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第66話 白旗は失敗のそばに降りる

 合同検証会、と聞いていた。


 だから俺は、机があって、書類があって、先生たちが頷き合って、時々こっちに厳しい質問が飛んでくるような場面を想像していた。


 半分は当たっていた。


 机はあった。


 書類もあった。


 先生たちは頷き合っていた。


 厳しい質問も飛んできた。


 ただし、会場の中央に白旗アウレリアがいるとは聞いていない。


 ルミナリア貴族魔法学院の礼式演習庭は、朝の光を受けて、昨日よりも少しだけ眩しかった。


 白い石畳。青い花壇。金の縁取りをした椅子。


 いつ見ても、生活する場所というより、誰かに見られるために整えられた絵の中みたいだ。


 その中央に、昨日俺の手元へ滞在した白旗がいた。


 旗というより、羽を畳んだ白い鳥。


 石畳に直接立つことはなく、ほんの少し浮いている。布の端が風もないのに揺れ、そのたびに光が細く散った。


 俺たちは、庭の端に並べられた席へ案内された。


 カルミア側は、俺、コレット、ネル、レイナ、ロイ、ガレス、ノル、ミラ、リリィ、クララ、アルフ、ジャック。


 全員いる。


 座った瞬間に、椅子の背もたれが俺の姿勢を正そうとしてきた。


「この椅子、性格が悪い」


 小声で言うと、隣のロイが背筋を伸ばしたまま囁いた。


「俺は負けています」


「椅子にか」


「椅子にです」


 ロイの声は小さかった。


 ちゃんと小さい。


 それだけで、少し笑いそうになった。


「小さく鳴れるようになったじゃん」


 ネルが前を向いたまま言う。


 ロイはぱっと顔を明るくした。


「今の褒めました?」


「椅子に負けてる声だったって言った」


「褒めではないですね」


「でも、小さかった」


 それだけ言って、ネルは口を閉じた。


 ロイは、少しだけ胸元の札に触れた。


 レイナはそのやり取りを聞いていたらしい。


 笑わなかった。


 でも、表情が昨日までより固くない。


 今朝、ネルとレイナは同じ皿の上のパンを取った。


 それは和解ではない。


 仲良しになったわけでもない。


 でも、同じ皿を挟める距離にはなった。


 その距離を、俺はまだ名前で呼ばないことにしている。


 名前をつけると、だいたい現実より綺麗になってしまうから。


「本日は、昨日の公式戦における白旗アウレリアの行動変化について、双方で検証を行います」


 マリエル先生が静かに告げた。


 相変わらず、声まで姿勢がいい。


「勝敗記録はすでに確定しています。カルミア魔法学園、第七魔法競技部、一対零。白旗アウレリアの滞在判定に基づく旗保持成立。ここでは結果の変更ではなく、礼式旗としての反応理由と、今後の競技記録上の扱いを確認します」


