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第9話 仮のまま立つフィールド

 校内模擬戦の話が出たのは、第八競技場の掲示板の前だった。


 いや、正確には、カルミア魔法学園に第八競技場は存在しない。


 昔はあったらしい。


 第一から第七までの魔法競技部があった時代、校内にはそれぞれの部が使う練習場や小型競技場が点在していた。その名残として、今でも古い案内板には第一競技場、第二競技場、第三競技場といった文字が残っている。


 だが、現存してまともに使えるのは一つだけ。


 俺たちが普段使っている、雑草と修理跡だらけの練習場だ。


 それを第七競技場と呼ぶのは、コレット・セインの意地らしい。


「第七部が使うから、第七競技場」


 彼女はそう言った。


 そういうものか。


 そういうものらしい。


 問題は、その第七競技場の掲示板に、見慣れない紙が貼られていたことだ。


 校内模擬戦実施のお知らせ。


 参加団体、第七魔法競技部。


 対戦相手、有志生徒合同チーム。


 公開形式。


 公開形式。


 俺はその四文字を見て、静かに後退した。


「帰る」


「待って」


 ネル・アーレンが俺の袖を掴む。


「なぜ止める」


「私も今知ったから」


「なら一緒に帰ろう」


「それはそれで部長が泣く」


「泣かせておけ」


「あんた、部長の泣き顔に弱そう」


「勝手な分析をするな」


 ネルは袖を離さない。


 ロイ・キャベルは掲示を見上げ、目を輝かせていた。


「公開形式……! つまり、みんなに見てもらえるんですね!」


「見られたいのか」


「怖いですけど、見てもらえるなら、僕の音がただうるさいだけじゃないって分かってもらえるかもしれません」


 前向きだ。


 眩しい。


 俺は少し目を細めた。


「ロイ」


「はい」


「見てもらえる、は便利な言葉だ。笑われる可能性も含む」


「はい」


 ロイの返事は、思ったより落ち着いていた。


「でも、笑われても、昨日よりは使えるようになりました」


 俺は黙った。


 その通りだった。


 ロイの音は、昨日より合図になっている。


 ネルの一瞬魔法は、魔力が切れた後の動きとつながり始めている。


 俺は魔法を使わずに旗の逃げ道を作る練習をしている。


 全部、まだ不完全だ。


 だが、昨日よりは形になっている。


 それを見られるのが怖い。


 ということは、俺も少しは期待しているのかもしれない。


 最悪だ。


 俺は掲示から目を離さずに聞いた。


「誰が申し込んだ」


 俺は聞いた。


 背後から、柔らかい声。


「私です」


 コレットだった。


 小柄な部長は、いつものように少し大きめのカーディガンを羽織り、両手に書類を抱えていた。その後ろにはアルフ・メイナード。さらにレイナ・オルコットとリリィ・クロフト、クララ・ヴェルムまでいる。


