第74話 実用魔法の重さ
翌朝、グライフ山岳魔法学校の起床鐘は鳴らなかった。
代わりに、足音が鳴った。
廊下ではない。
外の足場。
木の板。
岩。
階段。
吊り橋。
あちこちから、ばらばらの足音が聞こえてくる。
たん。
とん。
こつ。
ぎし。
揃っていない。
でも、乱れているわけではない。
山の朝は、足音で始まるらしい。
「起床鐘、ないんですか」
ロイが眠そうな顔で聞いた。
彼は昨夜、足音を選ぶ練習をしていた。
廊下でやろうとしてネルに止められ、宿舎の外でやろうとしてタリアに「夜の板は湿っている」と止められ、結局、部屋の中で靴を持って足裏を眺めていた。
かなり真面目だ。
方向が少し独特だが。
「鐘は雪の日だけ」
朝の案内に来たタリアが答える。
「雪の日?」
「足音が消える」
ロイは、ものすごく納得した顔になった。
「音が消える日だけ、音で起こす」
「そう」
「山、合理的ですね」
「山は無駄に厳しい」
タリアは淡々と言う。
褒めているのか、文句なのか、少し分からない。
ミラは、昨日よりは動けていた。
ただし、ガレスに見張られている。
本人は歩けると言い、ガレスは短く「ゆっくり」と返す。
その繰り返しだ。
「ゆっくり」
「歩いてる」
「速い」
「普通」
「山の普通?」
ミラが少し黙る。
「カルミアの普通」
「なら、いい」
ガレスが頷く。
ミラは少しだけ口を尖らせた。
山の普通ではなく、カルミアの普通で歩く。
それは、彼女にとって簡単ではないらしい。
朝食前、タリアは俺たちを校舎の下層へ案内した。
下層、といっても地下ではない。
崖の下側に張りついた作業場だ。
石の床。
太い梁。
壁には登攀具、荷縄、補助靴、折りたたみ担架、食料箱が並んでいる。
魔法競技部の施設というより、山小屋の倉庫に近い。
ただ、並んでいるものの一つ一つに魔法刻印がある。
クララの目が輝いた。
「見ていいですか」
タリアは少し考えた。
「触らないなら」
「触りません」
「近づきすぎないなら」
「努力します」
タリアがコレットを見る。
コレットが頷く。
「見張ります」
「助かる」
クララは、見張られながら嬉しそうだった。
見られる対象が多すぎると、人は監視すら支えにするらしい。
「今日は、競技訓練ではなく実用訓練を見てもらう」
タリアが言った。
「実用訓練」
レイナが繰り返す。
「山岳校では、競技魔法と生活魔法を分けない。荷を運べない力は、旗を追えても使えない。人を背負えない速度は、試合で速くても足りない」
その言葉に、ミラが目を伏せた。
ベイルも作業場にいた。
腕に荷縄を巻いている。
昨日の棘はまだある。
でも、今日は喧嘩を仕掛ける顔ではない。
何かを見せる顔だ。
「中央の学校に、山の魔法を見せるんだろ」
ベイルが言う。
「中央じゃない」
ミラが返す。
「カルミア」
「分かったよ。カルミア」
ベイルは少し面倒そうに言い直した。
それだけで、ミラの肩がほんの少し下がる。
訂正が通った。
小さい。
でも、たぶん小さくない。
「最初は水荷」
タリアが壁際の大きな革袋を指す。
水を入れる荷袋だ。
かなり重そうに見える。
「上層の訓練場まで運ぶ。斜面、階段、吊り橋。途中で一度、荷を受け渡す。魔法使用は各自一呼吸以内」
「一呼吸」
ロイが聞き返す。
「短くないですか」
「長く使うと、山では倒れる」
ベイルが答えた。
「短く使って、荷を動かす。止まる。息を戻す。また使う」
ミラが小さく頷いた。
「山の使い方」
クララが、我慢できずに小声で言う。
「出力の継続ではなく、瞬間補助の反復……」
「クララ」
コレットが言う。
「あとで」
「はい」
クララは口を押さえた。
でも目はずっと荷袋を見ている。
実用訓練が始まった。
山岳校の生徒が二人、革袋を持ち上げる。
水の重さで袋がたわむ。
一人では持てない。
いや、持てるかもしれないが、持たない。
二人で持つ。
肩に魔力が走る。
ほんの一瞬。
袋が浮く。
すぐに魔力は消える。
生徒たちは、そのまま足で重さを受け、階段へ向かう。
魔法で軽くし続けるのではない。
持ち上げる瞬間だけ補助する。
重さは消さない。