 勝敗記録は確定している。


 その言葉を聞いた瞬間、レイナの指が膝の上で少し動いた。


 喜びではない。


 たぶん、確認だ。


 本当に勝ったのか。


 本当に、あの勝ちが記録に残るのか。


 俺は横目で見るだけにした。


 こういう時、何か言いたくなる。


 勝っただろ、とか。


 よかったな、とか。


 でも、それはレイナの置き場所に勝手に手を伸ばすのと同じだ。


 持つ場所を間違えるな。


 昨日から、俺の頭の中にもガレスの声みたいなものが住み始めている。


「まず、昨日の終盤行動を再現します」


 マリエル先生が手を上げると、庭の石畳に淡い線が走った。


 青い線。


 金の点。


 昨日の試合終盤、俺たちが白旗を追った経路が、石畳の上に浮かび上がる。


 アルフの戻り線。


 ミラが低く運んだ位置。


 リリィの予定外が通った隙間。


 ロイの小さな音が揺らした反応点。


 ガレスが壊さずに直した余白。


 ネルの一瞬が、空気だけを曲げた線。


 そして、レイナの一度目の失敗が置かれた場所。


 そこだけ、白い円がいくつも重なっていた。


 失敗の円。


 昨日、レイナが自分で置いたものだ。


 消えるために置いたわけではない。


 隠すためでもない。


 白旗に見せるため。


 ルミナリアの礼式に、カルミアの不揃いな礼を置くため。


 その円は、再現線の中で一番静かだった。


 だからこそ、目立った。


 ユリウス・ラングレーが、少し離れた席に座っている。


 昨日、レイナに「失敗を見世物にした」と言った生徒だ。


 今日は背筋を伸ばし、膝の上に記録板を置いている。


 顔に敵意はない。


 でも、簡単に分かり合えた顔でもない。


 彼もたぶん、自分の礼の置き場所を探している。


「白旗アウレリアは、昨日、この失敗円を忌避しませんでした」


 マリエル先生が言う。


「むしろ、終盤において、ここからの距離を半分に縮めています」


 白旗が、少しだけ羽を動かした。


 布の端が、淡い円の方へ揺れる。


 レイナの喉が小さく動いた。


「距離を半分にした理由については、礼式旗の反応記録上、非常に珍しい事例です」


「珍しい?」


 クララが思わず身を乗り出す。


 その目は完全に研究者だった。


 マリエル先生は視線だけで制した。


 クララは、はっとして椅子に戻る。


「すみません。見すぎました」


 白旗が、クララの方を見た。


 いや、旗に顔はない。


 でも、見た。


 白い布の向きが、ほんの少しだけクララへ傾く。


 クララは息を飲み、それから両手を膝の上に置いた。


「距離を取ります。記録は、許可が出てから」


 白旗はそれで満足したように、また中央へ向いた。


 ルミナリア側の生徒たちが、ざわめいた。


 俺たちからすると、クララが白旗に見られるのは少し面白い。


 でも、ルミナリアからすると、礼式旗が他校の欠陥持ちの態度に反応すること自体が大事件なのだろう。


「白旗は、失敗を嫌う旗ではありません」


 セシリア・グレイスが発言した。


 昨日の案内役で、試合では敵だった人。


 今日も姿勢が美しい。


 美しすぎて、逆に疲れないのか心配になる。


「白旗が嫌うのは、失敗を失敗ではないものに塗り替えることです。あるいは、失敗を他者に押しつけ、本人の礼として扱わないことです」


「昨日のレイナ先輩は、逆だった」


 ロイが小さく言った。


 小さかった。


 でも、会場が静かだったので、ちゃんと聞こえた。


 ロイは自分の口を押さえる。


「すみません」


 マリエル先生は、少しだけ目を細めた。


「続けても構いません。今の音量なら、発言として扱えます」


 ロイの顔が、勝利した人間のそれになった。


 椅子にはまだ負けているが、声では勝っている。


「昨日のレイナ先輩は、自分の一度目を、自分で置きました。たぶん、誰かに見せるためじゃなくて、白旗に隠さないために」


 レイナが、少しだけロイを見た。


 驚いたような、困ったような顔。


「……ロイ」


「はい」


