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第85話 背負う道を組み直す

 翌朝の山は、昨日より少しだけ近く見えた。


 山が動いたわけじゃない。


 俺たちが、昨日より少しだけ山の見方を覚えただけだ。


 グライフ山岳魔法学校の練習場は、校舎の裏にあるというより、山の途中に校舎が貼りついていると言ったほうが正しい。石段を三つ上がるだけで息が変わり、足元の砂利が普通の砂利ではなく、踏まれた回数と雨の向きまで覚えているように鳴った。


 俺はその音を聞きながら、手袋の指先を軽く握った。


 風は使わない。


 今日の役割は、そこにある。


 使わないと決めるために、いつでも使える場所を確認する。落ちる者が出たとき、戻すためだけに風を置く。軽くしない。浮かせない。届く荷を、別のものに変えない。


 風前確認。


 俺は胸の中で、短く言った。


 戻り言葉は、ルカ。


 忘れないための手順を踏んだあとで、俺は少し離れた場所にいるミラを見た。


 ミラは補助帯を腰に巻かれている。


 昨日ガレスが直した、登攀用の古い帯だ。金具の表面はまだ傷だらけで、新品みたいな顔はしていない。けれど、縫い目はまっすぐで、負荷のかかる部分だけ厚い布が重ねられている。


