第81話 重荷になった朝
山岳地方の朝は、足音で始まる。
もう慣れた。
いや、慣れたというのは少し違う。
驚かなくなっただけだ。
たん。
とん。
こつ。
ぎし。
ばらばらの足音が、校舎の外側を通っていく。
グライフ山岳魔法学校の生徒たちが、朝の作業へ向かう音。
水荷を上げる者。
補助靴を点検する者。
訓練路の板を確認する者。
昨日、俺たちはその山に少しだけ足跡を残した。
崖旗ルベオは奪えなかった。
公式戦は負けた。
でも、回収路への伴走反応が記録され、山岳校はカルミアの回収路を認めた。
それは大きなことだった。
少なくとも、記録上は。
ただし、朝のミラは、記録上の大きなこととは別の場所にいた。
宿舎の端の部屋。
岩壁側の窓。
厚い毛布。
水筒。
補助帯。
昨日の検証で使った靴。
ミラは寝台の上に座り、動かない足を見ていた。
完全に動かないわけではない。
指は少し動く。
膝も、時間をかければ曲がる。
でも、立てない。
少なくとも、今朝は。
「おはよう」
俺が声をかけると、ミラは顔を上げた。
「おはよう」
声は普通だった。
普通にしようとしている声だった。
「ガレスは?」
「下」
「下?」
「作業場」
ミラは窓の外を見る。
作業場は、この部屋のさらに下層にある。
昨日の検証後、補助帯の金具が少し歪んだらしい。
ガレスはそれを見つけて、朝から直しに行った。
魔法では直せない。
彼の魔法は壊すことしかできない。
だから、手で直す。
いつものことだ。
でも、今日はその「いつものこと」が妙に重かった。
「足、どう?」
俺が聞くと、ミラは自分の膝を見た。
「重い」
「痛い?」
「痛いより、遠い」
遠い。
自分の足が遠い。
その言い方に、少しだけ息が詰まった。
俺にも分かる気がした。
魔法を使って記憶が落ちた時、思い出せないものは消えるのではなく、遠くなる。
手を伸ばせば届きそうなのに、届かない。
ミラの足も、今そうなのかもしれない。
「ロウナ先生は、昼には少し立てるかもって」
「うん」
「無理するなって」
「知ってる」
ミラは短く答える。
それから、少しだけ黙った。
外では足音が続いている。
山の朝。
動ける人間たちの音。
その中で、ミラは動けない。
昨日、彼女は自分を荷として運ばせた。
回収路を見せた。
ルベオは伴走した。
山岳校は認めた。
それでも、今朝のミラの顔には、勝ったような明るさはなかった。
「ルカ」
「何」
「私、重かった」
それは事実だ。
比喩でも、感情でもなく。
ガレスが背負い、ベイルが補助し、ネルとロイが荷物を分け、アルフが帰路を守った。
ミラは重かった。
「うん」
俺は答えた。
軽かったとは言わない。
言ったらたぶん、彼女を落とす。
「みんな、疲れた」
「うん」
「ガレスの肩、赤かった」
「見たのか」
「見えた」
ミラは自分の手を握る。
「私、価値を見せた」
「うん」
「でも、重荷だった」
その二つは、矛盾していない。
価値を見せた。
重荷だった。
どちらか一つだけなら嘘になる。
昨日の第8章の終わりで、俺たちはそう思った。
でも、実際に朝になって自分の足が動かない時、その二つを一緒に持つのはかなり難しい。
「ミラ」
俺は言葉を探す。
慰めは違う。
正論も違う。
それは戦術だっただろ、と言うのも違う。
ミラはそれを分かっている。
分かっているから、苦しい。
「重荷だったけど、置いていかなかった」
ようやく言う。
ミラが俺を見る。
「みんなが?」
「みんなも。ミラも」
彼女は少しだけ目を細める。
「私も?」
「終わりって言った。水を飲んだ。背負われる姿勢を作った。重荷になっただけじゃなくて、運ばれる側の仕事もした」
ミラは、しばらく黙った。
外の足音が通り過ぎる。
今度はロイの声が遠くで聞こえた。
「足裏全体!」
誰かに教わっているらしい。
たぶんタリアだ。
ネルの「うるさい、朝から」という声も少し聞こえた。
山の朝は忙しい。
俺たちも、もう完全なお客さんではない。
「運ばれる側の仕事」
ミラが繰り返す。
