第86話 壊す場所を選ぶ手
山で何かを壊すとき、最初に必要なのは力ではなかった。
沈黙だった。
翌朝、俺たちは崩れ岩の前に立っていた。
昨日、ミラを背負ったガレスが止まった場所だ。そこから先は、人の身体には狭すぎて、補助帯は引っかかり、動かない足は岩にぶつかり、背負う側の肩は谷へ振られる。
ルベオなら通れる。
人は通れない。
だから、旗はそこにいた。
今日も赤い尾は見えなかった。
けれど、見えないからいない、とは誰も思わなかった。
山岳校のロウナ先生が、崩れ岩の少し手前で縄を張り直す。
「ここから先は、地形への魔法使用を許可制にします。許可を出すまでは、誰も岩に魔法を通さないこと」
ジャックが両手を上げた。
「俺、今日は最後尾でいいです」
リリィが驚いた顔をする。
「熱でもあります?」
「山で壊すなって昨日わかった」
「おお」
「なんだよ」
「成長の音がしました」
「音にするな」
ロイが一瞬だけ反応して、それから自分の口を押さえた。
鳴らさない。
今日の彼も、音の手前にいる。
ガレスは崩れ岩の前で、ずっと黙っていた。
手袋は外している。
大きな手。
修理で硬くなった指。
壊す魔法しか使えない手。
その手が、岩に触れていない。
触れずに見ている。
コレットは少し後ろに立ち、記録板を抱えている。昨日からのルール通り、最初に負け筋ではなく、人を見るための欄を作っていた。
「ガレス先輩」
コレットが声をかける。
「今、何を見ていますか」
ガレスはすぐには答えなかった。
風がない。
音もない。
ただ、崩れた岩の隙間から、昨日より少し乾いた砂が落ちている。
「落ちるところ」
ガレスが言った。
「壊すところではなく?」
「先に、落ちるところ」
ロウナ先生が小さく頷いた。
「いい順番ね」
山岳校の生徒たちは静かだった。
中央の競技者が破壊魔法を使うとなれば、普通なら警戒される。まして、グライフの山は学校である前に土地だ。練習場の岩ひとつにも、踏んできた足と戻ってきた足の歴史がある。
壊していいものではない。
でも、壊さなければ通れない場所がある。
その矛盾の前で、ガレスは黙っている。
「水」
ガレスが言った。
ネルが反射的に水筒を出しかける。
「飲むの?」
「違う」
ガレスは岩の下を指した。
「昨日、ここに水が通った」
俺はしゃがんで見る。
岩と岩の間に、細い泥の筋があった。ほとんど乾いている。言われなければ、ただの汚れにしか見えない。
「雨?」
「朝露と、上の雪解け」
タリアが答えた。
「この時期は少ないけど、細く通る。ガレス、よく見つけたね」
「水は大事」
ガレスはいつもの調子で言う。
でも、今日のそれは水を飲めという話じゃない。
水が通る場所は、岩が動いた場所だ。
岩が動いた場所は、力の逃げ道だ。
壊すなら、そこを見なければいけない。
クララが口を開きかけ、両手で自分の口を押さえた。
長くなる自覚があるらしい。
ミラは補助帯を巻き、まだ出番の前なのに表情が硬い。
今日は彼女が背負われる訓練をする前に、道が開くかどうかが決まる。
自分の身体を預ける相手が、山を壊す。
怖くないわけがない。
「怖いか」
ガレスが振り向かずに聞いた。
ミラは少し黙った。
「怖い」
「どこが」
「壊しすぎること」
「俺もだ」
ガレスは言った。
その声で、場の空気が少し変わった。
破壊魔法を使う人間が、壊しすぎることを怖いと言う。
それを隠さない。
山ではたぶん、それも作法だ。
ベイルが岩に寄りかかっていた。
「怖いならやめればいい」
言い方はきつい。
けれど、挑発だけではなかった。
ガレスは首を横に振る。
「怖いから、選ぶ」
ベイルは黙った。
オルグ主将が、低く言う。
「山の答えだな」
ガレスは崩れ岩の前に膝をつき、手を伸ばした。
まだ魔法は使わない。
指先で、岩の表面をなぞる。
傷を直接持たない。
周りを持つ。
修理のときと同じだ。