 ノル・フェインはいない。


 たぶん寝ている。


 ガレス・モルンとミラ・ガルドは道具の準備だろう。


 ジャック・バーネルは。


 窓の外から声がした。


「おー、貼られてる貼られてる」


 見ると、ジャックが競技場の柵の上に座っていた。


「どこから来た」


「外」


「説明になっていない」


「細かいこと気にすんなよ、仮入部」


「仮入部を強調するな」


「正式じゃねえのは事実だろ」


 そうだ。


 事実だ。


 俺はまだ仮入部。


 だから公開模擬戦などに出る義理はない。


「部長」


「はい」


「俺は出ない」


「そう言うと思っていました」


「ならなぜ貼った」


「出ないと言われても、話し合えるように」


「順番がおかしい」


「逃げられる前に」


「自覚があるなら悪質だ」


 コレットは困ったように笑った。


 ただ、その目は真剣だった。


「校内模擬戦は、巡業リーグ参加申請の前に必要なの」


「聞いていない」


「今言いました」


「この部の重要情報は、なぜいつも後出しなんだ」


 アルフが淡々と答える。


「人手不足で説明手順が整理されていない」


「冷静にひどいことを言うな」


「改善が必要だ」


「お前がやれ」


「検討する」


 絶対に本当に検討する顔だった。


 この男は冗談の逃がし方が難しい。


 コレットが掲示を指差す。


「巡業リーグに出るには、校内で最低一回、公開形式の模擬戦を行い、競技部としての活動実態を示す必要があります。カルミアは今、競技部門の存続が危ういから、なおさら」


「有志生徒合同チームとは」


「第七部以外の生徒たちです」


「競技経験は?」


「少しある子もいます」


「少しない子もいるわけだな」


「ええ」


「安全管理」


「ガレス先輩とミラさんが補助に入ります。危険な攻撃は禁止。旗は青い練習旗を使います」


 青い練習旗。


 机の上で逃げたり、ついてきたり、俺の方を見たりする、あの小さな旗。


 公開模擬戦で使うのか。


 あれを。


「旗は納得しているのか」


 俺が言うと、リリィが小さく笑った。


「旗に同意を取る競技部、初めて見ました」


「逃げる旗を無理やり使う方が問題だろ」


「意外と紳士的ですね」


「意外は余計だ」


 クララが書類をめくる。


「青旗は昨日から活動性が上がっています。ルカさん、ネルさん、ロイさんの三人組に対する反応が特に強い。模擬戦で使用することで、旗の契約性質の一部が分かる可能性があります」