「うん」
「変」
「変だけど、あると思う」
ミラは毛布の端を握る。
「背負われるの、まだ嫌」
「知ってる」
「でも、運ばれる側にも仕事があるなら」
そこで言葉が止まる。
ミラは、少しだけ息を吐いた。
「少し、まし」
大きな前進ではない。
でも、朝の重さの中では十分だった。
そこへ、扉が叩かれた。
ガレスだと思ったが、入ってきたのはロイだった。
胸元の札を押さえ、少し息を切らしている。
「おはようございます」
「おはよう」
ミラが答える。
「足、どうですか」
「遠い」
「遠い」
ロイは真剣に頷いた。
「分かりません」
「うん」
「でも、分からないまま聞きました」
ミラは少しだけ笑った。
「いい」
ロイはほっとした顔になる。
「ガレス先輩、下で金具を直してます。俺、呼ばれて」
「呼ばれた?」
「音を聞けって」
ロイは少し誇らしそうに胸元の札を触った。
「金具を締める音が、良い音か悪い音か聞けって。俺、道具の音を聞く係になりました」
ミラの目が少し動く。
「ガレスが?」
「はい」
「そう」
その「そう」は短かったが、何かを受け取った声だった。
ガレスは、何も言わない。
慰めない。
ミラに重くなかったとも言わない。
ただ、昨日ミラを背負った補助帯の金具を直し、ロイに音を聞かせている。
回収の続きをしているのだ。
昨日の検証は終わった。
でも、回収は終わっていない。
道具を直すところまで、回収なのかもしれない。
「見に行く?」
俺が聞くと、ミラは足を見た。
「行けない」
「背負う?」
言ってから、少し迷った。
今それを聞いていいのか。
ミラは俺を見た。
怒らなかった。
ただ、考えた。
「ガレスが戻るまで待つ」
「分かった」
「背負われるの、選びすぎると、嫌が軽くなる」
その言葉は、少し難しかった。
でも、なんとなく分かった。
背負われることをすぐ便利に使うと、昨日の悔しさが軽くなってしまう。
でも、拒否しすぎると落ちる。
その間を、ミラは探している。
「ロイ」
ミラが呼ぶ。
「はい」
「ガレスに、ここで待つって言って」
「はい」
「あと、音、ちゃんと聞いて」
「はい」
ロイは嬉しそうに頷いた。
「必要な音だけ、聞きます」
彼は部屋を出ていった。
足音が少し大きい。
廊下ではない、岩壁沿いの通路に響く。
すぐに遠くからタリアの声がした。
「踵」
「はい!」
「返事も大きい」
「はい」
次の「はい」は少し小さかった。
ミラが、少しだけ笑った。
その笑いが見えて、俺は少し安心した。
下層作業場へ行くと、ガレスは本当に金具を直していた。
補助帯。
昨日、ミラを背負う時に使ったもの。
ベイルが貸してくれたもの。
金属の輪が少し歪んでいる。
革も擦れている。
ガレスは作業台に補助帯を広げ、小さな工具で金具の角度を戻していた。
魔法ではない。
手で。
横にロイが立っている。
真剣な顔で耳を澄ましている。
ベイルもいた。
腕を組み、少し離れて見ている。
タリアは荷縄の点検をしながら、こちらをちらりと見た。
「ミラは?」
「部屋。待つって」
俺が答えると、ガレスは頷いた。
「分かった」
それだけ。
でも、手の動きが少し丁寧になった気がした。
ロイが俺を見る。
「ルカ先輩、これ聞いてください」
「何を」
「良い音と悪い音です」
ガレスが金具を軽く叩く。
こん。
低い音。
次に、別の角度で叩く。
かん。
少し高い音。
「こっちが悪いです」
ロイが言う。
「高い方?」
「はい。浮いてる音がします」
ガレスが頷く。
「浮いてる」
「俺、分かりました」
ロイは嬉しそうに言う。
ベイルが少しだけ眉を上げた。
「音で分かるのか」
「たぶん」
「たぶんで山具を見るな」
「はい」
ロイはすぐに小さくなる。
でも、ガレスが言った。
「補助」
ベイルがガレスを見る。
「何」
「音だけでは決めない。手でも見る。目でも見る。音は補助」
ベイルは少し黙った。
「なら、いい」
ロイの顔がまた明るくなる。
「補助」
その言葉は、彼にとって大きいのだろう。
大音量魔法。