「今のは、少し綺麗に言いすぎです」


「え」


「私は、白旗に隠さないためだけに置いたわけではありません。勝つために置きました。自分の失敗を、勝ち筋に使いました」


 会場が、わずかに固くなった。


 ルミナリアの生徒たちにとって、その言い方は乱暴に聞こえたのかもしれない。


 失敗を勝ち筋に使う。


 綺麗な庭に置くには、少し土の匂いが強い言葉だ。


 でも、レイナは言い直さなかった。


「ただ」


 レイナは、膝の上で指を揃える。


 いつもの礼式の手。


 でも、その手は少し震えていた。


「勝つために使ったからといって、失敗が私のものではなくなるわけではありませんでした」


 白旗の布が、ふわりと浮いた。


 風はない。


 でも、庭の空気が少しだけ動いた気がした。


 マリエル先生が記録官へ視線を送る。


 記録官が筆を走らせる。


 コレットも、膝の上の帳面に手を置いていた。


 しかし、まだ書かない。


 今朝決めた通りだ。


 人を先に見る。


 それから、負け筋に使う。


 コレットの指が、帳面の角を押さえている。


 書きたいのを我慢しているのが分かる。


 たぶん、かなり偉い。


 俺なら、甘いものを前にして「後で」と言われた時点で少し負ける。


「レイナ・オルコット」


 マリエル先生が名を呼んだ。


「白旗アウレリアへの接近検証を行います。あなたが昨日置いた失敗円へ立つ必要はありません。ただし、白旗がどの距離まで近づくかを確認します」


「はい」


 レイナが立ち上がる。


 背筋は伸びていた。


 けれど、昨日の試合前のように、自分を石像にするための姿勢ではない。


 椅子から離れ、庭の中央へ向かう。


 白い円が浮かぶ場所の一歩手前で、レイナは止まった。


 昨日と同じ。


 円の上には立たない。


 円の前に立つ。


 俺は、思わず息を止めていた。


 ネルも同じだった。


 口は悪いくせに、こういう時のネルはひどく静かになる。


 ガレスは、膝の上で手を組んでいる。


 何かを直す時の手つきだった。


 白旗アウレリアが、ゆっくりと動いた。


 ひらり。


 羽を広げるように。


 でも、近づかない。


 まず、レイナの周囲を一周した。


 円の外側。


 失敗には触れない。


 レイナにも触れない。


 距離を測る。


 礼式の旗らしい。


 いきなり抱きしめたり、慰めたりしない。


 そんなことをしたら、レイナはたぶん怒る。


 俺も少し怒る。


 白旗は、レイナの正面で止まった。


 布の端が、白い円の方へ傾く。


 レイナの視線も、円へ落ちる。


「そこには」


 レイナが言った。


 声は小さい。


 でも、礼式庭にきちんと届いた。


「まだ立てません」


 誰も、返事をしない。


 白旗も動かない。


 レイナは続けた。


「昨日、私は勝ちました。第七魔法競技部は勝ちました。公式記録にも残ります」


 その声には、誇りがあった。


 完全ではない。


 震えている。


 でも、逃げてはいない。


「でも、それだけで、私がルミナリアに来られなかったことが消えるわけではありません。白い招待状を机の奥にしまった日のことも、カルミアを仮の場所だと思っていたことも、すぐには消えません」


 ユリウスの筆が止まった。


 セシリアの目が、わずかに伏せられる。


 レイナは、ルミナリアの庭で、ルミナリアに来られなかった話をしている。


 それはたぶん、かなり危うい。


 この庭は、選ばれた人間が立つために整えられている。


 そこに、選ばれなかった自分の話を置くのは、礼に反することなのかもしれない。


 でも、白旗アウレリアは逃げなかった。


 むしろ、少し近づいた。


 昨日より、さらに半歩。


 レイナの指が震える。


「……怖くないのですか」


 白旗に向けて、レイナが問う。


「これは、綺麗なものではありません。礼式に整えた失敗ではありません。勝つために置いたもので、見せたくなかったもので、今もまだ、私がどう扱えばいいのか分からないものです」


