第68話 声援の手前の音
ロイ・キャベルは、夕食の前に廊下で鳴っていた。
「ちん」
小さい。
かなり小さい。
けれど、廊下は音をよく拾う。
ルミナリアの宿舎は、壁も床も行儀がいいせいで、こちらの気配をすぐに整えて返してくる。
だから、ロイの小さな音も、細い銀の糸みたいに廊下を渡った。
「ちん」
もう一回。
俺は部屋の扉を開けたまま、しばらくそれを聞いていた。
三回目が鳴る前に、ネルの声が飛ぶ。
「廊下で鳴らすなって言ったでしょ」
「小さいです」
「小さければ何してもいいわけじゃない」
「でも、忘れそうで」
「何を」
「ちょうどいいを」
ロイの声は、妙に真面目だった。
ネルが黙る。
俺も、扉の陰で少し黙った。
ちょうどいい。
たぶん、ロイはこれまで一番それを言われてこなかった。
大きすぎる。
うるさい。
迷惑。
黙れ。
ロイの魔法は、発動音が馬鹿みたいに大きい。
本人の気持ちとは関係なく、場を壊し、相手を驚かせ、味方の集中も割る。
だからロイは、いつも笑っていた。
うるさくてすみません、と。
元気だけが取り柄です、と。
でも、今日の練習試合で、ロイの音は初めて「ちょうどいい」と言われた。
失敗が置かれた合図。
隠すためではなく、共有するための音。
それを忘れたくなくて、彼は廊下で鳴っている。
気持ちは分かる。
廊下でやるな、というネルの気持ちも分かる。
分かることが増えると、だいたい間に挟まる。
俺は扉から顔を出した。
「ロイ」
「あ、ルカ先輩」
ロイは胸元の札を押さえた。
発動音を抑えるための札。
ガレスが直し、クララが古式文字を読んで調整し、ロイが何度も失敗している、かなり働き者の札だ。
「鳴らすなら中庭にしよう」
「いいんですか」
「廊下よりは」
ネルが腕を組む。
「甘い」
「じゃあネルも来て見張って」
「なんであたしが」
「鳴らしすぎたら止める係」
ネルは嫌そうな顔をした。
しかし、少し考えてから言う。
「行く」
やっぱり来るのか。
優しいと言うと怒るので、言わない。
俺たちは宿舎の中庭へ出た。
夜のルミナリアは、昼間より白さが落ち着いている。
石畳は月明かりを柔らかく受け、青い花壇は黒に近い色で沈んでいた。
遠くの礼式演習庭には、まだ明かりが残っている。
白旗アウレリアは見えない。
でも、昼間の光景がまだ頭に残っていた。
レイナが「一度目、失敗します」と宣言する。
ロイが小さく鳴る。
アルフの線が失敗点へ移る。
ネルが足で圧を作る。
白旗が、その失敗を前提として通る。
あの時、見学席の空気は変わった。
最初は驚き。
次は待つ沈黙。
最後は拍手。
ロイが今気にしているのは、たぶんその拍手だ。
自分の音が、誰かを邪魔する音ではなく、誰かが待つための音になったこと。
「ここなら、多少鳴っても大丈夫だと思う」
俺が言うと、ロイは真面目に頷いた。
「はい」
「多少ね」
ネルが念を押す。
「大音量は禁止」
「はい」
ロイは札に触れ、息を吸う。
「ちん」
小さい音。
夜の中庭に、きれいに落ちた。
ネルが片眉を上げる。
「悪くない」
「本当ですか」
「調子に乗らないなら」
「乗りません」
ロイはすぐに言った。
早すぎる。
もう少し考えてから言った方が信用される。
「ちん」
二回目。
少しだけ大きい。
ネルが指を上げる。
「今の、廊下なら怒る」
「中庭なら?」
「まだ許す」
「許されました」
ロイは嬉しそうに笑った。
「許された音、覚えます」
言い方が変だ。
でも、たぶん大事な言葉だった。
許された音。
許されなかった音ばかり持っていたロイにとって、その違いは俺たちが思うよりずっと大きい。
「ロイ」
レイナの声がした。
振り向くと、宿舎の入口にレイナが立っていた。
夕食前なのに、まだ試合用の手袋を外していない。
袖口の補修跡を、指でなぞっている。
「練習ですか」
「はい」
ロイは姿勢を正した。
「ちょうどいいを忘れない練習です」
「それなら、私も聞いてよいですか」
「もちろんです」
ロイはすぐに頷いた。
そして、少し緊張した顔になる。
今日のロイの音は、レイナの失敗宣言と結びついた。
だから、レイナに聞かれるのは特別なのだろう。
