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第61話 正式な相手

 勝った後の廊下は、勝つ前より長かった。


 これは、たぶん気のせいではない。


 白い競技庭園を出て、宿泊棟へ戻るまでの通路。


 行きに通った時と同じ場所のはずなのに、壁が遠い。窓が多い。白い石の床に映る自分たちの影が、妙に目立つ。


 観客席の拍手は、もう後ろへ遠ざかった。


 白旗アウレリアは鳥像の上へ戻った。


 審判長は判定を読み上げた。


 記録員たちは、分厚い帳面に何かを書き込んだ。


 アドリアンは「完敗です」と言った。


 セシリアはネルを競技者として評価した。


 マリエル先生は、観客席のざわめきを一度だけ視線で収めた。


 全部、さっき起きたことだ。


 だが、廊下を歩き始めると、どれも一気に現実味を失った。


 勝った。


 その言葉は、胸の中で鳴っている。


 でも、鳴り方が安定しない。


 鐘みたいには鳴らない。


 ロイの小さな音みたいに、こん、と鳴って、すぐに手で押さえたくなる。


「勝ちました」


 ロイが小声で言った。


「知ってる」


 ジャックが答える。


「勝ちましたよね」


「審判が言っただろ」


「でも、もう一回確認したくて」


「確認しなくても勝った」


「勝った……」


 ロイは自分の胸元を押さえた。


 今日は「小さく鳴れ」の札が入っている。


 勝った時くらい大きく喜んでもよさそうなのに、彼はまだ小さく鳴ろうとしていた。


 それが少しおかしくて、少し愛しかった。


「ロイ」


 ミラが言った。


「今のは、もう少し大きくてもいいと思う」


「本当ですか」


「たぶん」


「じゃあ」


 ロイは息を吸った。


 全員が少しだけ身構えた。


 ロイも、それに気づいた。


「……やった」


 さっきより少しだけ大きい声。


 それでも普通の声より小さい。


 廊下の白い壁に当たり、柔らかく返ってきた。


 誰も耳を塞がなかった。


 ロイは目を丸くした。


「大丈夫でした?」


「大丈夫」


 俺が言うと、彼は胸元の札をもう一度押さえた。


「やった」


 今度は、少しだけ笑っていた。


 ミラも笑った。


 リリィは迷子一号を両手で抱えている。


「迷子一号も、勝ちました」


「出場してないけどな」


 ジャックが言う。


「場所を持っていました」


「まあ、それはそう」


「ジャックさんも、出場していませんでしたけど、壊しませんでした」


「それは勝ちに含まれんのか」


「含まれます」


 リリィは妙に真剣だった。


 ジャックは鼻を鳴らしたが、それ以上否定しなかった。


 ガレスは、歩きながら廊下の端に落ちていた糸くずを拾った。


「また直すのか」


 俺が聞くと、ガレスは首を横に振った。


「捨てる」


「何でも直すわけじゃないんだな」


「糸くずは皿じゃない」


「そうだな」


 当たり前のことを、深いことみたいに言う。


 ガレスは時々、世界をすごく短い言葉で分ける。


 皿は皿。


 糸くずは糸くず。


 失敗は失敗。


 でも、全部が捨てるものではない。


 全部が直すものでもない。


 その区別が、たぶん彼には見えている。


 クララは記録板を抱え、歩きながら震えていた。


「どこから書けばいいのでしょう」


「試合開始からじゃないのか」


 俺が言う。


「いいえ、白旗の外周退避から書くべきか、レイナさんの一度目を置く宣言から書くべきか、ネルさんの非接触軌道変更から書くべきか、控え席全体の場形成から書くべきか」


「全部書けば」


「順番が重要です」


「じゃあ、起きた順」


「起きた順と意味の順が違います」


 難しい。


 クララの頭の中では、試合はもう古代魔法理論の束になっているらしい。


 ノルは半分眠った顔で言った。


「夢では、旗が先に来た」


「現実では後だ」


 アルフが言う。


「でも、記録には夢も残す」


「残すのか」


「白旗の前では、夢も場の一部だった」


 アルフは真面目に答えた。


 彼も少しおかしい。


 いや、今日の俺たちは全員少しおかしい。


 勝った後の人間は、たぶん少しおかしい。


 それでいい。


 問題は、全員がおかしい中で、一人だけおかしくなりきれていない人がいることだった。


 レイナ・オルコットは、廊下の少し後ろを歩いていた。


 隣にはネルがいる。


 並んでいる、というほど近くはない。


