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第77話 背負う背中は黙っている

 夜の山道は、昼間より狭かった。


 実際に狭くなったわけではない。


 同じ道だ。


 同じ岩壁。


 同じ手すり。


 同じ吊り橋。


 それなのに、光が少なくなるだけで、足場は急に別の顔をする。


 昼間は見えていた板の継ぎ目が、影に沈む。


 谷の深さは見えなくなる。


 見えない分だけ、音で分かる。


 遠い川。


 下から吹く風。


 板を踏む足音。


 ガレスの背中で、ミラが小さく息をした。


 俺たちは作業場から宿舎へ戻っていた。


 医療係は、担架を勧めた。


 ロウナ先生も、今日は担架の方がよいと言った。


 けれど、道が狭かった。


 担架では曲がりにくい場所がある。


 吊り橋で揺れる。


 階段で重心が流れる。


 山岳校の生徒二人が担ぐこともできたが、ミラは首を横に振った。


「ガレス」


 それだけ言った。


 ガレスは頷いた。


「背負う」


 短い。


 いつも通り。


 でも、その背中にミラが乗った瞬間、俺は少しだけ息を飲んだ。


 重さが見えたからだ。


 ミラの体は、普段よりずっと重く見えた。


 体重の話ではない。


 動けない人間の重さ。


 悔しさを抱えた人間の重さ。


 自分で「回収を先に置く」と言ったばかりの人間が、今まさに回収されている重さ。


 ガレスは、それを何も言わずに背負った。


「ゆっくり」


 タリアが先導しながら言う。


「夜の板は湿っている。足音を聞く」


「聞く」


 ロイが小さく答える。


 彼はガレスの少し後ろを歩いている。


 胸元の札に手を置いたまま。


 今日はもう鳴らさない。


 必要な音だけ。


 今は、足音を聞く時間だ。


 ネルはミラの荷物を持っていた。


 壁側に寄せて。


 谷側へ出さないように。


 彼女の手には力が入っている。


 持ちすぎている。


 でも、誰もすぐには言わなかった。


 しばらく歩いたところで、ミラがガレスの背中から言った。


「ネル」


「何」


「持ちすぎ」


 ネルの眉が動く。


「うるさい。あんたに言われたくない」


「持ちすぎ」


 二回目。


 ミラの声は弱い。


 でも、言葉はしっかりしている。


 ネルは舌打ちして、荷物の持ち方を変えた。


 肩から少し下ろし、胸の前で抱える。


「これでいい?」


「いい」


「動けないくせに」


「見える」


 ネルは何か言い返そうとして、やめた。


「そう」


 短く答える。


 白旗の時から、ネルは少しずつ止まれるようになっている。


 山では、その止まる力が何度も必要になる。


 吊り橋に差しかかった。


 昼間も渡った橋だ。


 夜は、さらに細く見える。


 板はしっかりしている。


 縄も太い。


 それでも、下が見えないのはかなり嫌だ。


 タリアが先に渡る。


 次にガレス。


 ミラを背負ったまま。


 俺たちは息を殺して見守った。


 ガレスの足音は、静かだった。


 重い。


 でも、乱れない。


 右。


 左。


 一拍置いて。


 右。


 左。


 山岳校の生徒ほど速くはない。


 でも、急がない。


 橋が揺れる前に、次の足を置かない。


 揺れが戻るのを待つ。


 ミラは、ガレスの肩に額を寄せていた。


 顔は見えない。


「ガレス」


 彼女が小さく言う。


「何」


「重い?」


 ガレスは足を止めなかった。


「重い」


 ミラの肩が、ほんの少し動く。


「そう」


「でも、持てる」


 ガレスは続けた。


「今は」


 今は。


 その二文字が、夜の吊り橋に落ちた。


 ガレスは嘘をつかない。


 軽いとも言わない。


 ずっと持てるとも言わない。


 今は持てる。


