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第91話 毒舌は窓に映る

 巡業列車の窓には、人の顔が少し遅れて映る。


 外の景色が明るいときは薄く、夜になると濃い。


 山を離れて二日目の昼、リリィ・クロフトの顔は、窓の向こうの流れる草原にうっすら重なっていた。


 いつもの軽い笑み。


 細い目。


 何を考えているのか、わざと読ませない口元。


 ただ、その笑みが窓に映ると、本人より少し遅れる。


 リリィが笑ってから、窓の中のリリィが笑う。


 その半拍のずれが、妙に気になった。


「先輩」


 リリィが窓を見たまま言った。


「人の顔を観察する癖、そろそろ職業病として申請したほうがいいですよ」


「何の職業だ」


「忘却観察員」


「嫌すぎる」


「では、欠陥魔法見張り係」


「それも嫌だ」


「第七部の先輩係」


「急に雑だな」


 リリィはいつものように笑った。


 窓の中の彼女も、少し遅れて笑う。


 でも、目だけは笑っていなかった。


 次の巡業先は、リリィの元所属校に近い。


 資料上の名前は、クレストフォール召喚術学院。


 召喚術を中心にした中堅強豪校で、旗との連携よりも、使い魔や契約獣を用いた面制圧を得意とするらしい。


 リリィは以前、その学校にいた。


 本人は「元いた場所です」としか言わない。


 楽しかったとも、嫌だったとも言わない。


 ただ、話題に出ると、毒舌の角度が少し変わる。


 人を刺すためではなく、自分に近づけさせないための角度になる。


 俺はそれを、山を降りてから何度か見ていた。


 コレットは食堂車の長机に資料を広げている。


 第10章。


 いや、章って言うな。


 次の対戦校についての連盟資料だ。


 校章は、三つの輪をくぐる小さな鳥。


 召喚術学院らしいと言えばらしい。


 ただ、資料の端に書かれた注意事項が、少し気になる。


 小型使い魔の無秩序召喚に厳しい。


 競技場内の非契約個体の持ち込み禁止。


 召喚対象の事前登録義務。


 リリィの魔法とは、かなり相性が悪い。


 彼女の欠陥魔法は、召喚対象が毎回ランダムになる。


 計画したい本人にとって、最悪に近い魔法だ。


 何が出るかわからない。


 強いものが出るとは限らない。


 使い魔ですらないものが出ることもある。


 今まで出た中で一番長く第七部に残っているのが、迷子一号という名の石だ。


 召喚とは。


 石とは。


 問い始めると深そうで、たぶん深くない。


 迷子一号は今日もリリィの手元にいる。


 小さな灰色の石。


 何もしない。


 でも、たまに誰よりも居座る。


 リリィはその石を指で転がしていた。


「資料、見ないのか」


 俺が聞くと、リリィは肩をすくめた。


「見なくてもだいたいわかります」


「元いた学校だから?」


「元いた学校だから、見たくない部分までわかります」


 さらっと返す。


 でも、窓の中のリリィは少し遅れて、笑わなかった。


 コレットが資料から顔を上げる。


「リリィさん、無理に話さなくても大丈夫です。ただ、作戦上必要なことは後で確認します」


「部長さん、優しさと事務連絡を同じ皿に盛るの上手ですね」


「褒めていますか?」


「半分くらい」


「ありがとうございます」


「受け取るんですか」


 リリィは呆れたように笑う。


 いつも通り。


 いつも通りすぎる。


 それが、少し心配だった。


 ネルが資料を覗き込み、眉を寄せた。


「召喚対象、事前登録って何」


 クララが説明したそうに息を吸う。


 ミラが先に言う。


「短く」


 クララは少しだけ悔しそうに頷いた。


「試合前に、使う使い魔を登録する制度です。登録外の召喚は反則ではありませんが、大きく減点されます」


「リリィ、ほぼ減点じゃん」


 ネルが言う。


 リリィは手を胸に当てた。