 呼べる距離。


 今日の二人が作った距離。


 ネルは勝ったことに対して、明らかに落ち着きがなかった。


 足が早くなったり遅くなったりする。


 何か言いたそうにして、言わない。


 その代わり、時々レイナを見る。


 レイナは、背筋を伸ばして歩いていた。


 さっきまで三つの円を置き、白旗の前で何度も一度目を晒した人間の歩き方とは思えないくらい、整っていた。


 それが、少し危うく見えた。


 綺麗すぎる。


 昨日までなら、ネルがすぐに刺していただろう。


 今は、言葉を選んでいる。


「レイナ」


 ネルがようやく呼んだ。


「はい、ネル」


「勝ったけど」


「はい」


「嬉しくないの」


 直球だった。


 言葉を選んだ結果がそれなら、ネルの言葉の辞書はやはりかなり強い。


 レイナは少しだけ足を緩めた。


「嬉しくないわけではありません」


「その返事、だいたい嬉しくなさそう」


「嬉しいです」


「顔」


「あなたも顔を見るのですね」


「見る」


 レイナは黙った。


 俺は少し前を歩きながら、聞こえないふりをした。


 聞こえている。


 でも、今は振り返らない。


 周りを持つ。


 傷を直接持たない。


 ネルが聞いている。


 レイナが答えるなら、俺が先に言わなくていい。


「嬉しいです」


 レイナはもう一度言った。


「ただ、まだ、どこに置けばいいのか分かりません」


「勝ちを?」


「はい」


 その答えは、少し意外だった。


 ネルもそうだったらしい。


「勝ちは勝ちでしょ」


「そうですね」


「置き場所とかある?」


「あります」


 レイナは自分の手を見る。


 白い手袋は、まだしていない。


 試合で何度も失敗した指先。


 戻った指先。


「私は、失敗を隠す場所なら知っています。恥を見えないように置く場所も。悔しさを礼の形に畳む場所も」


 廊下の窓から、白い庭園が少し見えた。


 鳥像の上に白旗アウレリアがいる。


 遠くて、布の揺れまでは見えない。


「でも、失敗を置いたまま勝った時、その勝ちをどこに置けばいいのか、まだ分からない」


 ネルは黙った。


 その顔は、少し困っていた。


 怒りなら分かる。


 悔しさも分かる。


 馬鹿にされた時の返し方も、たぶん分かる。


 だが、勝ちの置き場所を知らない人間に、どう言えばいいのかは分からない。


「……じゃあ」


 ネルは少し考えた。


「とりあえず、持って歩けば」


 レイナが瞬きをした。


「持って歩く」


「置き場所が分かるまで」


「落としたら?」


「拾えばいい」


「割れたら?」


「ガレスが直す」


 前を歩いていたガレスが振り返った。


「見る」


「直すとは言ってない」


 ネルが言う。


「割れ方による」


 ガレスは真面目に答えた。


 レイナが、小さく笑った。


 その笑いは、完全ではなかった。


 でも、勝ちを少しだけ持てたように見えた。


「では、しばらく持って歩きます」


「そうしなさい」


「命令ですか」


「提案」


 ガレスの真似をしたらしい。


 レイナはまた少し笑った。


 宿泊棟へ戻る前に、俺たちは競技記録室へ呼ばれた。


 勝利後の手続き。


 と聞けば、何だか華々しいものを想像するかもしれない。


 実際には、かなり地味だった。


 長い机。


 白い壁。


 積まれた帳面。


 インク壺。


 魔法記録水晶。


 そして、灰色の制服を着た巡業記録員が三人。


 彼らは拍手しなかった。


 おめでとうとも言わなかった。


 ただ、俺たちが入ると一斉に立ち上がり、事務的に一礼した。


「カルミア魔法学園第七魔法競技部の皆様ですね」


 中央の女性記録員が言った。


 眼鏡の縁が薄い銀色で、声は乾いた紙みたいに落ち着いている。


「本日の公式戦結果について、巡業記録および旗反応記録の確認を行います」


「はい」


 コレットが答える。


 部長の声は、さっきより硬い。


 勝った後に、こういう部屋へ入ると、急に現実が帳面になる。


 記録される。


 残る。


 なかったことにならない。


 それは嬉しいようで、怖い。


「まず、試合結果」


 女性記録員は帳面を開いた。


「巡業魔法旗競技、ルミナリア貴族魔法学院対カルミア魔法学園。対象旗、白旗アウレリア。勝者、カルミア魔法学園。捕獲点一点。保持成立。礼式評価、双方加点。ただし総合判定は捕獲点優先によりカルミア一点、ルミナリア零点」