 白旗の布が揺れた。


 言葉はない。


 旗は喋らない。


 少なくとも、起きている俺には。


 ノルなら夢の中で会話できるのかもしれないが、今のノルは珍しく起きていた。


 半分だけ。


「白旗は」


 ノルが、眠そうに言う。


 会場中の視線が向いた。


 ノルは目をこすりながら、白旗を見ている。


「怖いものに近づいてるんじゃなくて、置かれてるものに近づいてる、みたい」


 マリエル先生が、わずかに眉を上げた。


「フェインさん。あなたは今、夢を見ていますか」


「起きてます」


「確かですか」


「半分」


「半分」


 マリエル先生は、その言葉をどう扱うべきか一瞬迷った顔をした。


 ルミナリアの礼式にも、半分起きている証言の扱いはないらしい。


 でも、ノルは続けた。


「怖いものだったら、逃げる。でも、置かれてるものなら、礼をして近づける。白旗は、たぶん、そこを見てる」


 白旗が、ノルの方へ少し布を傾けた。


 それは、肯定に見えた。


 少なくとも俺には。


 ルミナリアの記録官たちが、また筆を走らせる。


 クララが震えている。


 見たいのだ。


 ものすごく見たいのだ。


 しかし、見すぎないと決めたので、手を膝に置いて耐えている。


 その横でリリィが、小さな石を指先で転がしていた。


「置く場所、大事」


 リリィがぽつりと言う。


「迷子一号も、落ちたら迷子。でも、置いたら、待てる」


 石が、リリィの指の上でこつんと止まる。


 白旗は、今度はリリィの方へ布を揺らした。


 予定外にも場所を与える礼。


 昨日、白旗が見たものの一つだ。


 カルミアの言葉は、綺麗ではない。


 整理されていない。


 でも、白旗には届いている。


 たぶん、俺たちが思っているよりずっと。


 レイナは、白旗を見つめたまま、ゆっくり息を吸った。


「私は、勝ちました」


 もう一度、そう言った。


 今度は、さっきより少しだけ低い声だった。


「そして、まだ未練があります」


 白旗が、また近づく。


 レイナの足元、白い円の外側。


 円には入らない。


 レイナにも触れない。


 でも、逃げない。


 失敗のそばに、白旗が降りる。


 ふわりと、布の端が石畳に触れた。


 会場の空気が止まった。


 昨日、俺の手に滞在した時とは違う。


 今回は、捕まえるための接触ではない。


 保持でもない。


 選択でもない。


 そばにいるだけ。


 白旗アウレリアが、レイナの失敗の円の外側に降りた。


 恐れずに。


 遠ざけずに。


 踏み荒らさずに。


「……近い」


 レイナが呟いた。


 それは、拒絶ではなかった。


 驚きだった。


 白旗は動かない。


 レイナも動かない。


 白い円を挟んで、二つの白が向かい合っている。


 片方は、ルミナリアの礼式旗。


 片方は、ルミナリアに来られなかった少女の失敗。


 その間に、レイナが立っている。


 勝った人間として。


 まだ未練を持った人間として。


「レイナ」


 ネルが、席から小さく声をかけた。


 レイナは振り返らない。


「そこ、畳まなくていいと思う」


 短い言葉だった。


 不器用で、少し乱暴で、説明が足りない。


 でも、昨日の二人にだけ通じる言葉だった。


 礼で畳む場所じゃない。


 未練を綺麗に折ってしまう場所じゃない。


 レイナの肩から、少しだけ力が抜けた。


「……そうですね」


 レイナは、白旗の前で膝を折らなかった。


 謝らなかった。


 頭も下げなかった。


 ただ、白い円の一歩手前に立ったまま、言った。


「私は、勝ちました。まだ未練があります。どちらも、私のものです」


 白旗の布が、ふわりと持ち上がる。


 まるで、礼を返すように。


 マリエル先生が、静かに息を吐いた。


「記録します」


 その声で、会場の時間が戻った。


 筆が走る。


 記録板が鳴る。


 ルミナリアの生徒たちが互いに目を合わせる。


 ユリウスは、しばらく筆を握ったまま動かなかった。


 やがて彼は、記録板の端に一行を書いた。


 俺の席からは読めない。