「見事な要約ありがとうございます。傷口に塩どころか、塩田を作る才能がありますね」


「悪かった」


 ネルが素直に謝る。


 リリィは一瞬だけ黙った。


 ネルが謝ると思っていなかった顔だ。


「いえ。事実なので」


 その返事は軽い。


 でも、少しだけ薄い。


 ロイが困ったように手元を見た。


 山で覚えた五種合図のせいか、最近のロイは場の音に敏感だ。


 何か言いたい。


 でも、今は音を出す場面ではないと判断している。


 成長はしている。


 ただ、少し不憫だ。


 ガレスが水を配った。


「水」


「ありがとうございます。ガレス先輩の水配り、もはや精神安定剤ですね」


「水は大事」


「知っています」


 リリィは水を受け取った。


 飲む動作が、いつもより少し遅い。


 レイナが資料の別ページをめくる。


「クレストフォールは、召喚の格式をかなり重視していますわね。契約獣の血統、召喚陣の正確性、呼び出し後の統率。いかにも、わたくしが一度は憧れそうな学校です」


「憧れないでください。失敗しますよ」


 リリィが即答した。


 レイナの眉が上がる。


「わたくしは失敗してから成功します」


「それ、あそこでは最初の失敗で記録に残されます」


 リリィの声が、少しだけ硬かった。


 その一瞬、食堂車の空気が止まる。


 リリィはすぐに笑った。


「まあ、記録されるのが好きな方にはおすすめです。失敗名簿に華々しく載れます」


 レイナは何か言い返しかけ、やめた。


 たぶん、リリィの毒舌が自分ではなく別の何かに向いていると気づいた。


 ノルが寝たまま言う。


「失敗名簿」


「寝言で拾わないでください」


「起きてる」


「嘘です」


「半分」


 リリィは少しだけ笑った。


 その笑いは、今度は本物に近かった。


 ノルは変なところで人を救う。


 本人はたぶん、救っているつもりがない。


 資料には、クレストフォールの最近の試合記録も載っていた。


 契約獣の配置。


 召喚陣の展開速度。


 旗の守備方針。


 どれも整っている。


 整いすぎている。


 リリィの魔法は、この整いすぎた場所で、どんな扱いを受けていたのだろう。


 俺は想像しようとして、やめた。


 想像で勝手に傷を作るのは違う。


 ただ、本人が話したときに拾えるようにはしておく。


 山で覚えた。


 人を軽くしない。


 リリィの毒舌も、軽く扱うと危ない。


 毒舌は彼女の盾だ。


 そして、たぶん、時々は合図でもある。


「旗の情報は?」


 アルフが尋ねる。


 コレットが資料をめくる。


「クレストフォールの競技旗は、綿羽旗フィーニス。小型の鳥型旗です。特徴は、使い魔や召喚獣を避けること。特に小さな使い魔を嫌う傾向あり」


 リリィの指が、迷子一号の上で止まった。


 小さな使い魔を嫌う旗。


 リリィのランダム召喚。


 迷子一号。


 相性が悪い。


 いや、悪すぎる。


「私にぴったりですね」


 リリィが言う。


「嫌われる才能、ついに旗にまで評価されました」


「リリィ」


 俺は名前を呼んだ。


 それ以上、何を言うか決めていなかった。


 リリィは俺を見る。


「なんですか」


「無理に笑わなくていい」


 言った瞬間、少し後悔した。


 雑だったかもしれない。


 リリィは笑みを深くする。


「先輩」


「何」


「そういう台詞、言う相手を選ばないと刺されますよ」


「刺すのか」


「言葉で」


「いつも通りだな」


「はい。いつも通りです」


 彼女はそう言って、窓の外を見た。


 窓の中の彼女も、少し遅れて外を見る。


 その顔は、やっぱり笑っていなかった。


 コレットが資料を閉じる。


「今日はここまでにしましょう。詳細作戦は到着後、相手校の設備を見てから組みます」


「珍しく早いな」


 俺が言うと、コレットは小さく首を振った。


