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第73話 崖を走る赤い尾

 夕方の山は、昼間よりも近かった。


 何が近いのかと聞かれると困る。


 岩か。


 風か。


 谷か。


 それとも、自分が落ちる可能性か。


 たぶん全部だ。


 グライフ山岳魔法学校の観察足場は、校舎のさらに上にあった。


 上、という表現で合っているのかも怪しい。


 細い階段を上がり、岩壁を横に進み、途中で短い吊り橋を渡り、最後に斜めの通路を登る。


 すると、崖の途中に張り出した広い足場へ出る。


 足場は広い。


 広いはずなのに、谷側に柵があるだけで妙に信用できない。


 足元の板は厚く、金具も太い。


 ガレスが見て「大丈夫」と言ったので、構造的には大丈夫なのだろう。


 気持ちが大丈夫ではない。


「下、見ない方がいいですか」


 ロイが聞いた。


「見てもいい」


 タリアが答える。


「ただし、見ながら歩くな」


「分かりました」


 ロイは下を見た。


 三秒で顔を上げた。


「見ました」


「早い」


 ネルが言う。


「十分でした」


「賢い」


 今回は本当に賢いと思う。


 谷は深い。


 川は白い線にしか見えない。


 風は下から吹き上げて、制服の裾を持ち上げようとする。


 俺は無意識に胸元を押さえた。


 風。


 使える。


 ここでは、俺の風魔法は役に立つだろう。


 落ちそうな人を支えられるかもしれない。


 旗の軌道を少し読めるかもしれない。


 でも、使えば記憶が落ちる。


 ルミナリアでは使わなかった。


 白旗を待つために。


 この山では、使わないことが同じ意味を持つとは限らない。


 危険が目の前にある時、風を使わないのは、ただの臆病になるかもしれない。


 その判断を、これから何度も迫られる気がした。


「ルカ」


 ノルが横から言った。


「顔、風になってる」


「どんな顔だよ」


「飛びそう」


「怖いこと言うな」


 ノルは眠そうに頷いた。


「飛ぶ時は、言って」


「飛ばない」


「飛ぶかもしれない顔」


 半分寝ているくせに、たまに鋭い。


 俺は深呼吸した。


 今は観察。


 追わない。


 捕まえない。


 使わない。


 まず見る。


 白旗の時に何度も学んだことだ。


 ただし、ここでは見ているだけでも足元が怖い。


 ミラは、足場の岩壁側に座っていた。


 ガレスが隣にいる。


 彼女の膝には厚い毛布がかけられている。


 山岳校の備品らしい。


 外側は粗い布で、内側は柔らかい毛。


 ミラは不満そうだったが、受け取っていた。


「休む」


 ガレスが言う。


「休んでる」


「足、動かさない」


「少しなら」


「少しも」


 ミラは、むっとした顔で黙った。


 山岳校の生徒たちが、それをちらちら見ている。


 背負われること。


 休むこと。


 動けないことを隠さないこと。


 それらは、ここではかなり目立つ。


 でも、ミラは毛布を払いのけなかった。


 それだけで、彼女が今日ずいぶん大きなことをしているのが分かる。


 ベイルは、少し離れた場所に立っていた。


 腕を組み、崖の方を見ている。


 こちらへ話しかけるつもりはないらしい。


 でも、立ち去りもしない。


 タリアは足場の中央へ進み、俺たちへ向き直った。


「観察前に確認」


 彼女の声は、風に負けない。


「崖旗ルベオは、追うと落とす。待つと来ない。呼ぶと逃げる。逃げると追ってくることがある」


「性格悪い」


 ネルが言った。


「性格ではない」


 タリアは真面目に返す。


「山の旗だ」


「山、性格悪い」


「山に聞こえる」


 ネルが少しだけ口を閉じた。


 本当に聞こえそうな場所だから困る。


「ルベオは獣型旗。赤い尾、岩色の体、背中に短い布旗を持つ。布に触れれば旗接触。ただし、体に不用意に触れると弾かれる。力で押さえると岩へぶつけられる。視線で追いすぎても進路を変える」