 ガレスらしい修理だった。


 きれいに隠すんじゃない。


 壊れた場所を、使える場所に変える。


「きついか」


 ガレスが聞いた。


 ミラは腰の金具を引っ張って、短く答える。


「重い」


「直す」


「違う。これでいい」


 ガレスの手が止まった。


 ミラは自分の腰に手を当てる。


「軽くないほうがいい。重いと知って持つためのものだろ」


「ああ」


 ガレスが頷いた。


 それだけで、会話は終わった。


 山の人間同士の会話は、たまに短すぎる。けれど、その短さの中に余計な言い訳がない。


 コレットは石板のような記録板を抱え、今日の合同訓練の配置を山岳校側に説明していた。


「公式戦ではありません。旗奪取の成否も勝敗に換算しません。目的は、崖旗ルベオが反応した『回収路』を、音、背負い、停止、帰路の四点で再構成することです」


 タリアが腕を組む。


「つまり、旗を取らない訓練?」


「取れるなら取ります」


 コレットは小さく言った。


 山岳校の生徒が少し笑いかける。


 けれど、コレットは続けた。


「でも、取ることを目的にしません。取るために回収を雑にするなら、今日は失敗です。ルベオが見たがる道を作る。そこに旗が乗るかどうかは、旗が決めます」


 タリアは一瞬だけ目を細めた。


「山の旗に、旗自身の都合を残すわけだ」


「はい」


「嫌いじゃない」


 ベイルは少し離れた岩の上に座っていた。


 昨日より顔が険しくない。


 ただ、納得している顔でもない。


 あいつはたぶん、俺たちがミラをどう背負うかを見に来た。


 中央の生徒が山のやり方を勝手に飾るのか。


 それとも、重いものを重いまま扱うのか。


 ベイルの目は、そのあたりを見ている。


 ロウナ先生は安全境界の縄を確認し、オルグ主将は訓練路の中腹に立っていた。ハルクは両手を耳の横に当て、谷に返る音を試すように舌打ちを一つした。


「昨日より湿ってる」


 ハルクが言う。


「音、落ちますか」


 ロイが尋ねる。


「落ちる場所と、跳ねる場所が混ざる。ひとつの音で全部知らせようとするな。ここは、音を分けたほうがいい」


 ロイは真剣に頷いた。


「必要な音、危険な音、跳ねそうな音」


「それでいい。跳ねそうな音は鳴らす前に止めろ」


「はい」


 ロイは息を吸い、すぐに吐いた。


 いつもの、勢いで全部鳴らすロイではない。


 音の手前に立っている。


 ネルはその横で、小石を三つ並べていた。


「何してるんだ」


「受け石」


「本物じゃないだろ」


「本物の練習」


 ネルは一つ目の石を指で弾いた。


 石は浅く跳ねて、斜面を少しだけ転がる。


「これが揺れ。二つ目が音。三つ目が人。全部同時に見たら無理。だから、順番を決める」


「順番?」


「ロイが音を持つ。私は揺れを先に見る。人は、ガレスが持つ」


 ガレスがこちらを見た。


「持つ」


 ネルは二つ目の石を軽く押さえた。


「音が跳ねそうなら、ロイが止める。揺れが人に行きそうなら、私が逃がす。人が止まりそうなら、ガレスが背負う。ルカは」


「落ちたら」


「そう」


 ネルは俺を見ずに言った。


「落ちたらだけ」


 その言い方に、少しだけ胸が痛む。


 信頼されているのか、警戒されているのか。


 たぶん、両方だ。


 それでいい。


 俺の風は、軽くする。


 山では、軽くしすぎると危ない。


 ミラが昨日言ったことを、俺はまだ覚えている。


 覚えているうちに、使い方を間違えたくなかった。


「眠い」


 ノルが立ったまま言った。


「寝るなよ」


「寝ない記録」


「それは記録なのか」


「夢の証言を、起きて扱う訓練」


 ノルは半分閉じた目で、昨日の夢を書いた紙を持っている。


 紙には大きく、こう書かれていた。


 軽い足は嫌い。


 沈む足も嫌い。


 戻る重い足を見る。


 背中は「次の足場まで」と言う。


 ずっと持てると嘘をつく背中は嫌い。


 跳ねる音は嫌い。


 跳ねる前に拾う音は見る。


 落ちるものを戻す風は、嫌いじゃない。


 夢の中の旗の言葉だ。


 公式記録ではない。


 でも、今日の作戦では、かなり重い。


 レイナがその紙を覗き込んで、眉を寄せた。


「旗の好みって、ずいぶん注文が多いのね」


「貴族校の白旗も多かっただろ」


「あれは礼節です」


「こっちは山の礼節じゃないか」


 レイナは少し黙り、鼻を鳴らした。


「なら、雑にできませんわね」


 白旗の頃のレイナなら、たぶん言わなかった言葉だ。


 失敗を置く場所を知った人間は、他人の土地の礼節にも少し敏感になるのかもしれない。


 クララは補助帯の金具を見ながら、興奮を抑えきれていない顔をしている。


「記録してもいいですか。いえ、敏感な部分はしません。構造だけです。中央式登攀具との違い、山岳地域における荷重認識の反映、さらに欠陥魔法使用後の身体停止を前提とした回収器具としての」


