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第82話 壊す場所を選ぶ手

 ガレス・モルンは、壊れたものの前でよく黙る。


 怒っているわけではない。


 困っているわけでも、たぶんない。


 ただ、黙る。


 壊れたものを見る。


 割れ目を見る。


 歪みを見る。


 欠けた場所ではなく、その周りを見る。


 そして、どこを持てば壊れ目が広がらないかを考える。


 白旗アウレリアの時、彼は割れた皿を前にして言った。


 傷を直接持たない。


 周りを持つ。


 山に来てから、その言葉は何度も形を変えて戻ってきた。


 ミラを背負う時。


 補助帯を直す時。


 回収を次の足場までに区切る時。


 ガレスはいつも、傷そのものではなく、その周りを持とうとしている。


 そのガレスが、今日はグライフ山岳魔法学校の古い荷具庫にいた。


 ベイルに呼ばれたのだ。


「噛んだ金具がある」


 ベイルはそう言った。


「外せない。切ると革まで駄目になる。壊す場所が分かるなら、試せ」


 ガレスは、朝の補助帯修理を終えてから来た。


 順番を守って。


 荷具庫は、作業場のさらに奥にあった。


 岩壁を削って作った低い部屋。


 天井は低く、空気は少し湿っている。


 壁には古い登攀具、荷縄、補助帯、鉄の鉤、木枠、滑車が並んでいた。


 どれも使い込まれている。


 どれも、山で何かを運んできたものだ。


 その中央の作業台に、問題の登攀具が置かれていた。


 腰に巻く革帯と、岩に打ち込む補助鉤をつなぐ金具。


 輪の一部が噛んでいる。


 錆びたわけではない。


 曲がったわけでもない。


 強い力が斜めにかかったまま、戻らなくなったような状態だった。


「古い救助具だ」


 ベイルが言う。


「今は予備だが、同じ型をまだ山の下の集落で使ってる。切れば外れる。でも、切ると革帯が死ぬ」


 ガレスは登攀具を見ている。


 黙って。


 ロイもいる。


 昨日から道具の音を聞く係になりつつある彼は、真剣な顔で作業台の横に立っていた。


 クララもいる。


 古い刻印があるかもしれないと聞いて、ものすごく来たそうな顔をしていたので、コレットが「触らないなら」と許可した。


 俺もいる。


 理由は、ガレスが何をどう見るのか知りたかったからだ。


 それから、ミラも。


 彼女は椅子に座っている。


 まだ長く立てない。


 でも、どうしても見ると言った。


 ガレスは止めなかった。


「見るなら、座る」


 それだけ言った。


 ミラは座っている。


 毛布も膝にある。


 かなり不満そうだが、座っている。


「壊すの?」


 ロイが小さく聞いた。


 ガレスは、首を横に振った。


「まだ」


「まだ」


「見る」


 ガレスは金具に手を伸ばさない。


 まず、周りを見る。


 革帯の擦れ。


 金具の噛み方。


 古い結び目。


 荷重がかかった方向。


 机の上で、登攀具を少し回す。


 ロイが耳を近づける。


 かすかな音。


 きし。


 もう一度、角度を変える。


 き。


 高い音。


 ロイの眉が動いた。


「浮いてる音」


 ガレスが頷く。


「ここ」


 彼は金具の一部を指差した。


 噛んでいる場所ではない。


 少し離れた、細い留め具の端。


 ベイルが眉を寄せる。


「噛んでるのはそこじゃない」


「そこを壊すと、広がる」


 ガレスは短く言う。


「ここを緩める」


「壊すんじゃなくて?」


「少し壊す」


 ガレスらしい答えだった。


 少し壊す。


 直すために。


 クララが、目を輝かせながら必死に黙っている。


