第67話 一度目を宣言する
午後の礼式演習庭は、午前よりも少しだけ人が増えていた。
検証会は終わったはずなのに、見学席にはルミナリアの生徒が残っている。
むしろ、増えている。
白い制服。
青いリボン。
金の飾り。
きちんと整った姿勢が、庭の端に並んでいた。
その視線の先にいるのは、白旗アウレリアだけではない。
レイナだ。
カルミア魔法学園のレイナ・オルコット。
昨日までなら、ルミナリアに来られなかった生徒。
今日からは、白旗が失敗のそばに降りた相手。
名前は同じなのに、置かれる場所が少し変わっている。
それは良いことなのか。
重いことなのか。
たぶん、両方だ。
「増えたね」
俺が言うと、隣のアルフが頷いた。
「午前の記録が流れたんだろう」
「流れるの早くない?」
「ルミナリアは礼式の学校だ。珍しい礼式反応は、試合結果より早く広まる」
「試合結果より」
「たぶん」
アルフはそう言いながら、石畳に浮かぶ基準線を見ていた。
午後の練習試合形式検証は、簡略化された五対五で行われる。
公式戦ではない。
勝敗記録もつかない。
白旗アウレリアの反応を調べるための、再現試合だ。
ただし、旗は本物。
相手も本物。
見ている人間の目も、本物。
記録に残らないから軽い、とはならない。
カルミア側の出場は、レイナ、ネル、ロイ、アルフ、俺。
コレットは外から記録。
ガレス、ミラ、リリィ、クララ、ノル、ジャックは補助観測席。
ルミナリア側は、セシリアを中心にした礼式班。
アドリアンは出ない。
午前の検証で、彼は「代表が入ると白旗の判断が昨日の試合へ寄りすぎる」と言った。
きれいな言い方だ。
要するに、白旗がアドリアンを強く覚えているから、検証が濁る。
俺たちも、今日は勝つためではない。
でも、動けばどうしたって勝ち負けの形になる。
魔法競技は、そういう面倒なものだ。
「ルカ」
レイナが声をかけてきた。
試合用の手袋をはめている。
白い手袋ではない。
カルミアの貸与品だ。
少し古くて、指先に補修跡がある。
「何」
「一度目を宣言したあと、あなたはどう動きますか」
質問が具体的だった。
それだけで、俺は少し安心した。
怖がっていないわけではない。
でも、怖さの中で戦術を考えている。
「アルフの線に戻る。レイナが失敗を置いた場所を、逃げ場じゃなくて、白旗の判断地点にする」
「私を中心にしない?」
「しない。失敗を中心にする」
レイナが、少し眉を動かした。
「嫌な言い方ですね」
「正確な言い方だと思った」
「正確だから嫌です」
「じゃあ採用」
「採用します」
レイナは短く頷いた。
このあたり、俺たちは少しずつ慣れてきた。
綺麗な言葉に逃げない。
嫌な言い方でも、正確なら置く。
置いたあとで、持ち方を考える。
ネルが横から割り込んできた。
「あたしは?」
「ネルは一瞬を使わないで」
「なんで」
「今日はレイナの一度目が主役だから。ネルの一瞬で状況を変えると、白旗がそっちを見る」
ネルは不満そうに口を尖らせた。
「見られないように使う」
「それができるから困る」
「褒めてる?」
「褒めてる」
ネルは、少しだけ目をそらした。
「じゃあ、やらない」
単純というと怒るだろう。
でも、こういう単純さに救われる時がある。
「ただし、走るのは任せる」
「魔力なしで?」
「手と足は残るって言ったの、ネルだろ」
ネルは鼻で笑った。
「言った」
「じゃあ、残ってる方で頼む」
「了解」
ロイが、胸元の札を握ったまま立っている。
顔が真剣すぎる。
「ロイ」
「はい」
「小さく鳴る準備?」
「はい」
「鳴らなくてもいい」
「えっ」
ロイの顔が崩れた。
「今日は小さく鳴る回では?」
「回って言うな」
アルフが静かに突っ込む。
俺はロイの札を指差した。
