第87話 終わりを任せる
任せる、という言葉は軽く見える。
言うだけなら簡単だ。
任せる。
頼む。
あとはよろしく。
でも、ミラがその言葉を使うとき、そこには自分の身体が入っていた。
動かなくなる足。
力を使い切った腕。
背負われる重さ。
落ちたら終わりの山道。
それを全部、他人の背中に渡す。
だから、軽い言葉ではなかった。
翌日の合同訓練は、朝から空気が硬かった。
昨日ガレスが開けた崩れ岩の道は、そのまま残っている。大きく削られたわけではないから、ぱっと見ただけでは変化がわからない。けれど、近づけば違う。黒い岩片が噛んでいた場所に、肩が通るだけの隙間があり、足元の突起は、動かない足を傷つけない角度になっている。
山を平らにしたわけじゃない。
背負う道を作っただけだ。
ミラはその道を、何度も目でなぞっていた。
「見すぎ」
ネルが言う。
「見ないと任せられない」
「見ても怖いものは怖い」
「そうだな」
ミラは素直に頷いた。
そこに、昨日までとは少し違う強さがあった。
怖くないふりをしない。
怖いと言ったうえで、やる。
ガレスは補助帯の金具を確認している。
金具。
布。
縫い目。
背負う位置。
全部を黙って確かめる。
その手つきは、道具を見る修理屋の手であり、人を預かる競技者の手でもあった。
コレットが今日の目的を読み上げる。
「本日の訓練は、崩落岩通過後の回収継続です。ミラ先輩は、予定地点より早く停止宣言を出すこと。ガレス先輩は、宣言後ただちに背負い、第三足場から第四足場まで運ぶこと。ロイくんは回収開始、停止、再開の合図を音で分ける準備。ただし、今日は合図の完全運用ではなく、音を置く位置の確認まで」
「俺、今日はまだ主役じゃないんですね」
ロイが少し残念そうに言う。
「明日です」
「明日って言われると余計緊張します」
ハルクが笑った。
「緊張してるほうが音は持てる。調子に乗ると飛ぶ」
「はい」
ロイは背筋を伸ばす。
山に来てから、ロイの「はい」は少し変わった。
大きな声で返すための返事ではなく、音を自分の中に戻すための返事になっている。
ネルは三つの石を今日も並べていた。
「揺れ、人、音」
「昨日と順番違わないか」
俺が聞くと、ネルは頷いた。
「今日は人が先に止まる。だから、人を見てから揺れを見る。音はロイが持つ」
「忙しいな」
「忙しい」
短い返事。
でも、嫌そうではない。
アルフは谷側を見ている。
「第四足場は帰路が悪い」
タリアが頷いた。
「行きはまだいい。帰りに気が抜けると落ちる」
「なら、結界は帰路に置きます。行きに置くと、頼りすぎる」
オルグ主将が、昨日と同じように感心した顔をする。
「山の嫌がる便利さを避けるのがうまいな」
アルフは涼しい顔で答えた。
「便利すぎる防御は、読みを鈍らせます」
その言葉を聞いて、レイナが小さく鼻を鳴らした。
「格好つけていますわね」
「事実だ」
「余計に腹が立ちますわ」
二人のやり取りを聞きながら、俺は崖の上を見た。
赤い尾は見えない。
でも、たぶんいる。
ルベオは、こういう時に限って姿を見せない。
見せないことで、こちらの足を軽くする。
見たい。
探したい。
追いたい。
その気持ちで足が浮く。
それが危ない。
「ルカ」
ノルが呼んだ。
「何」
「顔、旗を探してる」
「悪い」
「悪くない。記録」
「記録するな」
「嘘。少しだけ」
ノルは眠そうに目を閉じかけて、すぐ開いた。
「今日のルベオ、たぶん見るのはミラ」
「どうして」
「背負われる者が、自分で終わりを言うから」
夢の証言なのか、ノルの勘なのか、寝ぼけた感想なのか。
わからない。
でも、妙に納得できた。
今日はガレスが背負う日であり、ミラが任せる日だ。
背負う者だけでは道にならない。
背負われる者が、重さを隠さず、終わりを告げ、続行と中止を言う。
そこまで含めて、回収路になる。
