第93話 迷惑な召喚術
交流練習の朝、クレストフォール召喚術学院の第一召喚庭には、昨日より多くの円が描かれていた。
白い床。
銀の線。
等間隔に並んだ召喚陣。
それぞれの円の横には、小さな札が立っている。
登録番号。
召喚対象。
契約者名。
行動範囲。
危険度。
すべてが文字になっている。
すべてが、決まった場所に置かれている。
リリィはその庭を見て、爽やかに言った。
「白いですね。胃が痛くなる白さです」
「爽やかな朝の感想じゃないな」
俺が言うと、彼女は小袋を軽く叩いた。
迷子一号は封印布に包まれたままだ。
「爽やかな朝に、封印済みの石を胸に下げている女へ求める感想ではありません」
「それはそう」
「納得が早い」
リリィは笑う。
笑っているのに、足元の円へは入らない。
召喚術師なのに、召喚陣の外にいる。
その姿は、この学校では妙に目立った。
交流練習を担当する教師は、フェルン・オルディスという中年の女性だった。
髪をきっちりまとめ、眼鏡の鎖まで銀色で揃えている。声は穏やかだが、穏やかなまま人を分類できそうな声だった。
セラが隣に立っている。
昨日の眼鏡の生徒も、記録係として控えていた。
フェルン先生は俺たちを見ると、丁寧に礼をした。
「カルミア魔法学園の皆さん、本日は召喚術の基礎交流に参加していただきます。競技前の相互理解が目的ですので、無理な魔法行使は求めません」
それから、視線がリリィで止まる。
「リリィ・クロフトさん。久しぶりですね」
「ご無沙汰しております、フェルン先生。相変わらず、眼鏡の鎖まで召喚陣みたいですね」
セラが少し眉を動かした。
教師の前でもそれか、という顔だ。
フェルン先生は穏やかに答えた。
「あなたも相変わらず、比喩が規格外ですね」
「お褒めに預かり光栄です」
「褒めてはいません」
「では、懐かしいです」
リリィの声は軽い。
けれど、俺にはわかった。
彼女は少し緊張している。
毒舌の角が、いつもより多い。
フェルン先生は記録係から札を受け取り、説明を続けた。
「本日の練習は三段階です。第一に登録召喚の観察。第二に使い魔の行動範囲管理。第三に、登録外事象が発生した場合の安全処理」
第三。
リリィの笑みが少しだけ深くなる。
「見事な流れですね。私を見て思いついた授業ですか」
「いいえ。以前からある手順です」
「以前から、という言葉は便利ですね」
フェルン先生の表情は大きく変わらない。
でも、セラが少しだけリリィを見た。
止めるべきか、迷っている。
コレットはその場を観察している。
すぐに介入しない。
人を先に見る。
今は、リリィがどこまで自分で立つかを見る場面だ。
フェルン先生は、第一の練習としてクレストフォールの生徒に召喚をさせた。
円の中心に立つ。
札を確認する。
契約名を唱える。
銀の線が光る。
小さな鳥が現れる。
鳥はすぐに生徒の肩へ止まった。
次は、透明な魚。
水の球と一緒に現れ、円の内側を泳ぐ。
次は、角の小さな獣。
現れてすぐ、指定された位置に座る。
きれいだ。
整っている。
見ているだけなら、気持ちいいくらいに。
ロイが小声で言う。
「すごいですね」
リリィが即答する。
「すごいですよ。すごいので、少しでもずれると目立ちます」
ロイは口を閉じた。
褒め言葉が、そのまま別の刃になることがある。
ここでは、整っていることが強さであり、窮屈さでもある。
ネルは召喚陣を見て、眉を寄せていた。
「あれ、全部決まってるの」
「決まっているほうが安全です」
セラが答える。
ネルは少し考える。
「決まってないと、危ないのはわかる」
リリィが少し意外そうにネルを見た。
ネルは続ける。
「でも、決まってないものが出たら、全部危ない扱い?」
セラはすぐに答えなかった。
フェルン先生が代わりに言う。
「性質不明の召喚物は、危険の可能性があるものとして扱います。安全確認が済むまでは、そうするしかありません」
「しかない」
ネルが繰り返す。
「そうです」
教師の声は穏やかだ。
でも、その穏やかさは固い。
リリィは小さく拍手した。
