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第65話 謝り方が分からない手

 翌朝、ネルは早かった。


 珍しい。


 少なくとも、俺の知っているネル・アーレンは、朝に強いというより、朝から怒る元気がある人間だった。


 早起きとは少し違う。


 だがその朝、彼女は宿泊棟の共同室に一番乗りしていた。


 白い窓辺の席。


 昨日、レイナが立っていたあたり。


 そこに座って、両手でカップを包んでいる。


 カップの中身は、たぶん水だ。


 湯気がない。


 彼女は水を飲んでいなかった。


 ただ、持っていた。


 ガレス式だ。


 水は大事。


 ただし、持っているだけで何かが解決するとは限らない。


「早いな」


 俺が声をかけると、ネルは顔を上げた。


 眠そうではない。


 むしろ、少し寝ていない顔だった。


「うるさい」


「まだ何も言ってない」


「早いなって言った」


「それは言った」


「うるさい」


 朝から通常運転。


 ただし、声にいつもの鋭さが少し足りない。


 俺は共同室の入り口で止まった。


 口を閉じる。


 一拍。


 水差しはない。


 でも、カップはネルが持っている。


 椅子はある。


 座る場所を空ける。


 俺はネルの向かいではなく、斜めの椅子を少し引いた。


 ネルが眉をひそめる。


「何」


「ガレス式」


「説明になってない」


「座る場所」


「あんたが?」


「いや、誰かが」


「誰かって誰」


「たぶん、レイナ」


 ネルの指がカップの縁で止まった。


 分かりやすい。


 顔どころか、手でも分かる。


「……別に、呼んでない」


「呼びたいのか」


「違う」


「謝りたい?」


「違う」


 早い。


 否定が早すぎる。


 つまり、たぶん近い。


 俺は椅子に座らなかった。


 立ったまま、窓の外を見る。


 白い庭園は朝の光で薄く光っている。


 鳥像の上の白旗は、ここからは見えない。


 でも、あそこにいるのだろう。


 昨日、レイナが円の跡の手前に立った庭。


 白旗が距離を半分にした場所。


「謝りたいなら、謝ればいいんじゃないか」


 俺は言った。


 言ってから、失敗した気がした。


 雑。


 かなり雑。


 ネルはすぐに睨んだ。


「それができたら、こんな朝早く水持って座ってないでしょ」


「その通りだな」


「何で先に分かんないの」


「朝だから」


「関係ない」


 ネルはカップを置いた。


 中の水が少し揺れる。


「何を謝ればいいのか分かんない」


 それは、かなり正直な言葉だった。


 ネルらしくないと言えば、らしくない。


 でも、ネルらしいと言えば、すごくネルらしい。


 分からないことを、分からないまま乱暴に出す。


「何を謝りたいんだ」


 俺は聞いた。


 ネルは少し黙った。


 窓の外を見る。


 白い庭園ではなく、たぶん自分の中のどこかを。


「最初、あいつのこと嫌いだった」


「レイナ?」


「他に誰がいるの」


「確認」


「嫌いだったっていうか、むかついた。歩き方まで綺麗で、言葉も綺麗で、手も綺麗で、なのにカルミアにいるのがむかついた」


 彼女は一息で言った。


「ここにいたくないって顔してたから」


 俺は黙った。


 それは、たぶん事実だった。


 最初のレイナは、カルミアを仮の場所にしていた。


 部室も、部員も、自分の一度目さえも。


 それをネルは見ていた。


 見えていたから、腹を立てた。


「でも、あたしも、あいつをそう見てた」


 ネルは言った。


「貴族。綺麗。こっち側じゃない。あたしを下に見るやつ。そういう棚に入れてた」


 棚。


 最近、俺たちは人を棚に入れる話ばかりしている。


 白旗のせいだ。


 いや、白旗が見せたのかもしれない。


「それを謝りたい?」


「たぶん」


「たぶん」


「でも、あいつも本当にむかつくところある」


「あるな」


「そこで同意する?」


「正直に」


 ネルは少しだけ笑いそうになり、すぐに顔を戻した。


「だから、全部ごめんって言うのは違う」


「うん」


「あたしが怒ったのも、全部間違いじゃない」


「うん」