 それが彼の正直な答えだった。


「いつまで?」


 ミラが聞く。


「次の足場まで」


「その後は?」


「そこで下ろす」


「また背負う?」


「必要なら」


「ずっとじゃない」


「ずっとは無理」


 ミラは、少しだけ息を吐いた。


 安心したのか。


 悔しかったのか。


 たぶん両方だ。


「ずっと持てるって言われたら」


 ミラが言う。


「嫌だった」


「言わない」


「うん」


 橋を渡りきる。


 タリアが足場で待っていた。


 ガレスはそこで膝をついた。


 ミラを一度下ろす。


 背中から腕を外すだけでも、ミラは顔を歪めた。


 体がまだ言うことを聞いていない。


 ロウナ先生に言われた通り、反動は半日以上続く。


 分類して、分けて使ったはずの訓練でも、最後に一つへ戻した。


 その代償は軽くない。


 ミラは岩壁側に背を預け、目を閉じた。


 ガレスは自分の肩を回した。


 珍しい動きだった。


「ガレス」


 俺が声をかける。


「大丈夫か」


「大丈夫」


 いつもの答え。


 でも、少しだけ息が重い。


「本当に?」


 ネルが聞く。


 ガレスはネルを見る。


「次の足場までは」


 さっきと同じ答え。


 ネルは唇を噛んだ。


「じゃあ、その次は?」


「休む」


 短い。


 でも、ちゃんと答えた。


 ガレスも、ずっと持てるわけではない。


 回収役にも限界がある。


 それを口にするのは、たぶん大事だった。


 ミラだけではない。


 背負う側も、自分の重さを軽く見てはいけない。


「俺、代わりますか」


 ロイが言った。


 全員がロイを見る。


 ロイは少し慌てる。


「いや、あの、俺も持てるかなって。足音はまだ下手ですけど」


 タリアがロイの靴を見る。


「この道では、まだ危ない」


「はい」


 ロイは素直に頷いた。


「でも、荷物なら持つ」


 ミラの荷物を持っているネルを見る。


「ネル先輩、半分ください」


「いらない」


「持ちすぎって言われてました」


「聞こえてたの」


「小さい声も、最近聞くようにしています」


 ネルは嫌そうな顔をした。


 でも、荷物の一部をロイに渡した。


「谷側に出すな」


「はい」


 ロイは慎重に荷物を受け取る。


 足元を見る。


 荷物を壁側に寄せる。


「こうですか」


 タリアが頷く。


「いい」


 ロイの顔が少し明るくなる。


 小さなことだ。


 でも、回収は小さなことの積み重ねだ。


 ガレスだけが背負うのではない。


 ネルが荷を持つ。


 ロイが半分持つ。


 タリアが道を選ぶ。


 アルフが危ない方向を見る。


 レイナが声を止めるか出すか判断する。


 俺が風を使うかどうかを持つ。


 みんなで、少しずつ回収する。


「ガレス」


 ミラが目を開けた。


「何」


「背負われるの、嫌」


 ガレスは頷いた。


「知ってる」


「でも、背負われないと帰れない」


「知ってる」


「嫌でも、帰りたい」


「うん」


 ミラの声が、少しだけ震えた。


「落ちたくない」


 作業場では言えなかった言葉かもしれない。


 ミラはずっと、落ちないために話していた。


 落ちるよりいい。


 回収を先に置く。


 でも、落ちたくないと、直接言ったのは初めてだった。


 ガレスは、少しだけ間を置いて言った。


「落とさない」


 ミラの眉が動く。


「ずっと?」


「今は」


 同じ答え。


 でも、今度はミラが少し笑った。


「うん」


「今は、落とさない」


 ガレスは、もう一度言った。


「次の足場まで」


「その次は?」


「休んで、また」


「うん」


 その会話は、誓いとしては小さい。


 一生守る、とか。


 絶対落とさない、とか。


 そういう大きな言葉ではない。