「美しいですね。『そうするしかありません』は、傷つける側が一番きれいに使える言葉です」
空気が凍った。
言いすぎだ。
でも、言わなければならない言葉でもあったのかもしれない。
フェルン先生はリリィを見た。
「あなたがそう感じていたことは、理解します」
「感じていたこと」
リリィが笑う。
「便利な過去形です」
「現在も、ですか」
フェルン先生が尋ねた。
その問いは、少しだけ予想外だった。
リリィも予想していなかったのか、すぐには返さない。
フェルン先生は続ける。
「現在もそう感じているなら、今日の練習の扱いを調整します」
リリィの笑みが、少しだけ揺れた。
「調整」
「はい。あなたは現在、カルミア魔法学園の競技部員です。こちらの卒業生でも、退学者でもなく、他校の選手です。過去と同じ扱いをする必要はありません」
退学者。
その言葉が出た瞬間、リリィの指が小袋を強く押さえた。
退学。
転校ではなく。
退学者。
俺は初めて、その言葉の重さを知った。
リリィは第七部に来た。
元ライバル校からの転校生。
そう聞いていた。
でも、クレストフォール側の記録では、もしかしたら彼女は退学者に近い扱いなのかもしれない。
「フェルン先生」
セラが小さく呼んだ。
教師は少しだけ目を伏せた。
「言葉を誤りました。失礼しました」
リリィは笑った。
かなり鋭く。
「いえ。記録上は正確でしょう。正確な言葉は便利です。人の胸に刺さっても、正確なら許されます」
コレットが一歩前に出た。
「確認します」
声は静かだった。
「今日の交流練習で、リリィさんに召喚を求める予定はありますか」
フェルン先生はコレットを見る。
「強制はしません。ただ、本人が希望するなら、安全確認をしたうえで許可します」
「登録外が出た場合は」
「封印、範囲制限、または観察記録。危険性に応じて判断します」
「その判断に、カルミア側も立ち会います」
「もちろんです」
コレットは頷いた。
リリィを見る。
「リリィさん。今日、召喚しますか」
全員の視線がリリィに集まる。
リリィは笑った。
「ここで私に選ばせるんですか、部長さん」
「はい」
「性格が悪いですね」
「必要なので」
「本当に性格が悪い」
でも、リリィの声には少しだけ別の色が混じった。
選ばされることへの困惑。
選べることへの驚き。
昔は、おそらく選ばせてもらえなかった。
召喚するな。
出すな。
片づけろ。
封印しろ。
そういう言葉の中にいた。
今、コレットは「しますか」と聞いた。
それは小さいけれど、大きい違いだった。
リリィは迷子一号の小袋を押さえたまま、少しだけ目を閉じた。
「しません」
彼女は言った。
食いしばるような声ではない。
逃げるような声でもない。
「今日は、しません」
コレットは頷く。
「わかりました」
それだけ。
理由を聞かない。
責めない。
励まさない。
リリィは少し肩の力を抜いた。
その瞬間、第一召喚庭の向こうから声がした。
「やっぱり出せないんだ」
小さな声。
でも、聞こえた。
ロイの肩が動く。
ネルの目が鋭くなる。
ジャックが一歩出かける。
セラが振り向いた。
声の主は、クレストフォールの男子生徒だった。年は俺たちと同じくらい。制服の胸に、契約獣管理の銀章がついている。
彼の肩には、小さな狐のような使い魔が座っていた。
整った毛並み。
登録札。
契約の輪。
全部が揃っている。
「ユアン」
セラの声が低くなる。
男子生徒、ユアンは肩をすくめた。
「失礼。懐かしくて」
リリィが笑った。
「お久しぶりです、ユアン。相変わらず肩の上の子のほうが賢そうですね」
狐が小さく鳴いた。
ユアンの眉が動く。
「相変わらず口だけは登録不要だ」
「登録されたら困ります。減点されそうなので」
軽いやり取り。
でも、古傷の上で刃を合わせている。
ユアンはリリィの小袋を見る。
「まだ石を持ってるのか」
「石にも選ぶ権利がありまして」
「選ぶ? あれ、ただ出てきただけだろ。使い魔でも契約獣でもない。陣を乱して、授業を止めて、記録係を困らせるだけの」