 でも、彼の顔は昨日より苦かった。


 苦いということは、たぶん少し考えている。


 悪くない。


「コレット」


 レイナが、振り返らずに言った。


 コレットの指がぴくりと動く。


「はい」


「今のは、書いてください」


 コレットは、すぐには書かなかった。


 少しだけ間を置いた。


 許可を受け取って、それから、確認するように言う。


「成長として、先に書く」


「はい」


「負け筋に使うのは、そのあと」


「……はい」


 レイナの声に、少し笑いが混じった。


「それでお願いします」


 コレットが、帳面を開いた。


 書き始める。


 いつもの速さではない。


 少しだけ、丁寧に。


「白旗アウレリア。レイナ・オルコットの失敗円外縁に着地。忌避反応なし。接触要求なし。慰撫反応なし。観測者による上書き禁止」


 そこまで書いて、コレットは一度止まった。


「レイナ・オルコット、勝利と未練を同時保持」


 レイナが目を伏せた。


 白旗は、まだ失敗のそばにいる。


 その光景を見て、俺はようやく息を吐いた。


「同時保持か」


 アルフが小さく言う。


「旗保持の用語みたいだな」


「便利な言葉ではあります」


 クララが耐えきれずに言った。


「心理状態と競技判定を重ねて記録できます。あ、でも、本人の許可が」


「クララ」


 レイナが呼ぶ。


「はいっ」


「今のは、あとで私に見せてからなら、理論化して構いません」


 クララの目が輝いた。


「本当ですか」


「ただし、私を標本にしないこと」


「はい。標本にしません。症例にも、異常例にも、欠陥例にも」


「長いです」


「すみません」


 白旗が、少しだけ揺れた。


 笑ったように見えた。


 旗が笑うかどうかは知らない。


 でも、白旗アウレリアは、たぶん今のやり取りを嫌っていない。


「質問があります」


 ユリウスが手を上げた。


 会場の視線が彼へ集まる。


 レイナの肩がほんの少し固くなる。


 ネルも、すぐに反応した。


 噛みつく準備をしている顔だ。


 俺はネルの袖を軽く引いた。


 ネルが睨む。


「まだ何もしてない」


「だから今のうちに」


「うざ」


 小声で言って、ネルは前を向いた。


 ユリウスは立ち上がり、レイナへ向かって礼をした。


「昨日、私はあなたの行為を、失敗を見世物にしたものだと表現しました」


 庭が静かになる。


「撤回します」


 その一言は、綺麗だった。


 でも、ユリウスはそこで終わらなかった。


「ただ、理解できたとは言いません。私には、まだ、失敗を勝利に使うことと、失敗を自分のものとして扱うことの違いが完全には分かりません」


 ネルが少しだけ眉を上げた。


 俺も意外だった。


 分かったふりをしない。


 それは、昨日の彼よりずっとましな礼だった。


「ですから、質問します。あなたは、白旗が近づいたことで、救われましたか」


 レイナは、白旗を見た。


 白旗は動かない。


 失敗のそばにいる。


 レイナは、ゆっくり首を横に振った。


「いいえ」


 はっきりした声だった。


「救われてはいません」


 ルミナリア側に、わずかな動揺が走る。


 白旗が近づいたのに。


 礼式旗が認めたのに。


 それでも救われていない。


 この答えは、たぶん彼らの記録には収まりにくい。


「でも、逃げなくてもよくなりました」


 レイナは続けた。


「私の失敗から。私の未練から。私がカルミアに来た理由から。逃げなくてもいい距離に、少しだけなりました」


 ユリウスは、深く頷いた。


「ありがとうございます」


「こちらこそ」


 レイナは、ほんの少しだけ礼を返す。


 昨日より、自然だった。


 礼式で自分を隠すためではなく、自分のまま相手を見るための礼。


 セシリアが、静かに口を開いた。


「白旗アウレリアは、あなたを恐れていません」


 レイナは、彼女を見る。


「ですが、あなたの失敗を飾ってもいません」


「はい」


「それを、ルミナリア側の記録にも残します」


 セシリアの声に、会場の空気が変わった。


 それは単なる検証結果ではない。


