第70話 遠い白旗記録
巡業列車がルミナリアを離れるころ、王都は雨だった。
雨といっても、カルミアの屋根を叩くような乱暴な雨ではない。
王立レガリア魔法学院の塔に降る雨は、まるで楽譜に書かれた細い線みたいに、一定の間隔で窓を濡らしていた。
高い塔。
磨かれた廊下。
王冠を模した金の紋章。
壁に並ぶ歴代代表の肖像画。
どれも、ここが頂点へ続く学校だと告げている。
失敗を置く庭ではない。
失敗を記録して、次の勝利へ変換する場所でもない。
失敗を残さず、完成した姿だけを掲げる場所。
その塔の上層にある代表候補室で、エレナ・フォルティスは一通の記録封筒を開いた。
白い封筒。
青い封蝋。
ルミナリア貴族魔法学院の礼式記録印。
封筒の表には、整った文字でこう書かれている。
『巡業リーグ礼式旗反応報告。白旗アウレリア対カルミア魔法学園第七魔法競技部』
エレナは、しばらくその文字を見ていた。
カルミア魔法学園。
第七魔法競技部。
そして、ルカ・ヴァレン。
記録には、まだ彼の名前は見えていない。
でも、そこにいるのは分かっていた。
彼は、そういう人だった。
目立たない場所にいても、あとから記録を読むと、そこに立っていたことが分かる。
ただし、今の彼がそうなのかは分からない。
エレナは、封筒を開ける前に一度だけ目を閉じた。
雨の音。
塔の時計。
廊下の遠い足音。
どれも正確で、どれも美しい。
だから、ここでは嘘がよく響く。
「代表候補エレナ・フォルティス」
背後から声がした。
扉は閉まっている。
声は伝声魔法だ。
学院長室からの連絡に使われる、硬くて冷たい声。
「十五分後、公開演習場にて王冠旗適性確認を行う。遅れないように」
「承知しました」
エレナは答えた。
声は滑らかだった。
少しの乱れもない。
代表候補にふさわしい返事。
伝声魔法が消える。
部屋はまた雨の音に戻った。
エレナは、封筒を開いた。
紙が数枚。
ルミナリアらしい、余白の多い記録。
最初の一枚には、結果が書かれている。
『公式戦結果。カルミア魔法学園第七魔法競技部、一対零。白旗アウレリア、滞在判定により旗保持成立』
エレナの指が、そこで止まった。
カルミアが勝った。
ルカのいる部が。
欠陥魔法持ちの集まりだと、王都の記録官たちが笑っていた部が。
初勝利。
おめでとう、と言うべきだった。
心の中では、言った。
でも、口には出さない。
この部屋には、誰もいない。
それでも、エレナは本当のことを口にしない癖がついている。
本当の自分を、誰にも認識されない。
だから彼女は、いつしか自分でも、自分の本当の声を聞くのが怖くなっていた。
代わりに、代表候補らしい言葉を胸の中へ置く。
カルミア魔法学園の戦術的上昇は、今後の対戦研究上注視すべき事象である。
その言葉なら、安全だ。
冷たい。
正しい。
嘘ではない。
でも、全部でもない。
エレナは次の紙をめくった。
『白旗アウレリアは、カルミア側の不揃いな礼式反応を忌避せず。特に以下の行動を観測』
箇条書き。
アルフ・メイナードの基準線。
ロイ・キャベルの小音合図。
ネル・アーレンの非接触的進路圧縮。
ガレス・モルンの破壊せず修復する礼。
リリィ・クロフトの予定外対象への場所付与。
クララ・ヴェルムの見すぎを認める距離。
コレット・セインの記録順序変更。
レイナ・オルコットの一度目失敗宣言。
そして。
『ルカ・ヴァレン。終盤、魔法使用なし。白旗に対する追跡圧を下げ、滞在可能な余白を形成。捕獲ではなく、白旗側の接近選択を待つ』
魔法使用なし。
エレナは、その一文を何度も読んだ。
魔法を使わなかった。
記憶を失わなかった。
白旗を待った。
ルカらしい、と言いかけて、エレナは唇を閉じる。
ルカらしい。
その言葉は、危ない。
彼女がそう思っているルカを、今のルカが覚えているとは限らない。
彼がどこまで失ったのか、エレナには分からない。
分からないまま、彼女は代表候補として王都に立っている。
彼を転落させた勝者として。
裏切り者として。
冷酷なエースとして。
その顔を続けるほど、彼女の魔法は強くなる。
嘘をつくほど、強くなる。
だから、彼女は強い。
強くなるたびに、本当の自分から遠ざかる。
紙の端が、少しだけ湿った。