「音を出すなら、合図にしてくれ。失敗を誤魔化す音じゃなくて、失敗が置かれたってみんなに知らせる音」
ロイは、ぱちぱちと瞬きした。
「失敗が置かれました、って音ですか」
「そう」
「難しいですね」
「大きくしなくていい」
「小さく、でも分かる」
「そう」
ロイは、深く息を吸った。
「やります」
その声も小さかった。
昨日までなら、それだけで泣きそうになったかもしれない。
いや、泣かない。
俺はそんなに涙もろくない。
たぶん。
「両校、配置へ」
マリエル先生の声が響く。
白旗アウレリアが、庭の中央でふわりと浮いた。
午前に失敗のそばへ降りた旗。
今は、また逃げる旗の顔をしている。
顔はないけど。
ルミナリア側の五人が、優雅に散る。
無駄がない。
足音まで揃っている。
セシリアは前衛ではなく、少し後ろ。
全体の礼式線を見ている。
彼女の手元に、薄い青の輪が浮かぶ。
白旗の逃走経路を美しく整える魔法だ。
昨日も見た。
白旗が心地よく通れる道を作る。
強制ではない。
誘導。
ルミナリアらしい。
「開始」
鐘が鳴った。
白旗が飛んだ。
まずは上。
そして右。
セシリアの青い輪が、白旗の前に開く。
白旗はそこを通る。
ルミナリア側の生徒たちが、礼式の角度を保ちながら走った。
昨日ほどの圧はない。
でも、きれいだ。
きれいに逃がす。
きれいに追う。
きれいに囲む。
きれいに負けたら、きれいに記録される。
そのきれいさの中に、レイナが走り出した。
彼女の足運びは、ルミナリアに似ている。
姿勢も、手の角度も、視線の置き方も。
でも、制服はカルミアだ。
補修跡のある手袋。
少しだけ足並みの乱れた仲間。
ロイの緊張。
ネルの低い走り。
アルフの一直線の線。
俺の、使わない風。
似ているのに、同じではない。
白旗が、その違いを見るように揺れた。
「アルフ」
「右に基準」
アルフが手を振る。
石畳に細い線が走った。
俺はその線の内側へ入る。
ネルは外側。
ロイは後方。
レイナは、白旗の斜め前へ出る。
最初の礼式魔法。
レイナの指先に、淡い光が灯った。
白い小さな紐。
白旗を縛るためではない。
その進路に、礼式の選択肢を置くための紐だ。
昨日は一度目に失敗した。
そして二度目に成功した。
彼女の欠陥は、魔法が一度失敗しなければ成功しないこと。
一度目は必ず崩れる。
だからこれまで、レイナはその崩れを隠してきた。
礼式で覆い、姿勢で消し、失敗ではなかったように振る舞ってきた。
今日は違う。
レイナは、魔法を放つ直前に声を出した。
「一度目、失敗します」
会場が揺れた。
それは歓声ではない。
驚きの気配だ。
ルミナリアの生徒たちが、思わず息を飲む。
失敗を宣言する。
競技中に。
礼式魔法の直前に。
自分の失敗を、これから起こるものとして、みんなの前へ置く。
それは、かなり怖いことだ。
俺なら嫌だ。
正直、かなり嫌だ。
レイナの指先の光が崩れた。
白い紐は、途中でほどける。
魔法は失敗。
失敗の光が、石畳に落ちる。
「ちん」
ロイの音が鳴った。
小さい。
鐘というより、薄いガラスを爪で軽く弾いたような音。
でも、全員に届いた。
失敗が置かれた。
合図として。
恥ではなく。
隠すものでもなく。
そこにある戦術情報として。
アルフの線が、すぐに反応した。
「基準、失敗点へ移行」
石畳の戻り線が、レイナの失敗した地点を中心に切り替わる。
俺はその線に沿って下がった。
ネルが外から走る。
ルミナリア側が一瞬だけ遅れた。
当然だ。
失敗を見たら、普通は攻める。
崩れたところを突く。
でも、失敗が宣言され、音で共有され、線の基準になると、それは隙ではなくなる。
場所になる。
白旗アウレリアが、失敗点の上を避けずに旋回した。
