第64話 招待状の行き先
私は、ルミナリア貴族魔法学院から届いた招待状を、今でも覚えている。
白い封筒だった。
紙の厚み。
封蝋の色。
金の細い線で縁取られた校章。
それから、私の名前。
レイナ・オルコット。
子どもの頃の私は、自分の名前があんなに美しく書かれているのを見たことがなかった。
オルコット家には、古い額縁がいくつもあった。
古い肖像画も、古い礼装も、古い銀器もあった。
けれど、どれも少しずつくすんでいた。
額縁の金は剥げ、肖像画の目元は暗く、銀器は磨けば光るが、磨くための使用人はもういない。
私の家は、そういう家だった。
過去が美しい。
現在は、過去の磨き残しで立っている。
だから、あの招待状は眩しかった。
過去ではなく、未来から届いたものに見えた。
あなたはこちらへ来る資格があります。
あなたの名前は、まだ白い紙に美しく書かれる価値があります。
そう言われた気がした。
実際の文面は、もっと事務的だった。
入学推薦枠。
礼式魔法適性。
面談日程。
必要書類。
奨学補助の条件。
そんな言葉が並んでいた。
でも、私はその時、ほとんど読めていなかったと思う。
封筒の白さだけを見ていた。
それを持って、父の書斎へ行った。
父は、古い机の前で帳簿を見ていた。
帳簿の端は擦り切れていた。
インクは薄くなり、数字は整っていた。
数字だけは、家が傾いても礼儀正しく並ぶ。
父は封筒を見て、少しだけ微笑んだ。
「来たか」
その声を、私は誇らしい声だと思った。
私の努力を認めてくれているのだと。
私が、家の古い銀をもう一度光らせるのだと。
「はい」
私は答えた。
その時の自分の声を、今でも覚えている。
いつもより少し高かった。
嬉しさを隠せていなかった。
隠せていないことが、その時は恥ではなかった。
父は招待状を受け取り、丁寧に読んだ。
一行ずつ。
何度も。
そして、机に置いた。
「良い話だ」
「はい」
「とても、良い話だ」
「はい」
私は次の言葉を待った。
おめでとう。
準備しよう。
面談の日程を確認しよう。
母にも知らせよう。
そういう言葉を。
父は言った。
「だが、今年は難しい」
難しい。
その言葉は、礼儀正しい拒絶の形をしていた。
家の中では、いろいろなものが難しかった。
新しい礼装を仕立てること。
遠方の親戚の祝いに行くこと。
使用人を増やすこと。
壊れた温室を直すこと。
母の薬を上等なものに変えること。
難しい。
それは、できない、より少し上品な言葉だった。
上品なだけで、意味は同じだった。
「奨学補助があります」
私は言った。
招待状の中で、そこだけは読んでいた。
「条件つきだ」
父は静かに答えた。
「初年度の礼装、寮費の一部、交際費、寄付枠の扱い。補助では足りない」
「交際費は、抑えます」
「ルミナリアで抑えるということは、目立つということだ」
父は私を見た。
責めてはいなかった。
ただ、現実を告げていた。
「お前なら耐えられるかもしれない。だが、家が耐えられない」
家。
その言葉を出されると、私は弱かった。
オルコット家。
古く、くすみ、傾いている家。
私はそこから出たいと思っていた。
同時に、そこを見捨てる娘にはなりたくなかった。
矛盾している。
けれど、子どもの私は、その矛盾を綺麗に畳む方法を知らなかった。
「では」
私は聞いた。
声が震えないようにした。
「私は、どこへ」
父は少し黙った。
そして、別の封筒を出した。
ルミナリアの白ではない。
少し黄ばんだ、普通の封筒。
校章の印刷も薄い。
カルミア魔法学園。
名前は知っていた。
かつては名門。
今は、落ちた学校。
地方の、古い、問題児の受け皿のように言われる学校。
カルミア。
その名前を見た時、私は自分の顔が歪まなかったことを、少しだけ誇りに思った。