「視線で?」


 レイナが聞く。


「獣は視線を読む」


 タリアは言う。


「白旗が礼を見たように、ルベオは重心を見る。足、肩、目、荷物。全部」


 コレットが帳面を開く。


「書いていい?」


 タリアは頷く。


「公式説明だ。書いていい」


 コレットは素早く書く。


 その横でクララも書きたそうにしているが、今日は許可の範囲が分かりやすいので少し安心している。


「ルベオは、競技場の全高を使う」


 タリアが崖を指す。


 夕方の光で、岩壁が赤くなっている。


 崖にはいくつもの足場と道があった。


 水平の道。


 斜めの道。


 ほとんど垂直の岩。


 隠れた棚。


 短い吊り橋。


 下へ落ちるように見えて、途中で横へ逃げる細い獣道。


 これ全部が競技場なのか。


 嫌になる。


「観察中は、山岳校の旗守りが三人、ルベオを通常巡回へ出す。カルミア側は追わない。魔法を当てない。声で呼ばない。落下防止索より谷側へ出ない」


 タリアの視線がジャックで止まる。


「攻撃魔法も禁止」


 ジャックが舌打ちする。


「言われなくても撃たねえよ」


「確認」


「分かってる」


 ジャックは崖を見る。


「あんな場所で撃ったら、当たる前にこっちが壊れる」


「分かってるならいい」


 タリアは淡々としている。


 ジャックの危なさを恐れているというより、山では危ないものを危ないと扱うだけなのだろう。


 それは少し、彼にとって楽かもしれない。


 危険人物扱いではなく、危険な道具の扱い。


 持つ場所を間違えなければいい、という前提。


「始める」


 タリアが手を上げた。


 足場の向こう、上の岩棚で山岳校の旗守りたちが動く。


 三人。


 灰色の制服。


 赤い肩布。


 彼らは短い笛を吹いた。


 ぴい、と高い音。


 ロイが肩を跳ねさせた。


「今の、音としては」


「静か」


 タリアが言う。


「山では、遠くまで届く音ほど短くする」


 ロイが真剣に頷く。


「短く」


 また学びが増えた顔だ。


 笛の音が崖に当たり、何度か跳ね返った。


 最初は何も起きない。


 風だけ。


 岩の匂い。


 遠い川の音。


 みんなが黙る。


 待つ。


 白旗の時の待つとは違う。


 あの時は、礼を崩さないための待ち方だった。


 今は、獣を驚かせないための待ち方だ。


 自分の足音すら邪魔になる。


 呼吸も、少し小さくなる。


 五秒。


 十秒。


 二十秒。


「来ないですね」


 ロイが小さく言った瞬間。


 赤い尾が、下から上へ走った。


 反応できなかった。


 崖の下、俺たちの視界の外から、赤い線が跳ね上がる。


 岩を蹴る音。


 かつん。


 かつん。


 かつん。


 速い。


 でも、一直線ではない。


 右へ飛ぶ。


 下へ落ちる。


 落ちたと思った瞬間、岩の陰から横へ抜ける。


 そして、上へ駆ける。


 赤い尾。


 岩色の体。


 背中に短い布旗。


 崖旗ルベオ。


 それは、旗というより山の獣だった。


 大きさは大型犬くらい。


 体はしなやかで、岩と同じ灰色。


 目だけが金色に光る。


 背中から立つ布旗は赤い。


 風を受けるたび、尾と一緒に燃えるように揺れる。


 誰かが息を飲んだ。


 たぶん俺だ。


 ルベオが、こちらを見た。


 見た、と思った瞬間にはもういない。


 上の岩棚へ飛び、旗守りの一人の肩を踏み台にして、さらに斜め下へ落ちる。


 旗守りは崩れない。


 踏まれる前提で膝を抜いている。


 山岳校の動きだ。


 あれも含めて巡回なのか。


 ルベオは、下へ落ちる。


 落ちる。


 まだ落ちる。


 ロイが「危な」と言いかけて、口を押さえた。


 ルベオは、谷へ消える直前で岩壁を蹴った。


 体が横へ飛ぶ。


 重力を無視しているわけではない。


 重力を使っている。


 落ちる力を、横へ変える。


 崖を走るとは、こういうことか。


「追えない」


 アルフが呟いた。


 冷静な声だ。


 だからこそ重い。


「追えば、こちらが落ちる」


「待つと?」


 俺が聞く。


 アルフは、ルベオの軌跡を目で追いながら答える。


「来ない。こちらが待っている場所を先に見ている」


