第88話 小さな音の合図
ロイの魔法は、大きい。
本人の性格も、だいたい大きい。
返事は大きいし、驚き方も大きいし、落ち込み方まで大きい。食堂でうまいものを食べたときの喜び方に至っては、皿まで照れそうなくらい大きい。
だから、俺は長いあいだ、ロイの音は大きいものだと思っていた。
大きいから困る。
大きいから目立つ。
大きいから、使い道を探す。
でも、山は少し違う答えを出してきた。
大きい音を持つ人間が、小さい音を選べるなら。
鳴らすべき音と、鳴らさない音を分けられるなら。
その音は、ただの欠陥ではなくなる。
回収の合図になる。
その日の朝、ロイは食堂で水を飲みすぎていた。
「緊張してるな」
俺が言うと、ロイは水筒を両手で持ったまま頷いた。
「はい」
「水で音は小さくならないぞ」
「喉が鳴ったら困るので」
「そこまで気にするのか」
「今、体内の音まで信用できません」
かなり重症だった。
向かいに座っていたネルが、パンをちぎりながら言う。
「信用しなくていい」
「え」
「音を信用するんじゃなくて、決めた手順を信用する」
ロイは目を丸くした。
ネルは続ける。
「私も、一瞬魔法を信用してない。信用してるのは、使う場所」
「場所」
「そう。ロイも音そのものじゃなくて、置く場所を決めればいい」
ロイはパンを見つめた。
「ネル先輩、今日ちょっと先生みたいですね」
「ちょっと?」
「かなり」
「ならいい」
ネルは少しだけ満足そうだった。
その横で、ガレスが水を置いた。
「水は大事」
「ガレス先輩まで」
「喉が乾くと、音が荒れる」
「本当に関係あるんですか」
「ある」
ガレスが言うと、ある気がする。
ロイはもう一口だけ水を飲んだ。
飲みすぎではある。
でも、本人なりに音を持とうとしているのだ。
訓練場に向かう道で、ハルクがロイを待っていた。
山岳校の反響係。
最初に会ったときは、ロイの大音量魔法を面白がっているだけに見えた。でも、今は違う。彼は音をただの響きではなく、山の中で動くものとして見ている。
「今日は三つに分ける」
ハルクが言った。
「必要な音、危険な音、跳ねそうな音」
ロイが答える。
「はい」
「違う」
「え?」
「今日は、四つだ」
ロイは固まった。
「増えるんですか」
「増える。回収合図にするなら、鳴らさない音も数える」
ロイの喉が、変な音を出しかけた。
本人が慌てて押さえる。
ハルクは笑わなかった。
「鳴らさない音は、何もしてない音じゃない。危険を見て、全員に『今は音なしで行く』と知らせる判断だ」
「でも、鳴らさないと、みんなには聞こえません」
「聞こえないから、動きで知らせる。手、息、目線。音係は、鳴らす前から合図係だ」
ロイは黙った。
それから、ゆっくり頷いた。
「音係は、鳴らす前から」
「そう」
ハルクは崖のほうを見る。
「お前の音は強い。だから、強いまま鳴らさない技術を覚えろ」
ロイはまた頷いた。
今度の頷きは、少し深かった。
今日の訓練場は、昨日より人が多かった。
山岳校の選手たちが、少し離れた場所に集まっている。ベイル、タリア、オルグ主将、ロウナ先生。ほかにも、公式戦で見かけた選手が何人かいた。
第七部の訓練を見に来ている。
見世物としてではない。
たぶん、技術として。
その視線に、ロイの肩が少し上がる。
「ロイ」
俺が呼ぶ。
「はい」
「肩が鳴りそう」
「肩って鳴りますか」
「今のお前なら鳴る」
「怖いこと言わないでください」
ロイは肩を下げた。
少し笑えるくらい真面目だった。
コレットが今日の作戦を説明する。
「本日は、第四足場までの回収路にロイくんの音を合図として組み込みます。合図は四種類です」
記録板には、簡潔に書かれていた。
一、開始音。
二、停止音。
三、再開音。
四、無音合図。
リリィが首を傾げる。
「無音合図って、矛盾してません?」
「矛盾しています」
コレットは真顔で言った。
「でも、山では必要です」
クララが目を輝かせた。
「反響環境下における無音信号の」
「短く」
ミラが言う。
クララは息を吸い直した。
「鳴らさないことも合図です」
「わかる」
ミラは頷いた。
最近、クララは短く言えば通じることを覚えつつある。
本人にとっては苦行かもしれない。
ロウナ先生が確認する。
「音量は?」
ロイが答える。
「足場に届く範囲。谷に投げません」
