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第90話 必要とされた記憶

 山を離れる朝、ルベオは姿を見せなかった。


 それが、少しだけルベオらしいと思った。


 奪われるのが嫌いな旗。


 届く荷を見る旗。


 見送りまでしてくれるような素直さはない。


 でも、訓練場の崩れ岩の近くに、赤い尾の跡みたいな細い布片が落ちていた。


 布片と言っても、本当に旗から落ちたものかはわからない。赤い苔かもしれないし、山岳校の誰かの古い紐かもしれない。


 ノルはそれを見て、眠そうに言った。


「見送り」


「証拠は?」


「ない」


「ないのか」


「でも、記録する」


 ノルは赤い布片を拾わなかった。


 山のものだからだ。


 ただ、場所だけを記録した。


 崩れ岩の上、第四足場を見下ろす位置。


 届く荷が通った道の近く。


 それだけで、十分なのかもしれない。


 グライフ山岳魔法学校の校門前には、山岳校の生徒たちが集まっていた。


 派手な見送りではない。


 旗もない。


 花もない。


 けれど、昨日までより近い距離にいる。


 タリアがミラへ小さな革紐を渡した。


「補助帯に使える。山の紐だから、中央の金具と喧嘩するかもしれないけど」


 ミラは受け取った。


「喧嘩したら直す」


「誰が?」


 タリアが笑って聞く。


 ミラは少しだけ横を見た。


 ガレスが黙っている。


「第七部が」


 そう答えた。


 ガレスは頷いた。


 たぶん、それで十分だった。


 ベイルは少し離れたところに立っていた。


 見送りに来たくせに、見送りの顔をしていない。


 そういうやつなのだろう。


 ミラが近づく。


「じゃあな」


「軽いな」


「重く言うと、山が沈む」


 ベイルは鼻で笑った。


「中央っぽい冗談」


「第七部っぽい冗談だ」


「もっと悪い」


 二人は少しだけ笑った。


 ベイルは腰の袋から、小さな金具を取り出した。


 古い補助帯の留め具だ。


 傷だらけで、片側が欠けている。


「いらないなら捨てろ」


 ミラは受け取る。


「捨てない」


「だろうな」


 ベイルはガレスを見た。


「直せるか」


 ガレスは金具を見る。


「直す」


「壊すなよ」


「少し壊す」


「そこは嘘でも壊さないって言え」


「嘘はよくない」


 ベイルは呆れた顔をした。


 でも、楽しそうでもあった。


 ハルクはロイと向かい合い、最後に五種合図を確認していた。


「開始」


 ロイが指を鳴らす。


 コン。


「停止」


 コ。


「無音」


 ロイは手を閉じる。


「再開」


 コ、ン。


「完了」


 コン。


 同じようで、違う。


 山の朝に、音が小さく残る。


 ハルクが頷いた。


「忘れるな」


「はい」


「大きい音も忘れるな」


 ロイは少し驚く。


「小さくするんじゃなくて?」


「必要なら大きい。必要がなければ小さい。どっちもお前だ」


 ロイは、昨日自分で言った言葉を思い出したように頷いた。


「はい」


 その返事も、足元にだけ届いた。


 ネルはタリアに揺れ逃がしの石を渡されていた。


「これ、練習用。持っていって」


「山のものじゃないの」


「練習用だからいい」


 ネルは石を見つめる。


「重い」


「軽い石だよ」


「そうじゃなくて」


 ネルは少し困った顔をした。


 自分が誰かから技術を預けられることに、まだ慣れていないのだろう。


 タリアはそれ以上言わず、ただ頷いた。


 レイナは山岳校の女子選手たちから、失敗配置について細かい質問を受けていた。


「一度目の失敗は、必ず見せたほうがいいんですの?」


「隠すと、失敗が勝手に目立ちます。なら、置く場所を決めるべきですわ」


「置く場所」


「そうです。失敗に場所を与えなさい」


 レイナは完全に先生の顔だった。


 リリィが横で小声で言う。


「失敗に場所を与えなさい、語録に入りそうですね」


「茶化さない」


「茶化してません。半分くらい」


 クララはロウナ先生から写しを受け取っていた。


「カルミア側で保管するとき、分類語に気をつけます。欠陥魔法の応用ではなく」


「地域地形における回収設計」


「はい」


 クララは大切そうに紙を抱えた。


 彼女にとって、紙はただの紙ではない。


