第85話 背負う道を組み直す
翌朝の山は、昨日より少しだけ近く見えた。
山が動いたわけじゃない。
俺たちが、昨日より少しだけ山の見方を覚えただけだ。
グライフ山岳魔法学校の練習場は、校舎の裏にあるというより、山の途中に校舎が貼りついていると言ったほうが正しい。石段を三つ上がるだけで息が変わり、足元の砂利が普通の砂利ではなく、踏まれた回数と雨の向きまで覚えているように鳴った。
俺はその音を聞きながら、手袋の指先を軽く握った。
風は使わない。
今日の役割は、そこにある。
使わないと決めるために、いつでも使える場所を確認する。落ちる者が出たとき、戻すためだけに風を置く。軽くしない。浮かせない。届く荷を、別のものに変えない。
風前確認。
俺は胸の中で、短く言った。
戻り言葉は、ルカ。
忘れないための手順を踏んだあとで、俺は少し離れた場所にいるミラを見た。
ミラは補助帯を腰に巻かれている。
昨日ガレスが直した、登攀用の古い帯だ。金具の表面はまだ傷だらけで、新品みたいな顔はしていない。けれど、縫い目はまっすぐで、負荷のかかる部分だけ厚い布が重ねられている。
ガレスらしい修理だった。
きれいに隠すんじゃない。
壊れた場所を、使える場所に変える。
「きついか」
ガレスが聞いた。
ミラは腰の金具を引っ張って、短く答える。
「重い」
「直す」
「違う。これでいい」
ガレスの手が止まった。
ミラは自分の腰に手を当てる。
「軽くないほうがいい。重いと知って持つためのものだろ」
「ああ」
ガレスが頷いた。
それだけで、会話は終わった。
山の人間同士の会話は、たまに短すぎる。けれど、その短さの中に余計な言い訳がない。
コレットは石板のような記録板を抱え、今日の合同訓練の配置を山岳校側に説明していた。
「公式戦ではありません。旗奪取の成否も勝敗に換算しません。目的は、崖旗ルベオが反応した『回収路』を、音、背負い、停止、帰路の四点で再構成することです」
タリアが腕を組む。
「つまり、旗を取らない訓練?」
「取れるなら取ります」
コレットは小さく言った。
山岳校の生徒が少し笑いかける。
けれど、コレットは続けた。
「でも、取ることを目的にしません。取るために回収を雑にするなら、今日は失敗です。ルベオが見たがる道を作る。そこに旗が乗るかどうかは、旗が決めます」
タリアは一瞬だけ目を細めた。
「山の旗に、旗自身の都合を残すわけだ」
「はい」
「嫌いじゃない」
ベイルは少し離れた岩の上に座っていた。
昨日より顔が険しくない。
ただ、納得している顔でもない。
あいつはたぶん、俺たちがミラをどう背負うかを見に来た。
中央の生徒が山のやり方を勝手に飾るのか。
それとも、重いものを重いまま扱うのか。
ベイルの目は、そのあたりを見ている。
ロウナ先生は安全境界の縄を確認し、オルグ主将は訓練路の中腹に立っていた。ハルクは両手を耳の横に当て、谷に返る音を試すように舌打ちを一つした。
「昨日より湿ってる」
ハルクが言う。
「音、落ちますか」
ロイが尋ねる。
「落ちる場所と、跳ねる場所が混ざる。ひとつの音で全部知らせようとするな。ここは、音を分けたほうがいい」
ロイは真剣に頷いた。
「必要な音、危険な音、跳ねそうな音」
「それでいい。跳ねそうな音は鳴らす前に止めろ」
「はい」
ロイは息を吸い、すぐに吐いた。
いつもの、勢いで全部鳴らすロイではない。
音の手前に立っている。
ネルはその横で、小石を三つ並べていた。
「何してるんだ」
「受け石」
「本物じゃないだろ」
「本物の練習」
ネルは一つ目の石を指で弾いた。
石は浅く跳ねて、斜面を少しだけ転がる。
「これが揺れ。二つ目が音。三つ目が人。全部同時に見たら無理。だから、順番を決める」
「順番?」
「ロイが音を持つ。私は揺れを先に見る。人は、ガレスが持つ」
ガレスがこちらを見た。
「持つ」
ネルは二つ目の石を軽く押さえた。