「合図の意味は、全員が理解している?」
コレットが第七部を見る。
全員が頷く。
ジャックも頷いた。
「俺も?」
「ジャックくんもです」
「俺、最後尾だけど」
「最後尾が聞き間違えると、前に圧がかかります」
「ああ、なるほど」
ジャックは珍しく素直に納得した。
山は、人を少しだけ素直にするのかもしれない。
いや、気のせいか。
レイナは相変わらず胸を張っている。
「停止音のあとに、わたくしが失敗を置きます」
「失敗を置くって、慣れるとすごい言葉ですね」
リリィが言う。
「慣れなさい」
「はいはい」
ノルは眠そうに記録板の端へ書く。
大きい音の人が、小さい音を選ぶ。
旗は、たぶん見る。
「夢の証言?」
俺が聞くと、ノルは首を横に振った。
「起きてる予想」
「起きてるなら、もう少し目を開けろ」
「開いてる」
半分しか開いていない。
でも、記録は正確だった。
ミラが補助帯を締める。
ガレスが金具を確認する。
ネルが石を並べる。
アルフが結界の向きを確認する。
俺は風前確認をする。
使わない。
落ちたら戻す。
戻り言葉は、ルカ。
今日も、手の中の風は待機だ。
ロウナ先生が合図を出した。
「開始」
でも、動くのはコレットではない。
ロイだ。
全員の視線が彼に集まる。
ロイは息を吸った。
吐いた。
手を胸の前で小さく開く。
開始音。
コン。
小さな音が、最初の足場に落ちた。
軽くない。
弱くもない。
小さいだけだ。
音が石に触れ、すぐ戻る。
谷へは行かない。
山岳校のハルクが、口元だけで笑った。
「いい」
ミラが動く。
足場を一つ、二つ。
昨日と同じ道。
でも、今日は音が先に道を示している。
ロイの開始音が、急げという合図ではなく、今から全員で見るという合図になっていた。
ネルが言う。
「人、大丈夫。揺れ、小さい」
ガレスは半歩後ろ。
ミラは崩れ岩へ向かう。
赤い尾はまだ見えない。
見えないことが、逆に気になる。
でも、誰も探さない。
ロイの小さな音が、視線を足元に戻している。
レイナが一度目の失敗を置く。
「右へ流れます」
停止音。
ロイの指が動く。
コ。
開始音より短い。
響きが止まる形をしていた。
音に形があるのか、と聞かれると困る。
でも、確かに違った。
開始音は石に触れて戻る。
停止音は石に触れて、そこで座る。
ミラの足が止まった。
ガレスも止まる。
ネルが揺れを見る。
レイナの失敗が、停止音と重なって、急ぐ足をきれいに止めた。
山岳校の選手がざわつく。
大きい音ではない。
観客を沸かせる音でもない。
でも、全員が止まった。
ロイはそれを見て、泣きそうな顔になりかけ、すぐ引き締めた。
まだ途中だ。
コレットが手元に小さく記録する。
ロイ、停止音で全員停止成立。
人を先に。
負け筋は後で。
ミラが再開の姿勢を取る。
ロイは手を少し下げた。
再開音。
コン、ではない。
コ、でもない。
小さく、二つ。
コ、ン。
一つ目で足場を見る。
二つ目で動き出す。
ミラが進む。
ガレスがつく。
崩れ岩の入口まで来た。
その瞬間、赤い尾が現れた。
ルベオは昨日よりさらに近い場所にいた。
崩れ岩の上ではなく、第四足場の少し先。
取れそうで、取れない。
追えば落ちる距離。
ロイの喉が動く。
音を出すか。
出したくなる。
旗が現れた。
驚き。
警戒。
合図。
全部が音になりそうな瞬間。
ハルクは何も言わない。
ミラも見ない。
ガレスも見ない。
ネルは地面を見る。
コレットはロイを見る。
ロイが手を閉じた。
無音合図。
音は鳴らない。
けれど、全員が理解した。
今は鳴らさない。
旗に音を投げない。
足元だけを見る。
無音が、確かに合図になった。
ルベオの尾が止まる。
逃げない。
見ている。
ノルが小さく言う。
「鳴らさない音、見た」
「旗が?」
「たぶん」
夢ではなく、今の予想。
でも、当たっている気がした。
ミラは崩れ岩の入口で言った。
「終わり」
早い。
昨日と同じ、いや、少し早い。
ガレスが背中を入れる。
ミラが重さを渡す。
「重い」
「知ってる」
「今日は音がある」
「聞こえる」
ガレスがミラを背負い、崩れ岩を通る。
補助帯が小さく擦れた。
「擦った」
「痛いか」
「痛くない。続行」
ここまでは、昨日成立した。
問題は、その先だ。
第四足場までの回収に、音をどう入れるか。
ロイが開始音を出した。
いや、回収開始音だ。