 紙の上の勝利。


 淡々と読み上げられると、逆に重い。


 ロイが小さく息を吸った。


 大声は出さない。


 でも、目がきらきらしている。


「次に、競技上の特記事項」


 記録員は視線を上げた。


「白旗アウレリアの外周退避二回。非接触軌道変更一回。捕獲保持中の自主滞在確認一回。控え選手による場形成影響、複数」


 クララが、ほとんど飛びつくような顔をした。


 紐はない。


 記録室なので、彼女は自分を縛っていない。


 危険だ。


「控え選手による場形成影響、複数」


 クララが繰り返した。


「公式記録に入りますか」


「特記事項として入ります」


「全文は」


「まだ確定していません」


「確定前の暫定記述を見せていただくことは」


「できません」


「では、確定後の写しは」


「申請してください」


「申請します」


 早い。


 クララはもう別の戦いに入っている。


 記録員は表情を変えなかった。


 強い。


「また、本日の試合により、カルミア魔法学園第七魔法競技部の巡業評価分類が変更されます」


 その言葉に、コレットが少しだけ目を細めた。


「分類?」


「はい」


 女性記録員は別の紙を取り出した。


「これまで、貴部は『低評価・観察対象』および『特殊欠陥魔法使用例』として記録されていました」


「特殊欠陥魔法使用例」


 ジャックが低く繰り返す。


「ひどい言い方だな」


「記録分類上の名称です」


 記録員は淡々としている。


 悪意はない。


 悪意がないだけに、痛い。


 ネルの眉が動く。


 レイナも静かに聞いている。


 俺も、胸の奥が少し冷たくなった。


 低評価。


 観察対象。


 特殊欠陥魔法使用例。


 俺たちは、そういう棚に入っていた。


 知っていた。


 でも、正式な言葉で聞くと、やはり刺さる。


「本日以降」


 記録員は続けた。


「貴部は『公式勝利校』『戦術検証対象』『対戦研究対象』へ分類変更されます」


 部屋が静かになった。


 公式勝利校。


 戦術検証対象。


 対戦研究対象。


 それは、褒め言葉ではない。


 でも、見下ろしでもない。


 相手として扱うための分類。


 棚は棚だ。


 だが、棚の高さが変わった。


「対戦研究対象って」


 ロイが小さく言った。


「研究されるんですか」


「はい」


 記録員は即答した。


「今後、巡業参加校は貴部の試合記録を参照し、対策を立てる可能性が高くなります」


「うわ」


 ロイが本当に小さく言った。


 勝ったら楽になると思っていたのかもしれない。


 いや、俺も少し思っていた。


 勝てば、認められる。


 認められれば、楽になる。


 違った。


 認められると、研究される。


 勝つと、次から相手が本気になる。


 グラナートでも似たことはあった。


 イリスは俺たちを戦術検証相手として扱った。


 だが、今回は公式記録上の分類変更だ。


 もっと広い。


 もっと面倒だ。


「よかった」


 コレットが言った。


 全員が彼女を見る。


「よかった、ですか」


 レイナが聞く。


「うん」


 コレットは記録員の紙を見ている。


「低評価・観察対象よりまし」


「研究されますよ」


「研究されない相手よりまし」


 部長は静かに言った。


「勝ったから」


 その言葉は、さっきより現実的だった。


 勝った。


 記録分類が変わる。


 相手が研究する。


 次は簡単に通じない。


 白旗戦の不揃いな庭は、もう記録に残る。


 ネルの非接触軌道変更も、レイナの一度目の円も、ロイの小さい音も、控え席の場形成も。


 全部、次の相手に読まれる。


 勝利は、手の中で少し重さを変えた。


「確認事項」


 記録員が言った。


「非接触軌道変更を行ったのは、ネル・アーレンさんで相違ありませんか」


「あたし」


 ネルが答える。


「魔法種別は」


「一瞬だけ出るやつ」


「正式名称は」


「知らない」


 記録員のペンが止まった。


「不明、でよろしいですか」


「たぶん」


 クララが横から言いかけた。


 ネルが先に睨む。


「今、あたしが答えてる」


 クララは口を閉じた。


 偉い。


 記録員はペンを動かす。


