喚なら、ここで評価されます。強い契約、強い統率、強い行動範囲。そういうものが正しい学校です」
彼女は迷子一号に触れる。
「弱くて、石で、ほとんど動かない。なのに、少しだけ旗の匂いを追う。そういうものなら、私が持っていてもいい気がします」
控室ではなく、第二召喚庭の外縁。
クレストフォールの白い空間で、リリィはそう言った。
セラはすぐに返事をしなかった。
フェルン先生も。
でも、誰も否定しなかった。
リリィはそれに気づいて、少しだけ困った顔をする。
「そこは、石に価値はありません、と言う場面では?」
フェルン先生が言う。
「価値がないとは言えません。現象として、明確に観察されています」
「現象」
「はい」
「また便利な言葉です」
「ですが、迷惑とは違います」
リリィの指が止まった。
フェルン先生は続ける。
「少なくとも、今日のこの現象は迷惑ではありません。観察対象です」
リリィは笑おうとした。
でも、また少し失敗した。
「出世しましたね、迷子一号」
声が、ほんの少し震えている。
ロイが完了音を出すか迷った。
まだ早い。
彼は出さなかった。
無音合図。
今は鳴らさない。
コレットがリリィを見る。
「三段階目は、保留のままにしますか」
リリィは迷子一号を見た。
フィーニスの痕跡。
封印布。
弱い追跡反応。
クレストフォール側の記録。
全部がそろっている。
ここで召喚すれば、何か出るかもしれない。
出ないかもしれない。
変なものが出るかもしれない。
また笑われるかもしれない。
また記録されるかもしれない。
リリィはゆっくり息を吐いた。
「保留を、解除します」
空気が張った。
コレットはすぐに聞く。
「召喚しますか」
「します」
リリィははっきり言った。
「ただし、最小で。召喚陣は外縁。封印布はそのまま。出たものが危険なら、即終了。出たものが意味不明でも、笑うのは第七部だけ許可します」
ユアンが眉を上げる。
「俺たちは?」
「笑ったら、肩の狐ごと語彙で刺します」
狐がユアンの肩で小さく震えた。
ユアンは両手を上げる。
「笑わない」
リリィは少し満足そうに頷いた。
フェルン先生が安全手順を確認する。
封印布維持。
召喚陣は最小。
円の外縁。
出現個体の範囲制限。
カルミア側立ち会い。
リリィ本人の中止権限。
すべて記録される。
リリィは白線の外に立った。
足元に小さな召喚陣を描く。
クレストフォール式ではない。
彼女が第七部に来てから使っている、かなり簡略化された陣だ。
歪んでいる。
線の太さも一定ではない。
クレストフォールの生徒なら、直したくなるだろう。
でも、リリィはそのままにする。
「きれいに描かないのか」
俺が聞く。
「きれいに描いたところで、きれいなものは出ません」
「そうか」
「でも、今日はそれでいいです」
リリィは迷子一号を陣の横に置いた。
封印布付きのまま。
石は少しだけ、止まり木のほうへ寄ろうとする。
リリィは指でそっと押さえた。
「案内役、お願いします」
石に向かって言う。
迷子一号は答えない。
でも、リリィは少し笑った。
召喚が始まった。
魔力は小さい。
クレストフォールの整った召喚と比べると、頼りない。
線の上を光が走る。
途中で一度、止まる。
リリィの肩がこわばる。
昔、この瞬間に何度も鈴が鳴ったのだろう。
俺はロイを見る。
ロイは無音合図。
鳴らさない。
ネルは揺れを見る。
ガレスは水を持っている。
コレットは記録板を抱え、まだ書かない。
人を先に。
リリィが小さく言った。
「続行」
魔力がもう一度流れる。
召喚陣の中心が、ぽん、と小さく膨らんだ。
出てきたのは、綿くずみたいなものだった。
白くない。
灰色。
丸い。
小さい。
足があるのかないのか、よくわからない。
目らしき点が二つ。
口らしき線が一つ。
生き物なのか、綿埃なのか、使い魔なのか、分類に困る。
そいつは召喚陣の上で、ぷるぷる震えた。
弱そう。
あまりにも弱そう。
ジャックが小声で言う。
「弱」
リリィが即座に睨む。
ジャックは口を押さえた。
でも、リリィ自身も少しだけ笑っていた。
「こんにちは。あなた、弱そうですね」
灰色の綿くずは、ぷる、と震えた。
返事なのか、ただ震えただけなのか。
フェルン先生が記録する。
「未登録小型召喚物。危険反応なし。形状不安定」
セラが続ける。
「行動範囲、陣内」
その瞬間、灰色の綿くずが、ずる、と動いた。
陣の外へ。
止まり木のほうへ。
全員が息を止める。
鈴は鳴らない。
フィーニスはいない。
外縁確認だからだ。
灰色の綿くずは、迷子一号の横を通り過ぎ、銀線の方へ進む。
遅い。
ものすごく遅い。
一歩というより、床に貼りついて少しずつずれる。
でも、向かっている。
旗痕跡へ。
「追ってる」
ネルが言った。
「旗の匂い」
ノルも言う。
クララの声が震えた。
「召喚直後の未登録小型個体が、フィーニスの旗痕跡へ追跡反応」
「短く」
今度はリリィが言った。
クララは一瞬止まり、言い直した。
「弱い子が、旗の匂いを追っています」
リリィは灰色の綿くずを見た。
その顔は、笑っていなかった。
怒ってもいなかった。
泣きそうでもない。
ただ、見ている。
自分の召喚した、弱そうで、頼りなくて、登録されていない小さなもの。
それが、フィーニスの嫌うものそのものみたいな姿で、フィーニスの痕跡を追っている。