 ルベオは、足場の遠く上に一瞬止まった。


 岩棚の端。


 こちらを見下ろす位置。


 金色の目。


 赤い尾。


 背中の布旗。


 それから、ゆっくりと後ろ足で岩を掻いた。


 挑発。


 たぶん挑発だ。


 ネルが一歩出かける。


「ネル」


 コレットが言う。


 ネルは止まった。


「分かってる」


「今、追ったら?」


「落ちる」


「うん」


 ネルは歯を食いしばる。


「性格悪い」


「山の旗」


 タリアが同じことを言った。


 ルベオは、ネルが止まったのを見たように、尾を揺らした。


 そして、消えた。


 上へ。


 いや、下へ。


 どちらか分からない。


 視界の端を赤が走り、岩の影に吸い込まれる。


「あれ、旗なんですか」


 ロイが小さく聞いた。


「旗」


 タリアが答える。


「山が走れるようにした旗」


 その言い方は、少し誇らしげだった。


 白旗アウレリアは、礼式の旗だった。


 鉄旗は、命令の旗だった。


 ルベオは、山が走れるようにした旗。


 なるほど、と思う。


 そして、嫌になる。


 山が相手なら、俺たちはまだ何も分かっていない。


「ミラ」


 コレットが岩壁側を見る。


 ミラは毛布を膝にかけたまま、じっと崖を見ていた。


 顔色はまだよくない。


 でも、目は動いている。


 ルベオの軌跡を追っている。


「見えてる?」


「全部は見えない」


 ミラは答える。


「でも、癖はある」


 タリアの目が少し動く。


 ベイルも、無言でミラを見る。


「癖?」


 俺が聞く。


「落ちる前、右肩が下がる。下から風が来る時、尾を先に振る。人の足音が揃うと、上へ逃げる」


 ロイが自分の足を見た。


「足音」


「ロイの音じゃない」


 ミラが言う。


「みんなの音」


 ロイは少し安心した顔をしたあと、すぐ真剣になった。


「みんなの音なら、揃えないようにできますか」


「できる」


 ミラは頷く。


「山では、揃った音が危ない」


 さっきタリアが言ったことだ。


 ロイはそれを自分の中へ入れている。


 良い。


 音がこの章でも生きている。


「視線は?」


 レイナが聞く。


 彼女はルミナリアの時よりずっと慎重に崖を見ている。


 礼式庭では視線が礼になった。


 ここでは視線が追跡になる。


 同じ見るでも、意味が変わる。


「真正面から見ると逃げる」


 ミラが答える。


「でも、見ないと落ちる」


「どう見るのですか」


「道を見る」


 ミラは、昨日と同じことを言った。


「旗だけ見ない。道と、石と、風を見る。旗はそこを通る」


 レイナは深く頷いた。


「白旗の礼式線と似ていますね」


「似てる?」


 ミラが首を傾げる。


「旗そのものではなく、旗が選ぶ場所を見る」


 ミラは少し考えた。


「少し似てる」


 山と礼式庭。


 まったく違うようで、旗が選ぶ場所を見るという点ではつながる。


 こういうつながりを見つけると、クララが喜ぶ。


 実際、クララはかなり喜んでいた。


 ただし、今回はまだ黙っている。


 偉い。


 たぶん、あとで爆発する。


 ルベオが再び現れた。


 今度は上から。


 赤い尾が夕日を切る。


 旗守りの一人が、わざと足音を立てた。


 たん。


 たん。


 揃っていない。


 間隔をずらした音。


 ルベオは、その音の間を抜けるように走った。


 音を避けているのではない。


 音の隙間を使っている。


 ロイが息を飲む。


「音の隙間」


「見えた?」


 俺が聞くと、ロイは頷く。


「見えました。聞こえた、かもしれません」


 音が見える。


 ロイらしい言い方だ。


 ルベオは、旗守りの足元をすり抜け、岩棚から岩棚へ飛ぶ。


 一度、わざとこちらの足場に近づいた。


 近い。


 赤い尾が、手を伸ばせば届きそうな距離を通る。


 届かない。


 いや、届くかもしれない。


 そう思った瞬間が、一番危ない。


 ジャックが、ほんの少し体を前へ出した。


 アルフが即座に腕を掴む。


「出るな」


「出てねえ」


「出かけた」


 ジャックは舌打ちする。


「あれ、腹立つ」


「挑発してる」


「分かってるから腹立つ」


 ルベオは、足場の端をかすめるように走り、こちらを見た。