午前と同じ。
恐れていない。
でも、今回は練習試合だ。
白旗は逃げる。
失敗のそばに降りるだけではない。
失敗を見て、その先へ行く。
「二度目、成功します」
レイナが言った。
その声は、一度目よりも少しだけ強かった。
指先に、もう一度白い紐が灯る。
今度は崩れない。
紐は白旗の進行方向に、やわらかい弧を描いて伸びた。
縛らない。
止めない。
ただ、白旗が選べる礼式の道を一つ増やす。
白旗が、その弧の手前で揺れた。
ルミナリア側の青い輪。
レイナの白い弧。
二つの道。
白旗は、どちらにも入らなかった。
ふわりと上へ抜ける。
「抜けた!」
ロイが叫びかけて、途中で声を小さくした。
「抜けました」
「報告が丁寧」
ネルが走りながら言う。
白旗は上へ逃げ、庭の端へ向かう。
ネルが追う。
魔力は使わない。
足だけ。
低く、速く。
彼女は白旗に手を伸ばさない。
進路を塞ぐのでもない。
ただ、白旗が下りる場所を狭める。
ルミナリア側の一人が、ネルの前に入った。
優雅な足運び。
ただし、ネルは優雅ではない。
彼女は急停止し、石畳に手をつき、ほとんど這うように方向を変えた。
見学席から小さなどよめきが起きる。
ルミナリアの庭に似合わない動きだ。
でも、白旗は嫌がらなかった。
乱暴ではないからだ。
見た目は乱暴でも、触る場所を間違えていない。
「ネル、右」
俺が言う。
「見えてる」
ネルは右へ抜ける。
白旗が、そのさらに右へ逃げる。
そこに、アルフの線があった。
戻り線ではなく、戻らない線。
白旗の逃げ道を塞ぐものではない。
俺たちが追いすぎないための線。
白旗は、その線の手前で一度止まった。
止まったというより、迷った。
追われすぎていない。
触られすぎていない。
失敗点は後ろにある。
そこへ戻ることもできる。
白旗の布が、レイナの方へ傾いた。
セシリアが動く。
青い輪が、白旗の足元に咲く。
やはり上手い。
白旗の迷いを、礼式の道へ変えるのが早い。
レイナは、まだ追いついていない。
昨日なら、ここで無理に姿勢を整えたかもしれない。
失敗した遅れを取り戻そうと、綺麗な二度目で白旗を追い込もうとしたかもしれない。
でも今日は、レイナは止まった。
失敗点の近くで。
そして言った。
「一度目、ここにあります」
白旗が、ぴたりと反応した。
ルミナリア側の青い輪に入る直前で、布の端が揺れる。
ロイが、もう一度小さく鳴らした。
「ちん」
今度は、合図というより確認だった。
失敗はまだある。
消していない。
レイナは、そこから逃げていない。
セシリアの目が細くなる。
「白旗、反応変化」
彼女が呟いた。
白旗は青い輪を通らず、弧を描いて失敗点の方へ戻る。
勝ち負けだけで言えば、これはチャンスだ。
旗が戻ってくる。
捕まえられるかもしれない。
でも、俺は動かなかった。
ここで俺が突っ込めば、昨日の滞在をただの捕獲手段に落としてしまう。
白旗が見ているのは、俺の手ではない。
レイナの失敗の置き方だ。
「ルカ」
アルフが確認するように呼ぶ。
「行かない」
「了解」
ネルも止まった。
息を切らしながら、膝に手を置いている。
「行けば取れそうだけど」
「取らない」
「分かった」
ネルは、それだけで引いた。
偉い。
たぶん、かなり偉い。
白旗は、失敗点の外側へ降りた。
午前と同じように。
ただし今回は、試合中だ。
レイナのすぐ前。
白い失敗の光が、まだ石畳に残っている。
レイナは、手を伸ばせば白旗に触れられる距離にいた。
触れない。
彼女は手を下ろしたまま、まっすぐ立っている。
「私は」
レイナが言った。
息が少し乱れている。
「これを、隠しません」
白旗の布が揺れる。
「でも、これだけを私にはしません」
その言葉に、俺は少しだけ目を見開いた。
