第78話 追えば落ちる旗
公式戦の朝、山は晴れていた。
晴れているのに、少しも優しくない。
空は青い。
岩は乾いている。
風は昨日より読みやすい。
それでも、崖は崖だった。
落ちれば落ちる。
晴れているから安全、ということはない。
グライフ山岳魔法学校の競技場は、朝の光を受けて赤く見えた。
岩の色。
砂の色。
そして、どこかにいる崖旗ルベオの尾の色。
観客席は、崖の段差に彫り込まれている。
山岳校の生徒たちが、厚い靴で座っている。
足音は揃っていない。
応援の声も、ルミナリアのように整っていない。
短い。
低い。
必要な時にだけ飛ぶ。
山の声だ。
「公式戦、始まるんですね」
ロイが胸元の札に触れながら言った。
「始まる」
コレットは帳面を閉じる。
今日は記録係であり、部長であり、負け筋を見る人間だ。
その顔は少し青い。
たぶん、見えているのだ。
落ちる未来が。
追いすぎる未来が。
風を使う未来が。
ミラが動けなくなる未来が。
それでも、彼女は立っている。
「今日の出場は」
コレットが確認する。
「ミラ、ガレス、アルフ、ロイ、ルカ」
ネルが露骨に不満そうな顔をした。
「あたし、出ないの」
「後半交代枠」
コレットが言う。
「最初から入れると、ネルは絶対に一瞬で追う」
「絶対って言うな」
「絶対」
レイナも頷いた。
ネルは舌打ちする。
「信用ない」
「信用してるから後半」
俺が言うと、ネルはこちらを睨んだ。
「うまいこと言った顔するな」
「してない」
「してる」
たぶん、少ししていた。
ネルを外すのは、弱いからではない。
むしろ、一瞬の魔力が強すぎるからだ。
ルベオは、追う衝動を見る。
ネルの一瞬は、その衝動と相性が悪い。
使い方を間違えれば、旗ではなく落下へ届く。
だから、最初は出さない。
ミラの状態は、万全ではない。
昨日の反動はかなり残っている。
ロウナ先生は、出場を勧めなかった。
ガレスも、最初は首を横に振った。
だが、ミラは言った。
「出る。追わないために」
それで、全員が黙った。
ミラは今日、旗を追うために出るのではない。
追わない足を置くために出る。
回収を先に置くために。
それが成功するかどうかは分からない。
むしろ、失敗する可能性の方が高い。
でも、彼女がベンチにいるだけでは、ルベオに見せられないものがある。
「ミラ」
ガレスが言う。
「何」
「最初の合図」
「回収」
ミラは即答した。
「旗じゃない」
「回収」
「急がない」
「急ぐところだけ、急ぐ」
ガレスが少しだけ目を細める。
「それ、危ない」
「知ってる」
「なら、言い換える」
ミラは少し考えた。
「急ぐ前に、戻る場所を見る」
ガレスは頷いた。
「いい」
短い合格。
ミラは少しだけ息を吐いた。
ガレスの合格は、妙に重い。
山岳校側の出場は、タリア、ベイル、旗守り二人、そして主将のオルグ・ハイン。
オルグは昨日までほとんど姿を見せていなかった。
背は高くない。
でも、足が強い。
立っているだけで、岩に根が張っているように見える。
彼は試合前の挨拶で、俺たちを一人ずつ見た。
顔ではなく、足を。
「カルミア魔法学園、第七魔法競技部」
オルグの声は低い。
「山の競技場へようこそ」
「よろしくお願いします」
俺たちは礼をする。
ルミナリアで覚えた礼とは違う。
深く頭を下げるより、足元を安定させる方が大事だ。
タリアが教えてくれた山の礼は、少し膝を緩め、相手と足元の両方を見るものだった。
やってみると、かなり難しい。
レイナならきれいにできそうだが、今日はベンチだ。
俺たちは不揃いに山の礼をした。
オルグは少しだけ目を細める。
「不揃いだ」
「よく言われます」
俺が答える。
オルグは小さく笑った。
「落ちなければいい」
この学校の価値基準は分かりやすい。
落ちなければ、まずよし。
「試合形式を確認する」
審判役のロウナ先生が言う。
「公式戦。制限時間三十分。グライフ山岳魔法学校の崖旗ルベオをカルミア側が保持すればカルミア得点。カルミア側の巡業旗をグライフ側が保持すればグライフ得点」