重いまま、持ち方を変える。
「あ」
俺は思わず声を出した。
ミラがこちらを見る。
「何」
「ミラの言ってた、軽く見ないってこれか」
ミラは頷いた。
「軽くすると、置き方を忘れる」
「魔法で重さを消すんじゃなくて」
「持ち上げるところだけ助ける」
ベイルが続けた。
「山の魔法は、全部そうだ。全部を楽にする魔法じゃない。死なない分だけ足す」
死なない分だけ足す。
かなり強い言葉だった。
ルミナリアの礼式魔法とは、発想が違う。
白旗の庭では、美しく通れる道を作った。
ここでは、落ちずに次の足場へ届くだけの力を足す。
美しさではなく、生存。
ただし、それは雑ではない。
むしろ、とても細かい。
どこで力を足し、どこで消すか。
どの筋肉に、どの向きで、どれくらい。
間違えれば落ちる。
派手さはないが、精密だ。
「中央では」
クララが、今度は許可を取るようにタリアを見る。
タリアが頷いた。
「言って」
「中央式の評価では、魔法の安定継続、出力制御、消費効率が重視されます。一定時間強化を維持できない、使用後に動けなくなる、反動が大きい魔法は欠陥扱いされやすいです」
ミラは静かに聞いている。
ベイルの顔は少し険しい。
「でも、山岳式では、継続より瞬間補助、消費効率より荷の到達、反動より回収体制が重視される。評価軸が違います」
「評価軸」
ベイルが低く繰り返す。
「だから、山の魔法を欠陥って言うのか」
クララは、少し怯んだ。
でも、逃げなかった。
「中央は、そうします。正確には、山の魔法を山の外で測ると、欠陥に見えやすい」
ベイルは、まだ険しい顔だ。
「見えやすいじゃない。見てる」
「はい」
クララは頷いた。
「見ています。だから、私はそれを直したいです。少なくとも、記録では」
作業場が静かになる。
クララの声は、いつもより少し震えていた。
古代魔法しか読めない。
現代魔法の成績は悪い。
それも中央基準では欠陥だ。
だから、彼女は評価軸の違いに敏感なのかもしれない。
「記録で直るのか」
ベイルが聞く。
「全部は直りません」
クララは即答した。
「でも、間違った分類は、後で人を落とします」
その言葉に、ガレスが少しだけ顔を上げた。
落とす。
山では比喩ではない。
「欠陥と書かれた魔法は、危険だから使うなと言われます。実用と書かれた魔法は、使い方と回収方法が一緒に残ります。ミラの魔法を、ただの欠陥として残すと、山の使い方も消えます」
ミラの指が、毛布の端を握る。
今日は歩いているが、まだ毛布を持たされていた。
ガレスが「冷える」と言ったからだ。
「だから、私は記録したいです。中央基準では欠陥。山岳基準では過出力の実用魔法。回収前提。反動管理必須。そういう形で」
ベイルは、しばらく黙った。
それから、少しだけ顔を逸らす。
「長い」
ネルが小さく笑った。
ベイルが睨む。
ネルは肩をすくめた。
「でも、雑よりいい」
ベイルは何も言わなかった。
否定もしなかった。
クララは、ほっとしたように息を吐く。
「長くてもいいなら、かなり正確に書けます」
「そこは少し短くして」
コレットが言う。
「はい」
水荷の訓練は続いた。
途中で受け渡しがある。
二人が荷を運び、斜面の途中で別の二人に渡す。
渡す瞬間だけ、四人の肩に魔力が走る。
荷が一瞬だけ浮く。
受け取る側が膝で重さを受ける。
渡す側はすぐに力を抜く。
誰かが力を残すと、荷が跳ねる。
跳ねると、水が揺れる。
水が揺れると、重心がずれる。
重心がずれると、足が持っていかれる。
全部つながっている。
「ミラの強化は」
アルフが言った。
彼はずっと黙って観察していた。
「この受け渡しを一人でやろうとしているのに近いのかもしれない」
ミラが彼を見る。
「一人で?」
「持ち上げる、運ぶ、受ける、止める。全部を一人で高出力でやる。だから強いが、反動が集中する」
ガレスが頷く。
「一人で荷を渡してる」
「変な言い方ですけど、近いです」
クララが言う。
「ミラの魔法は、山岳式補助を連続して自分一人に重ねているような状態かもしれません」
ベイルが眉を寄せる。
「だから倒れる?」
「たぶん」