壊れた道具を直すとき、ガレスは壊れた部分だけを見ない。周囲の歪みを見る。負荷がどこから来て、どこへ逃げられず、なぜ割れたのかを見る。
今、彼は岩壁に対して、それをしている。
「ここ」
ガレスが一つ目の石を指した。
拳くらいの大きさ。崩れ岩の中では小さい。
「これを壊す?」
ネルが聞く。
ガレスは首を横に振った。
「壊さない」
「じゃあ何?」
「押さえ」
彼は二つ目の石を指す。
薄く平たい石だ。上の岩の隙間に噛んでいる。
「これも壊さない。これを壊すと、上が落ちる」
ロウナ先生が目を細める。
「合っていると思う」
ガレスは三つ目を指した。
泥の筋の横にある、黒っぽい岩片。
小さい。
ただ、妙に奥まで入り込んでいる。
「これ」
誰もすぐには喋らなかった。
小さすぎるからだ。
崩れ岩の道を開くなら、大きな岩を砕くと思う。
でも、ガレスの指は小さな岩片を選んでいる。
クララが我慢できずに、短く言った。
「楔です」
ミラが見る。
「短く」
「これが噛んで、道を狭くしています。大きい岩は、実は支えです」
「わかる」
クララはほっとした顔をした。
ガレスはロウナ先生を見る。
「壊していいか」
「範囲は」
「この黒い岩片だけ。割る。押さえは触らない」
「落ちた破片は」
「ネルが揺れを見る。ロイが音を止める。アルフは谷側。俺が手で受ける」
ミラが眉を寄せた。
「手で?」
「小さい」
「小さい石ほど変に跳ねる」
それは山の人間の言葉だった。
ガレスは少し考えた。
「なら、布」
彼は補助帯の予備布を取り出した。
道具を壊す魔法を使う人間が、石を受けるために布を使う。
不思議な光景だけれど、ガレスには似合っていた。
ロウナ先生はタリアと視線を交わし、頷いた。
「許可します。ただし、一回目は魔力を最小に。割れなければ中止して再確認」
「ああ」
ガレスは答えた。
その「ああ」は、いつもより少し重い。
ロイが位置につく。
「音、持ちます」
ハルクが隣に立つ。
「跳ねそうなら言え。言えないなら鳴らすな」
「はい」
ネルは地面に手を近づける。
「揺れ、見る」
アルフが谷側に立つ。
「帰路限定ではなく、破片限定にします」
コレットが確認する。
「結界の向きは?」
「谷から人を守るのではなく、谷へ飛ぶ破片を返さない向き。跳ね返すと危ないので、落とす」
オルグ主将が頷く。
「いい。山は跳ね返しを嫌う」
俺は一歩後ろで風を確認する。
風前確認。
使わない。
でも、落ちたら戻す。
戻り言葉は、ルカ。
ガレスが黒い岩片に指を当てた。
魔力が、ほとんど見えないほど細く流れる。
破壊魔法。
派手な爆発ではない。
音も、光も、ほとんどない。
ただ、岩の奥で、かすかに何かが解けた。
ピシ、と小さな音がする。
ロイの肩が動いた。
鳴らさない。
音が谷へ行く前に、ロイが自分の息で止める。
ネルが言う。
「揺れ、小さい。左へ逃げる」
ガレスは布を広げた。
黒い岩片が二つに割れ、ぽろりと落ちる。
布に乗った。
それだけだった。
大きな岩は落ちない。
山は崩れない。
道が、ほんの少しだけ広くなった。
「終わり」
ガレスが言う。
ロウナ先生が即座に頷く。
「一回目終了。全員停止」
全員が止まった。
止まる。
それが、今日の訓練では何度も勝利みたいに扱われる。
ミラが息を吐いた。
「小さい」
ガレスは割れた岩片を布ごと見せる。
「小さい」
「でも、道が変わった」
「ああ」
ベイルが近づき、崩れ岩の隙間を覗く。
「本当にそこだけか」
「そこだけ」
「大きい岩を砕かないのか」
「砕くと、背負えない」
ガレスは短く答えた。
ベイルは何かを言い返そうとして、やめた。
背負えない。
それは、壊す理由としては弱そうで、いちばん強い。
道は、ただ通れればいいわけじゃない。
ミラを背負って通れる必要がある。
ルベオが見るのは、そこだ。
小さく開いた隙間を、タリアが確認する。
「肩は通る。補助帯は、まだ少し擦るかも」
「二回目」
ガレスが言った。
ロウナ先生は首を横に振らない。
「候補を示して」