「音が跳ねそうなら、ロイが止める。揺れが人に行きそうなら、私が逃がす。人が止まりそうなら、ガレスが背負う。ルカは」
「落ちたら」
「そう」
ネルは俺を見ずに言った。
「落ちたらだけ」
その言い方に、少しだけ胸が痛む。
信頼されているのか、警戒されているのか。
たぶん、両方だ。
それでいい。
俺の風は、軽くする。
山では、軽くしすぎると危ない。
ミラが昨日言ったことを、俺はまだ覚えている。
覚えているうちに、使い方を間違えたくなかった。
「眠い」
ノルが立ったまま言った。
「寝るなよ」
「寝ない記録」
「それは記録なのか」
「夢の証言を、起きて扱う訓練」
ノルは半分閉じた目で、昨日の夢を書いた紙を持っている。
紙には大きく、こう書かれていた。
軽い足は嫌い。
沈む足も嫌い。
戻る重い足を見る。
背中は「次の足場まで」と言う。
ずっと持てると嘘をつく背中は嫌い。
跳ねる音は嫌い。
跳ねる前に拾う音は見る。
落ちるものを戻す風は、嫌いじゃない。
夢の中の旗の言葉だ。
公式記録ではない。
でも、今日の作戦では、かなり重い。
レイナがその紙を覗き込んで、眉を寄せた。
「旗の好みって、ずいぶん注文が多いのね」
「貴族校の白旗も多かっただろ」
「あれは礼節です」
「こっちは山の礼節じゃないか」
レイナは少し黙り、鼻を鳴らした。
「なら、雑にできませんわね」
白旗の頃のレイナなら、たぶん言わなかった言葉だ。
失敗を置く場所を知った人間は、他人の土地の礼節にも少し敏感になるのかもしれない。
クララは補助帯の金具を見ながら、興奮を抑えきれていない顔をしている。
「記録してもいいですか。いえ、敏感な部分はしません。構造だけです。中央式登攀具との違い、山岳地域における荷重認識の反映、さらに欠陥魔法使用後の身体停止を前提とした回収器具としての」
「長い」
ミラが遮った。
クララは息を止めた。
「じゃあ、短く言います。これは、あなたの魔法を失敗扱いしない道具です」
ミラは金具から手を離した。
「それなら、記録していい」
「ありがとうございます」
クララは深く頷いた。
許可を取ってから書く。
最近のクララは、それを本当に覚えた。
今日の訓練路は、公式戦で使った崖道より少しだけ低い。
ただし、簡単ではない。
左は岩壁。右は谷。中間に狭い棚道があり、その先に崩れた岩の段差がある。ルベオが好む高低差と逃げ場を残しつつ、安全縄と教員の監視が届く範囲だ。
ルベオは、まだ見えない。
赤い尾も、岩陰の影もない。
けれど、山岳校の生徒たちは見えないものを見る顔をしていた。
いる。
たぶん、どこかに。
「配置」
コレットの声で、第七部が動く。
参加者は五人ではない。
合同訓練だから、役割を分ける。
前を見るのはミラ。
背負うのはガレス。
音を持つのはロイ。
揺れを見るのはネル。
帰路の一方向を張るのはアルフ。
記録はノルとコレット。
理論補助はクララ。
危険な横流れを牽制するため、ジャックは最後尾に置かれた。本人は不満そうだったが、山では危険な攻撃ほど崖に嫌われる。
リリィは迷子一号を手のひらに乗せている。
「石の上で石を連れて歩くって、なかなか哲学的ですね」
「哲学?」
「わかりません。言ってみただけです」
迷子一号は当然のように黙っている。
レイナは失敗を置く係だ。
段差の手前で、一度目の失敗をわざと作り、急ぐ足を止める。本人は「係の名前がひどい」と言っていたが、動きは丁寧だった。
「始めます」
コレットが言う。
ロウナ先生が頷いた。
「安全境界内。風魔法は緊急時のみ。破壊魔法は禁止ではないが、地形への使用は教員許可後。今日は、まず回収路の確認」
ガレスが少しだけ眉を動かした。
破壊魔法。
今日、そこまでは行かない。
でも、その言葉が出た時点で、次に必要になるものは見えている。
俺たちは、山の入口に立った。
ミラが一歩前に出る。
「行く」
彼女の足に、魔力が入った。