 誰かの魔法が、誤った名前で閉じ込められないための場所だ。


 アルフはオルグ主将と短く結界の話をしていた。


 ジャックは山岳校の攻撃役に「山で撃つな」と言われ、「わかってる」と言い返していた。


 本当にわかっている顔だった。


 少し前なら、それだけで大事件だったかもしれない。


 俺はその光景を少し離れて見ていた。


 こういう朝は、苦手だ。


 別れが苦手というより、何かがちゃんと残ってしまう朝が苦手だ。


 残るものが増えると、失うものが怖くなる。


 俺は手袋の指先を握った。


 風前確認は必要ない。


 今日は魔法を使わない。


 でも、戻り言葉だけは確認した。


 ルカ。


 まだ、覚えている。


 コレットが隣に来た。


「ルカくん」


「何」


「山岳校の記録、帰ったらすぐに写しを作ります」


「クララが三部くらい作りそうだけど」


「クララさんは十部作りそうです」


「否定できないな」


 コレットは少し笑った。


 それから、静かに言う。


「記録が残るのは、大事です」


「そうだな」


「ルカくんにとっても」


 俺は返事に詰まった。


 コレットは俺の魔法を知っている。


 使えば記憶を失う。


 記録は、その穴を塞ぐものになるかもしれない。


 でも、記録があるから失っていいわけじゃない。


 そこを間違えると、たぶん俺は自分を雑に扱う。


「記録だけじゃ足りない」


 俺が言うと、コレットは頷いた。


「はい。だから、残っているうちに、残っているものを見ます」


「部長っぽいな」


「部長です」


 少し得意そうだった。


 巡業列車の汽笛が、山の下から聞こえた。


 ロイが反射的に振り向く。


 それから、少し笑った。


「あれは大きくていい音ですね」


 ハルクが言う。


「谷に投げるための音だからな」


「音にも、向きがあるんですね」


「ある」


 ロイはその言葉を覚える顔をした。


 俺たちは山岳校を出発した。


 列車へ向かう道は下り坂だ。


 行きは登るだけで息が切れた道も、帰りは違う怖さがある。足が進みすぎる。荷物が前へ出る。気を抜くと、軽くなる。


 ミラは一番前ではなく、真ん中を歩いていた。


 ガレスが少し後ろ。


 ネルが横。


 ロイが後ろで小さな完了音を指で確かめる。


 アルフは谷側を見ている。


 レイナは靴の置き方に文句を言いながらも、誰より丁寧に歩く。


 それぞれの歩き方に、山で覚えたものが残っていた。


 駅に着くころ、グライフの校舎は上のほうに小さく見えた。


 赤い尾は、最後まで見えなかった。


 でも、俺はもう探さなかった。


 探さないことも、たぶん礼儀だ。


 巡業列車に乗ると、急に音が変わった。


 木の床。


 金属の連結部。


 窓を叩く風。


 山の音とは違う。


 でも、ロイは以前みたいに「うわ、戻ってきた!」と大声を出さなかった。


 小さく机を叩く。


 コン。


 完了音。


「山岳編、完了」


 リリィが言った。


「編って言うな」


 俺が反射的に返す。


 コレットが少し目をそらした。


 彼女も同じことを言いそうだった顔だ。


 列車が動き出す。


 山が窓の外でゆっくり後ろへ流れる。


 全員が少し疲れていた。


 疲れているけれど、悪い疲れではない。


 ミラは窓際に座り、タリアからもらった革紐と、ベイルから預かった金具を見ていた。


 ガレスがその横に座る。


「直す」


「今?」


「あとで」


「なら、言わなくていい」


「忘れないように」


 ミラは少し笑った。


「忘れない」


 その言葉が、胸に引っかかった。


 忘れない。


 簡単に言える人が、少し羨ましい。


 いや、簡単ではないのかもしれない。


 ミラだって、山でいろいろなものを失いかけてきた。


 でも、俺の忘れるは、少し違う。


 穴が開く。


 知らないうちに。


 ノルが列車の揺れに合わせて、うとうとしていた。


 その手元には、山岳校の記録写しがある。


 寝たら夢でルベオに会うのかもしれない。


 それなら、少しだけ羨ましい。


 夢の中でも記録できるなら。


 忘れたものにも、どこかで会えるのだろうか。


「ルカ」


 ネルが向かいの席から呼んだ。


「何」


「顔、変」


「いつもだろ」


「いつもより」


 ひどい。


 でも、心配しているのはわかった。


「疲れただけ」


「嘘っぽい」