「研究目的を混ぜるな」


「混ざっています」


「正直に言うな」


「隠すと倫理的に問題があります」


「隠さなくても問題はある」


 レイナが腕を組み、掲示を見上げた。


「とはいえ、公開形式で第七部の醜態を晒すわけにはいきませんわ」


「醜態前提か」


「現状を客観視しただけです」


「アルフがまた増えた」


 レイナが即座に睨む。


「一緒にしないでくださる?」


 アルフは少し考えた。


「私は構わない」


「私が構いますの」


 ネルが小声で「面倒」と言う。


 レイナが聞き逃す。


 珍しい。


 彼女も掲示に気を取られているのだろう。


 公開形式。


 見られる。


 笑われるかもしれない。


 でも、見せなければ巡業リーグへ行けない。


 俺は掲示から書類へ視線を移した。


「出場メンバーは」


 俺が聞いた。


 コレットが書類を開く。


「ネルさん、ロイ君、アルフ君、ミラさん、レイナさん」


「俺は?」


「補助登録」


「何だそれ」


「正式出場ではなく、作戦補助と旗管理。フィールド外からの助言は制限されるけれど、緊急時対応と旗の観察は許可されます」


「つまり、限りなく守備に近い見学の次は、限りなく出場に近い補助か」


「ええ」


「悪化している」


 ネルが袖を離し、俺の顔を見た。


「でも、出場じゃない」


「そうだな」


「魔法も使わない」


「そうだ」


「なら、いいんじゃない」


 その言い方は軽かった。


 だが、ネルの目は軽くなかった。


 昨日、俺が小さな風魔法を使って、コレットの言葉を忘れた。


 それを彼女は気にしている。


 ロイも。


 コレットも。


 たぶん部員全員が。


 俺の魔法を使わせない形で、俺をフィールドの近くに置く。


 それがコレットの考えた逃げ道なのだろう。


 逃げ道。


 先に作る。


「……補助なら」


 俺は言った。


 コレットの表情が少し明るくなる。


「やってもいい」


「ありがとう」


「礼は早い」


「でも、ありがとう」


 その言葉を、今度は覚えていた。


 俺は掲示を見る。


 校内模擬戦。


 公開形式。


 参加団体、第七魔法競技部。


 その下に、手書きで小さく追記されていた。


 見学自由。


 嫌な予感しかしない。


     *


 嫌な予感は、だいたい当たる。


 模擬戦当日の第七競技場には、思ったより生徒が集まっていた。


 といっても、王都の公開試合のような観客数ではない。せいぜい数十人。教師も何人か。校舎の窓から見ている生徒もいる。


 だが、第七部が普段練習している人数から考えれば、十分多い。


 ロイが言った。


「見られてますね!」


 声は少し大きい。


「見られてるな」


「緊張します」


「声を上げるなよ」


「はい」


 ロイは深呼吸した。


 いつもより慎重だ。


 ネルは手首を回している。


 落ち着いているように見えて、爪先が何度も地面を叩いていた。


 俺はネルの爪先を見る。


「緊張してるのか」


「してない」


「してるな」


「してない」


「じゃあ足」


 ネルは足を止めた。


「……ちょっとだけ」


「正直でよろしい」


「偉そう」


「補助だからな」


「補助のくせに」


「仮入部で補助だ。肩書きが弱いほど、口は自由になる」


 ネルが少し笑った。


「ほんと、むかつく」


「今日の割合は?」


「六割」


「下がった」


「調子に乗らないで」


 レイナは観客席を見て、背筋を伸ばしていた。


「公開形式なら、最低限の見栄えは必要ですわ」


「勝つ方が先だ」


 アルフが言う。


「勝つにしても、見苦しい勝利は避けるべきです」


「見苦しくても勝利は勝利だ」


「そういうところが、防御結界一方向ですのよ」


「関係があるのか」


「ありませんわ。言ってみただけです」


 ミラは静かに屈伸している。


 出場メンバーの中では、一番落ち着いて見えた。


 ただ、彼女の欠陥魔法は筋力強化後に全身が動かなくなる。今日の模擬戦では、使用時間を十秒以内に制限することになっている。


 十秒。


 短い。


 だが、ミラにとっては十分すぎるほど長いのかもしれない。


 俺が呼ぶと、彼女は振り向いた。


「ミラ」


「何」


「使うなら、旗を取る時じゃなく、取った後だ」


「運ぶ時?」


「たぶん。今日の相手は合同チームで連携が甘い。奪う瞬間より、奪った後に囲まれる可能性が高い」