「魔法種別、不明。発動時間、極短。対象旗への直接接触なし。周辺空気への瞬間干渉により旗軌道を変化させたものと記録します」


 ネルは少し顔をしかめた。


「難しい」


「平たく言えば、触らずに曲げた、です」


「それなら分かる」


 記録員は表情を変えずに言った。


 この人、実は少し面白いのかもしれない。


「次に、レイナ・オルコットさん」


 レイナの背筋がわずかに伸びる。


「はい」


「一度目の失敗を三度、場に明示しました。これは事前に計画された戦術ですか」


 部屋の空気が変わった。


 一度目の失敗。


 場に明示。


 計画された戦術。


 言葉が全部、硬い。


 硬い言葉になると、痛みが見えにくくなる。


 レイナは少し黙った。


 ネルが彼女を見る。


 俺は口を閉じる。


 レイナが答える場所だ。


「はい」


 レイナは言った。


「ただし、最初から決まっていた形ではありません」


 記録員がペンを構える。


「試合中に、白旗アウレリアの反応を見て、自分で選びました」


「自分で選んだ、という記述を入れますか」


 記録員が聞いた。


 意外な問いだった。


 レイナも少し驚いたように見えた。


「入れられるのですか」


「特記事項としてなら」


 記録員は淡々と言う。


「本日の旗反応は、本人の選択宣言に対するものと見られます。選択主体を記録しないと、戦術上の意味が変わります」


 選択主体。


 クララの目が光った。


 今度は我慢している。


 レイナは、ゆっくり頷いた。


「入れてください」


「承知しました」


 ペンが走る。


 レイナの一度目は、記録される。


 しかし、ただの失敗としてではない。


 本人が選んで置いたものとして。


 レイナは、その重さを受け止めるように、指先を軽く握った。


「次に、ルカ・ヴァレンさん」


「はい」


 来た。


 嫌な予感がした。


「捕獲時、風系魔法の使用は確認されませんでした。相違ありませんか」


「ありません」


「記録上、貴方は風系魔法使用時に記憶欠落を伴う特異体質として登録されています」


 部屋が少し静かになる。


 記憶欠落。


 記録に載っている。


 改めて言われると、背中が冷える。


 俺の記憶の穴が、紙の上にある。


「本日は使用しなかった」


「はい」


「理由は」


 理由。


 記録員の問いは、容赦がない。


 俺は少し考えた。


 風を使えば速すぎた。


 白旗に乱暴だった。


 記憶を失いたくなかった。


 全員を信じた。


 どれも本当だ。


 だが、どれを書くべきか。


 俺は白い机の上を見た。


 インク壺。


 帳面。


 記録水晶。


 ここで言ったことは、残る。


 残るなら、変に格好つけない方がいい。


「使うと、白旗にとって乱暴になると思ったからです」


 俺は言った。


「それから」


 一拍。


「使わなくても、届くと思ったから」


 ネルが少しこちらを見た。


 レイナも。


 記録員はペンを走らせる。


「風系魔法不使用。理由、対象旗への過剰接近回避、および共同場形成への信頼」


「そんな立派な感じでした?」


「記録用の語彙です」


「なるほど」


 俺の言葉が、急にちゃんとしたものに変換された。


 少し照れる。


 いや、かなり照れる。


 ネルが小声で言った。


「共同場形成への信頼」


「繰り返すな」


「いいじゃん、立派で」


「やめろ」


 レイナが口元を押さえた。


 笑っている。


 記録員は表情を変えなかった。


「最後に、部長のコレット・セインさん」


「はい」


「試合中、敗北予見系能力の使用はありましたか」


 コレットの顔が少しだけ変わった。


 敗北予見系能力。


 未来の負けを見る目。


 それも、記録上はそういう名前になるのか。


「ありました」


 コレットは答えた。


「ただし、勝利は見えていません」


「勝利予見は不可、で登録されています」


「はい」


「本日の戦術判断は、敗北予見の回避に基づくものですか」


「一部は」


「一部」


「見えなかったものも使いました」


 記録員のペンが止まる。


「見えなかったもの」


「はい」


 コレットは少しだけ胸を張った。