失敗を隠さない。
でも、失敗だけを自分にはしない。
昨日のレイナなら、どちらかに寄った。
失敗を礼で隠すか。
あるいは、失敗を勝つための道具にして、自分を削るか。
今日は、その間に立っている。
白旗は、さらに近づいた。
見学席から、ざわめきが広がる。
マリエル先生の声が飛ぶ。
「静粛に」
ざわめきが収まる。
でも、熱は残った。
ロイの手が震えている。
小さな音を出す準備をしている。
俺は目で合図した。
今じゃない。
ロイは頷いた。
白旗が、レイナの袖の近くまで来る。
触れるか。
触れないか。
その距離で、レイナが言った。
「二度目」
指先に白い光が灯る。
白旗の前に、礼式の弧が浮かぶ。
「成功します」
白旗は、その弧を見た。
そして、通った。
レイナの二度目の魔法を、白旗が選んだ。
捕獲ではない。
誘導成功。
白旗はレイナの弧を通り、アルフの戻り線へ向かう。
俺たちは、その線の外で待つ。
ネルが白旗を追いすぎない位置へ走る。
ロイが鳴らす。
「ちん」
小さな音。
今度は、成功の合図ではない。
失敗から二度目へ移った合図。
観客にも、ルミナリア側にも、俺たちにも届く。
白旗が、その音を嫌がらない。
昨日のロイの大音量魔法は、白旗を脅かす危険があった。
今の音は違う。
誰かを黙らせる音ではなく、位置を知らせる音だ。
ロイの欠陥が、ほんの少し、声援の手前に立っている。
「いい音」
ネルが言った。
ロイが一瞬、泣きそうな顔をした。
でも試合中なので泣かない。
偉い。
たぶん、かなり偉い。
白旗が、アルフの戻り線で軽く旋回した。
セシリアが再び青い輪を出す。
今度は強い。
白旗を逃がす道ではなく、白旗が戻りたくなる道。
ルミナリアの礼式は、やはり美しい。
そして強い。
検証試合だからといって、手を抜いていない。
セシリアの青い輪を見た白旗が、少し傾く。
そちらへ行けば、整った道がある。
レイナの道は、一度失敗してからしか開かない。
不安定で、遅い。
でも、今日の白旗は、その遅さを覚えている。
「レイナ、もう一回」
俺が言う。
レイナの顔が一瞬強張る。
二度目が成功した直後に、また一度目を置く。
失敗を一回見せて終わりではない。
競技中に、何度も起こる制約として扱う。
それは、かなりしんどい。
レイナは唇を結び、それから頷いた。
「一度目」
声が、さっきより少しだけ小さい。
怖さが戻っている。
でも、消えない。
「失敗します」
白い光が崩れる。
失敗点が二つ目として石畳に落ちる。
「ちん」
ロイが鳴らす。
アルフが線を移す。
「基準、第二失敗点へ」
ネルが足で距離を作る。
俺は白旗への進路から一歩退く。
同じ流れ。
でも、同じではない。
二回目の失敗宣言で、観客の反応が変わった。
最初は驚き。
次は、理解しようとする沈黙。
そして今、三つ目の気配が生まれている。
待つ気配。
失敗が起こるのを、嘲るためではなく、流れの一部として待つ気配。
それはまだ声援ではない。
でも、声援の前の静けさに似ていた。
白旗は、第二失敗点の近くを通った。
降りない。
今度は通過する。
午前の「そばに降りる」から、午後の「そばを通れる」へ。
レイナが息を飲む。
「二度目、成功します」
白い弧が開く。
白旗は、それを通らず、セシリアの青い輪へ入った。
ルミナリア側が動く。
きれいに、速く。
白旗は青い輪を抜け、庭の反対側へ逃げる。
カルミア側の距離が開いた。
「失敗した?」
ロイが言う。
レイナが首を横に振る。
「いえ」
声は悔しそうだった。
でも、崩れていない。
「白旗が、別の礼を選びました」
セシリアが遠くから言う。
少しだけ笑っていた。
敵意ではない。
勝負の顔だ。
「こちらも、ただ見ているわけではありません」