最初の開始音より低い。
コン。
ガレスの足が一歩進む。
ネルが言う。
「揺れ、小さい」
アルフはまだ結界を張らない。
ガレスが第三足場へ届く。
ルベオは少し先にいる。
赤い尾が、今度はロイのほうへ向いた。
旗が音係を見ている。
ロイの手が震えた。
見られると、音は大きくなる。
注目されるための音は、ロイの得意な音だ。
でも、今日は違う。
見られても、山に投げない。
見られても、足場に置く。
ロイは目を閉じなかった。
逃げずに、手だけ小さく開く。
停止音。
コ。
ガレスが止まる。
ミラが背中で言う。
「右、広い」
「怖いか」
「怖い」
「俺も」
ネルが地面を見る。
「揺れ、待ち」
「待ち?」
「まだ来てない。でも、来る」
ロイは音を出さない。
無音合図。
全員が待つ。
その数呼吸後、ガレスの足元の石が小さく震えた。
ネルの魔力が一瞬だけ光る。
押さない。
逃がす。
揺れは左の割れ目へ流れた。
ロイが再開音を出す。
コ、ン。
ガレスが半歩進む。
第四足場。
届く。
その瞬間、ルベオが跳んだ。
赤い尾が、ガレスの肩の高さを横切る。
近い。
ミラの動かない腕の横。
ガレスの背中の前。
ロイの音が届くぎりぎりの場所。
ジャックが後ろで息を飲む。
俺の手に風が集まりかける。
落ちていない。
使うな。
ルベオは逃げたのではなかった。
試している。
音を跳ねさせようとしている。
ロイが反射的に音を出しかけた。
その音は、危ない。
跳ねる。
ハルクが叫ぶより先に、ロイが自分で口を閉じた。
両手を強く握る。
無音合図。
今は鳴らさない。
ガレスが止まる。
ミラが動かない身体で言う。
「旗、近い」
「取らない」
ガレスが返す。
「取れない」
「取らない」
その違いは大きかった。
取れないから取らないのではない。
今は取らない。
回収が先。
ロイの無音が、その判断を全員に伝えている。
ルベオはガレスの横をすり抜け、第四足場の先に着地した。
逃げない。
見ている。
ロイはそこで、回収完了音を出した。
コン。
最初の音より、少しだけ温かい。
勝利の音ではない。
旗奪取の音でもない。
でも、届いた荷を知らせる音。
山岳校の選手たちが、静かに息を吐いた。
派手な歓声はない。
ここで大きな声を出すと、山に返る。
だから、全員が音を持っている。
その静けさの中で、ロイの小さな音だけが、足場に残った。
ロウナ先生が言う。
「回収成立。音合図、四種確認。旗反応あり。奪取なし」
ハルクがロイの肩を叩いた。
「今の無音、よかった」
ロイは目を丸くする。
「音じゃないのに」
「音係が一番難しいのは、鳴らしたいところで鳴らさないことだ」
「俺、鳴らしたかったです」
「知ってる」
ハルクは笑った。
「だから、よかった」
ロイの顔が、くしゃっと歪んだ。
泣くのかと思ったら、泣かなかった。
大きく喜ぶのも、今は違うと思ったのだろう。
彼は小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
その声も、山に跳ねなかった。
戻り道では、音合図をもう一度使った。
開始音。
停止音。
無音合図。
再開音。
完了音。
最初は四種類と言っていたのに、最後には五種類になっていた。
ロイがそれに気づいて、入口に戻ったあとで慌てた。
「完了音、増えてません?」
コレットが記録板を見る。
「増えました」
「勝手に増やして大丈夫ですか」
「必要だったので」
ネルが言う。
「完了音はいる」
ガレスも頷く。
「降ろす前にいる」
ミラが水を飲ませてもらいながら言う。
「背負われてる側も、着いたってわかる」
アルフが静かに続ける。
「帰路の結界を張るタイミングにもなる」
レイナが腕を組む。
「失敗を終える合図にもなりますわ」
リリィが肩をすくめる。
「全員一致ですね。ロイくん、仕事が増えました」
「増えました」
ロイは少しだけ呆然としていた。
でも、嫌そうではない。
自分の音が、みんなの仕事になった。
それが怖くて、嬉しいのだと思う。
コレットは記録板に新しく書いた。
一、開始音。
二、停止音。
三、無音合図。
四、再開音。
五、完了音。
「順番、変えました」
俺が覗き込む。
「無音が三番なんだな」
「はい。停止のあと、すぐ再開とは限りません。無音で待つ時間を合図として固定します」
「なるほど」
「山に限らず、今後も使えると思います」
