表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
85/165

第84話 夢の中で背負う旗

 ノル・フェインは、よく寝る。


 それは誰でも知っている。


 廊下でも寝る。


 列車でも寝る。


 会議中でも、片目だけ開けて寝る。


 試合後の反省会でも、たまに寝る。


 ただし、彼女が寝ている時ほど、完全に休んでいるとは限らない。


 ノルの夢は、試合を再生する。


 旗と会話する。


 古い記憶に触れる。


 本人はそれを、眠そうに「夢」と言う。


 でも、その夢に何度も助けられてきた俺たちは、もうただの寝坊として扱えなくなっている。


 山に来てから、ノルはいつもより少し静かだった。


 眠いのはいつも通り。


 でも、眠りの質が違うらしい。


 昼寝から起きるたびに、彼女は少し首を傾げる。


 何か聞こえた気がする。


 でも、まだ言葉にならない。


 そんな顔をしていた。


 ロイが反響場で危険な音を出した日の夜、ノルは夕食の途中で椅子からずり落ちかけた。


 ガレスが皿を避ける。


 ネルが肩を掴む。


 ロイが「危ない」と言いかけて、小さく言い直す。


「危ないです」


「寝てる」


 リリィが迷子一号を転がしながら言った。


「食べながら?」


 レイナが驚く。


「ノル先輩ならあります」


 ロイが真剣に答える。


「あります、で済ませていいのですか」


「よくはないです」


 ノルは、ネルに支えられたまま目を閉じていた。


 寝ている。


 たぶん。


 しかし、口が少し動いた。


「赤い」


 全員が止まる。


 ノルの声は、いつもの眠そうな声よりさらに遠かった。


「尾」


 コレットが帳面を開く。


 でも、すぐには書かない。


 人を先に見る。


 夢も、本人を通る。


「ノル」


 俺が呼ぶ。


「夢?」


「夢」


 ノルは目を閉じたまま答える。


「ルベオ?」


「たぶん」


「今、見えてる?」


「見えてる。走ってる」


 食堂の空気が変わった。


 山岳校の宿舎の食堂には、俺たちだけではなく、数人のグライフ生もいた。


 タリアもいる。


 ベイルも、少し離れた席にいる。


 彼らもノルを見る。


 旗と夢で話す欠陥魔法。


 山岳校から見ても、かなり珍しいのだろう。


「起こす?」


 ネルが聞く。


 ノルは首を横に振った。


 目は閉じたまま。


「まだ」


「じゃあ、支える」


 ネルはノルの肩を支えた。


 食べかけの皿はガレスが下げた。


 ロイは水を持ってきたが、寝ている人にどう渡せばいいか分からず固まっている。


 ミラが言った。


「置く」


 ロイは水をノルの近くに置いた。


「はい」


 置く。


 山に来てから、本当にその動作が増えた。


 荷を置く。


 失敗を置く。


 怖さを置く。


 音を置く。


 水を置く。


 ノルは、夢の中で何かを見ている。


 俺たちは、それを無理に引っ張り出さず、周りを整える。


「背負ってる」


 ノルが言った。


 ミラの指が動く。


 ガレスも、少しだけ顔を上げる。


「誰が?」


 俺が聞く。


「山」


 答えが遠い。


「山が?」


「山が、道を背負ってる。道が、人を背負ってる。人が、荷を背負ってる。荷が、帰り道を背負ってる」


 クララが震え始めた。


 理論化したいのだろう。


 でも、今はまだ耐えている。


 コレットも筆を構えたまま、ノルを見ている。


「ルベオは?」


 ミラが聞いた。


 自分で聞いた。


 ノルの夢に、ミラが直接触れる。


「走ってる」


「何を見てる?」


 ノルの眉が少し寄る。


「軽い足は、嫌い」


 ベイルがぴくりと動いた。


 タリアも。


 山岳校の生徒にとって、その言葉はかなり重要らしい。


「重い足は?」


 ミラが続ける。


「好き。でも、沈む足は嫌い」


「沈む足」


 ミラが繰り返す。


「重いのに、戻る足が好き」


 ノルの声は、夢の奥から落ちてくる。


 完全な言葉ではない。


 でも、確かに何かを運んでいる。


「背負う者」


 ノルが言った。


 食堂が静かになる。


「背負う者が好き。背負われる者も、嫌いじゃない。でも、背負われるふりをする足は嫌い」


 ネルが眉をひそめる。


「ふり?」


「軽くなるために、重いって言う足」


 ノルは、少しだけ顔をしかめる。


「嫌い」


 ミラが、膝の上で手を握る。


 自分が重いと言うこと。


 背負われること。


 それが、もし逃げに見えるなら。


 彼女はそれを恐れていたのかもしれない。


 でも、ノルの夢のルベオは、背負われる者自体を嫌ってはいない。