 金色の目。


 一瞬だけ、全員を値踏みするような視線。


 ミラで止まった。


 俺には、そう見えた。


 ルベオは、毛布をかけて座るミラを見た。


 動けないミラ。


 休んでいるミラ。


 背負われると言ったミラ。


 そのミラを見て、赤い尾を大きく振った。


 挑発ではない。


 たぶん、確認。


 お前は走らないのか。


 そう聞いているように見えた。


 ミラの手が、毛布の上で握られる。


 ガレスが横で言う。


「休む」


「分かってる」


 ミラの声は低い。


「でも、見てる」


「見る」


 ガレスは止めない。


 動くなとは言う。


 見るなとは言わない。


 ミラは、ルベオを見た。


 真正面ではない。


 道を見るように。


 石を見るように。


 風を見るように。


 ルベオは、その視線を嫌がらなかった。


 少なくとも、すぐには逃げなかった。


 岩の端で、低く体を沈める。


 それから、横へ飛ぶ。


 下ではなく、上でもなく、横。


 誰も予想していなかった方向。


 いや、一人だけ反応していた。


 ミラだ。


 彼女の目だけが、その前に動いていた。


「左棚」


 ミラが言った。


 ルベオが左の隠れた岩棚へ着地する。


 タリアの眉が上がる。


 ベイルも、はっきり驚いた顔をした。


「見えたのか」


 ベイルが聞く。


 ミラは首を横に振る。


「見えない。足がそっちだった」


「足」


「右肩が下がって、尾が遅れた。上へ行くふり。左」


 ベイルは黙った。


 タリアが、少しだけ笑う。


「山の足は、鈍ってない」


 ベイルは何か言いたそうだったが、言わなかった。


 ミラは勝ち誇らない。


 毛布の上で、ただ息を吐く。


 自分で走らずに、見る。


 それはたぶん、走るより難しい。


 少なくとも、今のミラには。


 ルベオは左棚から、また消えた。


 今度はしばらく出てこない。


 待つ。


 待つ時間が長い。


 ネルが苛立っている。


 ジャックも同じ。


 ロイは足音を出さないように、つま先を固定しすぎて逆に震えている。


 レイナは視線を散らす練習をしている。


 クララは岩の刻印を見ないように必死に崖を見ている。


 コレットは負け筋をいくつも書いている。


 ノルは半分寝ている。


 いつも通りといえば、いつも通りだ。


 ただ、ここでは一つ一つが落下につながる。


 ルベオは来ない。


 待つと来ない。


 それを実感する。


 白旗なら、礼を整えて待つ意味があった。


 ルベオには、その待ち方は通じない。


 こちらが待っていると分かれば、別の道を行く。


 呼べば逃げる。


 追えば落ちる。


 待てば来ない。


「じゃあ、どうするんだ」


 俺は思わず呟いた。


「背負う」


 ミラが答えた。


 全員が彼女を見る。


 ミラは崖を見たまま続ける。


「追うんじゃない。待つんじゃない。背負う」


「何を?」


 ネルが聞く。


「道」


 ミラの答えは短い。


 でも、コレットの筆が止まった。


 アルフも目を細める。


「道を背負う?」


「自分が行きたい場所だけ見ると落ちる。旗が行きたい場所だけ見ると来ない。山で荷を運ぶ時は、行く道と戻る道と、休む場所を全部背負う」


 ミラは、毛布を握る。


「ルベオは、道を背負ってる人を見る」


 タリアが、静かに頷いた。


「かなり近い」


 ベイルが不満そうに言う。


「旗守りの説明を聞いたのか」


「聞いてない」


 ミラは答える。


「山で分かる」


 その言葉は、さっきの「中央に尻尾を振った」への返答にも聞こえた。


 山を降りても、山で分かることがある。


 山の足は、全部失われたわけではない。


 ただ、今のミラは走らずに見ている。


 それもまた、山の力なのだ。


「道を背負う」


 アルフが呟く。


「つまり、接触点ではなく、帰還経路を含めた圧を作る必要がある」


「公式戦では、かなり難しい」


 コレットが言う。


「ルベオは高低差を使う。こちらの一方向防御は谷側か岩側のどちらか。ルカの風を使えば補助できるけど、記憶リスク。ネルの一瞬は横移動に使えるけど、触れたら嫌がられる。ミラの筋力強化は追いつける可能性があるけど、動けなくなる」