コレットの声は静かだった。
でも、少し興奮している。
敗北だけを見る部長が、新しい合図を見つけた。
それは、勝利の未来ではないかもしれない。
でも、負け筋を潰すだけでもない。
人が動ける形を増やしている。
ロウナ先生が、山岳校側の記録板を閉じた。
「この合図体系、グライフでも参考にさせてもらっていいかしら」
ロイが固まった。
「え」
ハルクが横から言う。
「いいだろ。俺も欲しい」
「欲しい?」
「音の出し方じゃなくて、分け方。山でも使える」
ロイは助けを求めるようにコレットを見た。
コレットは微笑む。
「共有していいと思います。ロイくんの名前も記録に残します」
「俺の名前が、山岳校の記録に?」
「はい」
ロイは口を開けた。
大きな声が出そうになる。
全員が少し身構える。
でも、ロイは両手で口を押さえた。
そして、小さく言った。
「うれしいです」
その声は、足場にだけ届いた。
ベイルが後ろで笑った。
「お前、本当に大音量魔法なのか」
ロイは胸を張りかけ、途中で抑えた。
「はい。必要なら大きいです」
ハルクが頷く。
「いい答えだ」
必要なら大きい。
必要がなければ、小さい。
鳴らすべきでなければ、鳴らさない。
それはロイにとって、たぶん大きな転換だった。
欠陥を消すのではない。
大きさを捨てるのでもない。
自分の音を、選べるものにする。
昼過ぎ、訓練場の片づけをしていると、ルベオが一度だけ姿を見せた。
崩れ岩の上。
昨日ガレスが開けた道の近く。
赤い尾をゆっくり揺らし、こちらを見ている。
ロイが気づいた。
全員も気づいた。
誰も追わない。
ロイは手を開いた。
音を出すか迷った。
ルベオが見ている。
音を聞くかもしれない。
旗に向けて音を出したい。
でも、ロイは手を閉じた。
無音合図。
今は鳴らさない。
ルベオの尾が一度、ぴんと立った。
それから、獣のような身体が岩陰へ消えた。
ノルが眠そうに言う。
「見た」
「旗が?」
「ロイを」
ロイは黙っていた。
褒められたときより、ずっと真剣な顔だった。
夕方、宿舎へ戻る道で、ロイは俺に言った。
「ルカ先輩」
「何」
「俺の音、うるさいだけじゃなかったです」
「そうだな」
「でも、うるさいのも俺です」
「そうだな」
「小さくできたからって、うるさかった俺が消えたわけじゃない」
俺は少しだけ驚いた。
ロイがそこまで考えているとは、失礼ながら思っていなかった。
でも、山は人を少し深くする。
「消す必要はないだろ」
俺が言うと、ロイは頷いた。
「はい。必要なら、大きいです」
「いい言葉だ」
「ハルク先輩に言われました」
「なら、半分くらいはお前の言葉にしろ」
「半分?」
「全部もらうと、あとで返せなくなる」
ロイは少し笑った。
「じゃあ、半分もらいます」
その笑いは、やっぱり小さかった。
でも、ロイらしくないわけではなかった。
宿舎に着くと、コレットが今日の記録を読み上げた。
「ロイくんの五種合図。開始、停止、無音、再開、完了。第四足場までの回収路に組み込み成功。ルベオ反応あり。山岳校側、記録共有希望」
全員がロイを見る。
ロイは耳まで赤くなった。
「そんなに見ないでください。音が出ます」
リリィがにやりとする。
「出してもいいですよ。完了音なら」
「今は何も完了してません」
ネルが言う。
「今日の訓練は完了した」
「あ」
ロイは少し迷ったあと、指先で机を軽く叩いた。
コン。
小さな完了音。
宿舎の食堂の机にだけ届く音。
誰も大きく拍手しなかった。
でも、全員がその音を聞いた。
ガレスが水の入った杯を少し上げる。
「水は大事」
「そこでそれですか」
ロイが笑う。
今度は少しだけ大きかった。
でも、食堂の壁に優しく当たって、戻ってきた。
嫌な音ではなかった。
俺はその音を聞きながら、ふと思った。
誰かの欠陥が、誰かの合図になる。
それは、第七部らしい。
不完全なものを消すのではなく、役割にする。
大きすぎる音。
一瞬しか出ない魔力。
必ず一度失敗する魔法。
壊すことしかできない手。
止まる身体。
忘れていく風。
どれも、単独では弱さに見える。
でも、誰かの弱さが誰かの動くきっかけになれば、それはもう弱さだけではない。
ロイの小さな完了音が、食堂に残っていた。
その音を、たぶん俺はしばらく忘れない。
少なくとも、今はそう思った。