カルミア側の旗は、今回はコレットが設定した簡易巡業旗だ。
白旗のような意思はない。
だが、移動補助と戻り線の機能がある。
山で複雑な旗を出すと、自分たちが扱えない。
コレットはそう判断した。
「落下防止索あり。ただし、索による救助発生時、救助対象者は三十秒行動不能扱い。危険行為は即時停止。魔法による地形破壊は禁止」
ジャックがベンチで舌打ちした。
「見てるだけでよかった」
「出たかった?」
ネルが聞く。
「あんな崖で撃ちたくねえよ」
意外と賢い。
いや、ジャックは危険なだけで馬鹿ではない。
壊してはいけないものが多すぎる場所では、彼の魔法はかなり危ない。
「開始位置へ」
俺たちは配置についた。
足元は中段。
カルミアの巡業旗は、背後の岩棚に固定。
グライフ側のルベオは、試合開始まで姿を見せない。
崖のどこかにいる。
それがすでに嫌だ。
ミラは中央より少し壁側。
ガレスはその後ろ。
アルフは谷側を見られる位置。
ロイは短音が届く中央寄り。
俺は、風を感じられるがすぐには使わない位置。
風前確認は済んでいる。
戻り言葉も。
それでも、手のひらが少し冷たい。
「ルカ」
ミラが小さく言った。
「何」
「風、軽く見ない」
「うん」
「私も、力を軽く見ない」
「うん」
それだけ。
でも、かなり大事な確認だった。
「開始」
ロウナ先生の声が、崖に響いた。
笛はない。
声だけ。
その瞬間、上から赤い尾が落ちてきた。
落ちてきた、という表現しかできない。
ルベオは上段の岩陰から飛び出し、垂直に近い壁を蹴って、俺たちの頭上を斜めに走った。
背中の赤い布旗が、朝日に燃える。
観客席から短い声が上がる。
「ルベオ!」
山の応援は短い。
しかし、熱い。
ロイが札を握る。
まだ鳴らさない。
ルベオは、開始十秒で俺たちの射程を完全に外れた。
速い。
分かっていた。
昨日も見た。
それでも、試合で見ると違う。
こちらが取らなければならない状況で見るルベオは、昨日の倍くらい速い。
「追わない」
ミラが言う。
自分に。
俺たちに。
ルベオは上へ逃げる。
そこへ、グライフ側のベイルが走る。
追うのではない。
ルベオの通る道を開ける。
彼は岩棚の端で足音を二つ鳴らした。
たん。
とん。
揃えない音。
ルベオは、その音の隙間を通るように向きを変える。
タリアが下の道を押さえる。
オルグが中央の高い岩に立つ。
グライフ側は、旗を追っていない。
山を動かしている。
旗が走る道を、少しずつ整えている。
「あれ、守ってるの?」
ロイが聞く。
「逃がしてる」
アルフが答える。
「旗を守るというより、旗の道を守っている」
道を守る。
また新しい言葉だ。
ルベオが下へ落ちる。
ミラの前をかすめるように。
赤い尾。
近い。
ミラの足が一瞬動きかける。
「回収」
ガレスが言った。
短い。
ミラの足が止まる。
ルベオは、止まったミラを見た。
金色の目が細くなる。
挑発。
昨日と同じ。
いや、昨日より強い。
試合だからだ。
追ってこないのか。
取る気がないのか。
山を降りた足は、そんなものか。
そう言われている気がした。
ミラの肩に力が入る。
「ミラ」
俺も呼ぶ。
「見てる」
ミラは答えた。
「追わない。見てる」
ルベオは、赤い尾を振る。
そして、上へ逃げた。
観客席から、短い笑いに似た声が起きる。
嘲笑ではない。
山の観客は、挑発に乗らなかった相手も見る。
ただし、点は入らない。
ルベオは取れていない。
試合は進む。
グライフ側が、こちらの巡業旗へ近づいてきた。
ベイルと旗守りの一人。
高低差を使って、こちらの背後へ回る。
アルフが一方向結界を張る。
「岩側!」
ロイが短く鳴らす。
「ちん」
合図で、俺とガレスが戻る。
ミラは動かない。
いや、動けない位置にいる。
今、戻ればルベオの挑発を捨てることになる。
でも、巡業旗を取られれば失点だ。
「ミラ、戻る」
コレットがベンチから叫ぶ。
ミラは頷く。
ゆっくり。
走らない。
戻る。
その間に、グライフ側は速い。
ベイルが岩を蹴り、上からこちらの巡業旗へ迫る。