レイナは中庭へ下りてきて、俺たちから少し離れた場所に立った。
ネルが視線を向ける。
「寝ないの」
「夕食前です」
「そういう意味じゃなくて」
「分かっています」
レイナは小さく笑った。
「今日は、少し眠るのがもったいなくて」
ネルは、何か言いかけてやめた。
たぶん、そこは畳む場所じゃない、と言うべきか迷ったのだ。
でも、今のレイナは自分で畳んでいない。
ただ、置いている。
だからネルは黙った。
それも、持つ場所を間違えないということなのだろう。
「鳴らします」
ロイが言った。
「お願いします」
レイナが答える。
「ちん」
音が落ちる。
レイナは目を閉じた。
「もう一度」
「はい」
「ちん」
「もう少し、後ろに置けますか」
ロイが首を傾げる。
「後ろ?」
「私が失敗した直後ではなく、失敗が石畳に落ちきった後。今日の一回目は、少し早く感じました」
ロイは真剣に頷いた。
「早かったですか」
「助かりました。でも、少しだけ、私の失敗が音に追われた気がしました」
ネルが口を挟む。
「今の、責めてる?」
「責めていません」
レイナはすぐに答えた。
「調整です」
ロイの顔がぱっと明るくなる。
「調整!」
「嬉しいの?」
ネルが呆れる。
ロイは頷いた。
「はい。俺の音、調整するものなんですね」
その言葉で、レイナの表情が少し変わった。
自分が何を言ったのか、今気づいたような顔。
彼女は一歩、ロイに近づいた。
「これまで、調整するものとして扱われませんでしたか」
「だいたい、止めるものか、我慢するものです」
ロイは笑って言った。
いつもの笑い方だ。
でも、夜の中庭では、その笑いが少しだけ薄く見えた。
「俺も、止めたいです。でも止まらないので、我慢してもらってました」
ネルが、何も言わずに地面を見る。
レイナは、手袋の指先を握った。
「では、今日は調整しましょう」
「はい」
「私の失敗が落ちるまで待ってください。落ちたら、知らせる。急がせない。隠させない。置いたことを、みんなに分かるようにする」
「はい」
ロイの返事は、さっきより深かった。
「やります」
中庭で、簡単な練習が始まった。
レイナが魔法を使うわけではない。
代わりに、小さな白い石を持った。
ガレスが昼間の検証後に拾ってきた、角の丸い石だ。
たぶん、何かを直す時の重しにするつもりだったのだろう。
レイナがその石を胸の高さから落とす。
石が石畳に当たる。
その後に、ロイが鳴らす。
「ちん」
「早いです」
「はい」
もう一度。
石が落ちる。
一拍。
「ちん」
「今の方が近いです」
「はい」
また。
石が落ちる。
一拍半。
「ちん」
「少し遅いです」
「難しい」
「難しいですね」
レイナは真面目に頷いた。
その真面目さが、ロイには嬉しいらしい。
彼は何度も、何度も、小さな音を鳴らした。
ネルは途中で地面に座り、あごを膝に乗せて見ていた。
俺は壁にもたれて、その音を聞いていた。
同じ「ちん」なのに、少しずつ違う。
早い音。
遅い音。
急かす音。
待つ音。
置いたことを知らせる音。
失敗を追い立てない音。
これまで全部「うるさい」でまとめられていたロイの音に、細かい名前が生まれていく。
名前が生まれると、扱い方が生まれる。
扱い方が生まれると、欠陥は少しだけ、ただの迷惑ではなくなる。
万能にはならない。
欠陥が消えるわけでもない。
でも、ロイが自分の音を嫌う以外の手つきを覚え始める。
それは、第七部にとってかなり大きい。
「何してるの」
眠そうな声がした。
ノルが宿舎の入口から出てきた。
髪が少し跳ねている。
たぶん、さっきまで寝ていた。
「ロイの音を調整しています」
レイナが答える。
「石、落として?」
「はい」
「夢じゃなくて?」
「現実です」
ノルは目をこすり、しばらく考えた。
「現実って、変なことするね」
「夢に言われると納得いかない」
俺が言うと、ノルはあくびをした。
「白旗、寝てる」
全員がノルを見る。
「見たのか」
「夢で」
「今?」
「さっき」
ノルは中庭の端に座り込んだ。
「白旗、今日の音を覚えてた。大きい音じゃなくて、小さい音。失敗が落ちてから鳴る音」