ロウナ先生が安全確認を終えた。
「開始していいわ」
コレットが頷く。
「開始します」
ミラが前へ出る。
補助帯を締めた腰。
山に合わせた低い姿勢。
彼女は一度だけ、自分の手を見た。
その手は、まだ動く。
すぐに動かなくなる手だ。
それを知ったうえで、魔力を入れる。
「行く」
足裏が石を捉えた。
ミラの身体が、山の言葉に変わる。
筋力強化。
中央でなら、反動過大の欠陥魔法。
ここでは、荷上げと踏み替えに特化した過出力実用魔法。
ただし、回収前提。
その最後の一行が、今日の訓練の中心だ。
一つ目の棚道は、昨日より速い。
速いけれど、急いではいない。
ここが難しい。
急ぐと落ちる。
でも、遅いと届かない。
ミラはその真ん中を探す。
ロイが必要な音を一つ置いた。
コン。
短い。
足場にだけ届く音。
ハルクが頷く。
「いい。まだ旗を呼んでない」
ロイの口元が引き締まる。
呼べば逃げる。
逃げると追ってくることがある。
ルベオ相手の音は、ただの合図ではない。
誘いにもなる。
脅しにもなる。
道にもなる。
ネルが手を地面へ近づけた。
「人、まだ大丈夫。揺れ、小さい」
ガレスはミラの半歩後ろにいる。
近すぎない。
遠すぎない。
背負う前から背負いに行かない。
でも、終わりの声を聞いたら、すぐ入れる距離。
ミラが二つ目の段差へ入る。
レイナが手前で、一度目の失敗を置いた。
滑る。
止まる。
見せる。
「右へ流れます」
レイナが言う。
昨日より言葉が短い。
山岳校の生徒にも伝わる長さだ。
タリアが「いい失敗」と呟いた。
レイナは嬉しそうにしないよう頑張っていた。
たぶん、嬉しい。
ミラはレイナの失敗を見て、右足を置く位置を変える。
ほんの少し。
でも、それで身体の流れが変わった。
崩れ岩の手前。
昨日ガレスが開けた場所。
その上に、赤い尾が現れた。
やっぱり、いた。
ルベオは静かに座っている。
近い。
昨日より近い。
ミラの目が、一瞬だけ尾を捉えた。
「見える」
ガレスが言う。
「見なくていい」
ミラは首を動かさずに答えた。
「見えてる。でも、今は私のものじゃない」
その言葉に、ベイルが反応した。
小さく息を飲む。
旗が見えているのに、自分のものではないと言う。
奪いたいのに、奪わない。
力があるのに、終わりを選ぶ。
山では、それが弱さとは限らない。
ミラは崩れ岩の入口で、息を吸った。
まだ動ける。
俺にはそう見えた。
たぶん、本人にもわかっている。
あと二歩は行ける。
もしかしたら、三歩。
ルベオの尾が揺れた。
誘う。
届くかもしれない。
そう思った瞬間、ミラが言った。
「終わり」
早い。
昨日よりずっと早い。
身体はまだ倒れていない。
膝も折れていない。
でも、終わり。
ガレスが即座に入る。
補助帯を取り、背中を差し出す。
ミラは自分で残った力を使い、ガレスの背中へ重さを渡した。
崩れるのではなく、渡す。
それが、今日の変化だった。
「重い」
ミラが言う。
「知ってる」
ガレスが返す。
「まだ少し動ける」
「知ってる」
「でも、終わり」
「聞いた」
ガレスが踏み出す。
ミラの身体が、少しずつ動かなくなっていく。
背中でそれが伝わるのか、ガレスの歩幅が変わった。大きくしない。小さくしすぎない。昨日開けた隙間へ、肩を斜めに入れる。
補助帯が岩に触れる。
擦れる。
「擦った」
ミラが言う。
ガレスは止まる。
「痛いか」
「痛くない。続行」
「行く」
ガレスが通る。
俺は息を止めていたことに気づいた。
風は使わない。
落ちていない。
軽くするな。
ルベオは岩の上で、じっと見ている。
赤い尾が、ガレスの歩幅に合わせて揺れた。
ロイが手を上げる。
音を出すか迷っている。
ハルクは何も言わない。
ロイ自身に判断させている。
今、音を置けば、回収開始の合図になる。
でも、岩に返るかもしれない。
