第8話 合図は三つ、逃げ道は二つ
忘れた会話は、戻らなかった。
翌朝、目が覚めて最初に確認したのはそれだった。
寮の天井。
薄い朝の光。
隣の部屋から聞こえる誰かの足音。
机の上に置いた部誌の写し。
そこには、ノル・フェインの眠そうな字で、昨日俺が失くした言葉が書かれている。
コレット部長、今日の練習前に「ルカ君、無理はしないで。あなたが忘れるものは、あなたにしか分からないから」と発言。
読めば意味は分かる。
コレットが言いそうな言葉だとも思う。
けれど、言われた瞬間がない。
声がない。
表情がない。
胸に落ちる感覚がない。
ただ、文字だけがある。
文字は強い。
でも、体験の代わりにはならない。
「……面倒だな」
俺は呟いた。
自分の魔法に向かって。
あるいは、昨日また第七部へ行くと決めてしまった自分に向かって。
机の上には、もう一枚の紙があった。
コレットから渡された今日の練習予定。
ロイの音三種の聞き分け。
ネルの一瞬魔法と物理動作の接続。
ルカの魔法使用禁止。
最後の項目だけ、やけに太く書かれていた。
コレットの字だ。
俺はその下に、自分で一行書き足した。
忘れなくていいように、先に逃げ道を作る。
書いてから、少しだけ嫌な気分になった。
いかにも第七部の作戦らしい。
俺は紙を畳み、制服の内ポケットに入れた。
仮入部二日目。
逃げ道は、まだある。
だが、練習予定を持っている人間が言うことではない。
*
昼休みの練習場で、コレットが宣言した。
「今日は、ロイ君の音を正式に三種類へ分けます」
昨日より顔色は良い。
ただ、俺を見るたびに少しだけ表情が硬くなる。
忘れた会話のことを気にしているのだろう。
俺も気にしている。
でも、お互い気にしていることを気にし始めると、練習が進まない。
だから、先に別の問題へ集中する。
ロイの音だ。
それだけで十分問題として大きい。
「光弾が低音、風弾が高音、警告札が破裂音」
アルフ・メイナードが作戦盤に書く。
「警告札はクララの試作品を使う。ただし、まだ安全基準に不安がある」
クララ・ヴェルムが訂正する。
「不安じゃなくて未検証です」
「意味は似ている」
「違います。未検証は検証すれば解消されます。不安は心理状態です」
「では、未検証ゆえに不安がある」
「それなら正確です」
正確かもしれないが、安心はしない。
クララが持ってきた警告札は、手のひらほどの薄い木札だった。表面に細い古代文字が刻まれている。現代式の魔法札より、どこか古い雰囲気がある。角が丸く、触ると少し温かい。
「本当に爆発しないのか」
俺が聞くと、クララは真面目に答えた。
「爆発ではなく破裂音です」
「質問に答えていない」
「爆発はしない設計です」
「なら最初からそう言え」
「ただし、ロイさんの発動音と共鳴した場合、想定より大きな音になる可能性があります」
ロイが青ざめた。
「僕のせいで壊れますか?」
「壊れるかどうかは、検証しないと分かりません」
「検証で壊れたら?」
ガレス・モルンが無言で工具袋を持ち上げた。
直す気だ。
頼もしい。
そして、壊れる前提の備えが自然すぎる。
「警告札は一回だけ使える。割れたら終わり」
アルフが言う。
「役割は危険合図。誰かが魔法を使いそうになった時、旗が想定外の逃げ方をした時、あるいは相手の攻撃が壊してはいけないものへ向かった時に鳴らす」
ネルが聞いた。
「誰が鳴らす?」
全員の視線が、なぜか俺に向く。
「俺を見るな」
「君が一番危険を読む」
アルフが淡々と言った。
「そして一番危険な時に魔法を使いそうになる」
「だから俺に持たせるな」
「では、ロイ」
「僕ですか?」
「音担当だから」
「分かりました!」
ロイが札を受け取る。
俺は即座に言った。
「握り潰すなよ」
「握り潰しません!」
警告札がぴりっと震えた。
ロイが慌てて声を下げる。
「……握り潰しません」
「声だけで起動しかけてないか?」
クララが眼鏡を光らせる。