ロイが息を飲む。
「白旗が、俺の音を?」
「たぶん」
「嫌がってました?」
「ううん」
ノルは眠そうに首を振った。
「待ってた」
ロイは、札を握りしめた。
待ってた。
その一言は、ロイに深く刺さったようだった。
大きすぎる音は、いつも待たれない。
鳴る前から恐れられ、鳴った後に怒られる。
でも、今日の小さな音は、白旗に待たれていた。
「もう一回、やります」
ロイが言った。
レイナは頷く。
白い石を持ち上げる。
落とす。
こつん。
一拍。
「ちん」
夜の中庭に、音が置かれた。
今度は、誰もすぐに喋らなかった。
ネルも、レイナも、ノルも、俺も。
その音が消えるまで待った。
ロイは、少し震えていた。
「今の」
レイナが言う。
「ちょうどよかったです」
ロイは、顔を上げた。
「本当ですか」
「はい」
「もう一回言ってください」
「ちょうどよかったです」
「もう一回」
「調子に乗るな」
ネルが止めた。
ロイは笑った。
今度の笑いは、いつもの誤魔化す笑いではなかった。
嬉しい時に、ちゃんと嬉しい顔をしている。
それだけで、音が少し変わった気がした。
翌日の午前。
ルミナリア側から、追加検証の申し入れが来た。
内容は、観客反応の確認。
昨日の練習試合で、見学席の空気が変わった。
白旗の礼式反応だけでなく、観客が失敗宣言と小音合図をどう受け取るかを、簡単に確認したいという。
コレットはその通知を読んで、目を細めた。
「観客反応」
「嫌な予感?」
俺が聞く。
「いい予感と嫌な予感が一緒に来る」
「便利だな」
「便利じゃない」
コレットは帳面を抱える。
「観客が待つようになるのは強い。でも、待たれること自体が圧になる」
レイナが頷く。
「分かります」
ロイも、少し遅れて頷いた。
「俺も、待たれると緊張します」
「昨日は待たれたかったのに」
ネルが言う。
「待たれたかったです。でも、待たれると緊張します」
「面倒」
「はい」
ロイは素直に認めた。
面倒でいい。
人間はだいたい面倒だ。
欠陥魔法持ちは、それが表に出やすいだけだと思う。
追加検証は、昨日より小さな形式で行われた。
場所は同じ礼式演習庭。
ただし、白旗アウレリアは中央ではなく、庭の端の止まり木にいる。
試合ではない。
レイナが失敗宣言を行い、ロイが音を鳴らす。
観客役のルミナリア生徒たちが、反応を記録される。
言葉にすると地味だ。
でも、実際に立つと、かなり嫌だった。
観客席には、昨日よりも多い人数がいた。
ルミナリアの生徒。
先生。
記録官。
そして、なぜかアドリアンまでいる。
「代表は検証に影響するんじゃなかったのか」
俺が小声で言うと、アルフが答える。
「今日は白旗の移動検証じゃないからだろう」
「便利な解釈」
「ルミナリアらしい」
アドリアンは見学席の中央ではなく、少し端に立っている。
こちらを邪魔しない位置。
それでも、目立つ。
白と金の制服が似合いすぎている。
ああいう人間は、廊下で転んだりしないのだろうか。
いや、してほしいわけではない。
少しだけ、世界の公平のために。
「始めます」
マリエル先生が言う。
レイナが庭の中央に立った。
ロイはその後ろ、少し右。
俺たちはさらに後ろ。
観客の目が、二人に集まる。
レイナの手が、わずかに震えている。
ロイの札を握る指も、白い。
昨日は試合の流れがあった。
今日は違う。
ただ、見られる。
失敗を宣言し、音を鳴らす。
それだけ。
それだけだから、逃げ場がない。
「一度目」
レイナの声が出る。
しかし、途中で少し詰まった。
観客席に、緊張が走る。
ロイが動きかける。
早い。
俺は小さく手を上げた。
待て。
ロイが止まる。
レイナは、もう一度息を吸った。
「一度目、失敗します」
白い光が崩れる。
石畳に落ちる。
一拍。
「ちん」
ロイの音が鳴った。
昨日の夜の音に近い。
失敗を追い立てない。
落ちてから知らせる音。
観客席が、静かに息を吐いた。
それは嘲笑ではなかった。
驚きでもない。
待っていた息が、ほどける音。
レイナの肩が、少し下がる。
「二度目、成功します」
白い弧が開く。
今回は旗を誘導しない。
ただ、弧だけが空中に浮かぶ。