ガレスが前に出る。
壊す魔法は使わない。
地形破壊は禁止。
彼は手で、ベイルの進路に置かれた古い木枠をずらす。
壊さない。
ずらす。
ベイルが一瞬だけ足を止める。
アルフの結界が、旗の前に一枚立つ。
一方向。
ベイルはそれを見て、すぐに横へ逃げた。
「速いな」
アルフが呟く。
防げた。
でも、守っただけで精一杯だ。
その間にルベオはまた遠くへ行く。
高低差を使い、俺たちの視界の外へ。
追えない。
守れば逃げる。
追えば守れない。
高低差が、試合を二つに割っている。
「これ、きつい」
ロイが言う。
「きついな」
俺も答える。
開始三分。
まだ何もできていない。
いや、落ちてはいない。
巡業旗も取られていない。
それは大事だ。
でも、ルベオには触れる気配すらない。
ルベオが下段へ消えた。
追えば、下へ。
下へ行けば、戻るのに時間がかかる。
戻る間に巡業旗を狙われる。
待てば、来ない。
呼べば、逃げる。
その言葉が、試合の中で現実になる。
「道を背負う」
ミラが呟いた。
「でも、道が多い」
その通りだった。
山の道は多すぎる。
上。
下。
横。
裏。
足場の下。
岩棚の影。
俺たちが一つの道を背負おうとした瞬間、ルベオは別の道へ行く。
山岳校はその道を知っている。
俺たちは知らない。
この差は大きい。
「左下」
ミラが言った。
全員が反応する。
ルベオが左下の岩棚へ出る。
予測は当たった。
「行ける?」
俺が聞く。
ミラは首を横に振った。
「行くと戻れない」
短い判断。
正しい。
でも、悔しい。
見えているのに行けない。
それは、見えないよりきついかもしれない。
ルベオは左下で一瞬止まった。
こちらを見た。
行けないのを分かっている。
金色の目が、そう言っているように見えた。
「性格悪い」
ネルがベンチから呟く。
「山の旗」
タリアが遠くから返した。
試合中なのに返す余裕があるのが腹立たしい。
いや、タリアも余裕ではない。
彼女はルベオの上の道を守っている。
その状態で、こちらの言葉に反応した。
山岳校の選手は、情報の拾い方が違う。
足音。
声。
風。
全部を聞いている。
五分。
八分。
十分快。
ルベオは一度も止まらない。
いや、止まる。
でも、触れない場所で止まる。
こちらの届く一歩手前。
こちらが行けば戻れない場所。
こちらが見れば視線を利用される場所。
ルベオは、旗というより問題そのものだった。
解けそうに見える。
でも、解こうとすると崖が待っている。
「交代準備」
コレットが言った。
ネルが立ち上がる。
「やっと」
「一回だけ」
コレットが釘を刺す。
「ネルの一瞬は、追跡じゃなく揺れ止め」
「分かってる」
ネルの顔は真剣だった。
分かっている。
たぶん、本当に。
でも、試合に入ると分かっていることが崩れる。
ミラがそうだった。
分類も、約束も、挑発の前で一つに戻る。
ネルも同じ危険を持っている。
交代のため、ミラが一度下がる。
ガレスが近づく。
「歩ける?」
「歩ける」
「速くない」
「速くない」
ミラはゆっくり下がる。
その瞬間を、ルベオが見逃さなかった。
赤い尾が上から落ちる。
ミラの前。
交代線のすぐ近く。
誘っている。
最後に追え、と。
ミラの足が、また一瞬動いた。
俺の心臓が跳ねる。
ガレスが言った。
「次の足場」
ミラが止まる。
昨日の言葉。
次の足場まで。
休んで、また。
ミラはルベオを見た。
追わなかった。
ルベオは、ほんの一瞬、動きを止めたように見えた。
つまらない、と思ったのか。
それとも、見直したのか。
分からない。
赤い尾はすぐに上へ消えた。
交代成立。
ネルが入る。
彼女は最初から低く構えていた。
走る気だ。
いや、走らないために低く構えているのかもしれない。
どちらか分からない。
「ネル」
俺が呼ぶ。
「追わない」
「分かってる」
ネルは短く答える。
ルベオが右上に出る。
ネルの目が動く。
足も動く。
速い。
魔力は使っていない。
手と足だけ。
彼女はルベオを追うのではなく、下の道へ入る。