 たぶん、理論化したい。


 でも、今はガレスの手を見る時だ。


 ミラも黙っていた。


 自分が昨日「重荷だった」と言った後だからだろうか。


 ガレスが道具を見る目を、いつもより真剣に見ている。


「魔法、使うのか」


 ベイルが聞く。


 ガレスは頷いた。


「少し」


 その場の空気が少し変わった。


 ガレスの魔法は、物を壊す。


 壊すことしかできない。


 山の古い登攀具に向けるには、かなり怖い魔法だ。


 ベイルもそれを分かっている。


 だから、声が少し硬い。


「壊しすぎたら」


「使えなくなる」


 ガレスは答える。


「分かってる」


「分かってるなら」


 ベイルは少し黙った。


「やれ」


 信用した、というより、試す言い方だった。


 それで十分なのだろう。


 ガレスは、金具の周りに布を巻いた。


 壊したくない部分を保護する。


 革帯を机に固定する。


 噛んでいる金具ではなく、少し離れた留め具に指を置く。


 俺は、無意識に息を止めた。


 ガレスの指先に、鈍い魔力が集まる。


 光らない。


 派手でもない。


 ただ、空気が少し重くなる。


 壊す魔法。


 攻撃ではない。


 でも、壊すための力。


 ぱき。


 小さな音がした。


 ロイが目を見開く。


 ベイルが作業台へ身を乗り出す。


 クララが両手で口を押さえる。


 ガレスはすぐに魔法を切った。


 一瞬。


 本当に一瞬だけ。


 留め具の端に、小さな亀裂が入っている。


 壊れた。


 だが、広がっていない。


 噛んでいた金具が、ほんの少し浮いた。


「ロイ」


 ガレスが言う。


「音」


 ロイが耳を近づける。


 ガレスが金具を少し動かす。


 こん。


 低い音。


 さっきの高い音が消えている。


「浮いてません」


 ロイが言った。


「でも、まだ噛んでます」


「うん」


 ガレスは工具を取る。


 ここからは手作業だ。


 亀裂を入れた留め具を少し広げる。


 噛んでいた輪を回す。


 革帯に負担がかからないよう、角度を変える。


 少しずつ。


 急がない。


 ぱき、と壊したのは一瞬。


 直すための手は、長い。


 ロイは音を聞いている。


 ベイルは黙って見ている。


 クララは、もう震えている。


 ミラは、ガレスの手から目を離さない。


 最後に、金具が外れた。


 からん、と低い音を立てて、輪が自由になる。


 革帯は切れていない。


 噛んでいた部分も、歪みはあるが使える。


 壊れたのは、留め具の端だけ。


「外れた」


 ロイが言う。


 少しだけ声が大きい。


 でも、山具庫の中では許される大きさだった。


 ベイルが登攀具を手に取る。


 引く。


 曲げる。


 金具を回す。


「使える」


 短い。


 山の褒め言葉だ。


 ガレスは頷く。


「留め具は替える」


「そこは壊したからな」


「うん」


 ベイルは、少しだけ口元を歪めた。


「壊して直した」


「壊したところだけ」


「それが難しいんだよ」


 ベイルの声には、少しだけ敬意があった。


 ガレスは表情を変えない。


 でも、手元の布を丁寧に畳んだ。


 たぶん、少し嬉しい。


 クララが、とうとう手を上げた。


「理論化してもいいですか」


 ガレスは少し考える。


「短く」


「努力します」


「短く」


「はい」


 クララは息を吸った。


「ガレスさんの破壊魔法は、通常、破壊対象全体を危険に晒す欠陥として扱われます。しかし今の運用では、破壊対象を全体ではなく『応力を逃がす一点』に限定し、周囲を保護したうえで、手作業修理の前処理として機能しました」