「今は、資料より人を先に見ます」


 リリィが目を細める。


「部長さん、山で覚えた言葉を便利に使いすぎでは?」


「使います。便利なので」


「開き直った」


「はい」


 コレットは真面目に頷いた。


 その真面目さに、リリィは少しだけ肩の力を抜いた。


 昼食後、食堂車はばらけた。


 ネルとロイは練習車両へ行き、ロイの五種合図を平地用に変えられるか試すらしい。山の音をそのまま使うと、列車では意味が変わる。


 ガレスはベイルから預かった古い金具を直すため、作業車両へ向かった。


 クララは召喚術学院の競技旗について調べると言いながら、すでに長い分類名を考えている顔だった。


 レイナは「召喚の格式」と聞いて少し気になるらしく、資料を借りていった。


 ノルは寝た。


 いつものことだ。


 俺は食堂車に残った。


 リリィも残っていた。


 迷子一号を窓枠に置き、指先で転がしている。


 列車の揺れで、石は少しずつ動く。


 でも、落ちない。


「それ、相変わらず何なんだ」


 俺が聞くと、リリィは迷子一号を見る。


「石です」


「知ってる」


「では質問の意味がありませんね」


「召喚された石って、普通なのか」


「普通ではありません。普通の召喚術師なら、まず呼びません。呼んだら笑われます。二回呼んだら記録されます。三回呼んだら、たぶん別室に呼ばれます」


「呼ばれたのか」


 リリィの指が止まった。


 今のは、踏み込みすぎたか。


 でも、彼女は笑った。


「先輩、そういうところですよ」


「悪い」


「謝るのが早い。尋問官としては失格です」


「尋問してない」


「では、何ですか」


 何だろう。


 心配。


 観察。


 作戦準備。


 どれも違う気がした。


「気になる」


 正直に言った。


 リリィは少し黙った。


「雑ですね」


「悪い」


「でも、嘘よりはましです」


 彼女は迷子一号を手に取った。


「別室には、何度か呼ばれました」


 軽い声。


 でも、窓の中のリリィはもう笑っていない。


「召喚対象が安定しない。登録できない。授業の邪魔になる。契約獣が怖がる。試験の陣を乱す。呼び出したものを自分でも説明できない」


 言葉が並ぶ。


 たぶん、何度も言われた言葉だ。


 誰かの声で。


 教師の声か。


 同級生の声か。


 本人の声か。


「最初は、面白がられました。珍しいので。次に、迷惑がられました。予測できないので。最後に、いないほうが計画が立てやすいと言われました」


 いないほうが。


 その言葉は、列車の音の中でもはっきり聞こえた。


 俺は何か言おうとして、止まった。


 ロイなら、今は無音合図を出したかもしれない。


 鳴らさない。


 ただ、聞く。


 リリィは迷子一号を窓枠に戻した。


「便利な話でしょう。ランダム召喚の説明に使えます。計画通りにいかない魔法が、計画を大事にする学校でどう扱われたか」


「便利って言うな」


「では、不便な話」


「それも違う」


「注文が多いですね」


 彼女は笑った。


 今度は、少しだけ本物だった。


「まあ、今のは前置きです。もっと面白い話は、到着してからにしましょう」


「面白くなくていい」


「面白くしないと、話せないこともあります」


 その言葉に、俺は黙る。


 毒舌は盾。


 冗談は距離。


 面白さは、痛いことを運ぶための布なのかもしれない。


 ガレスが壊れた金具を布で包んだように。


 傷を直接持たない。


 周りを持つ。


 リリィは、自分の過去を冗談で包んで持っている。


 それをいきなり剥がすのは、たぶん雑だ。


「わかった」


 俺は言った。


「面白い話として聞く」


「先輩、そこは否定するところでは?」


「否定したら話せないんだろ」


 リリィは少し目を丸くした。


 それから、ふっと笑った。