クララは慎重に答える。
「仮説です。でも、昨日の発光が長かった時、肩、背中、脚の順に過負荷が走っていました。山岳校の生徒たちは、肩だけ、脚だけ、持ち上げる瞬間だけ、というふうに分けています」
ミラは、自分の手を見る。
「分ける」
「はい」
クララの声が少し熱くなる。
「ミラの筋力強化を完全に弱めるのではなく、荷の局面ごとに分けられれば、反動が軽くなる可能性があります。ただし、これはミラの魔法を都合よく万能化するという意味ではなく、山岳式の使い方へ戻すというか、近づけるというか」
「クララ、息」
コレットが言う。
クララは息を吸った。
「すみません」
ミラは、少しだけ笑った。
「分ける。試したい」
「今はだめ」
ガレスが即座に言った。
ミラが不満そうにする。
「少し」
「昨日、使った」
「少しなら」
「休む」
ガレスの一言で、ミラは黙った。
ベイルがそれを見て、複雑な顔をした。
「山で、そんなに止めるやつはいなかった」
「だから落ちた」
ミラが言う。
ベイルの表情が固まる。
ミラは、きつい言い方をしたわけではない。
ただ、事実として言った。
「止める人もいる」
ガレスを見る。
「山にも必要」
ベイルは、すぐには答えない。
タリアが横から言った。
「昔から必要だった。でも、足りなかった」
その声には、ほんの少しだけ苦さがあった。
山岳校にも、山の誇りがある。
だが、誇りだけでは落ちた人を拾えない。
それをタリアは分かっている。
ベイルも、たぶん分かっている。
ただ、認めるのが難しいのだ。
次の実用訓練は、救助だった。
斜面の途中に、負傷者役の生徒が座る。
そこへ二人組が向かい、簡易担架を広げ、固定し、上の足場まで引き上げる。
魔法はまた短い。
担架を持ち上げる瞬間。
岩の段差を越える瞬間。
受け渡しの瞬間。
それ以外は、手と足と縄。
ロイが真剣に見ていた。
「声、少ないですね」
「多いと山が聞き取れない」
タリアが言う。
「合図は短く。声より縄。縄より足」
「音を出さない方がいい?」
「必要な音だけ」
ロイは頷いた。
「必要な音」
また一つ増えた。
彼の音は、声援の手前から、山の必要な音へ行こうとしている。
忙しいが、つながっている。
ネルは救助訓練を見ながら、腕を組んでいた。
「あたしの一瞬、使いにくそう」
「どうして?」
俺が聞く。
「速く行くだけだと、担架揺らす。荷物がついてこない」
彼女は、かなり正確に見ていた。
魔力が一瞬しか出ないネルは、山で速く動けるかもしれない。
でも、荷を運ぶには向かない。
自分だけが前へ行っても、意味がない場面が多い。
「一瞬で何をするかだな」
「うん」
ネルは斜面を見る。
「押すんじゃなくて、揺れを止めるとか」
「白旗の時みたいに、触らずに?」
「そう」
彼女は少しだけ悔しそうに笑う。
「山でも、手と足が残るらしいし」
「忙しいな」
「ほんとに」
救助訓練の最後、ベイルが負傷者役を背負った。
担架を使わずに。
短い距離だけ。
肩に魔力が走る。
一呼吸。
負傷者役を背負い、岩段を上がる。
足が重い。
でも、落ちない。
上の足場へ着いた瞬間、魔力を切る。
膝で重さを受ける。
背中からゆっくり下ろす。
乱暴ではない。
強いが、雑ではない。
ミラは、その動きをじっと見ていた。
「昔、ベイルはもっと雑だった」
「知り合い長いの?」
俺が聞く。
「同じ山の訓練場」
「幼なじみ?」
ミラは少し考えた。
「荷物仲間」
「荷物仲間」
「同じ荷を運んだ」
それは、幼なじみより重い言葉かもしれない。
同じ荷を運んだ相手。
だからこそ、山を降りたことが裏切りに見える。
ベイルの棘は、個人的なものでもあるのだろう。
救助訓練が終わると、タリアは休憩を告げた。
山岳校の生徒たちは、作業場の端に座り、水を飲む。
水。
ガレスが満足そうに見ている。
どの学校でも水は大事らしい。
ミラも水を飲んだ。
ガレスが二杯目を渡そうとして、ミラが先に言った。
「二杯飲む」
ガレスは頷いた。
少しだけ嬉しそうだった。
表情は変わらないが、たぶん嬉しい。
休憩中、ベイルがミラの前に来た。
水筒を持っている。