 ミラは真面目に頷いた。


「分かった。背負う?」


「旗を?」


「うん」


「背負えるのか」


「背負えば両手が空く」


「発想が山だな」


「山では大事」


 またそれだ。


 ただ、悪くない。


 旗を抱えるより背負う方が手が空く。青旗が嫌がらなければ、だが。


 俺は青旗を見る。


 コレットが両手で抱えている。


 青旗は妙におとなしい。


 観客に怯えているのか。


 それとも、何かを待っているのか。


 俺は青旗を見たまま言った。


「部長」


「何?」


「旗、今日は逃げないな」


「ええ。朝からずっと静かなの」


「嫌な静かさだ」


「そうね」


 コレットも同じことを感じているらしい。


 彼女は青旗をそっと撫でた。


「怖い?」


 旗が布の端を少し揺らす。


 答えたようにも見える。


 違うようにも見える。


 ノルが近くのベンチで眠そうに言った。


「怖いけど……見たい……って」


「旗が?」


「たぶん……」


 見たい。


 何を。


 第七部が、観客の前でどう動くか。


 それとも、俺たちが逃げずにフィールドへ立つか。


「見られたい旗もいるのか」


 俺が言うと、クララが即座に答えた。


「古代旗には、証人を必要とする契約系統があります。誰かに見届けられることで契約が成立する」


「解説ありがとう。余計に嫌な予感がした」


「有用な嫌な予感です」


「そんな分類はない」


 ジャックが今日は出場しない側で腕を組んでいる。


「お前、緊張してんのか」


「俺が?」


「顔が怖い」


「元からだ」


「そういう逃げ方、昨日も見たな」


 ジャックは笑った。


「まあ見てろよ、仮入部。人に見られると、欠陥ってのはだいたい悪化する」


「縁起でもない」


「でも、使い方を見せつけられたら、評価も変わる」


 意外なことを言った。


 俺が黙っていると、ジャックは面白くなさそうに視線を逸らした。


「俺は嫌いだけどな。見られるの」


「そうか」


「壊すところしか見られねえから」


 それだけ言って、ジャックは黙った。


 問題児アタッカー。


 危険すぎて他校では問題児扱い。


 こいつも、見られることで傷が増えた側なのだろう。


 俺も、似たようなものかもしれない。


 王都で。


 あの試合で。


 見られていた。


 誰に。


 観客。


 審判。


 仲間。


 エレナ。


 胸の奥が痛む。


 思い出すな。


 今は違う。


 ここはカルミア。


 第七競技場。


 俺は補助登録。


 魔法は使わない。


「開始位置へ」


 教師の声が響いた。


 有志生徒合同チームが反対側に並ぶ。


 五人。


 顔は知らない。


 だが、そのうち二人は授業で見た気がする。俺の存在を一度見失った生徒もいた。


 彼は今、第七部の方を見ている。


 俺を見ているのではない。


 第七部を見ている。


 それでいい。


 俺個人が見えなくても、第七部が見えるなら。


 いや。


 なぜ俺はそれでいいと思った。


 考える前に、試合開始の鐘が鳴った。


     *


 模擬戦は、思ったより雑に始まり、思ったより早く崩れかけた。


 有志生徒合同チームは、個々の魔法は悪くない。


 水弾、風壁、短距離移動、簡易拘束、光弾。


 標準型のきれいな魔法が揃っている。


 ただし、旗奪競技の連携は甘い。


 開始直後、相手の短距離移動役が青旗へ突っ込み、水弾役が援護しようとして進路を塞ぎ、風壁役が守る場所を間違えた。


 普通なら、こちらが有利。


 だが問題は、こちらも普通ではないことだ。


「ロイ、高音!」


 俺がフィールド外から声を飛ばす。


 補助登録は、試合中の直接指示に制限がある。


 だが、危険回避と旗管理に関する短い合図は許されている。


 高音。


 ぱん。


 ロイの風弾発動音が響く。


 青旗が右へ逃げる。


 ネルが砂を跳ねさせる。


 逃げ道ができる。


 観客がざわめいた。


 たぶん、何が起きたか分かっていない。


 ロイの音が鳴った。


 ネルが一瞬だけ何かした。


 旗が逃げた。


 それだけに見えるだろう。


 でも、それでいい。


 派手な説明はいらない。


 まずは機能すればいい。


「アルフ、左前!」


 コレットが短く言った。


 三語。


 アルフは即座に結界を張る。


 一方向。


 左前。


 相手の光弾がそこへぶつかる。


 防いだ。


 観客席から「おお」と声が上がる。