「長い」


 ミラが遮った。


 クララは息を止めた。


「じゃあ、短く言います。これは、あなたの魔法を失敗扱いしない道具です」


 ミラは金具から手を離した。


「それなら、記録していい」


「ありがとうございます」


 クララは深く頷いた。


 許可を取ってから書く。


 最近のクララは、それを本当に覚えた。


 今日の訓練路は、公式戦で使った崖道より少しだけ低い。


 ただし、簡単ではない。


 左は岩壁。右は谷。中間に狭い棚道があり、その先に崩れた岩の段差がある。ルベオが好む高低差と逃げ場を残しつつ、安全縄と教員の監視が届く範囲だ。


 ルベオは、まだ見えない。


 赤い尾も、岩陰の影もない。


 けれど、山岳校の生徒たちは見えないものを見る顔をしていた。


 いる。


 たぶん、どこかに。


「配置」


 コレットの声で、第七部が動く。


 参加者は五人ではない。


 合同訓練だから、役割を分ける。


 前を見るのはミラ。


 背負うのはガレス。


 音を持つのはロイ。


 揺れを見るのはネル。


 帰路の一方向を張るのはアルフ。


 記録はノルとコレット。


 理論補助はクララ。


 危険な横流れを牽制するため、ジャックは最後尾に置かれた。本人は不満そうだったが、山では危険な攻撃ほど崖に嫌われる。


 リリィは迷子一号を手のひらに乗せている。


「石の上で石を連れて歩くって、なかなか哲学的ですね」


「哲学?」


「わかりません。言ってみただけです」


 迷子一号は当然のように黙っている。


 レイナは失敗を置く係だ。


 段差の手前で、一度目の失敗をわざと作り、急ぐ足を止める。本人は「係の名前がひどい」と言っていたが、動きは丁寧だった。


「始めます」


 コレットが言う。


 ロウナ先生が頷いた。


「安全境界内。風魔法は緊急時のみ。破壊魔法は禁止ではないが、地形への使用は教員許可後。今日は、まず回収路の確認」


 ガレスが少しだけ眉を動かした。


 破壊魔法。


 今日、そこまでは行かない。


 でも、その言葉が出た時点で、次に必要になるものは見えている。


 俺たちは、山の入口に立った。


 ミラが一歩前に出る。


「行く」


 彼女の足に、魔力が入った。


 筋肉が急に膨れるような派手さはない。ただ、足裏が石に貼りつく。背中の角度が変わる。重さを持つ身体になる。


 中央の訓練場で見たら、過出力に見えるのだろう。


 山で見ると、違う。


 道に合わせて身体の言葉を変えている。


「一つ目、低い棚」


 ミラが言う。


 ガレスがすぐ後ろにつく。


「次の足場まで」


 夢の言葉を、ガレスが口にした。


 不器用な声だった。


 けれど、嘘ではない。


 ずっと持てる、とは言わない。


 次の足場まで。


 その正直さが、山では強い。


 ミラは二歩、三歩と進んだ。


 ロイが胸の前で手を開く。


「必要な音、出します」


 小さく、コン、と音が鳴った。


 昨日のロイなら、谷まで起こすような音になっていたかもしれない。


 今日は違う。


 小さな音が、前の石に触れ、戻ってくる。


 ハルクが頷いた。


「いい。まだ谷に投げてない」


 ロイの顔が少し明るくなる。


 でも、すぐに引き締めた。


 褒められた音は、大きくなりやすい。