「負け筋、多い」


 リリィが言う。


「いっぱい」


 コレットは頷いた。


「いっぱい」


 それでも、彼女の目は暗くない。


 負け筋が見えるのは、いつものことだ。


 問題は、その前に人を見ること。


 そして今は、ミラが見ている山を見ること。


 ルベオが、突然近くへ現れた。


 足場のすぐ下。


 岩壁の影。


 赤い尾がふわりと上がる。


 近い。


 今度こそ、手を伸ばせば届く距離。


 でも、誰も動かなかった。


 動けなかったのではなく、動かなかった。


 ミラが見ていたからだ。


 彼女が動かないなら、俺たちも動かない。


 そういう空気が、ほんの少しだけできていた。


 ルベオは、俺たちを一匹ずつ見るように視線を動かした。


 ネル。


 ロイ。


 レイナ。


 アルフ。


 俺。


 そして、ミラ。


 金色の目が細くなる。


 獣なのに、笑ったように見えた。


 次の瞬間、ルベオは足場の下を走り抜けた。


 板の裏を。


 俺たちの足元の真下を。


 かつん、かつん、かつん。


 音が下から響く。


 ロイが目を見開く。


 足音の位置が、見えない。


 下から上へ。


 右から左へ。


 そして、突然、足場の反対側へ跳び上がる。


 赤い尾が夕日に燃えた。


 ルベオは、背中の布旗を一瞬だけこちらへ見せた。


 触れるなら触れ。


 ただし、落ちずに来られるなら。


 そんな挑発。


 そして、崖の上へ消えた。


 観察足場に、長い沈黙が落ちる。


「無理」


 ネルが言った。


 珍しく、最初に弱音を吐いた。


「今のは無理」


「うん」


 俺も頷く。


 正直、無理だと思った。


 追えない。


 待てない。


 呼べない。


 触れそうな距離で、触れない。


 あれを公式戦で奪うのは、たぶん今の俺たちには不可能に近い。


 でも、ミラは違う顔をしていた。


 諦めではない。


 悔しさでもない。


 もっと静かな顔。


「奪わなくても」


 ミラが言った。


 コレットが筆を止める。


「何?」


「奪わなくても、価値は見せられるかもしれない」


 その言葉は、第8章の終わりを少しだけ予告しているようだった。


 まだ早い。


 まだ観察初日だ。


 でも、ミラはすでに、ルベオを奪うことだけを見ていない。


 道を背負うこと。


 落ちないこと。


 回収されること。


 山で実用と呼ばれる魔法が、中央で欠陥と呼ばれる理由。


 その全部を、公式戦でどう見せるか。


 彼女は、動けない足で考え始めている。


「ミラ」


 ベイルが言った。


 声に、さっきまでの棘は少し残っている。


 でも、形が変わっている。


「お前、ルベオを取る気ないのか」


 ミラは、ベイルを見る。


「取りたい」


「なら、奪わなくてもとか言うな」


「でも、取れない時もある」


「取れなきゃ負けだ」


「競技では」


 ミラは頷く。


「でも、山では、荷を届けたら勝ちの時もある」