「でしょうね」
レイナが返す。
その口調が、少しだけ楽しそうに聞こえた。
俺は驚いた。
レイナが、ルミナリアの庭で、ルミナリアの礼式班と競っている。
失敗を置きながら。
未練を持ったまま。
それでも、楽しさの手前にいる。
「ルカ」
ネルが横に来る。
「あれ、もう一回やったら白いの戻る?」
「分からない」
「分かんないなら、やる?」
「やる」
俺はレイナを見る。
レイナもこちらを見ていた。
怖さはある。
疲れもある。
でも、目は逃げていない。
「三度目、いける?」
俺が聞く。
レイナは、わずかに息を吐いた。
「一度目なら、いくらでも」
その言い方に、俺は笑いそうになった。
笑ってはいけない場面かもしれない。
でも、ネルは遠慮なく笑った。
「すごい嫌な強み」
「ええ」
レイナも、少しだけ笑う。
「私のものです」
三度目の失敗宣言は、最初より少し大きかった。
「一度目、失敗します」
白い光が崩れる。
「ちん」
ロイの音が鳴る。
今度は、見学席の何人かが、その音に合わせて息を整えた。
小さな反応。
でも、確かにあった。
失敗が置かれる。
みんなが見る。
隠さない。
そして、次を待つ。
アルフの線が走る。
ネルが低く回り込む。
俺は白旗から二歩離れる。
レイナは、失敗点のそばに立つ。
「二度目、成功します」
弧が開く。
セシリアも青い輪を開く。
白旗アウレリアが、その二つの道の間で揺れた。
白と青。
カルミアの不揃いな失敗から開いた道。
ルミナリアの整った礼式から開いた道。
白旗は、どちらにもすぐ入らなかった。
ふわりと上がる。
そして、三度目の失敗点の外側へ降りた。
会場が息を飲む。
レイナは、手を伸ばさない。
ただ、白旗を見る。
「そこにあります」
レイナが言った。
「私の一度目です」
白旗の布が、軽く揺れる。
「そして、次があります」
その瞬間、白旗はレイナの弧を通った。
今度は、はっきりと。
迷わず。
弧を抜け、アルフの戻り線をかすめ、ネルの足元の少し上を通り、俺の手が届かない距離を保ったまま、庭の中央へ戻る。
捕まらない。
でも、逃げすぎない。
白旗は、レイナの失敗と二度目の成功を、ひとつの流れとして扱った。
マリエル先生の手が上がる。
「停止」
鐘が鳴る。
練習試合形式検証は、そこで止まった。
勝敗はない。
捕獲もない。
でも、会場には、何かが成立した感触が残っていた。
俺たちは全員、息を切らしている。
ネルは石畳に座り込んだ。
「魔力使ってないのに疲れる」
「足と手が残ってるからな」
「残りすぎ」
ロイは札を握ったまま立ち尽くしている。
「俺、鳴りましたか」
「鳴った」
俺が言う。
「大きくなかったですか」
「ちょうどよかった」
ロイの顔が、くしゃっとなる。
「ちょうどいいって、初めて言われました」
その一言が、思ったより胸に来た。
ガレスが観測席から水を持ってくる。
ロイに一本、ネルに一本、レイナに一本。
レイナは、両手で水筒を受け取った。
「ありがとうございます」
「水は大事」
「はい」
ガレスは、白旗の方を見た。
「距離、よかった」
レイナは、水筒を握ったまま、少し笑った。
「ありがとうございます」
コレットが近づいてくる。
帳面は閉じたまま。
「レイナ」
「はい」
「書いていい?」
レイナは、少しだけ考えた。
今までなら、コレットはもう書いていた。
未来の負け筋として。
でも今は違う。
許可を取る。
本人を先に見る。
レイナは頷いた。
「書いてください」
コレットが帳面を開く。
「三回の失敗宣言。第一宣言、驚き発生。第二宣言、観客沈黙。第三宣言、待機反応。ロイの小音が失敗点共有に成功。アルフの基準移行、機能。ネル、魔力不使用で進路圧縮。ルカ、捕獲機会で不介入」