「でも、あいつの未練とか、勝ちの置き場所とか、そういうのを知らないで、勝手に『貴族だから』って怒ってた部分はある」


「うん」


「うんしか言わないの?」


「今は周りを持ってる」


「便利に使ってない?」


「少し」


 ネルは今度こそ少し笑った。


 だが、すぐにカップへ視線を戻す。


「謝るって、何」


 彼女は言った。


「悪かったって言えばいいの?」


「場合による」


「謝罪の専門家みたいな顔しないで。あんたも下手」


「自覚はある」


「そうだった」


 俺は少し傷ついた。


 事実なので仕方ない。


「ガレスなら何て言うかな」


 俺が言うと、ネルは考えた。


「水」


「たぶん」


「皿」


「あり得る」


「持つ場所」


「かなりあり得る」


 ネルは自分の手を見た。


 平民の手。


 実用的と言われた手。


 白旗の軌道を曲げた手。


 触らなかった手。


「あたし、たぶん、謝る場所を間違える」


「場所?」


「変なところを持つと、皿が割れるってガレスが言ってた」


「言ってたな」


「謝罪も、変なところ持つと割れるんでしょ」


 それは、たぶん正しい。


 謝罪は、悪かったと言えばいいものではない。


 相手の痛い場所を直接掴むこともある。


 自分が楽になるために謝ることもある。


 話を終わらせるための謝罪もある。


 レイナはそういうものに敏感だ。


 礼の中に痛みを畳んできた人だから。


「なら、最初に聞けばいい」


 俺は言った。


「何を」


「どこを持っていいか」


 ネルは眉をひそめた。


「謝る前に?」


「謝る前に」


「変じゃない?」


「変だけど、カルミアっぽい」


「それ、褒めてる?」


「たぶん」


 ネルはしばらく考えた。


 カップを持ち上げ、水を一口飲む。


 ようやく飲んだ。


「……聞く」


 彼女は言った。


「何て」


「知らない」


「そこからか」


「そこから」


 そこで扉が開いた。


 レイナが入ってきた。


 白い朝の光を背に、いつものように背筋を伸ばしている。


 昨日、自分の未練を消さずに眠った人の顔だった。


 少し疲れている。


 少し軽い。


 どちらもある。


「おはようございます」


「おはよう」


 俺が答える。


 ネルはカップを持ったまま固まっていた。


 さっきまで散々考えていた人が、本人を前にすると固まる。


 人間は難しい。


「ネル」


 レイナが呼んだ。


「……何」


「早いですね」


「あんたも」


「私は、眠れたので」


 その返事に、ネルの目が少し動く。


「眠れたの」


「はい」


「未練持ったまま?」


「はい」


「重くなかった?」


「重かったです」


「なのに眠れたんだ」


「はい」


 レイナは少し笑った。


「落とさずに済みました」


 ネルは黙った。


 俺は、さっき引いた斜めの椅子を見た。


 レイナもそれを見る。


「これは」


「座る場所」


 俺が答える。


「ガレス式ですか」


「そう」


「では、座ります」


 レイナはその椅子へ座った。


 ネルの向かいではない。


 斜め。


 見えるが、ぶつからない距離。


 ネルはカップを見た。


 それから、レイナを見た。


「あのさ」


「はい」


「謝りたい、かもしれない」


 レイナは静かに瞬きをした。


「かもしれない」


「そこ拾わないで」


「大事なところかと」


「大事だけど、拾うと逃げたくなる」


「では、置いておきます」


 レイナはそう言った。


 ネルの「かもしれない」を、拾わず、踏まず、そこに置いた。


 白旗の距離みたいだと思った。


 ネルは息を吐いた。


「何を謝ればいいのか分かんない」


「はい」


「あんたのこと、最初から貴族って棚に入れてた」


「はい」


「綺麗でむかつくやつ。こっちを下に見てるやつ。カルミアを仮の場所にしてるやつ」


「かなり当たっています」


 レイナが言った。


 ネルが固まる。


「そこ認めるの?」


「最初の私は、かなりそうでした」


「謝りにくくなるんだけど」


「申し訳ありません」


「先に謝らないで」


「はい」


 二人の会話は、謝罪というより、何か壊れやすいものの持ち方を確認しているようだった。


 俺はなるべく動かなかった。