ロイは口を開け、閉じた。
出さない。
ネルが言う。
「音なしで足りる。揺れ、人に行ってない」
ロイは頷いた。
悔しそうではなく、少しほっとした顔だった。
鳴らさない判断も、合図の一部になる。
第三足場へ着く。
昨日、ここまで届いた場所。
今日の目的は、さらに先だ。
第四足場。
少し上にある、狭い平らな岩。
そこまで行けば、回収継続が成立する。
ただし、第三から第四までの間は、道が外へ張り出している。ガレスの背中にいるミラの重さが、谷側へ振られる。
アルフが結界を準備する。
「帰路限定は後。今は使わない」
コレットが確認する。
「本当に?」
「今張ると、ガレス先輩が壁を頼る」
ガレスが答える。
「頼らない」
「頼らない人ほど、あると身体が知ります」
アルフの声は冷静だった。
ガレスは少しだけ頷く。
「わかった」
壁を置かないことで、背中の判断を鈍らせない。
守りも、置けばいいわけじゃない。
コレットが記録する手を止め、アルフを見た。
人を先に見る。
負け筋の前に、今の判断を見る。
「アルフくん、結界を張らない判断」
彼女はそう書いた。
ガレスが第四足場へ向かう。
ミラの身体はもう完全に動かない。
背負われる側の仕事は、口と目だけになった。
「右、広い」
ミラが言う。
「谷側か」
「そう」
「怖いか」
「怖い」
「俺もだ」
ガレスは歩幅を変える。
怖いと言ったあと、足が正しくなる。
隠すより、ずっと強い。
ルベオが動いた。
赤い尾が、第四足場の先へ走る。
近い。
ものすごく近い。
ミラの腕が、ほんの少しだけ動きかけた。
反射。
旗を取る身体の記憶。
でも、腕は動かない。
動かないから取れない。
取れないから、見える。
ミラは笑った。
悔しそうに。
でも、少し楽しそうに。
「取れない」
ガレスが言う。
「知ってる」
「行くぞ」
「行け」
ガレスが第四足場へ足をかけた。
その瞬間、足元の石が小さく鳴った。
跳ねる音ではない。
割れる音でもない。
でも、危険の手前。
ロイが叫ばずに言った。
「危険な音、手前」
声量を抑えた警告。
音で知らせるのではなく、言葉で音を止める。
ネルが即座に手を動かす。
一瞬の魔力。
押さない。
逃がす。
石の揺れが、ガレスの足ではなく、左の小さな割れ目へ流れた。
ガレスは止まる。
「止まる」
コレットが言う。
「全員停止」
全員が止まった。
第四足場まで、あと半歩。
でも、止まる。
焦る場面で止まれること。
それが、今日のいちばん難しい部分かもしれない。
ミラがガレスの背中で言う。
「続行」
ガレスは聞き返す。
「痛みは」
「ない」
「怖さは」
「ある」
「俺もある」
「なら、行ける」
「ああ」
ガレスが半歩を進めた。
第四足場。
届いた。
ロイが音を出した。
今度は、出す。
コン。
小さく、短く、足場にだけ落ちる音。
回収完了の音。
谷は返さない。
岩は怒らない。
ハルクが息を吐く。
「いい音だ」
ロイの目が少し潤んだ。
「大きくないのに?」
「大きくないからだ」
その言葉は、たぶんロイにとって大事なものになる。
ルベオが第四足場の先で止まっていた。
赤い尾がゆっくり揺れる。
奪わせるつもりはない。
でも、逃げない。
ミラを背負ったガレスのすぐ先に、旗がいる。
ミラは動かない身体のまま、旗を見る。
「届いた」
彼女が言った。
ガレスが答える。
「ここまでは」
「ここまでは、私が任せた」
「ああ」
「ガレスが背負った」
「ああ」
「みんなが止めた」
「ああ」
ルベオの尾が一度だけ、高く上がった。
それは拍手ではない。
旗は拍手をしない。
でも、俺には、山が一瞬だけこちらを見直したように感じた。
ロウナ先生の終了合図が響く。
「訓練終了。第四足場までの回収成立。旗反応あり。奪取なし」
奪取なし。
もう聞き慣れてきた。
負け惜しみではない。