「最後の、必要?」
俺が聞く。
コレットは真顔で頷いた。
「必要。ルカが取りに行かなかったから、白旗は失敗宣言を試せた」
「俺、何もしなかっただけだけど」
「何もしないのも戦術」
アルフが言う。
それは分かる。
分かるが、何もしないことを評価されると、少し居心地が悪い。
俺はだいたい、何かをしないと存在が薄くなる気がしている。
いや、実際に薄くなる時がある。
魔法を使うと、記憶を失うだけではなく、存在感も少しずつ遠のく。
だから、何もしない自分を戦術として置かれると、少し怖い。
でも今日は、俺の話ではない。
レイナの一度目の話だ。
「レイナ・オルコット」
マリエル先生が近づいてきた。
セシリアも隣にいる。
白旗は、庭の中央で静かに浮いている。
「検証結果を伝えます」
レイナが姿勢を正す。
まだルミナリア式の綺麗な姿勢だ。
でも、膝の力が入りすぎていない。
「白旗アウレリアは、あなたの一度目の失敗宣言を忌避しませんでした。三度目においては、失敗点を経由した二度目の礼式弧を自発的に選択しました」
マリエル先生の声が、庭に響く。
「これは、失敗を礼式内の有効な前提として扱った反応です」
有効な前提。
その言葉を聞いた瞬間、レイナの目が少し揺れた。
失敗が、消すべきものではなく。
誤魔化すものでもなく。
勝つためだけの道具でもなく。
有効な前提。
競技の中に置いてよいもの。
「ただし」
マリエル先生は続ける。
「この方式は万能ではありません。相手校が失敗宣言に慣れれば、第二成功前の間を狙われます。白旗以外の旗が同じ反応を示す保証もありません」
「はい」
レイナの返事は早かった。
そこに落胆はなかった。
むしろ、少し安心したようにも見えた。
万能ではない。
だから、欠陥が消えたわけではない。
レイナが別人になったわけでもない。
「それでも」
マリエル先生が、ほんの少しだけ表情を緩めた。
「あなたの一度目は、今日、礼式競技において隠蔽対象ではなく、共有可能な戦術情報として成立しました」
レイナは、深く息を吸った。
「ありがとうございます」
礼をする。
今度は、隠れるためではない。
受け取るための礼だった。
見学席から、小さな拍手が起きた。
最初に叩いたのが誰かは分からない。
ルミナリアの生徒の一人かもしれない。
カルミアの誰かかもしれない。
でも、すぐに広がった。
大きな拍手ではない。
礼式庭にふさわしい、控えめな拍手。
ロイが、ぽかんとしている。
「拍手です」
「見れば分かる」
ネルが言う。
「俺の音じゃないです」
「うん」
「でも、なんか、近いです」
ロイは胸元の札を握った。
「これ、次は声援になりますか」
俺は拍手の中で、少し笑った。
「なるかもな」
ロイの欠陥が、ただ迷惑な音ではなくなる日。
それは、まだ先だ。
でも、今日の小さな音は、そこへ続いている。
レイナは拍手の中で、白旗を見た。
白旗は、少しだけ布を揺らした。
誇れ、と言ったわけではない。
救われた、と示したわけでもない。
ただ、失敗のそばを通れると示した。
それで十分だった。
少なくとも、今日のレイナには。
「ルカ」
レイナが俺を呼ぶ。
「何」
「私、一度目を宣言しました」
「見てた」
「三度も」
「聞いてた」
「怖かったです」
「だろうな」
レイナは、少しだけ笑った。
「でも、隠すより忙しかった」
「忙しい?」
「はい。宣言して、失敗して、次を考えて、仲間の音を聞いて、線を見る。隠している暇がありませんでした」
それは、かなりレイナらしい感想だった。
救われた、とか。
自由になった、とか。
そういう綺麗な言葉ではない。
忙しかった。
だから、隠している暇がなかった。
「いいんじゃないか」
俺は言った。
「忙しい方が、礼で畳む暇も減る」