 水を出す必要は、まだない。


 椅子はある。


 カップもある。


「でも」


 ネルは続けた。


「あんたが、ルミナリアに来たかったこととか、カルミアに来るしかなかったこととか、勝っても未練が消えなかったこととか、知らないで怒ってた」


「はい」


「それは、悪かった」


 出た。


 言葉は短い。


 形は整っていない。


 角度もない。


 でも、出た。


 ネルの謝罪。


 レイナはすぐには答えなかった。


 沈黙。


 ネルの指がカップを強く握りそうになる。


 俺は少しだけ手を動かしかけて、止めた。


 本人の場所。


 レイナはゆっくり言った。


「受け取ります」


 ネルの肩が少し下がる。


 ほっとした、のだろう。


 だがレイナは続けた。


「ただし、全部ではありません」


 ネルが顔を上げる。


「全部じゃない?」


「はい」


「どこ」


「私を『カルミアを仮の場所にしている人』と見たことは、完全には間違っていません」


 レイナの声は静かだった。


「そこまで謝られると、私の過去がなかったことになります」


 ネルは息を止めた。


 謝罪の持つ場所。


 危ないところ。


 レイナはそれを自分で示した。


「謝っていただくなら」


 レイナは少し考えた。


「私が変わろうとしている途中まで、同じ棚に戻そうとしたこと」


 ネルは眉を寄せる。


「変わろうとしてる途中」


「はい」


「あたし、そこもやった?」


「やりました」


「いつ」


「何度か」


 レイナは少しだけ微笑む。


「特に、私が一度目を使うと決めた時。あなたは私を、自分を道具にする人として止めようとしました」


「だって、そう見えた」


「そう見えたことは間違いではありません」


「また?」


「はい」


 レイナは頷く。


「でも、その途中で、私が自分で選んだことまで見えなくなっていました」


 ネルは黙った。


 カップの水を見ている。


「……それは」


 彼女は言った。


「悪かった」


 二回目。


 今度は少し低い声だった。


 レイナは頷く。


「受け取ります」


 ネルはまだカップを見ている。


「あと」


 彼女は言った。


「あんたが綺麗だからむかつくって、何回も思った」


「はい」


「それは、謝るところ?」


 レイナは少し首を傾げた。


「どうでしょう」


「分かんないの?」


「私も、ネルの手が届くことに少し腹を立てていました」


 今度はネルが驚く番だった。


「あたしの手?」


「はい」


「何で」


「私は、届く前に形を整えようとします。形が整わなければ、出ない。出られない。ネルは、形が整う前に届こうとする」


 レイナはネルの手を見る。


「それが羨ましかった」


 ネルは、自分の手を引っ込めそうになった。


 でも、引っ込めなかった。


「羨ましいって言われるような手じゃない」


「私の歩き方も、怒られるようなものではないと思っていました」


「それは……」


 ネルは言葉に詰まった。


 レイナの勝ちだ。


 いや、勝ち負けではない。


 でも、かなり綺麗に返した。


「じゃあ」


 ネルはしばらく考える。


「あたしが、あんたの綺麗さに腹立ってたのは、謝らない」


「はい」


「でも、それを使って、あんたが何を持ってるか見ないで決めつけたのは、悪かった」


「受け取ります」


「何回受け取るの」


「必要な回数」


 レイナの声が少しだけ柔らかくなった。


 ネルは鼻を鳴らす。


「貴族っぽい」


「今のは褒め言葉ですか」


「違う」


「そうですか」


 レイナは少し笑った。


 ネルも、ほんの少しだけ口元を動かした。


 謝罪というのは、もっと綺麗なものだと思っていた。


 頭を下げる。


 申し訳ありませんと言う。


 相手が受け取る。


 終わり。


 だが、今目の前で起きているのは、もっと面倒だった。


 何を謝るかを分ける。


 どこを謝られると困るかを伝える。


 謝らない部分も残す。


 受け取る部分を選ぶ。


 謝罪というより、割れた皿のひびをなぞりながら、どこを持つと割れるか確かめているようだった。


 ガレスが見たら、たぶん頷く。


 実際、ガレスは扉のところで頷いていた。


 いつの間に来た。