 嫌うのは、軽くなるために重いと言う足。


 つまり、重さを他人に押しつけて、自分の戻る道を持たないこと。


 昨日のミラは、終わりを言った。


 水を飲んだ。


 背負われる姿勢を作った。


 もう一足場で終わると決めた。


 背負われる側の仕事をした。


 それは、ふりではなかった。


「ノル」


 ガレスが呼んだ。


 珍しい。


 彼から夢の内容を聞くことはあまりない。


「背負う者って」


 ガレスは少し言葉を探す。


「強い?」


 ノルは、目を閉じたまま首を傾げた。


「強いだけは、嫌い」


 ガレスの眉が少し動く。


「強いだけ」


「背負って、落とさないふりする背中。嫌い」


 ミラがガレスを見る。


 ガレスは、静かに聞いている。


「次の足場までって言う背中。好き」


 その言葉に、ガレスの表情がほんの少し変わった。


 分かる人間にしか分からない程度。


 でも、確かに変わった。


「ずっと持つ背中は?」


 俺が聞く。


 ノルは、少し嫌そうな顔をした。


「嘘っぽい」


 短い。


 かなり強い。


 ガレスは頷いた。


「うん」


 その「うん」は、ほっとしたようにも聞こえた。


 ずっと持てると言えない自分が、弱いのではない。


 ルベオはむしろ、次の足場までと言える背中を好む。


 少なくとも、ノルの夢では。


「ロイ」


 ノルが急に呼んだ。


 ロイが背筋を伸ばす。


「はい」


「跳ねる音、嫌い」


 ロイの顔が固まる。


「はい」


「でも、跳ねる前に拾う音、好き」


 ロイの目が揺れる。


「好き」


「うん。山が聞く前に、仲間が聞く音」


 ロイは胸元の札を握った。


「俺の音、ルベオに」


「見られてる」


 ノルは言った。


「聞かれてる、じゃないんですか」


「見られてる」


 夢の言葉は、いつも少しずれる。


 でも、そのずれが大事だ。


 山は足を見る。


 音も見る。


 ロイの音も、ルベオに見られている。


 だからこそ、必要な音と危険な音の境目を覚える意味がある。


「ルカ」


 ノルが俺を呼ぶ。


 少しだけ嫌な予感がした。


「何」


「風、軽い」


 胸の奥が冷える。


 ノルは目を閉じたまま、夢の中のルベオの言葉を拾っているようだった。


「軽いから、山では怖い」


「軽い」


「でも、落ちるものを戻す風は、嫌いじゃない」


 俺は、返事が遅れた。


 風。


 俺の風魔法。


 使えば記憶を失う。


 山では、軽いものは怖い。


 荷を軽く見れば落ちる。


 でも、落ちるものを戻す風は嫌いではない。


 それは、俺たちが決めた使い方と重なる。


 旗を取るためではなく。


 勝つためでもなく。


 落ちる時だけ。


 ルベオは、それを見ていたのかもしれない。


「覚えてる?」


 ノルが言う。


 俺は一瞬、何を聞かれたのか分からなかった。


「何を」


「戻り言葉」


 喉が詰まる。


 ルカ。


 俺の戻り言葉。


「覚えてる」


「なら、いい」


 ノルは小さく頷いた。


 その答えでいいのか。


 いや、今はいいのだろう。


 夢の中で、ルベオは俺の風を完全に拒絶しているわけではない。


 ただ、軽く見ている。


 そして、軽いものを怖がっている。


 俺も同じだ。


「リリィ」


 ノルは、今度はリリィを呼んだ。


 リリィは迷子一号を持ち上げる。


「私?」


「迷子、重い?」


 リリィは、自分の石を見る。


「軽い」


「でも、置いてるから、待てる」


 リリィは少しだけ目を細める。


「迷子一号、褒められた?」


「たぶん」


 ノルは眠そうに言う。


「ルベオ、迷子も嫌いじゃない。置いて待つものだから」


 リリィは、迷子一号を胸元に寄せた。


「やるじゃん」


 石に言っている。


 石は何も答えない。


 でも、リリィは少し嬉しそうだった。


 ノルの夢は、そこで少し揺れた。


 彼女の体が、ネルの腕の中で傾く。


「起きる?」


 ネルが聞く。


「まだ」


 ノルは小さく答えた。


「最後」


 食堂全体が、もう一度静かになる。


 ノルの声が、少し深くなった。


「ルベオは、奪われるのが嫌い」


 当たり前のようで、当たり前ではない。


 白旗は滞在を選んだ。


 鉄旗は命令ではない返事をした。


 ルベオは、奪われるのが嫌い。


 では、何を好むのか。


「でも」


 ノルは続ける。


「届く荷は、見る。落ちない背中は、見る。次の足場を知ってる足は、見る」


 ミラが、静かに息を吸う。


「だから、伴走した?」


 ノルは、少しだけ笑った。


 寝たまま。