 ルミナリアが、自分たちの白旗の記録として、カルミアのレイナを残すということだ。


 レイナが、白い招待状をしまった過去を消さないまま。


 カルミアで勝った現在も消さないまま。


 ルミナリアの記録に、敗北ではなく、検証対象として残る。


「……お願いします」


 レイナの声は、少し掠れていた。


 白旗が、そこでようやく動いた。


 ふわりと浮き上がる。


 失敗円から離れる。


 レイナの前を通り、ほんの一瞬だけ、その布の端を彼女の袖の近くへ寄せた。


 触れたかどうかは分からない。


 でも、レイナは逃げなかった。


 手を伸ばしもしなかった。


 ただ、そこにいた。


 勝った人間として。


 未練のある人間として。


 カルミアの第七魔法競技部の一員として。


「保持じゃないな」


 ジャックがぼそりと言った。


 珍しく、声に棘がない。


「保持じゃない」


 俺は頷く。


「じゃあ何だよ」


「滞在でもない」


 アルフが言う。


 ロイが首を傾げる。


「じゃあ、何ですか」


 ガレスが、しばらく考えてから言った。


「見舞い」


 全員がガレスを見た。


 ガレスは表情を変えない。


「壊れた皿を、すぐ直せない時がある。欠けが大きいと、触るだけで広がる。そういう時は、周りを片づけて、水を置く」


 ミラが、静かに頷いた。


「山でも、足を挫いた人をすぐ立たせない。そばに荷物を置かない。道だけ作る」


 白旗が、二人の方へ少し揺れた。


 水。


 道。


 見舞い。


 ルミナリアの礼式辞典に載っているかどうかは知らない。


 でも、今日の白旗には、その方が近い気がした。


「記録名としては」


 クララが慎重に手を上げる。


「失敗円への非接触接近、および本人状態の同時保持確認……でしょうか」


「長い」


 ネルが言う。


「長いですね」


 レイナも言う。


 クララが肩を落とした。


「でも、短くすると雑になります」


「それはそう」


 俺が言うと、クララは少し元気になった。


「では長くします」


「元気になる方向が独特だな」


 合同検証会は、その後も続いた。


 昨日の白旗の反応点。


 礼式評価の加点理由。


 カルミア側の不揃いな礼が、なぜ白旗に拒否されなかったのか。


 ルミナリア側の整った経路が、なぜ最後に滞在を逃したのか。


 勝敗は変わらない。


 でも、勝敗の意味は、検証によって少しずつ形を変えていく。


 俺たちは勝った。


 その勝ちは、単に一勝として残るだけではなく、ルミナリアの白旗の解釈を少しだけ変えた。


 そして、レイナの中の未練も、消えないまま形を変え始めた。


 昼前、検証会が一区切りついた時、レイナは庭の端に立っていた。


 白旗はもう中央の止まり木へ戻っている。


 失敗円も消えた。


 石畳は、また綺麗な白に戻っている。


 でも、俺にはまだ、そこに円が見える気がした。


 レイナにも、たぶん見えている。


「ルカ」


 呼ばれて、俺は横に立つ。


「何」


「昨日、私は勝ったのに喜べないと言いました」


「うん」


「今日も、まだ、素直には喜べません」


「うん」


 レイナは、白旗の止まり木を見ていた。


「でも、勝ったことを、未練への裏切りだとは思わなくなりました」


 俺は、すぐには返事をしなかった。


 その言葉は、かなり大事なものに聞こえた。


 軽く頷くには重い。


 大げさに褒めるには、まだ脆い。


「それは」


 俺は言葉を選ぶ。


「たぶん、かなり前進だ」


「控えめですね」


「大きく言うと怒られそうだった」


「怒ります」


「正解だった」


 レイナが、少し笑った。


 ほんの少し。


 でも、今日はそれで十分だった。


「コレットさんには、今日のことを書いてもらいます」


「うん」


「クララさんにも、確認してから理論化してもらいます」


「うん」


「ネルには」


 そこでレイナは、少しだけ言葉に詰まった。


 少し離れた場所で、ネルはリリィと一緒に迷子一号を転がしている。


 遊んでいるようにも見えるし、魔法の軌道確認をしているようにも見える。


 たぶん両方だ。