「貴重な反応です。記録します」
「貴重じゃなくて危険だ」
「危険な反応ほど記録価値があります」
「この部の研究倫理はどうなっている」
リリィ・クロフトが小さく笑う。
「倫理を気にするなら、欠陥魔法持ちをまとめて巡業リーグに出そうとしている時点で手遅れでは?」
「笑えない正論を毒で包むな」
「毒は保存性が高いので」
「意味が分からない」
今日の練習は、俺、ネル、ロイの三人組。
相手役は、ミラ、レイナ、リリィ。
昨日と同じ組み合わせだ。
ただし、今日は旗を奪わせないことが目的ではない。
合図を聞き分け、逃げ道を二つ以上残し、俺が魔法を使わないまま危険を処理する。
簡単に言えば、昨日の失敗を潰す練習。
簡単に言わなくても、難しい。
ネルが隣に立った。
「ルカ」
「何だ」
「昨日のこと」
「どれ」
「私が倒れかけたやつ」
「ああ」
「今日は、倒れそうになったら自分で受け身取る」
「そうしろ」
「でも、無理だったら」
ネルは言葉を切った。
彼女らしくない迷い方だった。
「無理だったら?」
「助けて」
短い言葉。
たぶん、ネルにとっては言いにくい言葉。
俺は少し黙った。
皮肉を返せる場面ではなかった。
「魔法なしで助けられる位置に倒れろ」
「それ、昨日も言った」
「大事だからな」
ネルは小さく笑った。
「注文が多い」
「お互い様だ」
「……そうね」
ロイが警告札を両手で持ち、真剣な顔で俺たちを見ていた。
「僕も、ちゃんと止めます」
「声でか?」
「声と札で」
「札を割るな」
「割るための札ですよね?」
「危険時だけだ」
「はい」
ロイは頷いた。
昨日より、少し顔つきが違う。
自分の音が役に立ったこと。
止めようとして間に合わなかったこと。
その両方が、彼の中に残っている。
残っているなら、次は変わる。
たぶん。
「開始」
ジャック・バーネルが審判旗を振った。
今日も審判役だ。
本人は不満そうだが、意外と公平に見ている。
攻撃側が動く。
ミラが正面。
レイナが右。
リリィが左。
青い練習旗は中央。
昨日と同じ配置。
ただし、同じにはならない。
相手も変える。
こちらも変える。
それが競技だ。
「ロイ、低音」
俺が言う。
「はい」
どん。
光弾の発動音。
ミラがわずかに止まる。
だが昨日より反応が小さい。
もう慣れ始めている。
「ネル、布じゃなくて砂」
「了解」
ネルの指先が光る。
一瞬。
地面の砂が低く跳ね、青旗の左側に薄い壁を作る。
旗が右へ逃げる。
そこにはレイナ。
「同じ手は、上品ではありませんわ」
レイナの一度目の魔法が失敗する。
しかし昨日と違い、失敗の光が旗ではなくロイの方へ散った。
ロイが反応する。
警告札を握りかける。
「まだ」
俺が言う。
ロイは止まる。
よし。
警告札はまだ使わない。
レイナの二度目が来る。
成功する魔法。
光帯が旗の逃げ道を塞ぐ。
「ロイ、高音」
ぱん。
風弾の音。
青旗が光帯から離れる。
ただし、離れた先にリリィの召喚陣があった。
「召喚します」
リリィの声。
出てきたのは、小さな黒い魚だった。
空中で泳いでいる。
魚。
なぜ。
考える暇はない。
青旗が魚を見て、昨日の鳥とは違う反応をする。
警戒ではない。
興味。
寄る。
旗が魚に寄る。
リリィが笑った。
「今日は当たりのようですね」
「ネル、魚を見ろ」
「何で?」
「旗じゃなくて魚を動かす」
「魔力、まだ一回分」
「一回でいい」
ネルが舌打ちする。
魔力が灯る。
一瞬。
魚の横の空気が弾ける。
黒い魚が驚いて、右へ泳ぐ。
青旗が追う。
追った先は、何もない空間。
逃げ道。
一つ目。
「ロイ、低音」
どん。
ミラが今度は止まらない。
音を無視して前へ出る。
強い。
慣れが早い。
山の人間は、環境変化への対応が速いのかもしれない。
ミラの手が旗へ伸びる。
俺は一歩出かけた。
だが、出ない。
足を止める。
逃げ道は二つ必要。
俺が前に出れば、一つ塞がる。
ミラが来る。