「止めますか」
コレットが聞いた。
リリィは少しだけ首を振る。
「まだ」
灰色の綿くずは、外縁の白線手前で止まった。
そこで、ぷるぷる震える。
それ以上は行かない。
行けないのか。
行かないのか。
わからない。
リリィが膝をついた。
白線の外から、そいつを見る。
「あなた、名前は?」
灰色の綿くずは答えない。
リリィは少し考えた。
「迷子二号にすると、石に怒られますかね」
迷子一号は石なので怒らない。
でも、リリィは真剣だった。
「では、仮名。ほこり二号」
ロイが小声で言う。
「ちょっとかわいそうです」
「では、ほこり一号」
「そういう問題では」
リリィは少し笑った。
その笑いは、久しぶりに彼女らしかった。
毒舌ではなく、困ったものを困ったまま面白がる笑い。
「仮名、グレイ」
セラが言った。
全員が彼女を見る。
セラは少し顔を赤くした。
「灰色なので」
リリィは目を丸くした。
それから、ゆっくり笑う。
「セラさん、命名の才能は普通ですね」
「すみません」
「褒めています。普通は貴重です」
灰色の綿くずは、ぷる、と震えた。
グレイ。
仮名。
未登録。
弱そう。
でも、旗の匂いを追う。
フェルン先生が静かに言った。
「この個体は、現時点では危険ではありません。観察を続けられます」
リリィの指が少し震えた。
「迷惑では?」
フェルン先生は答える。
「今は、迷惑ではありません」
リリィは目を伏せた。
その返事は、かなり効いたようだった。
俺も少し息を吐いた。
ロイが机ではなく、自分の指先を軽く合わせる。
コン。
小さな完了音。
庭に落ちる。
グレイが、その音に反応してぷるりと震えた。
フィーニスの痕跡のほうを向いたまま、ほんの少し、音のほうへも揺れる。
「音にも反応?」
ロイが驚く。
ハルクはいない。
でも、山で覚えた音がここでも少しだけ働いた。
コレットが記録する。
グレイ、旗痕跡を追う。
ロイの小音に弱反応。
リリィ、命名を受け入れる。
フェルン先生、迷惑ではなく観察対象と明言。
リリィはその記録を見て、何も言わなかった。
しばらくしてから、ぽつりと言う。
「出しました」
誰もすぐに返事をしない。
リリィは続けた。
「今日は、出せました」
コレットが頷く。
「はい」
「出てきたものは、弱そうです」
「はい」
「でも、旗の匂いを追いました」
「はい」
「迷惑では、ありませんでした」
最後の一文だけ、声が少し小さかった。
フェルン先生がはっきり言う。
「はい。少なくとも、今日の観察では」
リリィは笑った。
少しだけ泣きそうにも見えた。
でも、泣かなかった。
「では、今日のところは、それで十分です」
彼女は白線の外から、グレイに手を伸ばした。
グレイはのろのろと戻ってくる。
途中で迷子一号にぶつかった。
石は動かない。
グレイは石に乗り上げようとして、失敗し、横に転がった。
あまりにも弱そうだった。
ジャックがまた笑いかけたが、今度はリリィ自身が笑ったので、全員少しだけ笑った。
笑われるのではなく、一緒に笑う。
その違いは大きい。
リリィはグレイをそっと手のひらに乗せた。
「ようこそ、グレイ。あなたの初仕事は、旗に嫌われることではなく、旗の匂いを追うことです」
グレイはぷるぷる震えた。
返事かもしれない。
違うかもしれない。
でも、リリィは満足そうだった。
観察終了後、控室に戻ると、コレットはすぐに記録をまとめた。
リリィ、保留を自分で解除し、最小召喚を実施。
召喚個体グレイ。弱小、不安定、危険反応なし。
フィーニス旗痕跡への追跡反応あり。
ロイの小音にも微反応。
迷子一号と接触しても異常なし。
クレストフォール側、迷惑ではなく観察対象と記録。
リリィ、今日の召喚を「出せた」と言語化。
「部長さん」
リリィが言う。
「はい」
「その記録、少し恥ずかしいです」
「必要なので」
「便利な言葉」
リリィはそう言って、グレイを小さな皿に置いた。
迷子一号の隣。
石と灰色の綿くず。
どちらも強そうではない。
どちらもクレストフォールの基準では評価しづらい。
でも、今日、どちらも旗の痕跡に触れた。
それは、リリィの召喚がただの迷惑ではないことを示す、小さな証拠だった。
夜、リリィは二つの小さなものを見ながら言った。
「私の召喚、相変わらず計画通りではありませんね」
「そうだな」
俺が答える。
「石の次が、ほこりみたいなものです」
「グレイだろ」
「セラさんの普通命名を採用するんですか」
「仮名として」
「先輩まで普通に寄ってきました」
リリィは笑った。
その笑いは、昨日より少しだけ楽だった。
でも、完全ではない。
明日になれば、またクレストフォールの視線がある。
フィーニスがいる。
公式戦が近づく。
グレイがフィーニス本人にどう反応するかはわからない。
フィーニスがグレイをどう拒絶するかもわからない。
でも、今日のリリィは、召喚した。
出せなかったのではない。
出した。
弱そうなものが、旗の匂いを追った。
それだけで、次の足場はできた。
ロイが小さく完了音を出した。
コン。
グレイがぷるりと震え、迷子一号にぶつかって止まる。
リリィが声を出して笑った。
「弱いですねえ」
今度の「弱い」は、悪口ではなかった。
少なくとも、俺にはそう聞こえた。