 ロイはそれを知っている。


 ネルは膝を落とし、地面に手を近づけている。触れない。触れたら、自分の判断が遅れると思っているのかもしれない。


「揺れ、小さい」


 ネルが言う。


「人に行ってない」


 ガレスが頷く。


 ミラは低い棚を渡り切った。


「終わりじゃない。次」


 彼女が言う。


 その言葉に、俺は少し驚いた。


 終わりを早めに言う訓練をしているミラが、今は終わりじゃないと言った。


 無理をしているのか。


 それとも、正しく続けられるのか。


 判断するのは、俺じゃない。


 ガレスがミラの肩ではなく、補助帯の後ろを軽く持った。


 身体を直接持たない。


 道具を持つ。


 傷を直接持たない。周りを持つ。


 ガレスが何度も言ってきたことが、ここでは人の回収にも使われている。


 二つ目の段差に近づいたとき、岩陰の奥で何かが赤く揺れた。


 ロイが息を止める。


 ネルの指が石に近づく。


 ミラは、そちらを見ない。


 見ると追う。


 追えば落ちる。


 ルベオの赤い尾は、ほんの一瞬だけ見えた。


 こちらを誘うように、岩の上を流れる。


 タリアが低く呟いた。


「来た」


 ベイルが立ち上がる。


 俺の指先に風が集まりかけた。


 すぐに解く。


 まだだ。


 落ちていない。


 軽くするな。


「見ない」


 ミラが言った。


「見えてる。でも、見ない」


 ガレスが返す。


「次の足場まで」


 ミラの口元が少しだけ動いた。


「重いぞ」


「知ってる」


「止まるかもしれない」


「知ってる」


「なら、行く」


「ああ」


 二人の会話は短い。


 けれど、背負われる側の仕事がそこにある。


 ミラは自分の重さを隠さない。


 ガレスは持てるふりをしない。


 だから、回収が戦術になる。


 ロイが二つ目の音を出そうとした瞬間、ハルクが手を上げた。


 ロイは止まる。


「跳ねそう」


 ハルクが言うより早く、ロイが言った。


 音は鳴らなかった。


 鳴らない音が、場に残る。


 変な言い方だけれど、確かにそうだった。


 出していたら谷に投げられていた音。


 それをロイが手前で拾った。


 ルベオの赤い尾が、岩陰で止まった。


 見ている。


 たぶん。


 ノルが小さく記録する。


「跳ねる前に拾う音。反応あり」


「公式記録にするなよ」


「夢由来補助記録」


「便利な言葉だな」


 ミラは二つ目の段差に足をかけた。


 その瞬間、足元の石が沈んだ。


「揺れ、来る」


 ネルが言う。


 彼女の魔力が、一瞬だけ光った。


 押すのではなく、逃がす。


 石に触れた力を、横へ流す。


 段差の縁に溜まっていた小石が、ぱらぱらと落ちた。谷へではなく、左の浅い窪みに向かって散る。


「触ってない」


 ネルが自分で言った。


「手で見た。魔法は逃がしただけ」


 コレットが記録する。


 人を先に見る。


 それから負け筋に使う。


 そのルールが、記録板の上にもある。


 ミラの足は止まっていない。


 けれど、動きが少し重くなった。


 魔法の反動が近い。


 俺でもわかる。


 ミラが奥歯を噛む。


 言え。


 俺は心の中で思った。


 無理をするな、ではない。