迷惑な音。
声援の手前の音。
山の短音。
そして、道具の異常を聞く補助。
少しずつ、ロイの音は場所を増やしている。
「ガレス」
俺は作業台の補助帯を見る。
「それ、壊れてた?」
「壊れかけ」
「魔法で壊したくならない?」
聞いてから、少し変な質問だと思った。
ガレスは、物を壊す魔法しか使えない。
壊れかけた金具を前にして、魔法なら一瞬で完全に壊せる。
でも、直すには手しかない。
ガレスは手を止めずに答えた。
「ならない」
「どうして」
「壊す場所じゃない」
短い。
それだけ。
でも、ガレスらしい。
「壊す場所があるのか」
ベイルが聞いた。
ガレスは頷く。
「ある」
「どこだ」
「壊すと、直せる場所」
ベイルは眉を寄せる。
「分からん」
「固まった泥。噛んだ金具。古い結び目。壊すと外れる。外れると直せる」
ベイルは、少しだけ目を細めた。
山の道具にも、そういう場面は多いのだろう。
壊すことしかできない魔法。
中央では危険な欠陥。
でも、山の道具の中には、壊さなければ直せないものもある。
この土地は、また別の魔法の見方をガレスに与えるかもしれない。
「やってみるか」
ベイルが言った。
ガレスの手が止まる。
「何を」
「古い荷具庫に、噛んだ金具がある。外せない。切ると革まで駄目になる。壊す場所が分かるなら、試せ」
ガレスは少し考えた。
「後で」
「今じゃないのか」
「これを直す」
補助帯。
ミラを背負った道具。
ガレスは、先にそれを直す。
ベイルは、少しだけ口元を歪めた。
「順番か」
「順番」
ガレスが頷く。
コレットの新しいルールみたいだ。
人を先に見る。
道具も、使ったものを先に直す。
ベイルはそれ以上言わなかった。
ロイは、金具の音をまた聞いている。
こん。
こん。
少しずつ音が変わる。
高い浮いた音が消えていく。
ガレスの手は、魔法よりずっと遅い。
でも、確実だった。
壊すことしかできない人間が、壊さずに直している。
その姿を見ていると、昨日のガレスの背中を思い出す。
ずっと持てるとは言わない。
次の足場まで。
休んで、また。
道具を直す時も、同じなのかもしれない。
一度に全部直そうとしない。
一つずつ、音を聞いて、手で戻す。
「ミラ、重荷って言ってた」
俺が言うと、ガレスの手が一瞬止まった。
ロイがこちらを見る。
ベイルも。
ガレスは、また手を動かす。
「重かった」
「うん」
「でも、持った」
「うん」
「次も?」
俺が聞くと、ガレスは少しだけ考えた。
「次も、必要なら」
「嫌じゃない?」
ガレスは、金具を見たまま答える。
「怖い」
その言葉に、ロイが息を飲んだ。
ガレスが怖いと言うのは、あまり聞かない。
「落とすのが」
ガレスは続けた。
「重いのは、いい。怖いのは、落とすこと」
ベイルが、少しだけ目を伏せた。
山の回収役なら、分かるのだろう。
背負う重さより、落とす怖さ。
ずっと持てると言えない理由。
次の足場まで、と区切る理由。
「ミラに言った?」
俺が聞く。
ガレスは首を横に振った。
「まだ」
「言う?」
「言う」
短い。
でも、決めている声だった。
補助帯の修理が終わったのは、昼前だった。
ロイが最後の音を聞く。
こん。
低く、詰まった音。
浮いていない。
「良い音です」
ロイが言った。
ガレスは頷く。
「よし」
ベイルが補助帯を手に取り、引く。
革が鳴る。
金具はずれない。
「悪くない」
山の人間の褒め言葉は、だいたい短い。
ガレスはそれで十分だったらしく、補助帯を畳んだ。
「ミラに返す」
「道具を?」
俺が聞く。
「うん」
「持っていく?」
「持っていく」
俺とロイもついていった。
ベイルは少し迷ってから、来なかった。
タリアに呼ばれたのもあるが、たぶん今はガレスの場所だと思ったのだろう。
ミラの部屋に戻ると、彼女はまだ寝台にいた。
ただ、朝より顔色はよかった。
足も少し動くようになったらしい。
毛布の下で、膝の位置が少し変わっている。
「直った」
ガレスが補助帯を見せる。
ミラはそれを見た。
「ありがとう」