 ネルがいたら「長い」と言っていた。


 でも、今日はネルはいない。


 俺が代わりに言うべきか迷ったが、言わなかった。


 クララはかなり短くしようとしている。


 彼女なりには。


「つまり」


 クララは自分で短くし直した。


「壊す魔法が、直すための入口になりました」


 ガレスは頷いた。


「入口」


 ミラが、静かに言った。


「回収と似てる」


 全員がミラを見る。


 彼女は椅子に座ったまま、外れた金具を見ている。


「動けなくなるのは、壊れるみたい。でも、そこで終わりじゃない。回収が入口になる」


 ガレスは、ミラを見る。


 短い沈黙。


「うん」


 彼は頷いた。


 ミラは、自分の膝に手を置く。


「昨日、私は壊れたわけじゃない」


「うん」


「でも、壊れそうだった」


「うん」


「ガレスは、壊す場所を選んだ」


 ミラは、補助帯の金具を見る。


「私も、止まる場所を選ぶ」


 それは、かなり大事な言葉だった。


 昨日の「終わり」。


 早めに言った終わり。


 あれは、壊れる前に止まる場所を選ぶ言葉だった。


 ガレスが金具の噛みを外すために壊す場所を選ぶように、ミラは自分の反動が広がりすぎないために止まる場所を選ぶ。


 欠陥魔法同士が、山の道具を通じて少しつながった。


「ガレス」


 ベイルが言った。


「今の、山具修理で使える」


 ガレスは頷いた。


「危ない」


「分かってる」


「準備がいる」


「分かってる」


「壊す場所、間違えると終わる」


「分かってる」


 ベイルは少しだけ笑った。


「分かってるなら、いい」


 山の人間の許可は、いつも少し怖い。


 でも、確かに許可だった。


「山岳校の記録にも残す」


 ロウナ先生の声が入口からした。


 いつからいたのだろう。


 俺は少し驚いた。


 ロウナ先生は、外れた金具を見て頷く。


「破壊魔法の限定修理補助。中央なら危険分類だが、山では条件付き実用」


 クララの目が輝く。


「条件付き実用!」


「長い分類が好きそうだね」


 ロウナ先生が言う。


 クララは真剣に頷いた。


「はい」


「なら、正確に書きなさい。危険も一緒に」


「はい!」


 クララは紙を取り出す。


 また増える。


 でも、今日は誰も止めなかった。


 ガレスの魔法もまた、欠陥だけではない場所に置かれた。


 ミラの筋力強化と同じように。


 危険を消さず。


 価値も消さず。


 条件をつけて、実用として記録する。


 その後、ガレスは替えの留め具を取り付けた。


 手作業で。


 ロイが音を聞き、ベイルが強度を確認し、クララが刻印を読み、俺は邪魔にならないように少し離れて見ていた。


 作業は地味だった。


 でも、見ていて飽きなかった。


 壊す魔法の一瞬より、その後の手の方が長い。


 魔法は入口。


 直すのは手。


 回収も、たぶん同じだ。


 ミラが動けなくなるのは、一瞬の結果かもしれない。


 でも、その後に帰る道は長い。


 背負う。


 休む。


 水を飲む。


 道具を直す。


 記録する。


 次に止まる場所を決める。


 そこまで全部が、回収なのだ。


 昼過ぎ、登攀具は使える状態に戻った。


 ベイルがそれを壁へ戻そうとすると、ロウナ先生が止めた。


「これはしばらく作業台に置く」


「なぜですか」


「教材にする」


 ガレスが少しだけ目を上げる。


「教材」


「壊す場所を選ぶ教材だ」


 ロウナ先生は言う。


「山では、壊れているものを全部捨てられない。だが、全部残せば落ちる。どこを壊し、どこを残すか。今の修理は、その教材になる」


 ガレスは、何も言わなかった。


 ただ、小さく頷いた。


 その頷きが、いつもより少し重く見えた。


「ガレス」


 ミラが言う。


「何」


「私も教材?」


 その問いは、少し危うかった。


 自分が見世物になるのではないか。


 自分の欠陥が教材として消費されるのではないか。


 ルミナリアでレイナが「失敗を見世物にした」と言われた時の痛みが、少し遠くで響く。


 ガレスは、すぐには答えなかった。


 しばらく考えた。


「教材じゃない」


「じゃあ、何」


「本人」


 短い。