ルベオが落ちてくる可能性のある場所。
先回り。
悪くない。
でも、ルベオは読んだ。
下へ行くふりをして、上へ戻る。
ネルの先回りは空振り。
その位置は、戻るのに少し遠い。
「戻れ!」
アルフが叫ぶ。
ネルが舌打ちして戻る。
そこへグライフ側が巡業旗を狙う。
タリア。
速い。
俺が動く。
風を使わず、足で。
間に合わない。
ロイの音。
「ちん」
短音で、ガレスが進路を変える。
アルフが結界を張る。
タリアの手が巡業旗の布に届く寸前、結界が入る。
防いだ。
また防いだだけ。
ルベオは遠い。
観客席から、低い声が上がる。
グライフの応援。
カルミアを嘲る声ではない。
ただ、山岳校の流れを感じ取った声だ。
試合は、完全にグライフの山の中にある。
十五分。
まだ零対零。
でも、点数以上に差がある。
ルベオは捕まらない。
こちらの旗は何度も狙われる。
守っているだけ。
それも、ぎりぎりで。
「ルカ」
コレットがベンチから叫ぶ。
「風、まだ使わない」
「分かってる」
声に少し苛立ちが混じった。
自分でも分かった。
風を使えば、少なくとも一度はルベオの軌道に触れられるかもしれない。
下から吹く風。
横へ流れる風。
ルベオの落下を横へ変える動き。
全部、見えている。
使いたい。
でも、使えば記憶を落とす。
そして、使ったところで取れるとは限らない。
取れなければ、記憶だけが落ちる。
最悪だ。
「ルカ」
レイナの声。
ベンチから。
「焦っています」
「知ってる」
「なら、置いてください」
白旗の時の言葉だ。
失敗を置く。
未練を置く。
今は焦りを置く。
俺は息を吐いた。
「焦ってる」
口に出す。
ロイが短く鳴らした。
「ちん」
焦りが置かれた合図。
少し笑いそうになった。
でも、その音で少し戻った。
「ありがとう」
「はい」
ロイは真剣に頷く。
ルベオがまた近づく。
今度は俺の前。
赤い尾。
風が巻く。
手を伸ばせば、届く。
たぶん届かない。
でも、届きそうに見える。
俺は動かなかった。
ルベオが、俺の足元のすぐ下を走り抜ける。
板の裏。
かつん、かつん。
その音が、胸の下を通っていくようだった。
追えない。
俺たちはまだ、追えない。
残り十分。
グライフ側の攻撃が増えた。
ルベオを追わせ、戻りを遅らせ、巡業旗を狙う。
典型的なホーム戦術。
分かっていても、きつい。
高低差があるだけで、戻る時間がずれる。
足音が揃えばルベオに読まれ、ばらばらすぎれば連携が切れる。
ロイの短音が何度も鳴る。
必要な音。
でも、鳴るたびに彼の顔が少し青くなる。
失敗しないように、必死だ。
ネルは一度だけ魔力を使った。
ルベオではなく、巡業旗へ向かうタリアの足元の揺れを逃がすため。
攻撃ではない。
防御でもない。
揺れ止め。
それで、タリアの接触が半歩ずれた。
観客席が少しどよめく。
タリアがネルを見て、短く言った。
「いい」
敵に褒められると、ネルはとても嫌そうな顔をした。
でも、少し嬉しそうでもあった。
残り五分。
零対零。
ルベオはまだ一度も触れられていない。
カルミアの巡業旗も、なんとか守っている。
ミラはベンチで立ち上がっていた。
まだ完全には戻っていない。
でも、立っている。
ガレスが試合中なのにちらりと見る。
ミラは頷いた。
大丈夫、ではない。
見ている、という頷き。
ルベオが、最後の挑発のように下段へ落ちた。
かなり低い。
追えば、戻れない。
でも、あそこなら。
あそこなら、ミラの予測とネルの一瞬、俺の風があれば届くかもしれない。
そう思った瞬間、コレットが叫んだ。
「行かない!」
強い声。
「戻れなくなる!」
俺たちは止まった。
ネルも止まった。
ルベオは下段で振り返る。
金色の目。
赤い尾。
来ないのか。
そう言っている。
行けば、たぶん落ちない。
でも、戻れない。
戻れなければ、巡業旗を取られる。
さらに、ミラの回収も置けない。
俺たちは行かなかった。
ルベオは、つまらなさそうに上へ走った。
その上で、グライフ側が一気に動く。
オルグ。
タリア。
ベイル。
三方向から巡業旗へ。
