第95話 嫌われたあとの笑い方
嫌われることに慣れている人間は、嫌われた瞬間より、そのあとに疲れる。
たぶん。
俺は専門家ではない。
ただ、リリィを見ていて、そう思った。
綿羽旗フィーニスの公開観察が終わったあと、リリィはいつもよりよく喋った。
廊下が白すぎる。
封印布の銀糸が趣味に合わない。
フェルン先生の眼鏡の鎖は今日も規則正しい。
ユアンの狐は本人より礼儀正しい。
セラの謝罪は文法がきれいすぎて、逆に怖い。
次から次へと毒舌が出る。
どれも鋭い。
どれも、少しだけ面白い。
でも、いつもより量が多い。
量が多いということは、たぶん、支えるものが多いということだ。
控室に戻ると、リリィは椅子に座らず、窓際に立った。
迷子一号の小袋を開ける。
封印布は外さない。
銀の輪が巻かれた石を、手のひらに乗せる。
「よかったですね、迷子一号」
彼女は言った。
「旗に嫌われましたよ。これで立派なクレストフォール体験者です」
石は答えない。
当然だ。
でも、リリィはしばらく石を見ていた。
俺たちは少し離れていた。
直接つかまない。
周りを持つ。
山で覚えた言葉が、ここでも働いている。
コレットは記録板を開いたまま、まだ書いていない。
ネルは机に肘をついて、リリィのほうをちらちら見ている。
ロイは指先を机に置き、完了音を出すか迷っている。
ガレスは水を置いた。
いつものように。
「水」
リリィは振り返らずに答える。
「ありがとうございます。今日は石も飲みたい気分でしょう」
「石は飲まない」
「夢がないですね」
「水は大事」
「会話が戻りましたね」
リリィは少しだけ笑った。
でも、水には手をつけない。
ガレスは急かさず、杯を置いたまま下がった。
ああいうところが、ガレスは本当にうまい。
何も言わないことを、ちゃんとできる。
俺は窓の外を見た。
白い庭。
鳴らない鈴。
その向こうに、第二召喚庭の止まり木が見える。
フィーニスはいない。
でも、あの白い綿羽が羽を整える動きは、まだ目に残っている。
未登録。
不規則。
増加。
召喚由来の痕跡。
羽につく前に払う。
それはリリィの過去そのものに近すぎた。
「先輩」
リリィが言った。
「はい」
なぜかロイが返事をした。
「あなたではありません」
「すみません」
ロイが小さくなる。
少し場が緩んだ。
リリィは俺を見る。
「ルカ先輩」
「何」
「私が今から、旗の悪口を百個くらい言ったら止めますか」
「百個は止める」
「何個までなら」
「三個」
「少ない」
「四個目から雑になるだろ」
リリィは目を丸くし、それから笑った。
「なぜわかるんですか」
「ロイの音と同じだ。多すぎると跳ねる」
ロイが小さく「俺ですか」と言った。
リリィは机に近づき、やっと椅子に座った。
「では三個だけ」
「どうぞ」
「一つ。フィーニスはかわいい顔で潔癖です」
「まあ、そうだな」
「二つ。あの羽は絶対に毎朝三十分かけて整えています」
「旗が?」
「旗にも身だしなみがあります」
「そうか」
「三つ。私を嫌うなら、せめて直接嫌ってほしいです。石越しに嫌われると、間接照明みたいで腹が立ちます」
最後だけ、少し声が変わった。
笑いの中に、本音が混じる。
リリィは迷子一号を机に置いた。
「終わり」
山で覚えた言葉。
自分で言った。
ロイが小さく机を叩く。
コン。
完了音。
今度は、出してよかった。
リリィはその音を聞き、少しだけ息を吐いた。
「便利ですね、それ」
「便利です」
ロイが答える。
「嫌な話にも完了音があると、少し終わった気がします」
リリィは迷子一号を見た。
「では、嫌われ話は一旦完了ということで」
コレットが記録板に書き始める。