筋肉が急に膨れるような派手さはない。ただ、足裏が石に貼りつく。背中の角度が変わる。重さを持つ身体になる。
中央の訓練場で見たら、過出力に見えるのだろう。
山で見ると、違う。
道に合わせて身体の言葉を変えている。
「一つ目、低い棚」
ミラが言う。
ガレスがすぐ後ろにつく。
「次の足場まで」
夢の言葉を、ガレスが口にした。
不器用な声だった。
けれど、嘘ではない。
ずっと持てる、とは言わない。
次の足場まで。
その正直さが、山では強い。
ミラは二歩、三歩と進んだ。
ロイが胸の前で手を開く。
「必要な音、出します」
小さく、コン、と音が鳴った。
昨日のロイなら、谷まで起こすような音になっていたかもしれない。
今日は違う。
小さな音が、前の石に触れ、戻ってくる。
ハルクが頷いた。
「いい。まだ谷に投げてない」
ロイの顔が少し明るくなる。
でも、すぐに引き締めた。
褒められた音は、大きくなりやすい。
ロイはそれを知っている。
ネルは膝を落とし、地面に手を近づけている。触れない。触れたら、自分の判断が遅れると思っているのかもしれない。
「揺れ、小さい」
ネルが言う。
「人に行ってない」
ガレスが頷く。
ミラは低い棚を渡り切った。
「終わりじゃない。次」
彼女が言う。
その言葉に、俺は少し驚いた。
終わりを早めに言う訓練をしているミラが、今は終わりじゃないと言った。
無理をしているのか。
それとも、正しく続けられるのか。
判断するのは、俺じゃない。
ガレスがミラの肩ではなく、補助帯の後ろを軽く持った。
身体を直接持たない。
道具を持つ。
傷を直接持たない。周りを持つ。
ガレスが何度も言ってきたことが、ここでは人の回収にも使われている。
二つ目の段差に近づいたとき、岩陰の奥で何かが赤く揺れた。
ロイが息を止める。
ネルの指が石に近づく。
ミラは、そちらを見ない。
見ると追う。
追えば落ちる。
ルベオの赤い尾は、ほんの一瞬だけ見えた。
こちらを誘うように、岩の上を流れる。
タリアが低く呟いた。
「来た」
ベイルが立ち上がる。
俺の指先に風が集まりかけた。
すぐに解く。
まだだ。
落ちていない。
軽くするな。
「見ない」
ミラが言った。
「見えてる。でも、見ない」
ガレスが返す。
「次の足場まで」
ミラの口元が少しだけ動いた。
「重いぞ」
「知ってる」
「止まるかもしれない」
「知ってる」
「なら、行く」
「ああ」
二人の会話は短い。
けれど、背負われる側の仕事がそこにある。
ミラは自分の重さを隠さない。
ガレスは持てるふりをしない。
だから、回収が戦術になる。
ロイが二つ目の音を出そうとした瞬間、ハルクが手を上げた。
ロイは止まる。
「跳ねそう」
ハルクが言うより早く、ロイが言った。
音は鳴らなかった。
鳴らない音が、場に残る。
変な言い方だけれど、確かにそうだった。
出していたら谷に投げられていた音。
それをロイが手前で拾った。
ルベオの赤い尾が、岩陰で止まった。
見ている。
たぶん。
ノルが小さく記録する。
「跳ねる前に拾う音。反応あり」
「公式記録にするなよ」
「夢由来補助記録」
「便利な言葉だな」
ミラは二つ目の段差に足をかけた。
その瞬間、足元の石が沈んだ。
「揺れ、来る」
ネルが言う。
彼女の魔力が、一瞬だけ光った。
押すのではなく、逃がす。
石に触れた力を、横へ流す。
段差の縁に溜まっていた小石が、ぱらぱらと落ちた。谷へではなく、左の浅い窪みに向かって散る。
「触ってない」
ネルが自分で言った。
「手で見た。魔法は逃がしただけ」
コレットが記録する。
人を先に見る。
それから負け筋に使う。
そのルールが、記録板の上にもある。
ミラの足は止まっていない。
けれど、動きが少し重くなった。
魔法の反動が近い。
俺でもわかる。
ミラが奥歯を噛む。
言え。
俺は心の中で思った。
無理をするな、ではない。
終わりを言え。
背負われる側の仕事をしろ。
ミラは赤い尾を見なかった。
前の足場を見て、息を吐いた。