 終わりを言え。


 背負われる側の仕事をしろ。


 ミラは赤い尾を見なかった。


 前の足場を見て、息を吐いた。


「終わり」


 ガレスがすぐに動いた。


 ミラの身体が倒れる前に、補助帯の支点を取り、背中を入れる。


 抱えるのではない。


 引きずるのでもない。


 背負う。


 ミラの両腕がガレスの肩に回る。


「重い」


 ミラが言う。


「知ってる」


 ガレスが返す。


「怖いか」


「少し」


「どっちが」


「落とすこと」


 ガレスは一歩だけ止まった。


 そして、言った。


「言った」


「ああ」


「なら、行ける」


 ガレスが踏み出す。


 ミラの身体はもうほとんど動かない。


 筋力強化の代償。


 中央なら、失敗の結果。


 山なら、回収前提の完了。


 この違いを、俺は目で覚えようとした。


 ルベオの赤い尾が、少し近づいた。


 奪われるのは嫌い。


 でも、届く荷を見る。


 ノルの夢の証言が、頭の中で響く。


 ロイが今度は小さく、短い音を鳴らした。


 コン。


 必要な音。


 ガレスの足が乗る石を知らせる音。


 その音に合わせて、アルフが谷側へ一方向の結界を張った。


 薄い透明な壁が、右の空気にだけ立つ。


「帰路限定」


 アルフが言う。


「行きに頼ると、足が甘える」


 山岳校のオルグ主将が、感心したように息を吐いた。


「中央の結界にしては、山を邪魔しない」


 アルフは少しだけ眉を動かす。


「褒められたと受け取ります」


「褒めた」


 その横で、ジャックが不満そうに腕を組んでいる。


「俺の出番、ずっとないんだけど」


 リリィが言う。


「山を壊さないでいるだけで、だいぶ貢献です」


「それ褒めてる?」


「今日は本気で褒めてます」


 ジャックは少し困った顔をした。


 危険な攻撃役が、攻撃しないことを選ぶ。


 それも、回収路の一部なのかもしれない。


 ガレスはミラを背負い、二つ目の足場へ届いた。


 そこで一度、膝をつく。


「休む」


 ガレスが言う。


 ミラは背中で頷いた。


「背負われる側の仕事」


「何」


「暴れない」


「できてる」


「口は動く」


「それは仕事か」


「たぶん」


 ミラが少しだけ笑った。


 その笑いを聞いて、ネルが息を吐く。


 コレットは記録板に何かを書いたあと、すぐに一行を消した。


「どうした」


 俺が聞く。


「最初に負け筋を書きそうになりました」


「悪いことじゃないだろ」


「悪くはありません。でも、今のは先に人を書くところでした」


 コレットは改めて記録した。


 ミラ、停止を早期申告。


 ガレス、怖さを言語化後に回収継続。


 ロイ、跳ねそうな音を鳴らす前に停止。


 ネル、揺れを人に行かせず逃がす。


 アルフ、帰路限定結界。


 そのあとに、小さく負け筋を書いた。


 第三足場手前、岩壁崩落跡で回収路途切れ。


 俺はその一行を見て、前を向いた。


 三つ目の足場。


 そこが、今日の訓練路の難所だった。


 公式戦のときには通れなかった場所に似せて、崩れた岩が斜めに積み上がっている。上から回れば遠すぎる。下から行けば谷側に身体が振られる。正面は、岩が噛み合っていて、人ひとりが通るには狭い。