「ユアン」
フェルン先生の声が強くなった。
ユアンは口を閉じた。
でも、言葉はもう出ていた。
授業を止める。
記録係を困らせる。
それが、リリィの召喚への評価だったのだろう。
リリィは笑っている。
笑っているけれど、指が小袋を握りすぎて白くなっている。
「懐かしいですね。私、昔から教育活動に貢献していたんですね」
「迷惑を貢献と言うのは、君くらいだ」
「語彙が豊かなので」
ジャックが低く言った。
「殴っていい?」
「だめ」
俺とコレットとアルフが同時に言った。
ジャックは不満そうに舌打ちしたが、止まった。
リリィが少しだけ笑う。
「ありがとうございます。暴力担当まで控えていて、今の私は豪華ですね」
「暴力担当じゃねえ」
「では、危険物担当」
「それもやめろ」
ジャックが言い返す。
そのやり取りで、リリィの指が少し緩んだ。
フェルン先生はユアンに向き直った。
「今の発言は不適切です。謝罪を」
ユアンは不満そうだった。
「事実です」
「事実であっても、場に出す形を誤れば攻撃です」
その言葉に、リリィの目が少し動いた。
昔のフェルン先生は、こう言ってくれたのだろうか。
わからない。
でも、今は言った。
ユアンはしばらく黙り、やがて短く頭を下げた。
「失礼しました」
謝罪は硬い。
十分かどうかは、リリィが決めることだ。
リリィはにっこり笑った。
「大丈夫です。昔から聞き慣れていますので」
それは受け取っていない返事だった。
でも、今はそれ以上を求められない。
フェルン先生は交流練習を続けた。
第二段階、使い魔の行動範囲管理。
クレストフォールの生徒たちは、自分の使い魔を円の外へ出し、指定された距離で止める。
鳥は羽ばたき、肩へ戻る。
魚は水球の中で旋回する。
狐はユアンの合図で白線の手前に座る。
整っている。
強い。
公式戦でこれをやられたら、第七部はかなり苦労する。
俺は作戦の目で見る。
使い魔の統率は、旗周辺の面制圧に向く。
小さな個体を多数扱うのではなく、登録された少数を正確に置く。
なら、崩すには不確定要素が必要になる。
不確定要素。
リリィの召喚。
だが、ここで安易にそう言うのは危ない。
リリィを「相手の秩序を乱す道具」にしてしまう。
それは、クレストフォールが昔やったことと似ているかもしれない。
使えるか。
使えないか。
迷惑か。
役に立つか。
そういう評価の中に閉じ込める。
俺は一度、息を吐いた。
人を先に見る。
それから作戦に使う。
コレットも同じことを考えていたのか、記録板に「作戦化を急がない」と書いていた。
第三段階、登録外事象の安全処理。
フェルン先生は、あらかじめ用意した小さな影の使い魔を円の外へ出し、登録外が発生した想定で処理する手順を見せた。
鈴が鳴る。
周囲が下がる。
記録係が札を出す。
担当者が封印布を広げる。
生徒が陣の中心を保つ。
使い魔を傷つけずに、範囲を狭める。
手順は見事だった。
迷惑なものを片づける手順ではなく、本来は事故を防ぐ手順なのだ。
それはわかる。
わかるから、簡単に否定できない。
リリィはそれを黙って見ていた。
毒舌も出ない。
セラが横に立つ。
「以前は、もっと荒かった」
リリィは視線を動かさない。
「知っています。体験者なので」
「今は、対象を傷つけない手順に変わっています」
「対象」
「召喚物も、召喚者も」
リリィがセラを見た。
セラはまっすぐ前を見る。
「遅いですが」
短い言葉。
謝罪ではない。
でも、言い訳でもない。
リリィはしばらく黙ったあと、軽く笑った。
「遅刻にもほどがありますね」
「はい」
「認めるんですか」
「そのほうが正確です」
リリィは少し困った顔をした。
怒る相手が、思ったより逃げない。
それはそれで難しいのだろう。
交流練習の最後、フェルン先生がカルミア側にも感想を求めた。
コレットが代表して答える。
「手順は非常に整っています。事故防止として学ぶ点が多いです。ただ、登録外を即座に危険として扱う言葉が、召喚者本人にも向かいやすい構造だと感じました」
場が静かになる。