 アルフは表情を変えない。


 だが、結界の位置は完璧だった。


 コレットの敗北幻視。


 アルフの一方向防御。


 つながった。


「ミラ、まだ」


 俺は言う。


 ミラは走りながら頷いた。


 使わない。


 まだ筋力強化は使わない。


 相手は旗へ殺到する。


 合同チームだから、旗を見たら全員が寄る。


 そこが弱点だ。


「レイナ、失敗」


 俺が言うと、レイナが少しだけ眉を上げた。


「命令形が雑ですわ」


 だが、動く。


 彼女の魔法が一度失敗する。


 光が散る。


 観客が笑いかける。


 その笑いが途中で止まった。


 失敗の光が、相手の視線を奪っていたからだ。


 二度目の魔法。


 成功。


 光帯が、相手の進路を斜めに切る。


 青旗はその隙にネルの開けた逃げ道へ跳ねる。


 今のは、きれいだった。


 見栄えもある。


 レイナはそれを分かっていたのだろう。


 観客席から、今度は笑いではなく小さな拍手が起きた。


 レイナの背筋が、さらに伸びた。


「調子に乗るなよ」


 俺が小さく言うと、近くにいたジャックが笑った。


「聞こえてねえよ」


「聞こえなくていい」


 試合は進む。


 有志チームは標準型魔法で押してくる。


 強い。


 標準型は、やはり安定している。


 水弾はまっすぐ飛ぶ。


 風壁は広く守る。


 短距離移動は速い。


 簡易拘束は旗の進路を読みやすくする。


 こちらの魔法はどれも歪だ。


 ロイはうるさい。


 ネルは一瞬。


 アルフは一方向。


 レイナは一度失敗する。


 ミラは使えば止まる。


 だが、歪だからこそ、相手の標準的な読みから外れる。


「ロイ、低音」


 どん。


 相手の短距離移動役が一瞬止まる。


「ネル、足」


 ネルが魔力ではなく走って布を蹴る。


 青旗の逃げ道が変わる。


「コレット」


 俺は部長を見る。


 彼女の顔が少し青い。


 見えている。


 何か負け筋が。


 コレットは唇を結び、短く言った。


「旗、後ろ、水」


 三語。


 旗。


 後ろ。


 水。


 青旗の背後から、水弾が来る。


 俺にはまだ見えない。


 だが、コレットには見えた。


「アルフ、後ろ!」


 アルフが一方向結界を張る。


 後ろ。


 次の瞬間、水弾が結界に弾けた。


 観客席がどよめく。


 有志チームの水弾役が目を見開く。


 コレットは少しふらついた。


 ガレスが控え席から動きかける。


 だが、コレットは自分で立った。


 負け筋を見た。


 共有した。


 アルフが潰した。


 また一つ。


 模擬戦の空気が変わった。


 最初は笑い混じりだった観客が、少しずつ黙り始める。


 第七部が何をしているのか、全ては分からない。


 でも、何かが噛み合っていることは伝わり始めていた。


「ミラ」


 俺は言った。


「今だ」


 ミラが頷く。


 筋力強化。


 彼女の足元の土が沈んだ。


 一瞬で、空気が変わる。


 ミラが踏み込む。


 速い。


 正面の相手が反応する前に、彼女は青旗の横へ出た。


「背負え」


 ミラは青旗を抱えず、背中の簡易帯に通した。


 青旗が一瞬驚いたように揺れる。


 だが、逃げない。


 受け入れた。


 ミラは走る。


 強化時間、十秒。


 相手が追う。


 ネルが布を蹴る。


 ロイが高音で進路を変える。


 アルフが一方向で追撃を防ぐ。


 レイナが一度失敗し、二度目で視線を奪う。


 ミラが旗を背負って指定線へ走る。


 五。


 六。


 七。


 彼女の動きが少し鈍る。


 副作用が来る。


「ロイ、警告」


 ぱきん。


 警告札が割れる。


 全員が意味を理解する。


 危険。


 ミラが止まる。


 いや、止まってしまう。


 全身停止の前兆。


「ネル!」


 俺が叫ぶ。


 ネルはもう走っていた。


 魔力はない。


 でも足がある。


 彼女がミラの背中の帯を掴み、青旗だけを抜く。


 ミラはその場で膝をつく。


 ネルが青旗を抱える。


 相手が迫る。


 ネルの体勢は悪い。


 俺の指先に、魔力が集まりかける。


 まただ。


 助けるために。


 旗を守るために。


 ネルを転ばせないために。


 でも。


「ルカさん!」


 ロイの声。


 今回は大きかった。


 けれど、ただ大きいだけではない。