観客席から、小さな拍手が起きた。
昨日と同じ、控えめな拍手。
でも、ロイはその拍手に驚いて、札から手を離しかけた。
音が漏れた。
「き」
短い。
だが鋭い。
中庭の「ちん」とは違う、いつもの大音量の尻尾が一瞬だけ顔を出した。
観客席がびくりとする。
ロイの顔が青くなる。
「すみません」
彼はすぐに頭を下げた。
「すみません、今のは」
「ロイ」
レイナが呼ぶ。
ロイは固まる。
「はい」
「今の音は、失敗ですか」
ロイは唇を噛んだ。
少し前なら、笑って誤魔化したと思う。
うるさくてすみません、と。
でも今日は、レイナが一度目を宣言した後だ。
ロイだけが、失敗を笑って隠すわけにはいかない。
「失敗です」
彼は言った。
「俺の一度目です」
庭が静かになった。
レイナは、頷いた。
「では、置きましょう」
「え」
「隠すと、追いかけてきます」
ロイの目が揺れる。
ネルが、後ろからぼそりと言った。
「そこ、畳む場所じゃない」
ロイは、笑いそうになって、失敗した。
泣きそうにもなって、たぶんそれも失敗した。
最終的に、変な顔になった。
「はい」
ロイは観客席へ向いた。
「今の音は、俺の失敗です」
声は大きくない。
でも、庭に届く。
「拍手で、びっくりしました。嬉しくて、札から手が離れました。すみません」
観客席は、まだ静かだった。
ロイは続ける。
「もう一回、鳴らします。今度は、置いてから鳴らします」
マリエル先生が、セシリアを見る。
セシリアが小さく頷く。
許可が出た。
ロイは胸元の札に手を戻す。
息を吸う。
失敗の音が落ちた場所を、一度見る。
そして。
「ちん」
小さな音を鳴らした。
今度は、レイナの失敗ではない。
ロイ自身の失敗を置く音。
観客席の誰かが、息を吐いた。
また拍手が起きる。
ロイの肩が跳ねる。
でも、今度は札から手を離さなかった。
拍手は少しずつ広がった。
昨日より、少しだけ大きい。
礼式庭としてはまだ控えめ。
でも、昨日より熱がある。
ロイは、拍手の中で立っていた。
音を出さずに。
逃げずに。
自分の失敗のそばで。
白旗アウレリアが、止まり木の上で布を揺らした。
午前の風ではない。
たぶん、反応だ。
マリエル先生が記録官に視線を送る。
記録官が慌てて筆を動かす。
「観客反応、第二段階」
クララが小声で言う。
「嘲笑なし。驚愕後、謝罪宣言。再発音成功。拍手増加」
「クララ」
コレットが言う。
「本人、先」
クララは、はっとして口を閉じた。
ロイの方を見る。
「ロイ、書いていい?」
ロイは、拍手の中で振り返った。
少しだけ困った顔。
でも、笑っていた。
「はい。俺の失敗も、書いてください」
「成長として?」
コレットが確認する。
ロイは頷いた。
「はい」
少し間を置いて、付け足す。
「あと、負け筋としても。拍手で手が離れるの、かなり危ないので」
コレットが、満足そうに頷く。
「順番、分かってる」
「昨日から勉強しています」
ロイは胸を張った。
ちょっとだけ。
その瞬間、見学席の端から声が上がった。
「もう一度、聞きたいです」
ルミナリアの女子生徒だった。
たぶん一年生か二年生。
声は小さい。
でも、庭に届いた。
ロイが固まる。
「え」
その生徒は、立ち上がりかけて、周囲を見て、慌てて座り直した。
「すみません。礼を欠きました」
マリエル先生が視線を向ける。
叱るのかと思った。
しかし、先生は少しだけ考えたあと、ロイを見た。
「キャベルさん。可能ですか」
ロイは、返事をしなかった。
できないのか。
それとも、分からないのか。
レイナが隣に立つ。
「無理に鳴らさなくていいです」
ネルも言う。
「調子に乗ったら止める」
「止め方が怖い」
俺が言うと、ネルは鼻を鳴らした。
「怖くていい」
ロイは、胸元の札を握った。
見学席の生徒を見る。
マリエル先生を見る。
レイナを見る。
そして、少しだけ笑った。
「鳴らします」
彼は言った。
「でも、声援としてはまだ無理です」
その言葉に、観客席が静かになる。
「俺の音は、まだびっくりさせます。大きくなる時もあります。失敗します。だから、声援って言うには、たぶんまだ早いです」