 次の足場まで。


 休んで、また。


 でも、山ではその方が信用できる。


 大きな言葉は、崖で滑る。


 小さな言葉を足場ごとに置く方が、落ちにくい。


「行く」


 ガレスが言う。


 ミラは頷いた。


 タリアが索を確認する。


 ガレスがミラを背負い直す。


 今度は、ミラも自分の腕をゆっくり回した。


 力は入らない。


 でも、預け方を少し変えた。


 さっきより、ガレスの首を締めていない。


 背負われる側にも技術がある。


 ミラはそれを知っているのだろう。


 知っているのに、嫌なのだ。


 それでも、使う。


 実用魔法と同じだ。


 危うくて、嫌で、必要なもの。


 夜道は続く。


 板。


 岩。


 階段。


 短い橋。


 また足場。


 ガレスは、足場ごとに一度止まった。


 ミラを下ろす時もあれば、背負ったまま膝だけを落として休む時もあった。


 ロウナ先生がくれた山用の携帯灯が、足元を丸く照らす。


 その灯りの外は暗い。


 暗いところに、ルベオがいる気がした。


 見ているかもしれない。


 回収を。


 急がず、足場ごとに区切る帰り道を。


 ミラが背負われることを受け入れる様子を。


 ガレスがずっとではなく今だけ背負う様子を。


 旗は、こういうものも見るのだろうか。


 山の旗なら、見るのかもしれない。


 宿舎まであと少しというところで、ベイルが追いついてきた。


 彼は作業場に残っていたはずだ。


 手には、太い布帯を持っている。


「使え」


 ガレスの前に差し出す。


 背負い紐の補助帯だ。


 肩と腰に重さを分けるためのもの。


 ガレスはそれを見る。


「借りる」


「返せ」


「返す」


 短い会話。


 ベイルは、ガレスの背負い方を見て、少しだけ眉を寄せた。


「肩に寄りすぎてる。腰に落とせ」


 ガレスは頷く。


「分かった」


 ベイルが補助帯を巻く。


 手つきは荒くない。


 慣れている。


 山の回収の手だ。


 ミラは、ガレスの背中で黙っていた。


「ベイル」


 しばらくして、彼女が言う。


「何だ」


「ありがとう」


 ベイルは、布帯を結びながら顔を背けた。


「ガレスが落ちたら、お前も落ちる」


「うん」


「だからだ」


「うん」


 それ以上は言わない。


 でも、ミラの声は少しだけ柔らかかった。


 ベイルはガレスの背負い方を確認して、短く言う。


「これで次の足場までは楽だ」


 ガレスが頷く。


「助かる」


「次の足場までだ」


「分かってる」


 次の足場まで。


 その言葉が、山の合言葉みたいになっていく。


 宿舎に着いた時、俺たちは全員、ほっとした。


 たぶん、試合を一つ終えた時くらい疲れていた。


 ただ帰っただけなのに。


 いや、ただ帰ることが、山では競技なのだ。


 ミラは寝台に下ろされた。


 ロウナ先生がもう一度状態を確認する。


 足の冷え。


 指の動き。


 肩の張り。


 呼吸。


「悪化はしていない」


 その言葉で、ガレスがほんの少し息を吐いた。


 本当にほんの少し。


 でも、俺には分かった。


 彼も怖かったのだ。


 背負っている間、ずっと。


 落とさないと言った。


 でも、絶対ではない。


 次の足場まで。


 それを何度も重ねて、ようやくここまで来た。


「ガレス」


 コレットが声をかける。


「書いていい?」


 ガレスは少し考えた。


 彼がこういう質問で考えるのは珍しい。


「何を」


「回収」


 ガレスは、ミラを見た。


 ミラも彼を見る。


「書いて」


 ミラが先に言った。


 ガレスは頷いた。


「書いて」


 コレットは帳面を開く。


「成長」


 まず、それを言った。


「ミラ、自分からガレスを回収役として指定。背負われることへの嫌悪を言葉にする。落ちたくないと明言。足場ごとに休む回収を受け入れる」