 届いた。


 止める声として。


 俺は魔力を握り潰す。


 痛み。


 でも、使わない。


「ネル、右じゃない! 下!」


 ネルが反応する。


 右へ逃げるのではなく、低く沈む。


 相手の手が頭上を通る。


 青旗を抱えたまま、ネルは地面すれすれに滑り込んだ。


 指定線。


 旗が越える。


 鐘が鳴った。


「第七魔法競技部、得点」


 教師の声。


 一瞬、静かだった。


 それから、小さな拍手が起きた。


 最初はまばら。


 やがて、少し増える。


 大歓声ではない。


 でも、笑いではない。


 嘲りでもない。


 拍手だった。


 ネルは地面に座り込んだまま、青旗を見下ろしている。


 ロイは警告札の割れた残骸を握りしめている。


 アルフは結界を解き、作戦盤に何かを書いている。


 レイナは拍手の方を見ないようにしながら、少しだけ口元を緩めている。


 ミラは全身が動かないまま、地面に座っている。


 ガレスがすぐに駆け寄り、彼女を支えた。


 コレットは、青ざめていた。


 でも、笑っていた。


 俺はフィールドの外に立っていた。


 魔法は使わなかった。


 誰の言葉も失っていない。


 ただ、手のひらが痛い。


 握り潰した魔力の名残。


 ジャックが隣に来た。


「今の、出たかっただろ」


「補助登録だ」


「答えになってねえ」


「出たくない」


「嘘つけ」


 彼は笑った。


「お前、完全にフィールド見てる顔だった」


 俺は何も言わなかった。


 言えなかった。


 フィールドを見ていた。


 旗を見ていた。


 仲間の動きを見ていた。


 勝ち筋を見ていた。


 競技は嫌いだ。


 そのはずだ。


 でも、今。


 少なくとも今だけは。


 第七魔法競技部が形になる瞬間から、目を逸らせなかった。


     *


 模擬戦は、第七部の勝利で終わった。


 点差はわずか。


 内容も粗い。


 危ない場面はいくつもあった。


 それでも勝ちは勝ちだ。


 教師は「巡業リーグ申請に必要な活動実態として認める」と書類に判を押した。


 コレットはその判を見て、目を潤ませた。


 泣きはしなかった。


 でも、かなり危なかった。


 ロイが泣きそうになり、ネルがそれを見て「先に泣くな」と叱り、レイナが「人前ですわよ」と言いながら自分も少し声を震わせ、ミラはまだ足が動かず、ガレスに背負われていた。


 青旗はコレットの腕の中で、得意げに揺れている。


 たぶん得意げ。


 旗の表情は分からないが、今日はそう見えた。


 コレットが俺の前に来た。


「ルカ君」


「補助、ありがとう」


「補助だからな」


「ええ」


「出場じゃない」


「分かっているわ」


「正式入部でもない」


「それも」


 コレットは笑った。


 少し困ったように。


 少し嬉しそうに。


「でも、第七部は今日、あなたがいたから形になった」


「大げさだ」


「大げさじゃないわ」


 彼女は部誌を開いた。


 そこには、今日の模擬戦の記録欄があった。


 出場者。


 ネル・アーレン。


 ロイ・キャベル。


 アルフ・メイナード。


 ミラ・ガルド。


 レイナ・オルコット。


 補助。


 ルカ・ヴァレン。


 俺の名前。


 また書かれている。


 今度は仮入部ではなく、補助として。


「記録に残ったわ」


 コレットが言った。


 俺はその文字を見た。


 記録に残る。


 覚えていなくても。


 忘れられかけても。


 紙の上には残る。


 そして、今日の拍手も。


 ネルが滑り込んだことも。


 ロイが止める声を出したことも。


 ミラが旗を背負ったことも。


 コレットが負け筋を三語で伝えたことも。


 俺は覚えている。


 今は、まだ。


「仮のままだぞ」


 俺は言った。


 コレットは頷いた。


「ええ。仮のまま、今日はありがとう」


 その言葉は、軽かった。


 無理に引き寄せない。


 逃げ道を残す。


 俺が魔法を使わなくていいように。


 俺がここにいられるように。


 たぶん、彼女なりの作戦だった。


 青旗が布の端で、部誌の俺の名前をそっと叩いた。


 こつん。


 小さな音。


 まるで、ここにいると印をつけるように。


 俺はその音を聞いた。


 覚えていようと思った。


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