セラが少し目を伏せる。
フェルン先生は頷いた。
「指摘として受け取ります」
リリィが小声で言う。
「部長さん、正面から投げますね」
「必要なので」
「便利な言葉になってきました」
「はい」
コレットは真面目だった。
リリィは少し笑った。
その笑いは、朝よりずっと柔らかい。
練習が終わると、ユアンが近づいてきた。
肩の狐はおとなしくしている。
ユアンはリリィの前で止まった。
「さっきは悪かった」
「二回目の謝罪ですね。記録しますか?」
「茶化すな」
「癖で」
ユアンは少し苛立ったが、今日は踏みとどまった。
「君の召喚で、授業が止まったのは事実だ」
「はい」
「でも、全部君が悪かったわけじゃない」
リリィの笑みが止まる。
ユアンは肩の狐を見た。
「俺たちも、面倒だと思ってた。教師に言われたからじゃなくて、本当に。何が出るかわからないのは怖かったし、予定が崩れるのも嫌だった」
正直な言葉だった。
優しいとは言えない。
でも、嘘ではない。
「でも、今日見て、少し思った。君がいたから手順が増えたって話、俺たちは便利に受け取りすぎてるかもしれない」
リリィは黙っている。
ユアンはぎこちなく頭を下げた。
「それだけ」
リリィはしばらくしてから言った。
「謝罪としては、かなり中途半端ですね」
「悪い」
「でも、中途半端なほうが信用できます。完璧な謝罪は、だいたい掃除済みの床みたいで滑ります」
ユアンは意味がわからない顔をした。
たぶん、俺も半分くらいしかわからない。
でも、リリィは少しだけ受け取ったようだった。
控室に戻る途中、リリィは迷子一号の封印布を指で叩いた。
「今日は召喚しませんでした」
「自分で選んだ」
俺が言うと、彼女は頷く。
「出せなかったのではなく?」
「出さなかった」
「先輩、採点甘すぎません?」
「今日は甘くていいだろ」
リリィは少し目を細めた。
「そういうところ、たまに困ります」
「悪い」
「謝るのも困ります」
「じゃあどうしろと」
「そのままで」
小さな声だった。
聞き逃しそうなくらい。
でも、聞こえた。
リリィはすぐにいつもの笑みに戻る。
「今のは失言です。忘れてください」
「俺にそれを言うのか」
一瞬、彼女は固まった。
俺の魔法。
忘れてしまうこと。
それを思い出した顔だ。
「すみません」
珍しく、すぐ謝った。
俺は首を横に振る。
「いい。今のは軽かった」
「軽いと言われると、それはそれで傷つきますね」
「違う。落ちない軽さ」
自分で言って、少し変な表現だと思った。
でも、リリィは笑った。
「山の副作用が抜けませんね」
「便利だからな」
「はい。便利です」
控室でコレットが今日の記録をまとめた。
リリィは召喚しないことを自分で選択。
クレストフォール側は登録外事象の安全手順を提示。
過去には、リリィの召喚が授業妨害・迷惑として扱われていた。
現在は手順改善があるが、言葉と視線に過去の構造が残る。
リリィは冗談で自分を守る。
その冗談を剥がさず、周りを持つこと。
「最後の一文、私の扱いが壊れ物みたいですね」
リリィが言う。
コレットは真面目に答えた。
「壊れ物ではありません。でも、雑に持たないようにします」
リリィは何か言い返そうとして、やめた。
代わりに、迷子一号を机に置く。
封印布付きの石。
登録外。
未登録。
性質不明。
でも、第七部の机の上では、迷子一号。
その違いが、今日の一番大事な記録かもしれなかった。
夜、窓の外にクレストフォールの白い庭が見えた。
鈴は鳴っていない。
静かすぎる庭。
明日、俺たちは綿羽旗フィーニスを見る。
小さいものを嫌う旗。
小さいものが増えると、羽が汚れるという噂。
リリィの召喚が、その旗にどう嫌われるのか。
まだわからない。
でも、今日リリィは召喚しなかった。
出せなかったのではなく、出さなかった。
その違いを、俺は忘れないようにしたいと思った。
戻り言葉は、ルカ。
そして、今日の記録はもう一つ。
リリィは、まだ召喚していない。
だからこそ、次に何が出るかは、誰にも決められていない。