「終わり」
ガレスがすぐに動いた。
ミラの身体が倒れる前に、補助帯の支点を取り、背中を入れる。
抱えるのではない。
引きずるのでもない。
背負う。
ミラの両腕がガレスの肩に回る。
「重い」
ミラが言う。
「知ってる」
ガレスが返す。
「怖いか」
「少し」
「どっちが」
「落とすこと」
ガレスは一歩だけ止まった。
そして、言った。
「言った」
「ああ」
「なら、行ける」
ガレスが踏み出す。
ミラの身体はもうほとんど動かない。
筋力強化の代償。
中央なら、失敗の結果。
山なら、回収前提の完了。
この違いを、俺は目で覚えようとした。
ルベオの赤い尾が、少し近づいた。
奪われるのは嫌い。
でも、届く荷を見る。
ノルの夢の証言が、頭の中で響く。
ロイが今度は小さく、短い音を鳴らした。
コン。
必要な音。
ガレスの足が乗る石を知らせる音。
その音に合わせて、アルフが谷側へ一方向の結界を張った。
薄い透明な壁が、右の空気にだけ立つ。
「帰路限定」
アルフが言う。
「行きに頼ると、足が甘える」
山岳校のオルグ主将が、感心したように息を吐いた。
「中央の結界にしては、山を邪魔しない」
アルフは少しだけ眉を動かす。
「褒められたと受け取ります」
「褒めた」
その横で、ジャックが不満そうに腕を組んでいる。
「俺の出番、ずっとないんだけど」
リリィが言う。
「山を壊さないでいるだけで、だいぶ貢献です」
「それ褒めてる?」
「今日は本気で褒めてます」
ジャックは少し困った顔をした。
危険な攻撃役が、攻撃しないことを選ぶ。
それも、回収路の一部なのかもしれない。
ガレスはミラを背負い、二つ目の足場へ届いた。
そこで一度、膝をつく。
「休む」
ガレスが言う。
ミラは背中で頷いた。
「背負われる側の仕事」
「何」
「暴れない」
「できてる」
「口は動く」
「それは仕事か」
「たぶん」
ミラが少しだけ笑った。
その笑いを聞いて、ネルが息を吐く。
コレットは記録板に何かを書いたあと、すぐに一行を消した。
「どうした」
俺が聞く。
「最初に負け筋を書きそうになりました」
「悪いことじゃないだろ」
「悪くはありません。でも、今のは先に人を書くところでした」
コレットは改めて記録した。
ミラ、停止を早期申告。
ガレス、怖さを言語化後に回収継続。
ロイ、跳ねそうな音を鳴らす前に停止。
ネル、揺れを人に行かせず逃がす。
アルフ、帰路限定結界。
そのあとに、小さく負け筋を書いた。
第三足場手前、岩壁崩落跡で回収路途切れ。
俺はその一行を見て、前を向いた。
三つ目の足場。
そこが、今日の訓練路の難所だった。
公式戦のときには通れなかった場所に似せて、崩れた岩が斜めに積み上がっている。上から回れば遠すぎる。下から行けば谷側に身体が振られる。正面は、岩が噛み合っていて、人ひとりが通るには狭い。
ルベオなら通れる。
人は、通れない。
だから、旗はそこに立つ。
赤い尾が、崩れ岩の上に現れた。
今度は全員が見た。
小さな獣の形。
崖の色に紛れる身体。
尾だけが、山に残った火みたいに赤い。
ルベオは、こちらを見下ろしていた。
近い。
取ろうと思えば、届きそうに見える。
けれど、ここで追えば落ちる。
待てば来ない。
呼べば逃げる。
逃げると追ってくることがある。
面倒な旗だ。
でも、今は少しだけ、面倒という言葉が悪口じゃない気がした。
レイナが段差の手前に立つ。
「一度目、失敗します」
宣言してから、足を置く。
わざと滑らせる。
ただし、雑には滑らせない。
失敗は、そこにある危険を見せるために置かれる。
山岳校の生徒が、息を飲んだ。
レイナはすぐに体勢を戻し、次の足を置かない。
「ここで急ぐと、右へ流れます」
彼女が言う。
プライドの高い声。
でも、もう失敗を隠していない。
タリアが頷く。
「山の子でもやる判断だ」
「当然ですわ」
レイナは少しだけ嬉しそうに言った。