 ルベオなら通れる。


 人は、通れない。


 だから、旗はそこに立つ。


 赤い尾が、崩れ岩の上に現れた。


 今度は全員が見た。


 小さな獣の形。


 崖の色に紛れる身体。


 尾だけが、山に残った火みたいに赤い。


 ルベオは、こちらを見下ろしていた。


 近い。


 取ろうと思えば、届きそうに見える。


 けれど、ここで追えば落ちる。


 待てば来ない。


 呼べば逃げる。


 逃げると追ってくることがある。


 面倒な旗だ。


 でも、今は少しだけ、面倒という言葉が悪口じゃない気がした。


 レイナが段差の手前に立つ。


「一度目、失敗します」


 宣言してから、足を置く。


 わざと滑らせる。


 ただし、雑には滑らせない。


 失敗は、そこにある危険を見せるために置かれる。


 山岳校の生徒が、息を飲んだ。


 レイナはすぐに体勢を戻し、次の足を置かない。


「ここで急ぐと、右へ流れます」


 彼女が言う。


 プライドの高い声。


 でも、もう失敗を隠していない。


 タリアが頷く。


「山の子でもやる判断だ」


「当然ですわ」


 レイナは少しだけ嬉しそうに言った。


 ガレスはミラを背負ったまま、崩れ岩の前に立つ。


 通れない。


 無理に通れば、補助帯が岩に引っかかる。


 ミラの動かない足が、岩角にぶつかる。


 背負う者だけでなく、背負われる者も傷つく。


「止まる」


 ガレスが言った。


 その声に、悔しさはある。


 でも、意地はない。


 コレットが前を見る。


「今日の目的は、ここまでです」


 ベイルが岩の上から言う。


「そこを通れなきゃ、届いたとは言わねえだろ」


 ミラの肩が、ガレスの背中で少しだけ揺れた。


 俺はベイルを見上げる。


 言い返そうとした。


 でも、ミラが先に言った。


「届いてない」


 静かな声だった。


「ここまでは、届いた。ここから先は、まだ届いてない」


 ベイルの口が閉じる。


 ミラは動かない身体のまま、崩れ岩を見ている。


「でも、重いまま来た」


 ガレスが言った。


 ミラが頷く。


「重いまま、ここまで来た」


 ロイが手を上げる。


「音、出しますか」


 ハルクが谷を見た。


「出せる。ただ、ここで強い音を出すと、上の岩が返す」


「じゃあ、出しません」


 ロイはすぐに答えた。


 昨日なら、試したかもしれない。


 今は、止める判断がある。


 ネルが崩れ岩の隙間に目を凝らす。


「揺れ、詰まってる」


「詰まってる?」


「動かしたら、全部落ちるんじゃなくて、一つだけ変に残る。たぶん、それが跳ねる」


 ガレスが岩を見る。


 手が、ほんの少し動いた。


 壊す魔法。


 直すための入口。


 でも、ロウナ先生の許可はまだない。


 今日の目的は回収路の確認。


 ここで勝手に壊せば、山に対して雑になる。


 ガレスは手を下ろした。


「次だ」


 彼は言った。


 短い言葉。


 けれど、そこには悔しさだけじゃなく、準備があった。


「壊す場所を、選ぶ」


 クララが小さく息を吸った。


「破壊魔法を地形制御に用いる場合、対象選定と荷重逃がしが」


「クララ」


 ミラが言う。


「短く」


「次は、壊すために見る回です」


「それならわかる」


 ルベオが、崩れ岩の上で尾を揺らした。


 逃げない。


 近づきもしない。


 ただ、見ている。


 ロウナ先生が記録板に線を引く。


「訓練一回目、終了。回収路は第二足場まで成立。第三足場前、崩落岩で途切れ。安全判断は良好」


 オルグ主将が続ける。


「旗反応あり。奪取なし」


 タリアが、少し笑った。


「奪取なし、って言い方が今日は妙に惜しくないね」


 その通りだった。


 旗は取れていない。


 勝っていない。


 でも、昨日までとは違うものが残った。


 ミラはガレスの背中で、動かないまま言った。


「降ろせ」


 ガレスが聞く。


「ここでか」


「いや。戻ってから」


「わかった」


「背負われるのは、まだ嫌だ」


「ああ」


「でも、仕事ならできる」


「ああ」


「次は、もっと早く終わりを言う」


「俺も、もっと早く怖いを言う」


 ガレスがそう言うと、ベイルが岩の上で目をそらした。


 笑ったのかもしれない。


 顔は見えなかった。


 戻り道では、ロイが一度だけ音を出した。


 小さな音。


 帰るための音。


 谷には投げない。


 足場にだけ渡す。


 アルフの結界が右に立ち、ネルの手が揺れを見て、レイナの失敗が急ぎを止める。


 俺の風は、最後まで使わなかった。


 使わなかったことを、少し誇っていいのかもしれない。


 山で何もしないのは、楽をすることじゃない。


 軽くしないための役割だ。


 訓練場の入口まで戻ると、ガレスは膝をつき、ミラをゆっくり下ろした。


 ミラの身体はまだ動かない。


 けれど、顔は伏せていなかった。


「水」


 ガレスが言う。