 でも、かなり強い。


「ミラは本人。道具じゃない」


 ミラは、目を伏せた。


「うん」


 ロウナ先生も頷いた。


「その通り。記録は教材になるが、本人は教材ではない」


 クララが、はっとした顔になる。


 コレットのルールがまた別の場所で効いている。


 人を先に見る。


 それから記録する。


 山具庫でも同じだ。


 道具は教材になる。


 人は本人である。


 午後、ミラは作業場まで歩いて戻った。


 まだガレスが横についている。


 でも、背負われてはいない。


 補助帯も使っていない。


 足は重そうだ。


 それでも、遠くはないらしい。


 一歩。


 止まる。


 また一歩。


 次の足場まで、というほど大げさではない。


 でも、寝台から作業場までの短い道にも、足場はある。


 入口の段差。


 岩壁沿いの曲がり角。


 低い梁。


 作業場の石床。


 ミラは、その一つ一つを見て歩いた。


 ガレスは何も言わない。


 ただ、届く距離にいる。


 作業場では、ロイが金具の音を聞く練習をしていた。


 ベイルがいくつかの古い金具を叩く。


 ロイが、浮いている音、詰まっている音、割れかけている音を聞き分けようとしている。


 まだよく間違える。


 間違えるたびに、ベイルが「違う」と言う。


 ロイはへこむ。


 でも、続ける。


「音、多すぎます」


「山の音は多い」


 ベイルが言う。


「俺の音も、多いです」


「なら、聞けるだろ」


 ロイは目を丸くした。


 ベイルは自分で言って、少し気まずそうに顔を背ける。


 褒めたのだ。


 たぶん。


 ロイは、とても嬉しそうだった。


「聞きます」


 短く答える。


 大きくならなかった。


 えらい。


 コレットが、作業場の入口で帳面を開いていた。


「今日の記録」


 彼女は言う。


「ガレス、壊れた登攀具を修理。破壊魔法を限定的に使用し、応力を逃がす一点だけを破壊。手作業修理へつなげる。ロイ、金具の異常音を補助的に聞く。ミラ、止まる場所を選ぶという言葉を得る」


 ガレスは、少しだけ視線を下げた。


 記録されるのは、まだ慣れないらしい。


「負け筋」


 コレットは続ける。


「ガレスの破壊魔法は、壊す場所を誤ると道具全体を破壊する。修理補助として使うには、保護、固定、音確認、手作業の前提が必須。競技中に即興で使うのは危険」


 ガレスが頷く。


「うん」


「あと」


 コレットはガレスを見る。


「ガレスは、自分が怖いと言うのが遅い」


 ガレスの目が少し動く。


 ミラが彼を見る。


「遅い?」


「昨日の夜に言うべきだったかもしれない。ミラにではなく、私たちに。背負う側が怖いことを共有していれば、補助帯や荷物分担をもっと早く置けた」


 ガレスは黙る。


 しばらくして、頷いた。


「遅い」


「次は?」


 コレットが聞く。


「早めに言う」


 それは、ミラの「終わり」と同じだった。


 早めに。


 壊れすぎる前に。


 落ちる前に。


 怖さも、早めに置く。


 ミラが小さく言った。


「私も、重いって早めに言う」


 ガレスが頷く。


「俺も、怖いって早めに言う」


 ロイが手を上げる。


「俺も、音が変って早めに言います」


 ネルが後ろから入ってきて、呆れた顔をした。


「何の会?」


「早めに言う会」


 俺が答えると、ネルは少し考えた。


「必要そうで嫌」


 その言い方に、作業場で笑いが起きた。


 山岳地方の滞在後半。


 俺たちはまだ山にいる。


 ルベオはもう取れない。


 でも、山はまだ教えてくる。


 壊す場所を選ぶこと。


 止まる場所を選ぶこと。


 怖いと言う場所を選ぶこと。


 重いと認める場所を選ぶこと。


 それらは全部、回収の一部だった。


 ガレスは作業台の上に戻された登攀具を見た。


 噛んでいた金具は外れ、留め具は新しくなっている。


 ただ、小さな亀裂の跡は残っていた。


 直したからといって、壊れた跡が消えるわけではない。


 でも、使える。


 そのことが、今日はやけに大事に見えた。


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