ガレスはミラを背負ったまま、崩れ岩の前に立つ。
通れない。
無理に通れば、補助帯が岩に引っかかる。
ミラの動かない足が、岩角にぶつかる。
背負う者だけでなく、背負われる者も傷つく。
「止まる」
ガレスが言った。
その声に、悔しさはある。
でも、意地はない。
コレットが前を見る。
「今日の目的は、ここまでです」
ベイルが岩の上から言う。
「そこを通れなきゃ、届いたとは言わねえだろ」
ミラの肩が、ガレスの背中で少しだけ揺れた。
俺はベイルを見上げる。
言い返そうとした。
でも、ミラが先に言った。
「届いてない」
静かな声だった。
「ここまでは、届いた。ここから先は、まだ届いてない」
ベイルの口が閉じる。
ミラは動かない身体のまま、崩れ岩を見ている。
「でも、重いまま来た」
ガレスが言った。
ミラが頷く。
「重いまま、ここまで来た」
ロイが手を上げる。
「音、出しますか」
ハルクが谷を見た。
「出せる。ただ、ここで強い音を出すと、上の岩が返す」
「じゃあ、出しません」
ロイはすぐに答えた。
昨日なら、試したかもしれない。
今は、止める判断がある。
ネルが崩れ岩の隙間に目を凝らす。
「揺れ、詰まってる」
「詰まってる?」
「動かしたら、全部落ちるんじゃなくて、一つだけ変に残る。たぶん、それが跳ねる」
ガレスが岩を見る。
手が、ほんの少し動いた。
壊す魔法。
直すための入口。
でも、ロウナ先生の許可はまだない。
今日の目的は回収路の確認。
ここで勝手に壊せば、山に対して雑になる。
ガレスは手を下ろした。
「次だ」
彼は言った。
短い言葉。
けれど、そこには悔しさだけじゃなく、準備があった。
「壊す場所を、選ぶ」
クララが小さく息を吸った。
「破壊魔法を地形制御に用いる場合、対象選定と荷重逃がしが」
「クララ」
ミラが言う。
「短く」
「次は、壊すために見る回です」
「それならわかる」
ルベオが、崩れ岩の上で尾を揺らした。
逃げない。
近づきもしない。
ただ、見ている。
ロウナ先生が記録板に線を引く。
「訓練一回目、終了。回収路は第二足場まで成立。第三足場前、崩落岩で途切れ。安全判断は良好」
オルグ主将が続ける。
「旗反応あり。奪取なし」
タリアが、少し笑った。
「奪取なし、って言い方が今日は妙に惜しくないね」
その通りだった。
旗は取れていない。
勝っていない。
でも、昨日までとは違うものが残った。
ミラはガレスの背中で、動かないまま言った。
「降ろせ」
ガレスが聞く。
「ここでか」
「いや。戻ってから」
「わかった」
「背負われるのは、まだ嫌だ」
「ああ」
「でも、仕事ならできる」
「ああ」
「次は、もっと早く終わりを言う」
「俺も、もっと早く怖いを言う」
ガレスがそう言うと、ベイルが岩の上で目をそらした。
笑ったのかもしれない。
顔は見えなかった。
戻り道では、ロイが一度だけ音を出した。
小さな音。
帰るための音。
谷には投げない。
足場にだけ渡す。
アルフの結界が右に立ち、ネルの手が揺れを見て、レイナの失敗が急ぎを止める。
俺の風は、最後まで使わなかった。
使わなかったことを、少し誇っていいのかもしれない。
山で何もしないのは、楽をすることじゃない。
軽くしないための役割だ。
訓練場の入口まで戻ると、ガレスは膝をつき、ミラをゆっくり下ろした。
ミラの身体はまだ動かない。
けれど、顔は伏せていなかった。
「水」
ガレスが言う。
「大事」
ミラが返す。
ネルが水筒を渡した。
「自分で飲める?」
「手が動かない」
「じゃあ、飲ませる」
「雑にするな」
「しない」
ネルは本当に慎重に、水をミラの口元へ運んだ。
その横で、ロイが両手を握ったり開いたりしている。
「鳴らさないの、すごく疲れますね」
ハルクが笑う。
「音を持つってそういうことだ」
「鳴らすより?」
「鳴らすだけなら、山が勝手に持っていく。鳴らさないなら、自分で持つ」
ロイはその言葉を、やけに真剣に聞いていた。