「いたのか」


 俺が聞くと、ガレスは頷いた。


「うん」


「いつから」


「悪かった、二回目」


「かなり途中から」


 ネルが顔を赤くする。


「聞いてたの?」


「うん」


「言いなさいよ」


「邪魔」


 ガレスは短く答えた。


 邪魔をしなかった、という意味だろう。


 正しい。


 ネルは言い返せず、カップの水を飲んだ。


 ガレスはテーブルの上に小さな皿を置いた。


 昨日の割れた皿ではない。


 普通の皿。


 その上に、薄く切ったパンと、塩気のある小さなチーズが並んでいた。


「朝食前」


「厨房から?」


「うん」


「何か直した?」


「椅子」


「もう交換経済が成立してるな」


 ガレスは気にしない。


 ネルとレイナの間の斜めの位置に皿を置く。


 向かい合っていない二人の、ちょうど中間。


「食べる」


「命令?」


 ネルが聞く。


「提案」


 レイナが少し笑う。


「では、いただきます」


 ネルもパンを一つ取った。


 二人の手が、皿の上で近づく。


 ぶつからない。


 引きすぎない。


 距離を測る。


 もう何度も見た光景だ。


 だが、今日は少しだけ違った。


 ネルが言った。


「先、どうぞ」


 レイナの手が止まる。


「ありがとうございます」


「別に」


 ネルの声は少し硬い。


 でも、先に譲った。


 譲りすぎではない。


 自分の手を引っ込めて消すのでもない。


 ただ、先を渡した。


 レイナはチーズを取り、ネルはパンを取った。


 ガレスがそれを見て、小さく頷いた。


「距離」


「何」


 ネルが睨む。


「いい」


 ガレスはそれだけ言った。


 ネルはさらに赤くなる。


「評論しないで」


「うん」


 ガレスは椅子に座った。


 評論しないと言いながら、すでに十分した気もする。


 少し遅れて、コレットが共同室に入ってきた。


 手帳を持っている。


 眠そうではない。


 ただ、朝からすでに負け筋をいくつか見た顔だった。


「おはよう」


「おはよう」


 俺が返す。


 コレットはネルとレイナを見た。


 皿を見る。


 椅子の位置を見る。


 水の減ったカップを見る。


「謝った?」


 直球だった。


 ネルがむせた。


「何で分かるの」


「顔」


「みんな顔を見るな!」


 ネルの声が、朝の共同室に少し大きく響いた。


 ロイが廊下から顔を出す。


「大きい声ですか」


「今のはネル」


 俺が言う。


「なら大丈夫ですね」


「俺なら?」


「ちょっと危ないです」


 ロイは真面目だった。


 ネルは頭を抱えた。


 コレットは手帳を開く。


「書いていい?」


 今度はネルに聞いた。


 進歩だ。


 ネルは嫌そうな顔をする。


「何を」


「ネルが謝ったこと」


「嫌」


「じゃあ、書かない」


 コレットはあっさり手帳を閉じた。


 ネルが逆に戸惑う。


「え、書かないの?」


「嫌って言った」


「でも、必要なんでしょ」


「必要。でも、本人のものとして先に見る」


 ネルは黙った。


 レイナが隣で少し笑う。


「コレットさんの表も変わりましたね」


「変えた」


 コレットは短く答える。


「ネル」


「何」


「謝ったこと、あとで作戦に使うかもしれない」


「何で謝罪が作戦になるの」


「距離が変わったから」


 コレットは二人の椅子と皿の位置を見た。


「前より近い。でも、近づきすぎてない。これは白旗にも、次の旗にも関係する」


「結局使う」


「使う」


 コレットは頷いた。


「でも、先にネルのもの」


 ネルはしばらく黙った。


 それから、そっぽを向く。


「……あとでなら、書いていい」


「分かった」


 コレットは手帳を開かない。


 本当にあとで書くつもりらしい。


 それを見て、レイナが少しだけ表情を緩めた。


「ありがとうございます」


 ネルが言う。


「感謝しないで。恥ずかしい」


「では、保留します」


「それも腹立つ」


「難しいですね」


 このやり取りも、もう何度目か分からない。


 だが、前より少しだけ軽い。


 完全な和解ではない。


 そんなものは、たぶん二人には早い。


 ネルはまだレイナの綺麗さに腹を立てるだろう。