 小さい部長が、記録室の白い机の前で、真面目に言う。


「白旗が逃げた後、勝ち筋は見えていませんでした。でも、全員が何を置いたかは見ました」


 彼女は続けた。


「敗北として見えたものだけではなく、見えなかった可能性を使いました」


 クララが、今度こそ泣きそうな顔になった。


 理論的に感動している顔だ。


 記録員はしばらく考え、ペンを動かした。


「敗北予見回避、および未観測要素の現場判断利用」


「はい」


 コレットは頷いた。


 未観測要素。


 見えなかったもの。


 コレットの成長も、記録に入った。


 彼女自身はそれをどう感じているのか、分かりにくい顔をしていた。


 でも、手帳を持つ手は少し強くなっていた。


 手続きが終わる頃、俺たちは全員、試合後より疲れていた。


 勝利を記録されるのは、戦うのと別の体力を使う。


 記録室を出ようとした時、女性記録員が言った。


「カルミア魔法学園第七魔法競技部」


 全員が振り返る。


「はい」


 コレットが答える。


「今後、貴部の試合記録は巡業参加校へ優先配布されます」


「優先」


 アルフが繰り返す。


「はい。白旗アウレリア戦における場形成事例は、特殊旗反応研究においても参照価値があります」


 クララがもう一度前のめりになりかける。


 今度はガレスが肩を押さえた。


「見すぎ」


「まだ見ていません」


「前のめり」


「はい」


 記録員は続けた。


「つまり、次戦以降、貴部は『想定外』ではなくなります」


 その言葉は、さっきの分類変更より重かった。


 想定外ではなくなる。


 俺たちの一番の強みは、これまで相手が侮っていたことだった。


 欠陥魔法。


 地方校。


 低評価。


 問題児。


 そういう棚に入れられていたから、少しだけ隙があった。


 これからは違う。


 ネルの手は研究される。


 レイナの一度目は対策される。


 ロイの音も、ミラの置き場も、アルフの線も、俺の風不使用も。


 コレットの敗北予見さえ。


 全部、見られる。


 見られた上で、勝たなければならない。


「望むところ」


 ジャックが言った。


 不機嫌そうに。


 でも、笑っていた。


「隠れて勝つより、面白いだろ」


「面白さで選ぶな」


 アルフが言う。


「でも、事実だ」


 ジャックは肩をすくめる。


 ネルが少しだけ笑った。


「研究されるなら、研究し返せばいい」


「その通りです」


 クララが即答した。


「相手の研究がどのような分類に基づくかを研究し、その分類の盲点を」


「長い」


 ネルが止める。


「あとで」


「はい」


 コレットは記録員へ頭を下げた。


「記録、ありがとうございます」


「職務です」


 女性記録員は淡々と答える。


 それから、ほんの少しだけ声を柔らかくした。


「ただし、個人的には、興味深い試合でした」


「褒めていますか」


 ロイが小さく聞いた。


「記録員としては、興味深い、です」


「それは褒めてるんでしょうか」


「研究対象としては」


「研究対象……」


 ロイは複雑な顔をした。


 褒められたのか、棚に入れられたのか分からない。


 でも、少なくとも、低評価・観察対象よりはましだ。


 たぶん。


 記録室を出ると、廊下にセシリアが待っていた。


 彼女は俺たちを見ると、きちんと一礼した。


「手続き、お疲れさまでした」


「そちらも」


 コレットが返す。


 セシリアは少し微笑む。


「アドリアンが、後ほど合同検証会を申し込みたいと」


「合同検証会」


 コレットの目が細くなる。


「再戦ではなく?」


「再戦の前に、検証です」


 セシリアは言った。


「今日の試合は、ルミナリアにとっても記録すべき敗北でした」


 敗北。


 彼女はその言葉を避けなかった。


 少し意外だった。


「負けを記録するの、嫌じゃないんですか」


 ロイが小さく聞いた。


 セシリアは彼を見る。


「嫌です」


 即答。


 ロイが目を丸くする。


「ですが、記録しないと次も負けます」


「あ」


「それは、カルミアの皆様から学びました」


 セシリアは静かに頭を下げた。


 コレットが少しだけ固まった。