 ミラは目を閉じて聞いている。


 コレットは続ける。


「ガレス、回収役としてミラを背負う。ただし、次の足場まで、休んでまた、という短い単位で限界を共有。ずっと持てるとは言わない。補助帯を受け入れる」


 ガレスが少しだけ目を伏せた。


 ずっと持てると言わない。


 それも成長として書かれる。


 たぶん、彼にとっても大事なことだ。


「負け筋」


 コレットの声が少し低くなる。


「ガレス単独回収では長距離が厳しい。夜道、吊り橋、横風、荷物分担があると回収速度低下。ミラが背負われることを拒否した場合、回収不能。補助帯、荷物分担、短音合図、足場ごとの休止が必要」


 ロイが頷く。


「短音合図、必要」


「うん」


 コレットが書く。


「ロイ、回収中は不必要に鳴らさず、必要時のみ小音。荷物半分持ち」


 ネルが言う。


「あたしも書くの?」


「ネル、持ちすぎをミラに指摘され、荷物を分担」


「それ、成長?」


「成長」


 ネルは嫌そうな顔をした。


「成長って、恥ずかしい」


「書く」


「はいはい」


 少しだけ笑いが起きる。


 ミラも、目を閉じたまま少し笑った。


 その笑いが見えて、俺は少し安心した。


「ベイルも」


 ミラが目を開けずに言った。


 コレットが顔を上げる。


「ベイルさん?」


「補助帯」


 ちょうど入口に立っていたベイルが、露骨に嫌な顔をした。


「俺はいい」


「書く」


 ミラが言う。


「回収、みんな」


 ベイルは言い返せなかった。


 コレットは書いた。


「ベイル、補助帯を提供。ガレスの背負い方を調整。山側の回収知識共有」


 ベイルは腕を組む。


「長い」


「必要」


 コレットが返す。


 もう誰も驚かない。


 夜が深くなり、山岳校の宿舎にも静けさが降りた。


 ロウナ先生が、ミラは眠った方がいいと言った。


 俺たちは部屋を出ようとした。


 その時、ミラがガレスを呼んだ。


「ガレス」


「何」


「まだいる?」


 ガレスは振り返る。


「いる」


「水」


「持ってる」


「じゃあ、いて」


 ガレスは頷いた。


「いる」


 それだけ。


 でも、ミラは安心したように目を閉じた。


 俺たちは静かに部屋を出た。


 廊下ではなく、岩壁沿いの通路。


 外の空気は冷たい。


 遠くで川が鳴っている。


 ロイが小さく言った。


「ガレス先輩、すごいですね」


「うん」


 俺は頷く。


「でも、ずっとは無理って言ってました」


「そこがすごいんだと思う」


 ロイは少し考える。


「無理って言えるのが?」


「たぶん」


 回収役は、強いだけでは足りない。


 ずっと持てるふりをすると、背負う側も背負われる側も落ちる。


 次の足場まで。


 休んで、また。


 その単位でしか持てないことを言える強さ。


 ガレスは今日、それを見せた。


 部屋の中から、ミラの小さな声が聞こえた気がした。


 何を言ったのかは分からない。


 ガレスの低い返事も聞こえた。


 たぶん、水のことだろう。


 あるいは、次の足場のことかもしれない。


 俺は崖の暗闇を見た。


 赤い尾は見えない。


 でも、もしルベオがどこかで見ていたなら、今日の帰り道も記録しただろう。


 追う足ではなく。


 奪う手でもなく。


 背負う背中。


 背負われる悔しさ。


 次の足場までと、短く区切る声。


 山が見る価値は、たぶん速さだけではない。


 明日、俺たちはそれを作戦にしなければならない。


 回収を先に置く。


 その言葉は、もう帳面の中だけではない。


 ガレスの背中と、ミラの悔しさと、みんなの荷物分担の中に、重く残っていた。


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