ガレスは今度、上ではなく下を指した。
足元に近い、薄い突起。
「ここは?」
ミラが聞く。
「足が当たる」
「私の?」
「背負われてる時の足」
ミラは自分の足を見る。
止まった身体。
動かない足。
昨日、その足が岩角にぶつかりそうになった。
ガレスはそれを覚えていた。
「大きく壊す?」
ネルが聞く。
「削る」
クララがまた口を開きかける。
ミラが先に言う。
「短く」
「破壊魔法で削るのは、普通は難しいです。壊す力は拡散しやすいので」
「ガレスなら?」
クララはガレスを見た。
「修理のために壊す癖があるので、たぶんできます。ただし、精神的にとても疲れます」
ガレスは否定しなかった。
壊す魔法を小さく使う。
壊しすぎないように、ずっと手を止め続ける。
それは、ロイが鳴らさない音を持つのに似ている。
強すぎるものを、強いまま止める。
「怖いか」
ミラが聞いた。
さっきとは逆だ。
ガレスは少しだけ間を置いた。
「怖い」
「どこが」
「お前の足に当てること」
ミラは黙った。
その沈黙を、誰も急かさない。
背負われる側の仕事。
自分の危険を、作戦の中で言うこと。
ミラはガレスの目を見る。
「当たったら、中止」
「ああ」
「擦ったら?」
「中止」
「違う。擦っただけなら、私が言う」
ガレスが少し眉を寄せる。
ミラは続けた。
「動かない足でも、痛いかどうかは私のものだ。言う」
「わかった」
「背負われる側の仕事」
「ああ」
そのやりとりを、ベイルがじっと見ていた。
山の荷物仲間。
ミラを中央へ行った裏切り者みたいに見ていた少年。
今の会話を、どう受け取ったのかはわからない。
けれど、彼の目に昨日までの刺々しさは少し薄い。
ロウナ先生が許可を出した。
「二回目。削りは最小。異音が出たら停止」
ガレスが頷く。
ロイが息を整える。
ハルクが谷を見る。
ネルが手を地面に近づける。
アルフが結界の角度を調整する。
コレットが人の欄を見る。
俺は風を解いたまま、手袋の指を握る。
ガレスの指先が、足元の突起に触れた。
今度は、さっきより長い。
魔力が岩の表面を撫でるように走る。
壊す、というより、余計な角を思い出させているみたいだった。
岩粉が落ちる。
細かい。
ロイが小さく言う。
「必要な音、出しません。今は粉の音だけで足ります」
ハルクが頷く。
ネルが言う。
「揺れ、なし。粉だけ」
ガレスの額に汗が浮いた。
大きな岩を砕くより、よほど疲れるのだろう。
壊す力を止めるために、壊す。
矛盾みたいな作業だ。
でも、ガレスはずっとそうしてきた。
壊れた鍋を直すために、曲がった縁を少しだけ叩く。
割れた椅子を直すために、欠けた部分を少しだけ削る。
壊す魔法が、直すための入口になる。
今、その入口は山に開いている。
「終わり」
ガレスが手を離した。
足元の突起は、ほんの少し丸くなっていた。
それだけだ。
けれど、背負われた足がぶつかる角度が変わっている。
ミラが近づき、まだ動く自分の足で確認する。
「ここ」
彼女は足の外側を岩に沿わせた。
「止まった足なら、通る」
ガレスは短く息を吐いた。
たぶん、安心した。
でも、顔にはほとんど出ない。
コレットが記録する。
ガレス、破壊対象を大岩ではなく楔と足当たりに限定。
壊す目的は突破ではなく、背負った身体を傷つけないこと。
ロイ、不要な音を出さず、粉の音を利用。
ネル、揺れなし確認。
ミラ、背負われる側の痛覚判断を保持。
アルフ、破片限定結界。
「長い記録になってきたな」
俺が言うと、コレットは少し困った顔をした。
「削れません。ここは、削ると危ないです」
「うまいこと言ったつもりか?」
「違います」
本当に違う顔だった。
少し笑ってしまった。
その時、崩れ岩の上で赤い尾が揺れた。
全員の視線が上がる。
ルベオがいた。
岩の上に座るようにして、こちらを見ている。
昨日より近い。
手を伸ばせば、もちろん届かない。
でも、目の届く距離にはいる。
ルベオは砕かれた黒い岩片を見た。