「また、言ってもらいます」


「何を」


「畳まなくていい場所を」


 レイナは、自分の袖口を見た。


 白旗が近づいたあたり。


「私は、まだ礼で隠そうとします。勝ちも、未練も、失敗も。綺麗に畳んでしまえば、誰にも迷惑をかけないと思ってしまう」


「それ、ルミナリア式?」


「オルコット式かもしれません」


「そっちの方が厄介そうだ」


「はい」


 レイナは素直に認めた。


「厄介です」


 少し前なら、こういう言葉も綺麗に包んでいただろう。


 私はそうではありません、とか。


 礼を欠くつもりはありません、とか。


 でも今のレイナは、自分を厄介だと言った。


 それは自虐ではなく、把握に近かった。


 自分の扱いづらさを、ようやく自分の荷物として持ち始めた感じがする。


「ルカ」


「うん」


「私は、カルミアを誇りたいです」


 その言葉に、胸の奥が少し熱くなった。


 でも、レイナは続けた。


「ただ、まだ、ルミナリアに来たかった私を置いていくことはできません」


「置いていかなくていいんじゃないか」


「簡単に言いますね」


「俺も、自分の記憶を置いていくの、簡単じゃないから」


 言ってから、少しだけしまったと思った。


 重くするつもりはなかった。


 でも、レイナは俺を見た。


 責める顔ではない。


「そうでした」


「まあ、俺の場合は勝手に落としていくんだけど」


「だからこそ、拾えるものは拾ってください」


「拾う係、多くない?」


「第七部ですから」


 レイナが、少しだけ胸を張った。


 まだ「第七部のレイナ」と名乗ったわけではない。


 それは、もう少し先の話だ。


 でも、その言い方は、以前よりずっと近かった。


 カルミアを外から眺める言い方ではない。


 内側から、少し照れながら言った言葉だった。


「レイナ」


 ネルが呼んだ。


 迷子一号を手にしたまま、こちらへ歩いてくる。


「合同検証、午後もあるって」


「はい」


「あと、あの白い旗、さっきこっち見てた」


「白旗アウレリアです」


「名前長い」


「正式名称です」


「じゃあ白いの」


「怒られますよ」


 ネルは白旗の方を見た。


 白旗は止まり木で、まったく動かない。


「怒ってない」


「分かるのですか」


「分かんない。でも、今は怒ってない気がする」


 レイナは、少し考えてから頷いた。


「私も、そう思います」


 二人が同じ方向を見る。


 白旗。


 白い庭。


 消えた失敗円。


 そこには、まだ何も解決していないものがいくつも残っている。


 レイナの未練。


 ネルの偏見。


 ルミナリアの礼式。


 カルミアの不揃いさ。


 俺の記憶。


 それでも、白旗は今日、失敗のそばに降りた。


 恐れずに。


 飾らずに。


 救わずに。


 ただ、逃げなくてもいい距離を示すように。


「午後は、練習試合形式の確認を行います」


 マリエル先生の声が庭に響いた。


「レイナ・オルコット。あなたには、昨日の失敗円設置を、より簡略化した形で再現してもらいます」


 レイナの肩が固くなった。


 ネルが横を見る。


 コレットが帳面を閉じる。


 ロイが胸元の札を握る。


 ガレスが水筒を確認する。


 アルフが線を引く手つきをする。


 白旗が、止まり木の上で羽を少し広げた。


 次は、検証ではない。


 練習試合。


 観察されるだけでは済まない。


 動きの中で、レイナが自分の一度目をどう扱うか。


 それを、みんなが見る。


 レイナは、ほんの少しだけ息を吸った。


 そして、俺たちの方を見た。


「一度目を、置きます」


 その声は震えていた。


 でも、昨日までのように隠れてはいなかった。


 俺は頷く。


 ネルも頷く。


 コレットは、まだ書かない。


 ガレスは水を置く。


 ロイは小さく鳴る準備をする。


 白旗アウレリアは、失敗のそばに降りる旗だ。


 なら、俺たちは。


 失敗のそばで、逃げない部でいればいい。


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