今日の成果を正しく言うための言葉だ。
戻り道で、アルフが帰路限定の結界を張った。
行きでは張らなかった結界。
帰るための壁。
ガレスはそれに頼りすぎず、でも無視もしなかった。
ミラは背中で、右が広い、足が擦る、怖い、続行、と短く言い続けた。
背負われる側の仕事。
それは、思っていたより忙しい。
入口に戻ると、ガレスは膝をつき、ミラを下ろした。
ネルが水を持ってくる。
ミラはまだ動かない。
でも、顔はまっすぐだった。
「任せた」
ミラが言った。
ガレスは頷く。
「背負った」
「落とさなかった」
「怖かった」
「私も怖かった」
二人はそれだけ言って、黙った。
十分だった。
ベイルが近づいてきた。
今日の彼は、最初から最後までほとんど口を出していない。
その分、ずっと見ていた。
「ミラ」
彼が呼ぶ。
「何」
「今のは、中央のやり方か」
ミラは少し考えた。
「第七部のやり方」
「山のやり方じゃねえのか」
「山で覚えたことも入ってる」
「中央で覚えたことも?」
「入ってる」
ベイルは腕を組み、少しだけ口を曲げた。
「混ざってんのか」
「混ざってる」
「気持ち悪くねえの」
その言葉に、空気が少し張った。
でも、ミラは怒らなかった。
「前は、気持ち悪かった」
ベイルが黙る。
「山の魔法を中央で欠陥と言われて、中央のやり方を山で軽いと言われて、どっちにも置けなかった」
ミラは動かない手を見た。
「でも、今の私は、山の重さを知ってる。中央で欠陥と呼ばれたことも知ってる。第七部で、回収を作戦にできることを知った」
彼女はベイルを見た。
「混ざったままで行く」
ベイルはしばらく何も言わなかった。
そして、短く言う。
「なら、落ちるな」
「落ちない」
「落ちそうなら?」
「終わりを言う」
「背負わせる?」
「背負わせる」
ベイルは、やっと笑った。
小さく。
悔しそうに。
でも、確かに。
「変わったな」
「変わった」
ミラはそう答えた。
自分で言えた。
そのことが、たぶん大きかった。
夕方、宿舎へ戻る途中、ロイが俺の横に並んだ。
「ルカ先輩」
「何」
「小さい音で、届きました」
「届いたな」
「大きくしなくても」
「ああ」
ロイは自分の手を見た。
「でも、明日はたぶん、もっと難しいです。合図として使うなら、出す音と出さない音を、みんなにわかるようにしないといけない」
「できそうか」
「怖いです」
「言えたなら、半分できてる」
「ガレス先輩みたいなこと言いますね」
「やめろ。急に老けた気がする」
ロイが少し笑った。
その笑いは、谷に跳ねなかった。
宿舎の入口で、俺はもう一度山を振り返った。
赤い尾は見えない。
でも、今日の第四足場には、確かに何かが残っている。
ミラが終わりを早く言ったこと。
ガレスが怖いまま背負ったこと。
ネルが揺れを逃がしたこと。
ロイが危険な音を手前で言葉にしたこと。
アルフが帰るためだけに結界を置いたこと。
レイナが急ぐ足を失敗で止めたこと。
俺が風を使わなかったこと。
どれか一つでは、道にならない。
全部があって、ようやく背負われる強さになる。
コレットが隣で記録板を閉じた。
「明日は、ロイくんの音を正式な回収合図にします」
「鳴らしすぎると山が怒るぞ」
「だから、鳴らす音と鳴らさない音を決めます」
「難しいな」
「はい」
コレットは少し笑った。
「でも、今日のミラ先輩が任せてくれたので、明日は合図を置けます」
任せる。
背負う。
止まる。
鳴らす。
鳴らさない。
山では、どの言葉も軽くない。
俺は自分の手を見る。
風を使わなかった手。
何もしなかったわけじゃない手。
その手を軽く握り、心の中で戻り言葉を確かめた。
ルカ。
まだ覚えている。
今日、誰かに必要とされたかどうかはわからない。
でも、誰かが誰かを必要とする道の中に、自分も立っていた。
それだけは、忘れたくないと思った。