「嘘じゃない」


「全部じゃない」


 ネルのこういうところは鋭い。


 俺は窓の外を見る。


 山が遠ざかる。


 遠ざかるほど、何かが薄くなる気がした。


 山の記録。


 ロイの完了音。


 ミラの名前。


 ガレスの黒い岩片。


 それらははっきりしている。


 でも、その周りにあったはずの何かが、薄い。


 俺は自分の記憶を探った。


 第七部に来てからのこと。


 コレットに部室へ連れていかれた。


 ネルに反発された。


 ロイの音で練習が崩れた。


 ガレスの夜食。


 レイナの失敗。


 ノルの夢。


 クララの長い説明。


 ミラの荷運び。


 リリィの毒舌。


 アルフの結界。


 ジャックの危険な攻撃。


 全部ある。


 あるはずだ。


 でも。


 誰かに必要とされた、という感触が一つ、ない。


 記憶の出来事は残っている。


 誰が何を言ったかも、ある程度は思い出せる。


 でも、その中にあったはずの温度がない。


 必要とされた。


 呼ばれた。


 来てくれてよかったと、誰かに思われた。


 その感触だけが、抜けている。


 俺は胸を押さえた。


 痛いわけではない。


 ただ、空いている。


「ルカ?」


 コレットの声がした。


 俺は顔を上げる。


 全員が見ていた。


 いや、全員ではない。


 ノルは半分寝ている。


 でも、たぶん見ている。


「大丈夫」


 反射で言った。


 その言葉は、かなり薄かった。


 ガレスが言う。


「水」


「水でどうにかなるか」


「ならないこともある」


 そう言いながら、水筒を渡してくる。


 俺は受け取った。


 水は冷たかった。


 山の水ではない。


 列車の水だ。


 でも、少しだけ喉が通った。


 ノルが目を開けた。


「記憶?」


 短い問い。


 俺は答えられなかった。


 答えたくないのではない。


 何を失ったのか、はっきりわからない。


 ただ、失ったことだけがわかる。


「たぶん」


 やっと言った。


 車内の空気が重くなる。


 ロイが何かを言いかけ、口を閉じた。


 音を出さない判断。


 今は、たぶん正しい。


 ミラが革紐を握ったまま言う。


「何を」


「わからない」


 俺は正直に答えた。


「でも、誰かに必要とされた記憶が、一つない気がする」


 言葉にした瞬間、欠落が少しだけ形になった。


 必要とされた記憶。


 それは、俺が最も失いたくないものの一つだ。


 エレナとの記憶。


 そして、誰かに必要とされた記憶。


 俺が競技から離れられない理由。


 人に関わるのが怖い理由。


 その芯にあるもの。


 それが、一つ欠けた。


 コレットが記録板を抱えたまま、何も書かないでいる。


 書くべきか、迷っているのだろう。


 人を先に見る。


 それから負け筋に使う。


 今、彼女はそれを守っている。


「書いていい」


 俺が言うと、コレットは首を横に振った。


「今は、聞きます」


「記録しないと、忘れるかもしれない」


「だから、聞きます。記録はそのあとです」


 その順番に、少し救われた。


 ネルが言う。


「誰に必要とされたか、わからないの」


「わからない」


「いつかも?」


「たぶん」


「気持ちだけない?」


 ネルの言い方は雑だけど、正確だった。


「そう。出来事はあるのに、そこにあったはずの気持ちがない」


 ロイが小さく息を吸った。


「俺たちは、先輩が必要です」


 まっすぐな言葉だった。


 まっすぐすぎて、少し痛い。


「ありがとう」


 俺は言った。


 ありがたい。


 ありがたいのに、抜けた場所は埋まらない。


 新しい言葉は、新しい場所に入る。


 失った古い場所には、戻らない。


 それが怖かった。


 レイナが腕を組む。


「今ここで必要とされていることと、過去に必要とされた記憶が失われたことは、別ですわ」


「言い方」


 リリィが小声で言う。


 でも、レイナは続けた。


「別だからこそ、片方で片方を雑に埋めてはいけません。でも、今ここで必要とされていることまで疑う必要はありません」


 その言葉は、レイナらしく硬い。


 でも、優しかった。


 白旗の頃から、彼女は失敗を置く場所を覚えた。


 今は、俺の欠落にも場所を置こうとしてくれている。


 ノルが記録写しを開く。