ノルが記録板の端に書く。
音を一人で持たない。
でも、鳴らさない音は一度自分で持つ。
「眠いのに、よく書けるな」
「眠いから、夢に近い」
「それ、理由になってるか?」
「たぶん」
コレットは訓練結果をまとめ終え、山岳校側へ頭を下げた。
「ありがとうございました。次回、第三足場前の崩落岩について、破壊魔法使用の許可を相談させてください」
ロウナ先生はすぐには答えなかった。
ガレスを見た。
ガレスは視線を受け、短く言う。
「全部は壊さない」
「どこを壊すつもり?」
「まだ決めない。見る」
「いい答えね」
ロウナ先生は頷いた。
「山で一番危ないのは、壊す力より、見ないで壊すこと。明日、見る時間を取りましょう」
ガレスは頷いた。
クララが、もう書きたくて仕方ない顔をしている。
でも、今日はまだ書かない。
たぶん、ガレスが選ぶまで待つつもりだ。
ベイルが岩から降りてきた。
ミラの前に立つ。
「中央の背負われ方じゃねえな」
ミラは水を飲み終え、息を整えてから答えた。
「山の背負われ方でも、まだ下手だ」
「そうだな」
ベイルは素直に認めた。
認めたうえで、少しだけ口の端を上げる。
「でも、荷物の顔はしてなかった」
ミラは黙った。
その沈黙は、怒りではなかった。
言葉を受け取るための沈黙だった。
ガレスが横から言う。
「荷だ」
ベイルの眉が動く。
ガレスは続けた。
「でも、捨てる荷じゃない」
ミラが少しだけ笑う。
「言い方」
「悪いか」
「悪くない」
ベイルは大きく息を吐いた。
「変な連中だな、第七部」
「よく言われます」
ロイがなぜか嬉しそうに答えた。
タリアが肩をすくめる。
「変なまま、明日あの岩を見に来な。ルベオも、たぶん来る」
俺は崩れ岩のほうを見た。
赤い尾はもうなかった。
でも、見られていた感覚だけが残っている。
届いた荷。
まだ届かない道。
背負う者。
背負われる者。
鳴らさない音。
逃がされた揺れ。
使わなかった風。
どれも派手な勝利じゃない。
けれど、山の旗が見たがるものは、そういうものなのかもしれない。
宿舎へ戻る前、コレットが俺の隣に来た。
「ルカくん」
「何」
「今日は、風を使わない判断、ありがとうございました」
「礼を言われるほどのことじゃない」
「あります」
コレットは記録板を抱え直す。
「使える人が使わないでいるのは、ただの不参加じゃありません。作戦です」
俺は返事に困った。
作戦。
そう言われると、少し救われる。
俺の魔法は、使うたびに何かを失う。
だから、使わないことは逃げだと思っていた。
でも、今日の山では違った。
使わないことで、ミラの重さを軽くしなかった。
ガレスの背中を別のものにしなかった。
ロイの音を風で散らさなかった。
ネルの揺れを奪わなかった。
俺が何もしなかったから、残ったものがある。
「次は、ガレスだな」
俺が言うと、コレットは頷いた。
「はい。壊す場所を選ぶ回です」
「怖いな」
「怖いです」
コレットは正直に言った。
「でも、ガレス先輩が壊すなら、直すための入口になると思います」
その言葉を聞いたガレスが、少し離れた場所で振り向いた。
聞こえていたらしい。
「まだ、選んでない」
「明日選びましょう」
「ああ」
山の空気が、朝より少し乾いてきていた。
遠くの岩壁で、小さな石が落ちる音がした。
ロイが反射的に顔を上げる。
ネルも見る。
ガレスも見る。
ミラは動かない身体のまま、音の方向を聞いている。
それだけで、昨日とは違う。
誰か一人が背負うのではなく、全員で道を見る。
ルベオがその姿を見ていたかどうかは、わからない。
けれど、崖の上で赤いものが一瞬だけ揺れた気がした。
奪われるのが嫌いな旗。
届く荷を見る旗。
その旗に、俺たちはまだ届いていない。
でも、届いていない場所を、今日初めて正しく見つけた。
なら、次はそこをどう開くかだ。
壊す力で、守る道を作る。
ガレスの手が、静かに握られていた。