 自分たちの敗北の使い道を、貴族校の副代表が口にした。


 これは、勝利よりも変な感じがした。


「こちらも、検証したい」


 アルフが言う。


「ルミナリアの交差誘導と視線拡散は、次に対策が必要」


「もちろんです」


 セシリアは微笑んだ。


「ただし、すべてはお教えできません」


「でしょうね」


 アルフも少しだけ口元を緩めた。


 正式な相手。


 その言葉が、俺の中で少し形を持った。


 教え合う。


 隠す。


 警戒する。


 礼をする。


 次は負けないと言う。


 それが、相手として扱われるということなのかもしれない。


「レイナさん」


 セシリアが言った。


 レイナが顔を上げる。


「はい」


「午後、もしよろしければ、白旗アウレリアの庭へもう一度」


 ネルの肩が少し動く。


 セシリアはそれを見て、言葉を補った。


「公開ではありません。観客も記録員もいません。白旗の方から、反応がありました」


「白旗の方から?」


 レイナの声が少し揺れる。


「はい。アウレリアが、試合後も三つの円があった場所へ降りました」


 俺たちは顔を見合わせた。


 白旗が、円の場所へ。


 試合後に俺たちの前へ来た後も、まだ。


「おそらく、確認したいのだと思います」


 セシリアは言った。


「失敗の跡が消えた後に、あなたがどう立つか」


 レイナは黙った。


 ネルが彼女を見る。


「行くの?」


 レイナは少し考えた。


「行きます」


「見世物じゃない?」


「はい」


「記録でもない?」


「はい」


「じゃあ、行けば」


 ネルはそっぽを向いた。


「あたしも行くけど」


 レイナが少し笑った。


「はい、ネル」


 セシリアはそのやり取りを見て、柔らかく微笑んだ。


「では、午後にご案内します」


 彼女が去った後、ロイが言った。


「勝った後も忙しいですね」


「勝ったから忙しい」


 コレットが答える。


「負けた時も忙しかったです」


「じゃあ、いつ暇なんですか」


「暇な部活じゃない」


 それはそう。


 俺は窓の外を見た。


 白い庭園が見える。


 鳥像の上の白旗は、遠くで静かに揺れていた。


 俺たちは勝った。


 でも、勝利は終点ではなかった。


 記録され、分類され、研究され、検証される。


 レイナはまだ、勝ちの置き場所を探している。


 ネルはその横で、不器用に待っている。


 コレットは、勝利を見た後で、次の負け筋を探し始めている。


 俺は、自分の手を見た。


 白旗に触れた手。


 風を使わなかった手。


 記録上、「共同場形成への信頼」とかいう立派な言葉になった手。


 恥ずかしい。


 かなり恥ずかしい。


 でも、少しだけ誇らしかった。


 正式な相手。


 それは、怖い言葉だ。


 もう侮られない。


 もう想定外ではいられない。


 こちらが勝ったということは、相手もこちらを見てくるということだ。


 でも。


 低評価・観察対象よりは、ずっといい。


 カルミア魔法学園第七魔法競技部は、初めて勝った。


 そして、その勝利はもう、紙の上にも残った。


 消えない。


 見られる。


 研究される。


 次からは、相手も本気だ。


「ルカ」


 ネルが呼んだ。


「何」


「また顔」


「今度は何だ」


「面倒くさいこと考えてる顔」


「だいたい合ってる」


「勝ったんだから、少しくらい喜べば」


「レイナにも言ってたな、それ」


「あんたにも言う」


 俺は少し笑った。


「勝って嬉しい」


「棒読み」


「勝って嬉しいです」


「敬語にしても駄目」


 レイナが横で小さく笑った。


 ロイが少し大きめに言った。


「勝って嬉しいです」


 今度はみんなが笑った。


 白い廊下に、カルミアの笑い声が少しだけ響いた。


 ルミナリアの廊下にしては、少し姿勢の悪い音だった。


 でも、今日はそれでよかった。


 正式な相手になった俺たちは、まだ勝ち方も喜び方も下手だった。


 それでも、歩いている。


 勝ちを、落とさないように。


 置き場所が分かるまで、しばらく持って歩くために。


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