「飲むか」
ミラは、自分の水筒を見せた。
「ある」
「そうか」
会話が終わりそうになる。
ベイルは不器用だ。
ミラも不器用だ。
ガレスはもっと不器用だ。
この場、不器用が多い。
「さっきの」
ベイルが言った。
「分けるって話」
ミラが顔を上げる。
「うん」
「昔、お前の爺さんが似たこと言ってた」
ミラの表情が変わった。
初めて聞く顔ではない。
でも、久しぶりに聞いた顔。
「爺が?」
「力は一つで出すな。荷は一つに見えても、中で揺れる。肩で持つ時、腰で受ける時、足で止める時、力を変えろって」
ベイルは少し照れたように顔を背ける。
「俺は、その時よく分からなかった」
「私も」
ミラは小さく言った。
「爺、いつも長かった」
「長かった」
二人が同時に言い、少しだけ黙る。
懐かしさが、そこに落ちた。
棘だけではない。
同じ山の記憶がある。
ベイルは、少ししてから言った。
「中央に尻尾を振ったって言ったのは、取り消さない」
ネルが遠くで眉を動かした。
でも、ミラは頷いた。
「うん」
「まだ、そう思ってる」
「うん」
「でも」
ベイルは、水筒を握る。
「カルミアで、爺さんの言ってたことを思い出すなら、それは少し変だ」
「変」
「山を降りて、山のことを思い出すのは、変だ」
ミラは、少しだけ笑った。
「山にいた時は、近すぎた」
ベイルが黙る。
「近いと、荷物の形が分からない」
その言葉に、俺は少し驚いた。
ミラはいつも短い。
でも、時々こういうことを言う。
短いのに、深いところへ落ちる言葉。
ベイルは、しばらく何も言わなかった。
やがて、低く言う。
「明日の訓練、見るか」
「見る」
「山の実用を」
「見る」
「中央の欠陥じゃなく」
「カルミアの記録で」
ベイルは、少しだけ口元を歪めた。
笑ったのかもしれない。
「しつこい」
「大事」
「分かったよ。カルミア」
二度目の訂正。
今回は、少しだけ自然だった。
昼過ぎ、タリアは俺たちを競技場の下段へ案内した。
実用訓練の見学が終わり、今度は競技との接続を見る時間だ。
ルベオは出ない。
代わりに、山岳校の選手たちが旗の想定進路を使って荷運び訓練をする。
旗が走る道を、人間が荷を持って歩く。
すると、どこが危ないか分かる。
「旗の道は、荷の道」
タリアが言う。
「ルベオは、山で使われる道を走る。競技専用の道ではない」
「つまり、生活路でもある?」
アルフが聞く。
「昔は」
タリアは頷く。
「今は競技場として整備している。でも、元は荷運びと救助の道」
クララが、慎重に口を開く。
「旗が地域生活の記憶を保持している可能性があります」
「古い言い方だと、そう」
タリアが答える。
「ルベオは、山で荷を運んだ足を覚えている」
ミラが、崖を見た。
赤い尾は見えない。
でも、昨日の残像がある。
ルベオは、山で荷を運んだ足を覚えている。
だから、ただ速いだけの足を嫌う。
ただ力任せの手を弾く。
待つだけの相手には来ない。
道を背負う人間を見る。
「じゃあ」
俺は言った。
「ミラの魔法を、山の使い方で見せられたら、ルベオは反応するかもしれない」
タリアは俺を見た。
「かもしれない」
ベイルは鼻を鳴らす。
「簡単に言うな。山の使い方は、一日で戻らない」
「分かってる」
「分かってない」
「じゃあ、分かるように見る」
俺が言うと、ベイルは少しだけ目を細めた。
「平地のやつは、そういう言い方がうまい」
「褒めてる?」
「褒めてない」
「だよな」
ミラが小さく言う。
「ルカは、分かってない時、分かってないって言う」
俺は少し照れた。
褒められているのか。
たぶん、ミラなりには。
「だから、見る」
ミラは続ける。
「私も、見る。使う前に」
その言葉に、ガレスが頷いた。
「使う前に見る」
「うん」
昨日のミラなら、すぐ試したがったかもしれない。
今日も試したそうではある。
でも、見ると言った。
それもまた、実用魔法の一部なのだろう。
午後の終わり、コレットは帳面を開いて今日のまとめを始めた。
俺たちは作業場の端に座っている。
山岳校の生徒たちも数人残っていた。
タリア、ベイル、他の旗守りたち。