丸くなった足元の突起を見た。
それから、ガレスを見た。
ガレスは見返さない。
追えば落ちる。
見すぎれば、旗は逃げる。
だから、ガレスは道を見た。
その態度が、たぶん正解だった。
ルベオは逃げなかった。
「第二段階」
コレットが言う。
「ミラ先輩を背負って、通行確認をします。旗奪取は狙いません」
ミラが補助帯を締め直した。
「行く」
ガレスが前に立つ。
「次の足場まで」
ミラは頷いた。
筋力強化を入れる。
昨日より短く。
目的は崩れ岩まで行き、そこで停止して背負われること。旗を追うためではない。
ミラの足が、山の石を踏む。
ロイが必要な音を一つ出す。
ネルが揺れを見る。
アルフが帰路の結界を後ろに残す。
レイナが段差の手前で一度目の失敗を置き、急ぐ足を止める。
昨日と同じ流れ。
でも、昨日より迷いが少ない。
迷いが消えたわけではない。
迷いを置く場所が決まっている。
ミラは崩れ岩の手前まで来た。
赤い尾が、上で揺れる。
誘っている。
近い。
昨日より、明らかに近い。
「見える」
ミラが言った。
「見ない」
ガレスが返す。
「見えてる」
「知ってる」
「終わり」
ミラは昨日より早く言った。
身体が完全に止まる前。
力がまだ少し残っているうちに。
それは、諦めではなかった。
回収の開始だった。
ガレスが背中を入れる。
補助帯の支点を取り、ミラの重さを受ける。
「重い」
「知ってる」
「足、見る」
「言え」
ミラの足が、削られた突起の横を通る。
少し擦った。
「擦った」
ミラが言う。
ガレスは止まる。
「痛いか」
「痛くない。通る」
「行く」
「行け」
背負われる側が、続行を言う。
ガレスが一歩進む。
肩が崩れ岩の隙間を通る。
補助帯は、黒い岩片があった場所をかすめるだけで通った。
昨日は通れなかった場所。
今日、通れる。
大きく壊したわけではない。
山を平らにしたわけでもない。
ただ、背負う道を作った。
ロイが息を止めている。
音を出したいのがわかる。
でも、ここで音を出すと岩に返る。
ハルクが横で小さく言う。
「今は鳴らすな」
ロイは頷いた。
鳴らさない音を持つ。
ガレスが三つ目の足場へ届いた。
その瞬間、ルベオが動いた。
赤い尾が岩の上からすべり、ガレスの横を通り抜ける。
速い。
けれど、逃げる速さではなかった。
並ぶ速さ。
伴走。
ルベオはガレスの背中と、ミラの動かない足と、削られた岩の角を順番に見た。
俺の指がまた風を探しかける。
やめる。
落ちていない。
軽くするな。
ルベオは足場の先で止まった。
取れる距離ではない。
でも、背負われたミラの目には見える距離。
ミラがガレスの背中で、小さく言った。
「届いた」
ガレスが答える。
「ここまでは」
「ああ。ここまでは」
それが大事だった。
全部届いたふりをしない。
ずっと持てると嘘をつかない。
次の足場まで。
そこへ届いたら、また次を考える。
ルベオの尾が揺れる。
ノルが眠そうな声で言った。
「背中、嘘少ない」
「夢の証言か?」
「起きてる感想」
少しだけ笑いが起きた。
山の上で笑うと、音が軽く飛びそうになる。
ロイが慌てて口を押さえた。
ハルクが肩を揺らす。
「笑いまで持つな。そこはいい」
「いいんですか」
「今のは跳ねない」
ロイはほっとした顔をした。
ロウナ先生が訓練終了の合図を出す。
「第二段階終了。崩落岩通過成功。旗反応あり。奪取なし」
オルグ主将が続ける。
「破壊魔法使用、地形損傷最小。回収路成立」
ベイルが黙ったまま、削られた突起を見ていた。
彼はしゃがみ、指で岩粉をつまむ。
「こんだけか」
ガレスがミラを背負ったまま戻ってくる。
「こんだけ」
「これで通ったのか」
「ああ」
ベイルは岩粉を見つめ、それからミラを見る。
「中央で、こういう壊し方を覚えたのか」
ミラは首を横に振った。
「第七部で覚えた」
ガレスが言う。
「直すために」
ベイルは、今度こそ小さく笑った。
「壊すのに、直すって言うのか」