「山の記録、使う?」


「どう使うんだ」


「今日のルカ。未使用の風。緊急時待機。みんなの仕事を軽くしなかった」


 ノルは半分眠った声で言う。


「必要だった証拠」


 俺は黙った。


 記録は、気持ちそのものではない。


 でも、気持ちが消えたあとで、その周りに残る足場になる。


 山に残った記録。


 使わなかった風。


 そこに俺が必要だったという証拠。


 それは、失った記憶の代わりではない。


 でも、落ちないための足場にはなる。


「書いてくれ」


 俺はコレットに言った。


 今度は、コレットも頷いた。


「はい」


 彼女は記録板に書く。


 巡業列車、グライフ出発後。


 ルカ、誰かに必要とされた記憶を一つ失っている可能性を自覚。


 出来事ではなく、感情の温度が欠落。


 山岳校記録の「緊急風待機・未使用」を、現在の必要性を示す外部記録として参照。


 コレットはそこで手を止めた。


「続きは、書いていいですか」


「何」


「第七部は、ルカくんを必要としている」


 車内が静かになった。


 逃げたい。


 少しだけそう思った。


 必要とされるのは怖い。


 必要とされた記憶を失うなら、なおさらだ。


 でも、ここで逃げると、たぶんもっと軽くなる。


 山で覚えたこと。


 軽くしすぎると危ない。


 俺は息を吐いた。


「書いていい」


 コレットが書いた。


 第七部は、ルカを必要としている。


 その一文は、少し恥ずかしくて、かなり怖かった。


 でも、紙の上に置かれると、落ちない足場みたいにも見えた。


 ロイが指先で机を叩いた。


 コン。


 完了音。


「勝手に完了させるな」


 俺が言うと、ロイは慌てた。


「すみません。でも、記録完了の音です」


 ガレスが頷く。


「いる」


 ネルも頷いた。


「いる」


 レイナまで言う。


「必要ですわね」


 リリィが肩をすくめる。


「多数決で必要です」


 俺は少し笑った。


 笑えたことに、自分で驚いた。


 窓の外で、山が遠ざかっていく。


 赤い尾はもう見えない。


 グライフ山岳魔法学校も、やがて尾根の向こうに隠れた。


 でも、記録は残った。


 ミラの名前。


 ガレスの黒い岩片。


 ロイの五種合図。


 ネルの揺れ逃がし。


 アルフの帰路限定結界。


 レイナの失敗配置。


 そして、俺の未使用の風。


 全部が、山に残った。


 列車にも写しがある。


 記憶は、失われる。


 少なくとも、俺の中では。


 でも、全部がなくなるわけじゃない。


 誰かが見ている。


 誰かが書く。


 誰かが音にする。


 誰かが背負う。


 それで完全に救われるわけではない。


 そんな都合のいい話ではない。


 でも、次の足場までは行ける。


 次の足場まで。


 山で何度も聞いた言葉が、列車の中でも響いた。


 俺は記録板の一文を見た。


 第七部は、ルカを必要としている。


 まだ、信じきれない。


 でも、今はそれでいい。


 信じきれなくても、紙の上に置ける。


 紙の上に置いたものを、仲間が一緒に持ってくれる。


 巡業列車は、次の街へ向かう。


 次の対戦校。


 次の旗。


 次は、リリィの古い居場所に近い学校だと聞いている。


 ランダム召喚。


 計画通りにいかない魔法。


 毒舌で平気な顔をする後輩。


 リリィは窓の反射に映る自分を見て、珍しく黙っていた。


「リリィ」


 俺が呼ぶと、彼女はいつものように軽く笑う。


「なんですか、先輩。記憶の穴埋めに毒舌が必要ですか」


「今はいい」


「残念です。準備していたのに」


 嘘だろうか。


 本当だろうか。


 どちらでもいい。


 彼女の目は、少しだけ遠くを見ていた。


 次は、たぶん彼女の番だ。


 誰かの欠陥が、誰かの合図になる。


 誰かの過去が、旗の好みに触れる。


 山で覚えたことを持ったまま、俺たちは次へ進む。


 ロイの完了音が、まだ机の上に残っている気がした。


 俺はそれを忘れたくないと思った。


 そして、今度はその気持ちが、ちゃんと胸の中に残っていることを確認した。


 戻り言葉は、ルカ。


 まだ、大丈夫。


 完全ではない。


 でも、次の足場までは。


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