旗が迷う。
左は砂。
右は魚。
後ろはレイナ。
前は俺。
また詰まる。
「ロイ、札」
俺が言った。
ロイの手が警告札を握る。
ぱきん。
札が割れた。
乾いた破裂音。
思ったより小さい。
だが、鋭い。
ミラが止まる。
旗も止まる。
全員が一瞬、音の意味を探す。
危険。
その合図だ。
「ネル、走れ」
「魔力ない」
「足」
「分かってる!」
ネルが走る。
旗ではなく、砂の薄い壁へ。
足で砂を崩す。
左の逃げ道が開く。
旗がそこへ跳ねる。
ミラの手は届かない。
レイナの光帯も空を切る。
リリィの黒い魚は、なぜか空中で満足そうに一回転した。
「そこまで」
ジャックの声。
審判旗が振られる。
「守備成功」
ロイが警告札の割れた残骸を見下ろした。
「鳴りました」
「鳴ったな」
「壊れました」
「壊すための札だ」
「役に立ちました」
「立った」
ロイは泣きそうな顔で笑った。
昨日の失敗が、少しだけ違う形になった。
止められなかった声。
今日は止める音になった。
ネルは膝に手をつき、息を整えている。
「魔力切れた後、走るのきつい」
「鍛えろ」
「簡単に言う」
「簡単じゃないから練習する」
ネルは顔を上げ、俺を睨んだ。
「あんた、だんだん部活の人みたいになってる」
「仮だ」
「仮のくせに偉そう」
「仮だから好きに言える」
「むかつく」
「半分?」
「今日は七割」
「増えた」
コレットが笑った。
声を出して。
その笑い方が、昨日より少し軽い。
俺はそれを見て、少しだけ息を吐いた。
今日は魔法を使わなかった。
誰の言葉も失っていない。
少なくとも、今のところは。
「もう一本」
ジャックが言った。
全員が彼を見る。
「何だよ」
「審判がやる気だ」
ネルが言う。
「悪いか」
「悪くないけど、珍しい」
「見てるだけだと、いろいろ分かるんだよ」
ジャックは審判旗を肩に担いだ。
「ルカが魔法を使いそうになるところとかな」
「見てたのか」
「見てた」
「暇だな」
「審判だからな」
その返しは少し上手い。
ジャックは笑わずに続けた。
「お前、前に出たがる。旗の前に立つ癖がある」
胸の奥が少し鳴った。
旗の前に立つ。
守るために。
あるいは、誰かの前に。
昔もそうだったのかもしれない。
「元名門の癖か?」
ジャックが聞く。
「覚えてない」
俺は答えた。
それは本当だった。
ジャックは少しだけ表情を変えた。
からかうつもりだったのかもしれない。
でも、答えが軽く返せないものだったから、言葉を失った。
「……そうかよ」
短く言って、彼は審判旗を構えた。
「次。今度は攻撃側、動き変える」
ミラが頷く。
レイナが髪を払う。
リリィが黒い魚を抱えようとして、魚に逃げられる。
ロイが新しい警告札を受け取る。
ネルが足元の砂をならす。
俺は、作戦紙を取り出した。
合図は三つ。
逃げ道は二つ。
魔法は使わない。
書いた文字を確認する。
忘れなくていいように、先に逃げ道を作る。
その通りだ。
俺が魔法を使わずに済む道。
旗が詰まらずに済む道。
ネルが倒れずに済む道。
ロイの声が事故ではなく合図になる道。
勝ち筋というには、まだ細い。
でも、線は引ける。
「開始」
ジャックの声が鳴った。
二本目が始まる。
青い旗が跳ねる。
ロイが息を整える。
ネルが走る。
俺は前に出そうになる足を、半歩だけ横へずらした。
守るために立ち塞がるのではなく。
逃げ道を残すために、退く。
それはたぶん、俺がこれまであまり選んでこなかった動きだった。
でも第七部には、その方が合っている。
欠陥を消すのではなく、欠陥の後に残るものを見る。
負け筋を抱えるのではなく、全員で潰す。
魔法を使って忘れるのではなく、使わなくていい形を先に作る。
面倒だ。
本当に面倒だ。
けれど、青い旗が俺の横を抜け、ロイの音で進路を変え、ネルが開けた逃げ道へ跳ねた瞬間。
俺は少しだけ思った。
面倒なものほど、たぶん覚えている価値がある。