「大事」


 ミラが返す。


 ネルが水筒を渡した。


「自分で飲める?」


「手が動かない」


「じゃあ、飲ませる」


「雑にするな」


「しない」


 ネルは本当に慎重に、水をミラの口元へ運んだ。


 その横で、ロイが両手を握ったり開いたりしている。


「鳴らさないの、すごく疲れますね」


 ハルクが笑う。


「音を持つってそういうことだ」


「鳴らすより?」


「鳴らすだけなら、山が勝手に持っていく。鳴らさないなら、自分で持つ」


 ロイはその言葉を、やけに真剣に聞いていた。


 ノルが記録板の端に書く。


 音を一人で持たない。


 でも、鳴らさない音は一度自分で持つ。


「眠いのに、よく書けるな」


「眠いから、夢に近い」


「それ、理由になってるか?」


「たぶん」


 コレットは訓練結果をまとめ終え、山岳校側へ頭を下げた。


「ありがとうございました。次回、第三足場前の崩落岩について、破壊魔法使用の許可を相談させてください」


 ロウナ先生はすぐには答えなかった。


 ガレスを見た。


 ガレスは視線を受け、短く言う。


「全部は壊さない」


「どこを壊すつもり?」


「まだ決めない。見る」


「いい答えね」


 ロウナ先生は頷いた。


「山で一番危ないのは、壊す力より、見ないで壊すこと。明日、見る時間を取りましょう」


 ガレスは頷いた。


 クララが、もう書きたくて仕方ない顔をしている。


 でも、今日はまだ書かない。


 たぶん、ガレスが選ぶまで待つつもりだ。


 ベイルが岩から降りてきた。


 ミラの前に立つ。


「中央の背負われ方じゃねえな」


 ミラは水を飲み終え、息を整えてから答えた。


「山の背負われ方でも、まだ下手だ」


「そうだな」


 ベイルは素直に認めた。


 認めたうえで、少しだけ口の端を上げる。


「でも、荷物の顔はしてなかった」


 ミラは黙った。


 その沈黙は、怒りではなかった。


 言葉を受け取るための沈黙だった。


 ガレスが横から言う。


「荷だ」


 ベイルの眉が動く。


 ガレスは続けた。


「でも、捨てる荷じゃない」


 ミラが少しだけ笑う。


「言い方」


「悪いか」


「悪くない」


 ベイルは大きく息を吐いた。


「変な連中だな、第七部」


「よく言われます」


 ロイがなぜか嬉しそうに答えた。


 タリアが肩をすくめる。


「変なまま、明日あの岩を見に来な。ルベオも、たぶん来る」


 俺は崩れ岩のほうを見た。


 赤い尾はもうなかった。


 でも、見られていた感覚だけが残っている。


 届いた荷。


 まだ届かない道。


 背負う者。


 背負われる者。


 鳴らさない音。


 逃がされた揺れ。


 使わなかった風。


 どれも派手な勝利じゃない。


 けれど、山の旗が見たがるものは、そういうものなのかもしれない。


 宿舎へ戻る前、コレットが俺の隣に来た。


「ルカくん」


「何」


「今日は、風を使わない判断、ありがとうございました」


「礼を言われるほどのことじゃない」


「あります」


 コレットは記録板を抱え直す。


「使える人が使わないでいるのは、ただの不参加じゃありません。作戦です」


 俺は返事に困った。


 作戦。


 そう言われると、少し救われる。


 俺の魔法は、使うたびに何かを失う。


 だから、使わないことは逃げだと思っていた。


 でも、今日の山では違った。


 使わないことで、ミラの重さを軽くしなかった。


 ガレスの背中を別のものにしなかった。


 ロイの音を風で散らさなかった。


 ネルの揺れを奪わなかった。


 俺が何もしなかったから、残ったものがある。


「次は、ガレスだな」


 俺が言うと、コレットは頷いた。


「はい。壊す場所を選ぶ回です」


「怖いな」


「怖いです」


 コレットは正直に言った。


「でも、ガレス先輩が壊すなら、直すための入口になると思います」


 その言葉を聞いたガレスが、少し離れた場所で振り向いた。


 聞こえていたらしい。


「まだ、選んでない」


「明日選びましょう」


「ああ」


 山の空気が、朝より少し乾いてきていた。


 遠くの岩壁で、小さな石が落ちる音がした。


 ロイが反射的に顔を上げる。


 ネルも見る。


 ガレスも見る。


 ミラは動かない身体のまま、音の方向を聞いている。


 それだけで、昨日とは違う。


 誰か一人が背負うのではなく、全員で道を見る。


 ルベオがその姿を見ていたかどうかは、わからない。


 けれど、崖の上で赤いものが一瞬だけ揺れた気がした。


 奪われるのが嫌いな旗。


 届く荷を見る旗。


 その旗に、俺たちはまだ届いていない。


 でも、届いていない場所を、今日初めて正しく見つけた。


 なら、次はそこをどう開くかだ。


 壊す力で、守る道を作る。


 ガレスの手が、静かに握られていた。


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