雨のせいではない。
エレナは、指を離した。
記録を汚してはいけない。
彼の名前を汚してはいけない。
次の紙には、レイナ・オルコットの名乗りが記録されていた。
『私は、ルミナリア貴族魔法学院に来たかった者です』
エレナは、その一文で目を止める。
ルミナリアに来たかった者。
白い招待状。
家の机の奥。
未練。
それらが、礼式記録として整った文字で並んでいる。
記録官は、かなり丁寧に書いたのだろう。
レイナの痛みを、礼式の言葉で潰さないように。
エレナは、少しだけ羨ましいと思った。
来たかった場所に来られなかったと、言えることが。
未練があると、言えることが。
そして、それを聞く仲間がいることが。
レイナ・オルコット。
エレナは彼女を直接知らない。
王都の候補者名簿で、没落気味の地方貴族の娘として一度だけ名前を見たことがある程度だ。
その時、エレナは何も思わなかった。
思わないようにしていた。
代表候補の名簿は、そういう顔で読むものだから。
でも今、記録の中のレイナは、名簿の文字よりずっと近かった。
『カルミア魔法学園、第七魔法競技部のレイナ・オルコットとして、受けます』
その名乗りの下に、ルミナリア側の補足があった。
『白旗アウレリア、名乗り後に羽展開。忌避反応なし。ロイ・キャベルの小音合図後、観客拍手発生』
エレナは、その行を指でなぞらなかった。
触れると、何かが崩れそうだった。
第七魔法競技部のレイナ。
自分の所属を、自分の未練ごと名乗る。
エレナには、まだできないことだった。
王立レガリア魔法学院のエレナ・フォルティス。
王立代表候補。
不敗に近い女子エース。
ルカ・ヴァレンを転落させた勝者。
冷たい裏切り者。
それらは、全部彼女の外側に強く張りついている。
自分の声で選んだものもある。
選ばされたものもある。
選んだふりをしたものもある。
もう、どれがどれなのか分からない日がある。
「エレナ」
今度は、扉の外から声がした。
実際の声。
同じ代表候補の男子生徒、サヴィル・ロウだ。
銀の髪をきれいに撫でつけ、いつも余裕の笑みを絶やさない。
エレナは記録を素早く整え、封筒を伏せた。
「どうぞ」
扉が開く。
サヴィルは部屋に入ってくるなり、窓の雨を見た。
「陰気な天気だね。公開演習には向かない」
「観客席は屋根つきです」
「そういう意味じゃないよ」
彼は笑う。
エレナも、少しだけ笑った。
代表候補の笑い。
正しい角度。
正しい距離。
相手を拒絶せず、近づけすぎない笑い。
それは、彼女が一番得意な嘘の一つだった。
「何を読んでいたのかな」
サヴィルの視線が封筒へ向かう。
エレナは、自然に手を置いた。
「巡業リーグの礼式旗反応報告です」
「ああ、ルミナリアの白旗か。珍しく負けたんだって?」
「はい」
「相手は、確か」
サヴィルは少し考えるふりをした。
知っているくせに。
「カルミア魔法学園。君の昔の相棒がいるところだ」
エレナは表情を変えなかった。
「元相棒です」
嘘ではない。
でも、全部ではない。
サヴィルは楽しそうに目を細める。
「元、ね。彼はまだ使い物になるのかな」
「公式戦で一対零。白旗保持成立。魔法使用なしで終盤戦術に関与しています」
エレナの声は冷静だった。
記録官のように。
「使い物になるかどうかは、対戦して判断すべきです」
「怖いな。君がそう言うと、だいたい相手は潰れる」
「潰す必要があれば」
その言葉を言った瞬間、エレナの胸の奥で何かが冷えた。
潰す必要があれば。
それは、代表候補のエレナ・フォルティスなら言う。
冷酷な勝者なら言う。
嘘をつくほど強くなる彼女の魔法は、その言葉を好む。
指先に、わずかな光が宿る。
雨の灰色の部屋で、その光だけが異様に澄んでいた。
サヴィルは満足そうに頷いた。
「さすがだ。演習でもその調子で頼むよ」
「はい」
「学院長も、君の完成度を見たがっている。最近、少し柔らかいって噂があるからね」
柔らかい。
エレナは、内心でその言葉を繰り返した。
柔らかいのは悪いことらしい。
ここでは。
「噂は、演習で訂正します」
「期待してる」
サヴィルは軽く手を振り、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