 レイナはまだネルの届く手を羨むだろう。


 ルミナリアへの未練も、カルミアを仮の場所にしていた過去も、消えたわけではない。


 でも、謝る場所を少しだけ選べた。


 受け取る場所も、少しだけ選べた。


 それで、距離が変わった。


 朝食の後、俺たちはルミナリアとの合同検証会へ向かうことになっていた。


 アドリアンが申し込んだ、正式な検証。


 勝者と敗者ではなく、正式な相手として。


 廊下へ出る前、ネルがレイナに言った。


「レイナ」


「はい」


「昨日の未練の話」


 レイナの指が少し動く。


「はい」


「あれ、あたし、まだ全部分かんない」


「はい」


「ルミナリアに来たかったのに来られなくて、カルミアで勝って、それが痛いってやつ」


「はい」


「たぶん、これからも変なこと言う」


「言いそうですね」


「そこは否定して」


「嘘はよくないので」


 ネルは少し不満そうにする。


 それから、目を逸らして言った。


「変なこと言ったら、言って」


「何を」


「そこは持つ場所が違うって」


 レイナは少し驚いた。


 それから、ゆっくり頷く。


「分かりました」


「あと、あたしも言う」


「何を」


「あんたがまた平気なふりしたら」


「はい」


「そこ、礼で畳む場所じゃないって」


 レイナは、少しだけ笑った。


「お願いします」


 その会話を聞いて、ガレスが短く言った。


「持つ場所」


「もう評論しないでって言った」


「うん」


 言いながら、ガレスは満足そうだった。


 共同室の扉を開けると、白い廊下に朝の光が差していた。


 ルミナリアの廊下は、今日も姿勢がよかった。


 でも、そこを歩く俺たちは相変わらず姿勢が悪かった。


 ロイは声の大きさを探っている。


 リリィは迷子一号に朝の挨拶をしている。


 ジャックは退屈そうにしながら、少しだけ楽しそうだ。


 クララは申請書の書式を考えている。


 ノルは眠い。


 ミラは荷物表の余白に「勝ちの置き場所」と書き足している。


 アルフは合同検証会の席順を線で想像している。


 コレットは、手帳を閉じて歩いている。


 ネルとレイナは、隣ではない。


 でも、昨日より少し近い。


 手がぶつかるほどではない。


 声を張らずに届く距離。


 謝罪が終わった距離ではない。


 謝罪が始まった距離。


 それで十分だった。


 白旗アウレリアが見ていたら、どう反応しただろう。


 たぶん、すぐには近づかない。


 でも、逃げもしない。


 半分くらいの距離で、布を揺らす。


 そんな気がした。


「ルカ」


 ネルが振り返る。


「何」


「顔」


「今度は何」


「また勝手にいい話にしてる顔」


「してたか」


「してた」


 レイナが横で頷く。


「していました」


「二人の判定が揃ってきたな」


「嫌ですね」


 レイナが言う。


「ほんと嫌」


 ネルが言う。


 でも、二人とも少し笑っていた。


 俺は両手を上げた。


「分かった。いい話にはしない」


「もう遅い」


「手遅れですね」


 ロイが前から振り返る。


「いい話だったんですか」


「違う」


 ネルが即答した。


「ただの、謝り方が分かんない話」


 レイナが少し考えて、頷いた。


「はい。ただの、受け取り方も分からない話です」


「それ、いい話じゃないですか」


 ロイが言った。


 ネルが睨む。


 ロイは胸元の札を押さえた。


「小さく言いました」


「声量の問題じゃない」


 朝の廊下に、また少し笑いが落ちた。


 ルミナリアの白い壁には似合わない、姿勢の悪い笑い。


 それでも、今日はその音が少しだけ馴染んで聞こえた。


 ネルの謝罪は、不完全だった。


 レイナの受け取り方も、不完全だった。


 でも、不完全なまま、距離は変わった。


 謝り方が分からない手と、受け取り方が分からない手。


 その二つが、同じ皿の上のパンを取れるくらいには。


 俺たちは合同検証会へ向かった。


 正式な相手として。


 まだ勝ち方も、謝り方も、誇り方も下手なまま。


 それでも、少しずつ。


 持つ場所を覚えながら。


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