 ベイルは黙った。


 タリアも、何も言わない。


「ルベオを取れなくても、山の魔法が欠陥だけじゃないと見せられるなら」


 ミラは、毛布の上で手を握る。


「それは、私の荷物」


 風が吹いた。


 下から。


 毛布の端が少し浮く。


 ガレスが押さえる。


 ミラは、その手を見て、少しだけ頷いた。


「でも、一人では持たない」


 その言葉に、コレットがゆっくり帳面を閉じた。


「今日の観察、ここまで」


 タリアが言う。


「ルベオはこれ以上見せない。見すぎると、明日から別の道を走る」


「旗が観察対策するのか」


 俺が言うと、タリアは当然のように頷いた。


「する」


「賢すぎる」


「山の旗」


 万能の返事が返ってきた。


 山の旗なら仕方ない。


 そう思い始めている自分が少し怖い。


 観察足場を降りる時、俺たちは全員、行きよりも静かだった。


 足音を揃えない。


 谷側に荷物を出さない。


 視線を一箇所に固定しない。


 ルベオはもう見えない。


 でも、赤い尾の残像が、崖のあちこちに残っている気がした。


 ミラはガレスに支えられながら降りた。


 今回は背負われてはいない。


 でも、半分預けている。


 山岳校の生徒たちは、それを見ても笑わなかった。


 ベイルも。


 彼は最後に、ミラへ短く言った。


「明日、山の実用を見せる」


 ミラは頷いた。


「見る」


「中央の目で見るな」


「私の目で見る」


 ベイルは、少しだけ言葉に詰まった。


 それから、顔を背けた。


「ならいい」


 まだ認めたわけではない。


 でも、完全に拒絶しているわけでもない。


 山の距離は、言葉より足場のように段差が多い。


 夜、宿舎に戻ると、ロイは靴を脱いで足裏を見ていた。


「何してるの」


 ネルが聞く。


「足音を選ぶ練習の前に、足を見ています」


「真面目」


「山なので」


 理由になっているような、なっていないような。


 レイナは窓の外を見ている。


 クララは、許可を得た範囲で岩の刻印とルベオの動きを関連づけようとしている。


 コレットは、負け筋を書きすぎて帳面の端を押さえている。


 ガレスはミラに二杯目の温かい水を渡した。


「水」


「一杯飲んだ」


「山では二杯」


「山を盾にしてる」


「水は大事」


 ミラは少しだけ笑って、二杯目を受け取った。


 俺は窓の外を見た。


 暗い崖。


 遠い川。


 どこかにいる赤い尾。


 追えば落ちる。


 待てば来ない。


 呼べば逃げる。


 逃げると追ってくることがある。


 性格が悪いのではない。


 山の旗だ。


 そして、山は荷物を選ばない。


 持つ人間の足を見る。


 俺たちは明日、その足をもう少し知らなければならない。


 ルベオを追うためではなく。


 落ちずに、山の価値を見るために。


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