カルミアの記録に興味があるらしい。
コレットは、まずミラを見た。
「書いていい?」
ミラは頷く。
「いい」
「今日の成長」
コレットは、はっきりそう言った。
「ミラ、自分の魔法を山岳式実用魔法として見直す。筋力強化を全部まとめて出すのではなく、持ち上げる、運ぶ、受ける、止める、に分ける可能性を知る。すぐ試さず、見ることを選ぶ」
ミラは静かに聞いていた。
ベイルも。
「負け筋」
コレットは続ける。
「ミラの現在の魔法は過出力。分ける練習なしで公式戦に使うと、崖上で動けなくなる危険が高い。回収役が遅れれば落下。ルベオはその重心崩れを見て挑発する可能性。山岳校はそこを知っている」
タリアが頷く。
「知っている」
隠さない。
敵校がこちらの負け筋を知っている。
当然だ。
ここは山岳校のホームだ。
でも、タリアはそれを意地悪く言ったわけではない。
山では危ないものを危ないと言う。
「対策」
アルフが言う。
「ミラを単独追跡に使わない。荷運び型の移動に組み込む。ガレスの回収、ロイの短音、ネルの一瞬による揺れ止め、俺の一方向結界を組み合わせる。ルカの風は最後の保険。ただし記憶リスクがある」
俺は頷いた。
「風前確認が必要だな」
ミラが俺を見る。
「使う?」
「まだ決めない」
「うん」
彼女はそれ以上聞かなかった。
使えとは言わない。
使うなとも言わない。
ただ、重いものとして置く。
風もまた、荷物だ。
使えば誰かを助けるかもしれない。
でも、記憶を落とす。
軽く見てはいけない。
夜、宿舎の外に出ると、崖は暗かった。
夕方の赤い尾は見えない。
ただ、風だけがある。
俺は手すりの内側に立ち、下を見ないように遠くを見た。
隣にミラが来た。
ガレスはいない。
いや、少し離れたところにいる。
見張っている。
優しいというより、任務だ。
ガレスらしい。
「ルカ」
ミラが言った。
「何」
「私の魔法、欠陥?」
難しい問いだった。
簡単に違うと言いたい。
でも、それは嘘になる。
中央基準では欠陥。
山岳基準では実用。
過出力。
回収前提。
全部、今日見た。
「欠陥でもある」
俺は答えた。
ミラは頷いた。
「うん」
「実用でもある」
「うん」
「重い」
ミラが、少しだけ笑った。
「うん」
「でも、持てない重さじゃない」
俺は言葉を選ぶ。
「一人で持つと落ちる。みんなで持ち方を考えれば、たぶん運べる」
ミラは、崖の暗闇を見る。
「山の言葉みたい」
「合ってる?」
「少し」
「少しか」
「少しでも、いい」
彼女は、手すりを握った。
「昔、私は一人で持てると思ってた。山では、それが強いと思ってた」
「うん」
「カルミアで、背負われた。最初、嫌だった」
「今は?」
「今も嫌」
正直だ。
「でも、落ちるよりいい」
昨日と同じ言葉。
ただし、今日は少しだけ落ち着いている。
「明日、もう少し見る。爺の言葉も、思い出す」
「ベイルが言ってたやつ?」
「うん。力は一つで出すな」
ミラは、自分の肩に手を置く。
「私は、いつも一つで出してた」
「強かったから?」
「急いでたから」
その言葉に、俺は少しだけ息を止めた。
急いでた。
強さではなく。
背負いたいからでもなく。
急いでいた。
何に。
どこへ。
まだ聞かない方がいい気がした。
ミラも、まだ全部は言わない。
この章は、重い荷物を一つずつ下ろす章だ。
一気に開けると、中身が落ちる。
「急ぐと、落ちる」
俺が言うと、ミラは頷いた。
「でも、遅いと届かない」
「面倒だな、山」
「うん」
ミラは少し笑った。
「山は面倒」
その笑いは、故郷を悪く言う笑いではなかった。
面倒で、重くて、厳しくて、それでも自分の中に残っている場所を笑う声だった。
暗い崖のどこかで、赤いものが一瞬揺れた気がした。
ルベオか。
夕日の残像か。
分からない。
でも、ミラはそちらを見ていた。
道を見るように。
石を見るように。
風を見るように。
明日、俺たちはもう少し山の実用を知る。
ミラの筋力強化を、ただの欠陥としてではなく。
重い荷物を運ぶために生まれた、危うくて必要な魔法として。
その重さを、軽く見ないために。