「山で何か覚えてきましたね」


「軽くしないことくらいは」


「えらいえらい」


「雑に褒めるな」


「褒めた事実だけ受け取ってください」


 迷子一号が、列車の揺れで少し転がった。


 窓枠の端で止まる。


 落ちない。


 リリィはそれを見て、小さく言った。


「この子、なぜか落ちないんですよ」


「石だから重いんじゃないか」


「石は落ちます」


「それもそうか」


「たぶん、迷子になるのが得意なんです。落ちる場所にも迷う」


 変な理屈だ。


 でも、迷子一号には少し似合っていた。


 その夜、ノルが夢を見た。


 列車が夜の線路を走っているとき、ノルは食堂車の長椅子で寝て、突然ぽつりと言った。


「小さいもの、嫌い」


 近くにいた俺とコレットが顔を上げる。


 ノルの目は閉じている。


「綿の鳥。小さい足、嫌い。小さい声、嫌い。小さいものが増えると、羽が汚れる」


 コレットが急いで記録板を開く。


「フィーニスの夢?」


「まだ遠い」


 ノルは寝たまま言う。


「旗じゃないかも。旗の噂かも」


「噂?」


「小さいものを、片づける学校」


 リリィが食堂車の入口に立っていた。


 いつからいたのかわからない。


 彼女はノルの寝言を聞いて、いつもの笑みを浮かべた。


「素敵な夢ですね。片づけ上手な学校で何よりです」


 声は軽い。


 でも、手が少しだけ迷子一号を握っていた。


 強く。


 石が痛がるかどうかは知らない。


 でも、痛そうに見えるくらい。


 俺はその手を見て、何も言わなかった。


 今は、音を出さない場面だ。


 リリィは迷子一号を胸元の小袋にしまう。


「先輩」


「何」


「明日、到着したら、たぶん歓迎されません」


「そうか」


「冷たい顔をされます」


「そうか」


「私が毒舌を言っても、止めなくていいです」


「内容による」


「ひどい。全面許可ではないんですか」


「第七部の品位がある」


「そんなもの、いつ発生しました?」


 リリィは笑った。


 今度は、少しだけ肩の力が抜けている。


 俺は言った。


「でも、必要なら言え」


「何を」


「終わりでも、続行でも」


 山の言葉だった。


 リリィは少し黙る。


 それから、窓の外を見た。


「召喚術学院でそれを言うと、何が終わるんでしょうね」


「さあな」


「私かもしれません」


「それは困る」


「困りますか」


「困る」


 リリィは振り返った。


 目が、少しだけ揺れている。


 俺は逃げなかった。


 必要とされた記憶を一つ失ったばかりの俺には、人に必要だと言うのが怖い。


 でも、言わないほうが軽くなる。


 軽くしすぎると危ない。


「リリィは第七部に必要だ」


 言ったあと、少し恥ずかしくなった。


 リリィはしばらく俺を見ていた。


 それから、いつもの調子で笑った。


「先輩、そういう台詞を言うとき、もう少し格好つけたほうがいいですよ」


「悪かったな」


「いえ」


 彼女は小袋を軽く叩く。


「雑なほうが、嘘っぽくなくていいです」


 夜の窓に、リリィの顔が映る。


 今度は、本人と窓の中の笑みが、ほとんど同じタイミングだった。


 列車は次の街へ進む。


 クレストフォール召喚術学院。


 小さいものを嫌う旗。


 小さいものを片づける学校。


 ランダム召喚を迷惑と呼んだ場所。


 リリィは小袋の中の迷子一号を指で押さえながら、静かに言った。


「さて。元いた場所に、迷惑をかけに行きましょうか」


 毒舌は、いつも通り鋭い。


 でも、その奥で、何かが小さく震えていた。


 俺はそれを見なかったことにしない。


 ただ、直接つかみもしない。


 周りを持つ。


 山で覚えたやり方を、今度はリリィの過去に使う番だった。


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