今思えば、歪んでいたのかもしれない。
父は見ないふりをしただけかもしれない。
「カルミアなら、支援条件が合う」
「はい」
「古い学校だ。礼式の基礎も残っている」
「はい」
「お前の魔法にも、理解があるかもしれない」
私の指先が動いた。
魔法。
私の魔法は、必ず一度失敗してから成功する。
一度目は弾ける。
乱れる。
消える。
二度目は、成功する。
子どもの頃は、それを偶然だと思っていた。
緊張しているから。
集中が足りないから。
手順を間違えたから。
そう言われ、そう信じようとした。
けれど、何度直しても、一度目は失敗した。
一度目を隠そうとすればするほど、その失敗は目立った。
カップを持つ前にこぼすように。
挨拶の前に噛むように。
礼をする前に足元を鳴らすように。
失敗は、私より先に部屋へ入る。
私はそれが嫌いだった。
とても。
ルミナリアなら、直せると思っていた。
白い塔。
正しい礼。
美しい手順。
整った教師。
そこへ行けば、私の一度目も、きっと整えられる。
恥ではなくなる。
少なくとも、恥を隠す技術を覚えられる。
そう思っていた。
でも、私はカルミアへ行くことになった。
黄ばんだ封筒の学校へ。
落ちた名門へ。
自分の家とよく似た、過去だけが美しい学校へ。
「分かりました」
私は言った。
父は、申し訳なさそうに目を伏せた。
その顔を見るのが嫌だった。
父を責めれば、楽だったかもしれない。
家を恨めば、分かりやすかったかもしれない。
けれど、父は私を愛していなかったわけではない。
家も、私を閉じ込めるためだけにあったわけではない。
だから、怒りの置き場所がなかった。
私はそれを、礼の中へ畳んだ。
「カルミアで、学びます」
綺麗に言えた。
泣かなかった。
怒らなかった。
ルミナリアの招待状は、机の上に置かれたままだった。
白い封筒は、父の書斎の薄暗さの中でも白かった。
その白さが、しばらく私の中に残った。
カルミアへ入学した日のことも、覚えている。
門は古かった。
石は欠け、校章は少し傾き、庭の草は伸びすぎていた。
風が吹くと、どこかの窓が鳴った。
ルミナリアの白い塔とは違う。
すべてが、過去から少しずつ落ちてきたような場所だった。
私は、その門の前で思った。
ここが、私の行き先。
白い封筒ではなく、黄ばんだ封筒の行き先。
その時、誰かが校舎の中で大きな音を出した。
後で知った。
ロイの魔法発動音だった。
私はびくりとした。
それを見て、近くにいた生徒が笑った。
「あれ、第七部の子だよ」
第七部。
その言い方には、説明が含まれていた。
問題児。
欠陥。
騒がしい。
関わらない方がいい。
そういう説明。
私は、胸の奥で冷たく思った。
私はそこへ行くわけではない。
私は、カルミアの中でも、まだきちんとした場所にいる。
そう思いたかった。
だが、結果として私は第七魔法競技部に来た。
理由はいくつかある。
競技経験。
礼式魔法の応用。
部員不足。
教師からの勧め。
それらを並べれば、納得できる。
でも、本当はもう少し単純だった。
私の一度目が、他の場所では邪魔だったからだ。
私は最初、第七部を恥じていた。
今、そのことを否定しない。
恥じていた。
部室の古さ。
机の傷。
まとまりのない部員。
大きすぎる音。
眠そうな先輩。
壊す魔法。
ランダム召喚。
平民出身の少女の乱暴な言葉。
敗北しか見えない部長。
記憶を失う風の少年。
それら全部を、私はどこかで下に見ていた。
自分もそこにいるのに。
自分の一度目も、彼らの欠け方と同じように、誰かにとっては迷惑だったのに。
私は違う、と思っていた。
私は本来、ルミナリアに行くはずだった。
私は落ちたのではない。
事情があっただけ。