アルフの結界は一方向。
ガレスは中央。
ネルは下段から戻りきっていない。
ロイの短音が鳴る。
「ちん」
俺は走る。
風は使わない。
足で。
間に合うか。
間に合わない。
アルフが一方向を防ぐ。
ガレスがベイルの進路を体で止める。
しかし、タリアが横を抜ける。
彼女の手が、カルミアの巡業旗に触れた。
保持。
ロウナ先生の声が響く。
「グライフ山岳魔法学校、一点」
観客席が短く沸いた。
大歓声ではない。
山の声。
低く、鋭く、岩に当たって返る。
カルミア側は、誰もすぐには動けなかった。
取られた。
守って、守って、守って。
最後に取られた。
ルベオには触れず。
高低差に振られ。
戻りきれず。
それでも、落ちはしなかった。
ロウナ先生が試合終了を告げる。
三十分を待たず、グライフ一点で終了。
公式戦結果。
カルミア、敗北。
一対零。
ルベオ、奪取ならず。
俺は膝に手を置き、息を吐いた。
悔しい。
かなり悔しい。
でも、どこかで分かっていた結果でもあった。
ルベオは、まだ遠い。
遠すぎる。
ミラがベンチからゆっくり歩いてきた。
ガレスがそばへ行こうとする。
ミラは手で止めた。
数歩だけ、自分で歩く。
そして、俺たちの前で止まった。
「取れなかった」
ミラが言う。
「うん」
俺は答える。
「守れなかった」
アルフが言う。
「うん」
ロイが札を握る。
「でも、落ちなかった」
ミラが、ロイを見る。
「うん」
「それ、言っていいやつですか」
ロイの声は少し不安そうだった。
負けた直後に、落ちなかったと言うこと。
負け惜しみに聞こえるかもしれない。
でも、ミラは頷いた。
「言っていい。落ちなかった」
ガレスが続ける。
「回収も、置いた」
ネルが悔しそうに言う。
「旗は取れてないけど」
「取れてない」
ミラは認める。
「だから、次」
その目は、ルベオが消えた上段を見ていた。
「次は、回収を先に置いて、取れないことも前提にする」
コレットが帳面を開く。
ミラは言う。
「書いて」
コレットは頷く。
「公式戦、敗北。一対零。ルベオ奪取なし。高低差により追跡不能。下段誘導への不介入は正しいが、戻りきれず巡業旗保持を許す」
筆が走る。
「成長」
コレットの声は、悔しさを含んでいた。
「ミラ、追わない判断複数回。ガレス、回収合図で制止。ロイ、短音合図継続。ネル、一瞬を揺れ止めに限定。ルカ、風未使用。全員、落下なし」
落下なし。
その言葉が、山の競技場に残る。
勝利ではない。
でも、軽くない。
オルグが近づいてきた。
彼は俺たちの前で立ち止まり、まず足元を見た。
それから、顔を見る。
「落ちなかった」
同じ言葉を言った。
「はい」
コレットが答える。
「旗は取れなかった」
「はい」
「だが、途中で追わない判断をした。山では、それも足だ」
ミラの目が少し揺れる。
ベイルが、少し離れた場所で腕を組んでいる。
タリアは、ルベオが消えた方を見ている。
オルグは続けた。
「明日、合同検証をする。ルベオは、お前たちを覚えた」
「覚えた?」
俺が聞く。
「追わなかった足を」
オルグは、ミラを見る。
「それから、回収を先に置こうとした足を」
勝てなかった。
触れなかった。
点も取れなかった。
それでも、ルベオは覚えた。
オルグの言葉をそのまま信じていいのかは分からない。
でも、ミラは静かに頷いた。
「明日、見せる」
オルグが少しだけ眉を上げる。
「何を」
「取れなくても、運ぶ道」
その言葉に、ガレスが頷く。
コレットが筆を止める。
俺は、次の話の形が少し見えた気がした。
ミラは、ルベオを取れない。
たぶん、この章では取れない。
でも、取れないまま終わるために来たわけではない。
山の魔法が欠陥だけではないことを、どう見せるか。
そのためには、勝ち筋ではなく、運ぶ道を作る必要がある。
公式戦は負けた。
崖旗ルベオは、最後まで高低差を使って逃げ続けた。
俺たちは追うほど落ちる構造を思い知らされた。
でも、落ちなかった。
そして、落ちなかったからこそ。
次に置ける作戦が、まだ残っていた。