雨の音が戻る。
エレナの指先の光は、まだ残っていた。
嘘が、魔法を強くしている。
彼を潰す必要があれば。
演習で訂正します。
どちらも、ここでは正しい言葉。
でも、胸の中のどこかが、ひどく乾く。
エレナは封筒をもう一度開いた。
記録の最後に、短い補足がある。
『ルカ・ヴァレン、白旗滞在時、風魔法使用なし。記憶欠落反応、観測されず』
よかった。
今度こそ、心の中でそう言った。
口には出さない。
出せない。
でも、心の中でなら。
よかった。
ルカ。
あなたは、今回は失わなかった。
その言葉を、自分の中でだけ置く。
誰にも見えない場所に。
誰にも認識されない本心として。
エレナは机の引き出しを開けた。
奥に、小さな黒い帳面がある。
学院から支給されたものではない。
彼女が個人的に隠している、研究断片の帳面。
ルカの欠陥魔法。
記憶欠落。
存在感希薄化。
古代旗との契約反応。
断片ばかりの記録。
救済法と呼ぶには、まだ遠すぎる。
それでも、彼女は集め続けている。
誰にも見せずに。
誰にも信じられずに。
なぜなら、彼女は裏切り者でなければならないから。
冷酷な勝者でなければならないから。
ルカを救いたいエレナなど、誰にも認識されない。
帳面に、今日の記録から抜き書きをする。
『白旗アウレリア。非捕獲滞在。ルカ、魔法不使用時、存在感低下なし。周囲の呼名確認なしでも位置保持』
そこで手が止まる。
呼名確認。
戻り言葉。
ルカ。
彼はまだ、自分の名前を戻り言葉にしているのだろうか。
誰が呼んでいるのだろう。
エレナは、自分がその役目を失ったことを知っている。
昔は、彼を呼べた。
ルカ、と。
試合場の端で。
練習帰りの坂道で。
彼が無茶をしそうな時に。
でも今、その名前を呼ぶ資格が自分にあるのか分からない。
資格、という言葉も嘘くさい。
呼びたい。
ただ、それだけだ。
しかし、それを認めると魔法が弱くなる。
弱くなることを、ここは許さない。
伝声魔法が再び鳴った。
「代表候補エレナ・フォルティス。公開演習場へ」
「今向かいます」
エレナは帳面を閉じ、引き出しの奥へ戻した。
ルミナリアの記録封筒は、机の上に置く。
公式資料として扱うために。
黒い帳面は、隠す。
本心に近いものだから。
部屋を出る前、エレナは窓の外を見た。
王都の雨。
遠いルミナリアの白旗。
さらに遠い、巡業列車。
カルミアの第七魔法競技部は、もう次の土地へ向かっているだろう。
山岳地方。
崖の旗。
ミラという部員の故郷に近い場所。
記録の別紙に、次の巡業先としてそう書かれていた。
エレナは、その名前も覚えた。
ルカのそばにいる人たちを、覚えておく必要がある。
ネル・アーレン。
コレット・セイン。
レイナ・オルコット。
ロイ・キャベル。
ガレス・モルン。
ノル・フェイン。
ミラ・ガルド。
リリィ・クロフト。
クララ・ヴェルム。
アルフ・メイナード。
ジャック・バーネル。
そして、ルカ・ヴァレン。
彼らは、欠陥魔法持ちの集まりではない。
少なくとも、もうそう記録するだけでは足りない。
エレナは、扉を開けた。
廊下に出る。
肖像画の目が、彼女を見ている。
歴代代表たち。
完成された勝者たち。
彼らの前を、エレナ・フォルティスは歩く。
背筋を伸ばして。
冷たく。
完璧に。
嘘をまとって。
公開演習場は、雨にもかかわらず満席だった。
王立レガリア魔法学院の代表候補演習は、ただの練習ではない。
観客に完成度を示す場。
学院の威信を確認する場。
そして、候補者を候補者として固定する場。
エレナが入場すると、歓声が上がった。
「エレナ・フォルティス!」
「王立の白銀!」
「次期代表候補!」
名前が飛ぶ。
称号が飛ぶ。
彼女を忘れない声が、雨の演習場に満ちる。
誰からも忘れられない。
そのかわり、本当の自分は誰にも認識されない。
エレナは微笑んだ。
歓声に応える完璧な笑み。
観客がさらに沸く。
その笑みが嘘であればあるほど、彼女の魔力は澄んでいく。
演習場の中央に、レガリアの王冠旗が現れた。
まだ本戦用の完全形ではない。
代表候補演習用の投影体。
王冠を持つ幻獣の影。
銀のたてがみ。
金の角。
雨の中でも濡れない光。
王冠旗は、エレナを見る。
正確には、彼女の嘘を見る。