「金具、浮いてた」
「うん」
「ロイが聞いた」
ロイは少し胸を張る。
「補助です」
ミラが頷く。
「ありがとう」
ロイの顔が、少し照れたように崩れる。
「はい」
ガレスは補助帯を寝台の横に置いた。
それから、ミラの前に立つ。
少し黙る。
ミラも、何かを待つように見ていた。
「ミラ」
「何」
「怖かった」
短い一言。
ミラの目が少し開く。
「昨日?」
「昨日。背負う時。落とすのが怖かった」
ミラは、何も言わない。
ガレスは続けた。
「重いのは、いい。怖いのは、落とすこと」
朝、作業場で言った言葉と同じ。
今度は、ミラへ。
ミラは、毛布の端を握った。
「私、重かった」
「うん」
「怖かった?」
「うん」
「それでも、背負った」
「うん」
「どうして」
ガレスは、少しだけ考えた。
かなり長く。
彼にしては、長い沈黙だった。
「置いていく方が、怖い」
ミラの表情が崩れた。
泣くほどではない。
でも、整えきれない顔。
「そう」
声が少し掠れる。
「うん」
ガレスは頷く。
「置いていかない。でも、ずっとは持てない」
「次の足場まで」
「次の足場まで」
「休んで、また」
「休んで、また」
同じ言葉を、二人で繰り返す。
それは約束だった。
大きくない。
でも、山では信用できる約束。
ロイが、横で鼻をすすった。
ネルがいたら「泣くな」と言っただろう。
でも、ネルはいない。
俺も言わなかった。
ロイは泣いていないふりをしながら、札を握っている。
「ロイ」
ミラが呼ぶ。
「はい」
「泣いてる?」
「泣いてません」
「嘘」
「少し」
認めるのが早い。
ミラは少し笑った。
「音、ありがとう」
「はい」
「昨日、聞こえた」
ロイの顔が変わる。
「本当ですか」
「うん。背負い替え。回収完了。分かった」
「役に立ちましたか」
「立った」
ロイは、今度こそ涙をこぼしそうになった。
でも、こぼさなかった。
「じゃあ、もっと」
言いかけて、自分で止まる。
ミラが首を傾げる。
「もっと?」
「もっと、必要な音を覚えます」
ロイは言い直した。
とてもいい言い直しだった。
大きくなる、ではない。
役に立つ、でも少し違う。
必要な音を覚える。
山で、彼はそこへ進んでいる。
午後、ミラは少しだけ立てるようになった。
ガレスが横にいた。
ロウナ先生もいた。
最初の一歩は、寝台の横。
補助帯は使わない。
代わりに、ガレスの手が近くにある。
触れない。
でも、届く距離。
ミラは立った。
膝が震える。
すぐ座る。
「一歩?」
俺が聞くと、ミラは首を横に振る。
「今日は立つだけ」
ガレスが頷く。
「いい」
「いいの?」
ロイが聞く。
ロウナ先生が答えた。
「立つだけの日もある」
山の言葉は、時々かなり優しい。
厳しいのに、優しい。
ミラはもう一度立つ。
今度は少し長い。
座る。
息を吐く。
「重い」
「うん」
ガレスが答える。
「でも、遠くない」
ミラが言った。
朝、自分の足を遠いと言った。
今は、遠くない。
近いが、重い。
それはたぶん、かなり違う。
コレットが部屋の入口で帳面を抱えていた。
「書いていい?」
ミラは頷く。
「いい」
「成長として」
「うん」
コレットは書く。
「ミラ、自分を重荷と感じる。重荷だった事実を否定せず、運ばれる側の仕事を受け取る。ガレス、回収役の恐怖を言葉にする。ロイ、道具の音を聞く補助を始める」
ネルが後ろから顔を出す。
「あたしは?」
「ネル、荷物を持ちすぎない練習継続」
「まだ続くの」
「続く」
ネルは嫌そうな顔をした。
でも、笑っていた。
山岳地方の滞在後半は、こうして始まった。
崖旗ルベオの章は終わった。
でも、背負われる強さの章は、まだ始まったばかりだ。
ミラは自分が重荷になったと落ち込んだ。
ガレスは何も言わずに補助帯を直した。
ロイは、その金具の音を聞いた。
山は、まだ俺たちを見ている。
速さではなく。
勝ち負けだけでもなく。
背負う背中と、背負われる側の仕事を。
そして、次の足場までを、どう重ねていくかを。