「ネルの言い方が移っています」
「悪影響だ」
「聞こえてる」
ネルが水を飲みながら言う。
レイナはネルを見た。
「ネル」
「何」
「さっきの、畳まなくていいという言葉、助かりました」
ネルが、露骨に困った顔をした。
「そういうの、急に言わないで」
「急に言わないと、また畳みます」
「じゃあ急でいい」
二人の会話は、まだ滑らかではない。
でも、ぎこちなさの中に、昨日とは違う通り道がある。
謝罪が始まった距離。
そこから、少しだけ進んだ距離。
「午後の記録は、ルミナリア側で正式に整理します」
セシリアが言った。
「後日、カルミア魔法学園にも写しを送ります」
「ありがとうございます」
レイナが答える。
セシリアは、少しだけ視線を柔らかくした。
「あなたの一度目は、美しくはありませんでした」
見学席が少しざわつく。
でも、レイナは動かなかった。
セシリアも続ける。
「ですが、礼を欠いてはいませんでした」
レイナの指が、水筒を握る。
「それを、ルミナリアの記録として残します」
「……はい」
レイナの声は小さかった。
でも、崩れていない。
美しくはない。
礼を欠いてはいない。
その間に、自分の一度目を置く。
レイナは、たぶん今日、それを覚えた。
夕方、検証会のあと。
俺たちは、ルミナリアの宿舎へ戻る廊下を歩いていた。
ロイはまだ小さな音の練習をしている。
「ちん」
「廊下で鳴らすな」
ネルが言う。
「小さいです」
「小さくても鳴らすな」
「でも、ちょうどいいを忘れそうで」
「忘れたらまた鳴ればいいでしょ」
「それもそうですね」
ロイは納得した。
単純で助かる。
コレットは帳面を抱えて歩いている。
いつものように未来の負け筋を見ている顔ではない。
今日見たものを、こぼさないように抱えている顔だ。
「コレット」
俺が呼ぶと、コレットは顔を上げた。
「今日の、負け筋にする?」
コレットは、少し考えた。
「する」
正直な答えだった。
「レイナの失敗宣言は、相手に読まれたら狙われる。ロイの音も、妨害されたら崩れる。アルフの基準移行も、線を潰されたら危ない。全部、負け筋」
「だよな」
「でも、その前に」
コレットは帳面を軽く叩いた。
「成長として書いた」
レイナが、前を向いたまま言う。
「ありがとうございます」
コレットは、少しだけ得意そうに頷いた。
「順番、大事」
「はい」
順番。
人を先に見る。
それから、負け筋に使う。
たったそれだけの順番を変えるのに、俺たちはずいぶん遠回りしている。
でも、たぶん遠回りしなければ分からなかった。
失敗の置き場所も。
未練の持ち方も。
小さく鳴る音も。
宿舎の入口に着く前、レイナが一度だけ振り返った。
礼式演習庭は、もう見えない。
白旗アウレリアも見えない。
でも、彼女はそこに何かを見ているようだった。
「ルミナリアに来たかった私は、まだいます」
誰に言うでもなく、レイナが呟いた。
「カルミアで勝った私も、います」
ネルが、少しだけ歩幅を緩める。
ロイも、音を止める。
「一度目を失敗する私も、います」
レイナは前を向いた。
「全部いるなら、忙しいですね」
俺は言った。
レイナが、少し笑う。
「はい」
その笑みは、まだ晴れやかとは言えない。
でも、隠れてはいなかった。
「忙しいです」
失敗を宣言した日。
白旗が、失敗を前提として通った日。
ロイの小さな音が、合図になった日。
観客が、嘲る代わりに待つことを覚え始めた日。
レイナ・オルコットは、救われたわけではない。
過去を消したわけでもない。
未練を捨てたわけでもない。
ただ、一度目を隠さずに置いた。
そして、二度目へ進んだ。
それは、勝利より小さくて。
でも、勝利と同じくらい、記録に残すべきことだった。