リリィ、フィーニスへの嫌悪を毒舌三つで処理。
本人が「終わり」を宣言。
ロイ、完了音で区切り。
「部長さん」
リリィが言う。
「はい」
「処理って書くと、私が登録外事象みたいです」
コレットはすぐにペンを止める。
「言い換えます」
「いえ、今のは私の嫌味です」
「それでも言い換えます」
コレットは少し考え、書き直した。
リリィ、フィーニスへの嫌悪を毒舌三つで外に置く。
本人が「終わり」を宣言。
ロイ、完了音で区切り。
「外に置く」
リリィが読んだ。
「悪くないですね。私の嫌味が玄関先の荷物みたいです」
「中に置きっぱなしにするよりいい」
ネルが言う。
リリィは少し笑った。
「ネル先輩も山の言葉が残っていますね」
「便利だから」
「みんな便利に負けている」
クララが控室の隅で、フィーニスの反応記録を整理していた。
さっきからずっと黙っている。
黙っているクララは、だいたい頭の中で長い分類名を組み立てている。
「クララ」
俺が呼ぶと、彼女は顔を上げた。
「はい。短く言います」
「まだ何も言ってない」
「準備です」
クララは紙を持って近づく。
「フィーニスは、召喚物そのものより、召喚痕跡の不明瞭さに強く反応しています。迷子一号は封印布内でも反応対象でした。ただし、封印布の銀輪には反応を弱める効果がありました」
「弱める?」
コレットが聞く。
「はい。反応はありましたが、即時排除ではありません。封印布が『登録に近い仮の輪』として働いている可能性があります」
リリィが封印布をつまむ。
「この窮屈な輪にも意味があると」
「あります」
クララは頷いた。
「不快な制度が、まったく無意味ではないことがあります。問題は、制度が本人を押し潰すことです」
控室が少し静かになった。
クララの言葉は、短いのに重かった。
彼女もまた、現代魔法の制度から落ちこぼれ扱いされてきた。
古代魔法しか読めない。
だから、制度が必要であることと、制度が誰かを傷つけることの両方を見ている。
リリィは封印布を見つめた。
「つまり、私は窮屈な輪を使って、旗に少しだけ嫌われにくくなる」
「そうです」
「最悪ですね」
クララが困る。
リリィは笑った。
「でも、使えます」
その言葉で、コレットが顔を上げた。
「使いますか」
すぐには作戦にしない。
確認する。
リリィは少しだけ目を伏せる。
「まだ、使うとは言っていません」
「はい」
「ただ、使えると知っておくのは嫌いではありません」
「記録します」
「どうぞ」
コレットが書く。
封印布はフィーニスの反応を弱める可能性。
リリィ、使用判断は保留。ただし情報として保持。
そのとき、迷子一号が机の上で小さく動いた。
いや、動いたように見えた。
列車の揺れはない。
ここはクレストフォールの控室だ。
誰も触っていない。
でも、石がほんの少し、窓のほうへ転がった。
全員が止まる。
リリィが言った。
「今、動きました?」
「動いた」
ネルが即答する。
「風?」
アルフが窓を見る。
「窓は閉まっている」
ガレスが机を見る。
「傾きは少ない」
ロイが耳を澄ませる。
「音、ほとんどなし」
ノルが半分寝た声で言う。
「迷子」
「説明になってない」
俺が言うと、ノルは目を開けた。
「迷子一号、迷ってる」
「だから説明に」
「匂い」
ノルの言葉が変わった。
全員が彼女を見る。
「旗の匂い。綿じゃなくて、銀の輪。迷子一号、そっちに迷ってる」
リリィが石を見る。
迷子一号は封印布に巻かれたまま、窓のほうへ少し寄っていた。
窓の外には、第二召喚庭が見える。
フィーニスの止まり木。
今は空っぽのはずだ。
「石が旗の匂いを追うんですか」
リリィが言う。
声は軽いが、目は真剣だった。