エレナは剣を抜いた。
魔法剣。
嘘を重ねるほど、光が増す剣。
「開始」
学院長の声が響く。
サヴィルたち代表候補が周囲に散る。
演習用の敵影が現れる。
エレナは一歩踏み出した。
雨粒が、彼女の周囲で弾ける。
「私は、迷いません」
嘘。
剣が強く光る。
一体目の敵影を斬る。
「私は、過去を振り返りません」
嘘。
光が増す。
二体目、三体目。
観客が歓声を上げる。
「私は、ルカ・ヴァレンを敵として扱えます」
大きな嘘。
剣が、眩しいほど輝いた。
演習場の雨が、一瞬白く飛ぶ。
王冠旗の投影体が、満足そうに角を振った。
観客席が熱狂する。
エレナ・フォルティスは、完璧だった。
冷たく。
強く。
誰からも忘れられない。
その完璧さの奥で、彼女は心の中だけで、小さく違う言葉を置いた。
ごめん。
ルカ。
その言葉は、誰にも届かない。
届かないから、魔法は弱まらない。
届かないから、彼女は勝てる。
届かないから、彼女は救えない。
最後の敵影を斬り伏せると、演習場に歓声が爆発した。
サヴィルが拍手をする。
学院長が満足げに頷く。
王冠旗の投影体が、彼女の背後で光をまとった。
エレナは剣を下ろし、観客へ礼をする。
完璧な礼。
計算された角度。
息の乱れすら美しいと評価される程度に整えた姿。
観客はそれを見て、また名前を呼ぶ。
「エレナ!」
「フォルティス!」
「王立の誇り!」
誰も、彼女を忘れない。
誰も、彼女を見ていない。
演習が終わった後、エレナは控室に戻った。
濡れていないはずなのに、肩が重かった。
サヴィルが後ろから声をかける。
「圧巻だったよ。やっぱり君は迷わない」
「ありがとうございます」
「カルミアの記録なんて、気にする必要はなさそうだ」
エレナは、振り返る。
微笑む。
「いいえ」
サヴィルが意外そうに眉を上げた。
「気にします」
「へえ」
「対戦研究対象として」
正しい嘘。
安全な言い方。
サヴィルは納得したように笑う。
「なるほど。君らしい」
エレナは微笑みを保った。
君らしい。
その言葉が、今日読んだ記録の中の「第七魔法競技部のレイナ」と重なった。
レイナ・オルコットは、自分で名乗った。
エレナ・フォルティスは、誰かの期待通りに「君らしい」と言われている。
どちらが強いのかは分からない。
今の演習では、エレナの方が圧倒的に強い。
けれど、遠い白旗記録の中にあった名乗りは、彼女の剣よりずっと鋭く胸に残っていた。
控室に戻ると、机の上の封筒はそのままだった。
エレナは扉を閉め、鍵をかける。
それから、ようやく息を吐いた。
代表候補の息ではない。
誰にも見せない、疲れた息。
机に向かい、黒い帳面をもう一度開く。
さきほど書いた記録の下に、短く書き足した。
『カルミア、第七魔法競技部。白旗戦勝利。欠陥の隠蔽ではなく、共有と距離による成立』
少し考えて、もう一行。
『ルカ、魔法を使わずに勝利へ関与。良い傾向』
良い傾向。
また安全な言葉。
でも、その下に、エレナは小さく書いた。
『よかった』
書いてしまった。
黒い帳面の中に。
公式記録ではない場所に。
嘘ではない短い言葉を。
ペン先が震える。
魔法は弱まらない。
誰も見ていないから。
誰にも認識されないから。
でも、彼女自身は見た。
自分の書いた本当の言葉を。
エレナは帳面を閉じた。
その上に手を置く。
雨はまだ降っている。
遠くで、王冠旗の演習場が片づけられている音がした。
さらに遠くで、巡業列車が次の土地へ向かっているはずだ。
山岳地方へ。
崖旗へ。
カルミアの第七魔法競技部は、きっとまた不揃いに進む。
エレナは立ち上がり、窓を開けた。
雨の匂いが入ってくる。
王都の冷たい雨。
彼女は、その雨に向かって声を出さずに口を動かした。
おめでとう。
ルカ。
声にはしない。
まだ、できない。
でも、言葉の形だけを、雨の向こうへ置く。
白旗アウレリアが失敗のそばに降りたように。
レイナ・オルコットが未練を捨てずに名乗ったように。
ロイ・キャベルが声援の手前で鳴ったように。
エレナ・フォルティスも、誰にも届かない場所で、ほんの少しだけ本当の言葉を置いた。
その小さな本当は、雨に消えた。
消えたけれど。
黒い帳面の中には、残っている。