「うん。取られたくないけど、見たかった」


 ルベオは、取られたくなかった。


 でも、見たかった。


 ミラが届くところを。


 ガレスが背負うところを。


 ロイの音が回収を区切るところを。


 ネルが揺れを逃がすところを。


 アルフが帰路を守るところを。


 俺が風を使わずに保険として置くところを。


 それは、勝利ではない。


 でも、旗が見たがる価値だった。


 ノルは、そこで完全に力を抜いた。


 ネルが慌てて支える。


「ちょ、重い」


 ミラが言う。


「背負う?」


「椅子に寝かせる」


 ガレスが立ち上がり、ノルを支えた。


 ネルと二人で、食堂の長椅子へ寝かせる。


 ノルは目を閉じたまま、満足そうに小さく息を吐いた。


「水」


 ロイが水を持ってくる。


 今度は迷わず置いた。


 ノルの手が、寝たまま少し動く。


「あとで飲む」


「起きてるんですか」


「半分」


 いつものノルに少し戻った。


 食堂の空気が、ようやくほどけた。


 コレットが、帳面を開く。


「ノル」


「ん」


「書いていい?」


「いい」


「夢として?」


「夢として」


「旗の断定ではなく?」


「夢の証言」


 コレットは頷いた。


 慎重だ。


 夢は重要だが、公式記録では扱いにくい。


 でも、第七部の記録には残す。


「崖旗ルベオ、背負う者を好む可能性。正確には、次の足場を知り、重さを軽く見ず、背負われる側の仕事も含めた回収路を好む」


 クララが隣で言う。


「もっと正確に」


「あとで」


 コレットが返す。


 クララは頷いた。


 最近、このやり取りも定着してきた。


「軽い足を嫌う。沈む足も嫌う。戻る重い足を好む」


 コレットが続ける。


「ずっと持てると嘘をつく背中を嫌う。次の足場までと言う背中を好む」


 ガレスが静かに聞いている。


「跳ねる音を嫌う。跳ねる前に拾う音を好む」


 ロイが札を握る。


「風は軽いから怖い。落ちるものを戻す風は嫌いではない」


 俺は、少しだけ手を握った。


 この記録は、いつか俺の風の使い方に関わる。


 たぶん、かなり大きく。


「奪われるのは嫌い。でも、届く荷は見る。取られたくないけど、見たかった」


 コレットは、最後の一文を書いて、筆を止めた。


「これ、かなり大事」


「うん」


 ミラが答えた。


 彼女は、ノルの寝顔ではなく、窓の外の暗い崖を見ていた。


「ルベオは、取らせてくれない」


「うん」


「でも、見てくれる」


「うん」


「なら、次はもっと、見せられる」


 その声に、もう昨日の落ち込みだけではないものがあった。


 重荷になった朝は、まだ消えていない。


 でも、ルベオが背負う者を好むと知った今、背負われることの意味が少しだけ変わっている。


 弱さではない。


 見せるための仕事でもある。


 山の旗が見る価値でもある。


 ベイルが、食堂の入口に立っていた。


 いつから聞いていたのか分からない。


 彼は、ミラを見る。


「夢を信じるのか」


 ミラは振り返る。


「全部は信じない」


「なら」


「でも、試す」


 ベイルは少しだけ口元を歪めた。


「山らしい」


 それは、褒め言葉だった。


 たぶん。


 タリアも入口に来ていた。


「明日の合同訓練、内容を変える?」


 コレットが顔を上げる。


「変えます」


 部長の声。


 はっきりしている。


「ルベオを取る練習ではなく、ルベオが見たがる回収路をもう一度作る。今度は、ロイの音を入れる。ガレスの補助具修理も反映する。ネルは受け石役ではなく、揺れと音の両方を見る」


「忙しい」


 ネルが言う。


「できる?」


 コレットが聞く。


 ネルは少しだけ目をそらした。


「やる」


 ロイも頷く。


「俺も、跳ねそうを早めに言います」


 ガレスが言う。


「怖いも、早め」


 ミラが言う。


「終わりも、早め」


 俺は言う。


「風も、軽く見ない」


 ノルが寝たまま、ぼそりと言った。


「いい感じ」


 全員が少し笑った。


 夜の食堂に、山の外から風が入る。


 赤い尾は見えない。


 でも、ルベオがどこかで聞いているような気がした。


 いや、見ているのかもしれない。


 音も。


 足も。


 背中も。


 夢も。


 山の旗は、奪われるのが嫌いだ。


 でも、届く荷を見る。


 それなら、俺たちは次に、もっと届く道を作ればいい。


 勝利ではない。


 まだ、旗奪取でもない。


 でも、背負われる強さを戦術にするための、確かな一歩だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