私は第七部の一員ではない。
一時的に、ここにいるだけ。
そうやって、自分の居場所を仮のものにしていた。
仮の場所なら、傷つかない。
仮の場所なら、誇れなくてもいい。
仮の場所なら、誰かに笑われても「本当の私は違う」と思える。
けれど、仮の場所で勝つと、困る。
勝ちが、仮では済まなくなる。
白旗アウレリアを捕った時、私は嬉しかった。
それは本当だ。
ネルの一瞬の魔力が、白旗の軌道を曲げた。
ルカさんが下がり、旗が滞在できる場所を作った。
コレットさんが見て、書かず、最後に記録した。
ロイさんの小さな音が響き、ガレスさんが花びらを移し、リリィさんが迷子一号を持ち、ジャックさんが壊さないと言い、クララさんが見すぎず、ノルさんが夢を呟き、ミラさんが置き場を守り、アルフさんが余白を作った。
その全部が噛み合って、白旗は私たちの庭に滞在した。
嬉しかった。
でも、その勝ちをどこに置けばいいのか分からなかった。
ルミナリアへの未練が、まだ私の中にあったからだ。
あの白い封筒。
あの塔。
あの整った礼。
私の名前が美しく書かれていた未来。
それを、私は完全には捨てていない。
捨てたふりをしていただけ。
カルミアで勝った瞬間、私はその未練を見てしまった。
私が欲しかった白い場所で、私は黄ばんだ封筒の学校の一員として勝った。
それは、嬉しい。
誇らしい。
痛い。
悔しい。
全部が同時に来た。
だから、勝ちを置けなかった。
置けば、何かを認めることになる。
私はルミナリアに来られなかった。
私はカルミアに来た。
そして、カルミアで勝った。
その三つを同時に認めることが、まだ怖かった。
午後の白旗の庭で、私は円の跡には立てなかった。
そこには、もう何もなかった。
白い石だけ。
試合中に私が置いた三つの円は消えていた。
失敗の跡は、いつもそうだ。
本人の中には残るのに、場所からは消える。
だから、周囲は言う。
もう終わったことだ。
勝ったではないか。
気にしなくていい。
美しかった。
見事だった。
見世物だった。
全部、外からの言葉だ。
私は、円の跡を見て、そこに立てなかった。
立てない、と言えたのは、少しだけ成長だったのだと思う。
以前の私なら、立った。
正しい角度で礼をし、平気な顔をし、円など最初からなかったように振る舞った。
それが礼だと思っていた。
でも今日は、立てません、と言った。
ネルが、円の手前を指した。
まずそこ、と。
私はそこに立った。
白旗アウレリアは、私と円の跡の間で止まった。
距離を半分にした。
近づいた。
待った。
その時、私は思った。
私は、白旗に救われたわけではない。
白旗は、私の痛みを消してくれたわけではない。
ただ、距離を半分にした。
それだけだった。
けれど、その「それだけ」が必要だった。
ルミナリアに来られなかった過去と、カルミアで勝った現在の距離。
恥と誇りの距離。
見世物という言葉と、私の勝ちの距離。
全部を一度に埋めることはできない。
半分。
まず、半分。
それでいいのだと、白旗は言ったのかもしれない。
旗が言うわけはない。
でも、私はそう受け取った。
庭から戻る時、私は少しだけ列の後ろを歩いた。
ルカさんは水差しを持っていた。
結局、水は飲まなかった。
でも、彼は最後まで持っていた。
「重くないですか」
私が聞くと、彼は水差しを見た。
「勝ちよりは軽い」
「比較対象が変です」
「最近、物の重さが全部変な感じになってる」
「それは分かります」
私が答えると、ルカさんは少し笑った。
その笑いも、少し変だった。
彼は時々、自分が何かを忘れるかもしれないということを、笑いの後ろに隠す。
私はそれを完全には見抜けない。
でも、少しは分かるようになった。
「水差し、ありがとうございました」