ノルは首を傾げる。
「石じゃないかも」
「石です」
「でも、召喚された石」
クララがすぐに反応する。
「召喚由来の痕跡が、旗の古代契約や銀輪に引かれる可能性があります」
「短く」
ミラがいないのに、ネルが言った。
クララは頷く。
「迷子一号は、旗の気配に迷えるかもしれません」
リリィはしばらく黙った。
それから、ゆっくり笑った。
「迷子のくせに、目的地を見つける気ですか」
迷子一号は答えない。
でも、机の上で窓のほうを向いているように見えた。
石に向きがあるのかは知らない。
たぶん、ない。
でも、そう見えた。
コレットが記録する。
迷子一号、フィーニス観察後に窓方向へ微小移動。
ノル、旗の匂いへの反応と推測。
クララ、召喚痕跡と古代契約の共鳴可能性を指摘。
リリィ、動揺あり。冗談で処理。
「また処理って書きましたね」
リリィが言う。
コレットは慌てて直す。
「冗談で外に置く」
「便利な言い換えですね」
リリィは迷子一号を指先で押さえる。
「でも、これはまだ偶然かもしれません」
「そうだな」
俺は頷いた。
「偶然をすぐ作戦に入れると危ない」
言いながら、自分で引っかかった。
偶然を作戦に入れる。
それはこの章のどこかで、たぶん必要になる考えだ。
でも、まだ早い。
リリィを先に見る。
迷子一号を面白がりすぎない。
フィーニス攻略の手がかりに飛びつかない。
リリィは俺を見た。
「先輩、今ちょっと作戦顔になりました」
「悪い」
「謝るのが早い」
「早めに言う」
「山の副作用が深刻です」
リリィは笑った。
でも、怒ってはいないようだった。
「ただ」
彼女は迷子一号を小袋に戻さず、机の上に置いたまま言う。
「偶然かどうかを確かめるのは、嫌いではありません」
「確かめる?」
「はい。石が旗の匂いを追うなら、追わせてみればいい」
コレットが慎重に聞く。
「リリィさんが決めますか」
「私が決めます」
リリィははっきり言った。
「ただし、封印布はつけたまま。距離は取る。フィーニスには近づけない。石の大冒険は、机の上くらいから始めましょう」
ロイが少し笑った。
「小さい冒険ですね」
「小さいものは嫌われますから」
リリィが返す。
でも、その声はさっきより軽い。
落ちる軽さではなく、落ちない軽さ。
午後、俺たちは控室の机で、迷子一号の小さな実験をした。
実験と言っても、大げさなものではない。
窓の反対側に置く。
窓側に置く。
フィーニスの公開観察で使われた銀線の写しを近くに置く。
封印布を外さず、向きを変える。
クララが記録し、ノルが半分寝ながら見て、リリィが毒舌を挟み、ネルが「今動いた」と言い、ガレスが机の傾きを確認する。
結果は、はっきりしない。
迷子一号は動いたように見えるときもある。
まったく動かないときもある。
ロイが小さな音を出すと、少しだけ震える。
アルフが結界を近くに置くと、まったく動かない。
リリィが手を離すと、窓側へ寄ることが一度あった。
偶然かもしれない。
でも、完全な偶然とも言い切れない。
リリィは机に頬杖をついた。
「迷子一号、あなた、本当に迷子ですね」
「褒めてるのか」
俺が聞く。
「半分くらい」
「もう半分は?」
「困っています」
正直な言葉だった。
俺は頷く。
「困ってるのも記録するか」
「しなくていいです」
コレットはすでに書いていた。
リリィ、困っている。
リリィがそれを見つける。
「部長さん」
「はい」
「本当に性格が悪い」
「すみません」
「謝らないでください。困ります」
リリィは笑った。
困る、と自分で言えた。
それも、たぶん今日の成果だった。
夕方、セラが控室を訪ねてきた。
フィーニス観察記録の写しを持っている。