ロイは、息を吸う。
「でも、声援の手前の音なら、鳴らせるかもしれません」
声援の手前。
それは、ロイらしい言葉だった。
大きすぎる音が、すぐに応援になるわけではない。
でも、迷惑で終わらない音へは近づける。
みんなが待ち、聞き、次を受け取るための音。
ロイは札に触れた。
今度は、観客席の方を向いて。
「ちん」
音が鳴った。
小さい。
でも、さっきより少しだけ明るい。
失敗を知らせる音ではない。
成功を祝う音でもない。
次へ進むために、みんなの呼吸を揃える音。
一拍遅れて、拍手が起きた。
今度は、はっきり拍手だった。
礼式庭の控えめな拍手ではある。
でも、そこには熱があった。
ロイは、札を握ったまま、目を丸くしている。
拍手が自分に向いていることを、まだうまく信じられていない顔だ。
俺は少しだけ横を見た。
白旗アウレリアが、止まり木の上で揺れている。
嫌がってはいない。
レイナは、拍手の中でロイを見ていた。
その表情は、昨日の夜より少し柔らかい。
「ロイ」
彼女が言う。
「はい」
「今の音、私も聞きたいです」
「今、聞きましたよね」
「次に、私が失敗を宣言する時も」
ロイの顔が、ゆっくり明るくなる。
「はい」
声は震えていた。
でも、大きすぎない。
「必ず、鳴らします」
ネルが、すぐに言う。
「必ずとか言うと重い」
「じゃあ、なるべく」
「軽い」
「難しいです」
ロイが困る。
レイナが少し笑った。
「では、ちょうどよく」
ロイは、今度こそ満面の笑みを浮かべた。
「はい。ちょうどよく鳴らします」
追加検証の記録は、思ったより長くなった。
レイナの失敗宣言。
ロイの小音。
ロイ自身の失敗宣言。
観客の拍手。
白旗の反応。
どれも、公式戦の勝敗には関係ない。
でも、競技の中で欠陥がどう扱われるかには、大きく関係する。
欠陥を隠す。
欠陥を笑う。
欠陥を見世物にする。
欠陥をなかったことにする。
そのどれでもない扱い方が、今日少しだけ形になった。
夕方、俺たちは宿舎へ戻る前に、礼式演習庭の端で休んでいた。
ロイはまだ拍手の余韻でふわふわしている。
ネルに「歩き方がうるさい」と言われていた。
足音までうるさい判定を受けるのは少しかわいそうだ。
でも、ロイは嬉しそうだった。
「ルカ先輩」
ロイが俺の隣に来る。
「何」
「俺の音、声援になりますかね」
その問いには、すぐに答えられなかった。
なる。
と言ってやりたい。
でも、簡単に約束すると、ロイの音をまた別の檻に入れてしまう気がした。
声援にならなければいけない音。
それはそれで、苦しい。
「分からない」
俺は正直に言った。
ロイは少しだけ目を伏せる。
でも、俺は続けた。
「でも、今日の音は、迷惑だけじゃなかった」
ロイが顔を上げる。
「はい」
「それで今は十分じゃないか」
ロイは、少し考えた。
いつもなら、すぐに「十分です」と言ったかもしれない。
でも今日は、ちゃんと考えた。
「十分です」
そして、言った。
「でも、もっと鳴りたいです」
良い言葉だと思った。
少し危なっかしいけれど。
欠陥が消えたわけではない。
大音量がまた暴発することもある。
拍手に驚いて失敗もした。
でも、ロイはもう、ただ黙りたいだけではない。
鳴りたい。
ちょうどよく。
誰かの失敗を追い立てず、次へ進むために。
「じゃあ、練習だな」
俺が言うと、ロイは力強く頷いた。
「はい」
少し離れた場所で、レイナが白旗を見ている。
ネルがその横に立っている。
二人の距離は、昨日よりほんの少し近い。
白旗アウレリアは、止まり木の上で静かに揺れていた。
声援の手前の音。
失敗のそばに降りる旗。
未練を捨てない勝者。
カルミアの第七魔法競技部は、今日も相変わらず不揃いだ。
でも、その不揃いさに、少しずつ観客の呼吸が合い始めている。
それは、勝利とは違う。
記録点でもない。
けれど、巡業リーグを旅する俺たちにとって、かなり大事な変化だった。
誰かが待ってくれる。
誰かが聞いてくれる。
誰かが、拍手の前に息を整えてくれる。
ロイの音は、まだ声援ではない。
でも、もうただの騒音でもない。
声援の手前で、確かに鳴っていた。




