第60話 初勝利の旗
次の瞬間、全部が動いた。
最初に動いたのは、ネルだった。
いや、正確には、ネルの手ではない。
彼女の呼吸だった。
白い庭園に落ちた静けさの中で、ネル・アーレンは一度だけ息を吸った。
短く。
深く。
怒りを吸うためではなく、焦りを吐き出すためでもなく。
自分の一瞬を、自分の位置に戻すために。
「怒りは、あたしの」
ネルは言った。
声は大きくなかった。
でも、庭園に届いた。
「焦りも、あたしの」
白旗アウレリアが、レイナの二つの円の外側で揺れる。
白い布の端が、石畳に触れるか触れないかの距離で震えていた。
ルミナリアの三本の美しい道はまだ残っている。
アドリアンは次の一手を持っている。
セシリアも、ミレーヌも、フィリップも、エリオットも、動く準備をしている。
カルミアはばらばらな礼を置いた。
だが、ばらばらなままでは旗は捕れない。
最後に必要なのは、軌道を変える一瞬。
それを持っているのは、ネルだった。
「勝ちたい気持ちは」
ネルは白旗を見た。
その目は怒っていた。
もちろん怒っていた。
白旗に逃げられたこと。
観客に分類されたこと。
レイナの失敗が何度も見られたこと。
ルミナリアの綺麗な道が、いかにも正しいものとして庭園に置かれていること。
全部に腹を立てている。
でも、その怒りは、誰かの代わりではない。
白旗を押さえつけるためでもない。
「みんなの」
ネルは言った。
そして、手を開いた。
触るための手。
掴むための手。
乱暴にするためではない手。
その指先に、光が生まれた。
ネルの魔力は、長く続かない。
一瞬だけ。
瞬きより短い。
小さな火花のように出て、すぐ消える。
だから、彼女はいつも怒る。
届かないから。
間に合わないから。
魔法が消えた後、手と足と道具と文句で届かせるしかないから。
でも、今だけは違った。
長く続かないからこそ、ちょうどよかった。
白旗アウレリアは、押されたら逃げる。
掴まれたら逃げる。
美しすぎる道にも、見世物にも、利用にも、分類にも距離を取る。
だから、触れてはいけない。
長く導いてはいけない。
ただ、軌道の横に、ほんの一瞬だけ風ではない歪みを置く。
ネルの魔力が、白旗の布には触れず、その斜め前の空気を弾いた。
ぱん、とも鳴らない。
音になる前に終わる。
空気だけが、白い石の上で薄く曲がった。
白旗アウレリアの布が、その歪みを避けた。
逃げではない。
反射でもない。
相手が置いた距離を認めた上で、進路を少し変える動き。
白旗は、ルミナリアの三本の道から外れた。
レイナの二つの円を踏まない。
ミラの置き場にぶつからない。
アルフの余白を抜ける。
ロイの小さな音が残る空気を通り、リリィの迷子一号がいる控え席の方を一瞬だけ見て、ガレスが移した花びらの横を過ぎ、ジャックの「壊さない」の手前で揺れ、クララの見すぎない視線の端をかすめ、ノルの夢の白さの中を滑った。
ばらばらな礼の庭。
その中を、白旗は自分で選んで動いた。
「曲がった」
アルフが言った。
静かな声だったが、その中に珍しく熱があった。
「戻り線、開く」
彼の見えない線が、白旗の前で道を塞がず、後ろで場を支えた。
逃げ道はある。
戻り道もある。
捕獲位置へ向かう道もある。
決めるのは旗。
だが、旗が決めた後に届くのは人間の役目だ。
「ミラ」
コレットの声が飛ぶ。
「置き場、保って」
「保つ」
ミラは動ける範囲だけで半歩ずれた。
筋力強化の反動はまだ残っている。
それでも、彼女は壁にならなかった。
落ちてくるものを受ける場所。
ぶつからない荷物。
白旗はその重さを避けず、横を通る。
「レイナ」
ネルが言った。
光はもう消えている。
ネルの魔力は、本当に一瞬だった。
魔法が消えた後、彼女の手はただの手に戻っていた。
荒い手。
届く手。
「戻して」
「はい」
レイナは、二つの円の間で手を上げた。
補助魔法ではない。
礼式誘導でもない。
自分が戻った場所から、旗の選択を邪魔しない光を置く。
「戻ります」
声。
白い光が、三つ目の円を描いた。
今度は失敗ではない。
でも、最初の二つの円とつながっている。
一度目。
戻り。
もう一度。
戻り。
そして、今ここにいる場所。