彼女は机の上の迷子一号を見ると、少しだけ目を止めた。
「封印布、外していないのですね」
リリィが答える。
「ええ。石にも礼儀作法を叩き込んでいます」
「そうですか」
セラは真面目に受け取ったのか、困った顔をした。
「何をしていたのですか」
コレットが説明する。
「迷子一号が、フィーニスの気配に反応する可能性を確認していました。現時点では偶然の範囲を出ません」
セラの表情が少し変わった。
「反応?」
「はい。ただし、公開観察の範囲外でフィーニスに近づける意図はありません」
「それなら」
セラは少し考える。
「明日の午前、第二召喚庭の外縁でなら、フィーニス不在時の気配残留確認ができます。教師立ち会い、封印布維持、距離制限ありですが」
リリィが目を細める。
「協力してくれるんですか」
「安全範囲内であれば」
「理由は?」
セラはすぐには答えなかった。
「フィーニスが未登録召喚痕跡に反応するなら、公式戦の安全管理にも関わります」
「便利な理由ですね」
「それだけではありません」
セラはリリィを見た。
「あなたの召喚を、迷惑という一語で終わらせたくない人間が、こちらにもいます」
リリィの笑みが止まった。
控室の空気も止まる。
セラは少しだけ目を伏せる。
「遅いですが」
リリィはしばらく黙った。
それから、いつものように笑おうとした。
でも、少し失敗した。
「遅刻者が増えましたね」
「はい」
セラは頷いた。
その返事に、リリィは困った顔をした。
怒りたい。
茶化したい。
受け取りたくない。
でも、完全に拒むには、相手が逃げていない。
リリィは迷子一号を見た。
「では、明日。石の大冒険、出張編ということで」
セラは真面目に頷く。
「安全手順を準備します」
「冗談に真面目で返す文化、やっぱり怖いですね」
「すみません」
「謝るともっと怖いです」
少しだけ笑いが起きた。
セラも、ほんの少しだけ笑った。
夜、リリィは迷子一号を小袋に戻し、封印布を軽く撫でた。
「嫌われたあとに、予定ができました」
彼女は言う。
「すごいですね、迷子一号」
石は答えない。
でも、今日は少しだけ、そこに何かがいるように見えた。
ただの石かもしれない。
召喚された石かもしれない。
旗の匂いに迷うものかもしれない。
まだわからない。
わからないままでいい。
この章では、たぶんその「わからない」を消さないことが大事だ。
クレストフォールは、わからないものを登録外として閉じる。
第七部は、わからないものに名前をつけて机に置く。
どちらが正しいかだけではない。
でも、リリィが息をするには、後者の場所が必要なのだと思う。
俺は記録板の一文を見た。
リリィ、困っている。
その下に、コレットが追記していた。
困っているが、明日の確認は自分で選んだ。
それは、今日いちばん大事な記録だった。
リリィは毒舌で平静を装っている。
でも、装いながらでも選べる。
嫌われたあとでも、次の小さな実験を決められる。
ロイが机を小さく叩いた。
コン。
完了音。
リリィは今度、文句を言わなかった。
ただ、小袋を胸元に戻し、窓の外の白い庭を見た。
「明日は、石と一緒に迷子になってきます」
「戻ってこいよ」
俺が言うと、リリィは笑った。
「迷子なので、保証はできません」
「それは困る」
「困りますか」
「困る」
前にも似た会話をした。
でも、今日は少し違う。
リリィは目を伏せ、小さく言った。
「では、戻ります」
その声は、毒舌ではなかった。
だから俺は、余計なことを言わずに頷いた。
白い庭の鈴は、今日も鳴らなかった。
けれど、明日はたぶん、何かが鳴る。
それが警告なのか、合図なのかは、まだ誰にもわからない。