「言う」
「変だな」
「よく言われる」
ロイがまた嬉しそうに反応しかけ、リリィに肘で止められていた。
戻り道、ミラはまだ動かない。
でも、昨日より顔が楽そうだった。
背負われるのが好きになったわけではない。
たぶん、ずっと嫌だ。
けれど、嫌なことでも仕事にできる。
自分の重さを、自分の作戦に入れられる。
それは、強さの一種だ。
訓練場の入口まで戻り、ガレスがミラを下ろした。
ネルが水を渡す。
今度は、ミラが少しだけ指を動かそうとした。
動かない。
ネルは何も言わず、水筒を支える。
「飲む」
ミラが言う。
「知ってる」
ネルが返す。
水を飲むミラの横で、クララがロウナ先生に確認していた。
「記録範囲ですが、破壊魔法の対象選定、地形損傷の限定、回収路との関係までは記載してよろしいですか。ミラさんの身体反応の詳細は本人確認後に」
ロウナ先生は頷く。
「いいわ。山岳校側でも記録する。ただし、『欠陥魔法の応用』という見出しは避ける」
クララの目が輝いた。
「では」
「『地域地形における限定破壊と回収設計』」
「最高です」
ミラが水を飲みながら、ぼそりと言った。
「長い」
でも、嫌そうではなかった。
コレットが記録板を閉じる。
「今日の訓練で、第9章の作戦目的の六つ目まで成立です」
「章って言うな」
俺が言うと、コレットは首を傾げた。
「言いました?」
「言った」
「疲れているのかもしれません」
たまにコレットは、自分が物語の構成みたいな言い方をしていることに気づかない。
いや、俺も何を言っているんだ。
山の空気で頭が少し軽い。
軽いのは危ない。
俺は足元を踏み直した。
その時、ルベオが遠くで鳴いた。
鳴いた、という表現が正しいのかはわからない。
獣のようで、石のようで、旗布が裂けずに風を切るような音。
短い音だった。
ロイが顔を上げる。
ハルクも聞いた。
ノルが目を細める。
「返事?」
誰も答えられなかった。
ルベオは奪われるのが嫌いだ。
でも、届く荷を見る。
今日、俺たちは一つの荷を、昨日届かなかった場所へ届けた。
旗を取ったわけじゃない。
勝ったわけでもない。
けれど、山のどこかで、赤い尾がもう一度揺れた。
ガレスはそれを見ずに、割れた黒い岩片を布に包んでいた。
「持って帰るのか」
俺が聞く。
「戻す」
「戻す?」
「ロウナ先生に渡す。山のものだ」
ロウナ先生は少し驚いたあと、柔らかく笑った。
「ありがとう。記録棚に置きましょう。壊された石ではなく、道を開けた石として」
ガレスは頷いた。
壊したものを、捨てない。
壊したことを、なかったことにしない。
それもまた、ガレスの修理なのだと思った。
その日の夕方、宿舎の作業場で、ガレスは補助帯をもう一度見直していた。
ミラは椅子に座り、まだ少し重そうに足を動かしている。
ロイは自分の手のひらを見ながら、小さく音を出す練習をしていた。出す音ではなく、出さない音を数える練習らしい。
ネルは石を三つ並べて、また順番を変えている。
コレットは記録を整理し、クララは許可を取った範囲だけを別紙に写している。
いつもの第七部だ。
変な部だ。
でも、昨日より少しだけ、山の中にいることを許されたような気がする。
ガレスが補助帯の端を縫い直しながら言った。
「明日は、ミラが任せる」
ミラが顔を上げる。
「何を」
「止まること」
ガレスは針を止めない。
「今日は、俺が道を開けた。明日は、お前が止まって、任せる」
ミラはしばらく黙った。
そして、短く答える。
「わかった」
それは簡単な返事に聞こえた。
でも、たぶん簡単じゃない。
全身が動かなくなることを恐れない。
仲間に回収を任せる。
それは、ミラにとって、自分の力を使い切ることより難しい。
俺は窓の外を見た。
山の影が、夕方の空に濃くなっている。
赤い尾は見えない。
けれど、今日開いた道は、たぶん山のどこかに残っている。
壊す力が、守る道になった。
次は、その道を信じて、止まる番だ。