「役に立ったか?」
「はい」
「使ってない」
「持っていてくれたので」
ルカさんは少し困った顔をした。
「それで役に立つなら、楽でいい」
「楽ではなかったでしょう」
「まあ、少し」
彼は水差しを持ち直した。
「勝手に持つと置き場所が変わるって言われたから、これは水でよかった」
「はい」
私は頷いた。
「私の勝ちは、私が持ちます」
「重い?」
「重いです」
「落としそう?」
「時々」
「拾う場所は?」
前を歩いていたネルが振り返った。
「指さす」
聞いていたらしい。
私は少し笑った。
「お願いします」
「何回も言わなくていい」
「何回も言います」
「なんで」
「言えるうちに」
ネルは不機嫌そうな顔をした。
でも、耳が少し赤かった。
彼女は、私を救うために怒るのをやめようとしている。
自分の怒りとして使おうとしている。
それは、とても難しいことだと思う。
私も、自分の勝ちを自分のものとして持つのが難しい。
たぶん、似ている。
全然似ていないのに、似ている。
共同室へ戻ると、コレットさんが私に声をかけた。
「レイナ」
「はい」
「今の、書いていい?」
私は少し驚いた。
彼女はまた聞いてくれた。
本人のものとして先に見る。
その順番を守っている。
「はい」
コレットさんは手帳を開いた。
「レイナ、円の跡には立てなかった。手前に立った。白旗は距離を半分にした」
ペンが動く。
「ルミナリアへの未練は、まだある」
私の呼吸が止まった。
コレットさんは顔を上げた。
「違う?」
違わない。
違わないから、驚いた。
「……違いません」
「書いていい?」
もう一度、聞いた。
私は少し迷った。
ルミナリアへの未練。
それを文字にされるのは、怖い。
けれど、文字にされなければ、私はまた礼の中へ畳んでしまうかもしれない。
綺麗な言葉で隠すかもしれない。
「はい」
私は答えた。
「ただし」
「ただし?」
「それを負け筋に使う前に」
コレットさんが頷く。
「レイナのものとして見る」
「はい」
彼女は書いた。
ルミナリアへの未練。
まだある。
レイナのものとして見る。
その文字を見た時、胸の奥が痛んだ。
でも、少しだけ息がしやすくなった。
未練は、恥ではない。
まだ、そう言い切ることはできない。
けれど、少なくとも、私のものだ。
誰かの見世物ではない。
誰かの研究材料にする前に、私が持つものだ。
夜になって、私は一人で窓辺に立った。
白い塔が見える。
ルミナリアの塔。
私は、そこに来たかった。
その気持ちは、まだ消えない。
今日、カルミアで勝っても消えなかった。
消えないことが、少しだけ怖かった。
勝てば、未練も消えると思っていたのかもしれない。
そんな都合の良いものではなかった。
けれど、消えないからといって、今日の勝ちが嘘になるわけでもない。
白い封筒は、私の未来だった。
黄ばんだ封筒は、私の行き先だった。
その行き先で、私は白旗を捕った。
直接触れたのはルカさんだった。
曲げたのはネル。
庭を作ったのは全員。
その中で、私は一度目を置いた。
まだ誇れない。
でも、なかったことにはしない。
私は窓の外の白い塔へ、小さく礼をした。
ルミナリアへ。
来られなかった場所へ。
まだ未練がある場所へ。
それから、胸の前で手を止めた。
もう一度、礼をする。
今度は、別の方角へ。
カルミアへ。
古く、欠け、騒がしく、姿勢の悪い笑い声が白い廊下に響く学校へ。
まだ誇りきれない場所へ。
でも、今日勝った場所へ。
どちらの礼も、完璧ではなかった。
でも、どちらも私のものだった。
その夜、私は初めて、ルミナリアへの未練を消そうとせずに眠った。
消さずに、持った。
勝ちと一緒に。
少し重かった。
でも、落とさずに眠れた。