点が三つになり、道ではなく、庭の中の目印になった。
白旗アウレリアは、その三つ目の円を踏まなかった。
円の外側を通る。
尊重する距離。
そして、俺の方へ来た。
俺の方へ。
息が止まる。
捕獲役。
でも、一人で捕るんじゃない。
全員で捕る。
コレットの声が頭の中で響く。
風は最終手段。
使うなら戻り言葉。
使わないなら、誰を信じるか。
今、風は使わない。
使えば、たぶん速すぎる。
白旗にとって乱暴になる。
そして、俺はまた何かを忘れるかもしれない。
忘れたくない。
この白い庭園を。
ネルが手を開いた瞬間を。
レイナの円を。
ロイの小さな音を。
ガレスの花びらを。
全部を。
だから、風は使わない。
「ネルとレイナを信じる」
俺は言った。
短く。
次に。
「全員を信じる」
言いすぎかもしれない。
でも、今はそれでいい。
白旗が近づく。
俺の指先から、まだ遠い。
捕獲距離ではない。
届かない。
届かないなら、手を伸ばすな。
届かない手を伸ばすと、旗は逃げる。
俺は手を上げない。
かわりに、一歩下がった。
観客席がざわめく。
捕獲役が下がった。
普通なら、ありえない。
でも、白旗は止まった。
俺が空けた場所へ、白旗が入る。
傷を直接持たない。
周りを持つ。
旗を捕るのではなく、旗が入れる余白を作る。
その余白を、誰が使うか。
ルミナリアが動いた。
当然だ。
アドリアンは、俺が下がった瞬間を見逃さなかった。
「交差誘導、捕捉」
美しい花びらの道が、白旗の背後へ伸びる。
ミレーヌの青い光が観客席の視線を拡散し、フィリップの流れがアルフの線をなぞり、エリオットの細い魔力線が俺の空けた余白の端を縫う。
ルミナリアは、カルミアが作った庭を壊さない。
壊さずに、自分たちの道を重ねる。
うまい。
すごくうまい。
白旗が少し迷う。
迷った。
その迷いは一瞬だった。
だが、ネルの一瞬と同じように、一瞬で十分なことがある。
「ジャック」
コレットが控え席で言った。
「壊さないで、壊して」
「矛盾してんぞ」
ジャックは笑った。
でも、その笑いは戦闘前のものだった。
彼は出場していない。
魔法は使えない。
場に直接は入れない。
それでも、彼は控え席から一歩だけ前に出た。
線は越えない。
ルールは守る。
手を開き、ルミナリアの美しい交差を見た。
「壊さない」
声は低い。
「でも、その綺麗な流れ、嫌いだ」
それだけ。
魔法ではない。
攻撃でもない。
だが、ジャックの言葉は、場の緊張に小さなひびを入れた。
観客席の誰かが息を詰める。
ルミナリアの交差誘導が、ほんの少しだけ硬くなる。
壊していない。
ただ、綺麗すぎる流れに違和感を置いた。
それで十分だった。
「ロイ」
今度は俺が呼んだ。
ロイは分かっていた。
胸元の札。
小さく鳴れ。
彼は指で札を叩いた。
こん。
小さな音。
命令ではない音。
乱暴ではない音。
白旗が、迷いの中でその音を聞いたように揺れた。
リリィが迷子一号を両手で支える。
「ここにも、場所があります」
震える声。
ガレスが足元の花びらをもう一枚、踏まれない場所へ移す。
クララは記録板を閉じたまま言う。
「見すぎません。でも、見ています」
ノルは半分眠った声で呟く。
「白いの、こっち」
全部が、置かれる。
勝つための命令ではない。
旗に向かって引っ張る力でもない。
ばらばらな礼。
違う礼が、混ざらず、押しつけず、同じ庭にある。
白旗アウレリアは、ルミナリアの交差誘導から外れた。
今度は、はっきりと。
観客席が大きく揺れる。
ルミナリアの道を選ばなかった。
カルミアの庭を通った。
白旗は、俺が空けた余白へ入る。
まだ遠い。
俺は動かない。
動け。
自分の中の焦りが言う。
動くな。
ガレスの皿が言う。
周りを持つ。
本人が戻る場所を奪わない。
白旗は、人ではない。
でも、ここでは、ただの物でもない。
白旗自身が選ぶ距離を奪ってはいけない。
俺は半歩だけ、さらに下がった。
背中に汗が流れた。
捕獲役が下がり続ける。
馬鹿みたいだ。
でも、白旗は逃げなかった。
むしろ、近づいた。
白い布の端が、俺の手の届くか届かないかの距離に来る。
届く。
いや、届きそう。
届きそうは、届くではない。
ここで手を伸ばせば、たぶん逃げる。
俺は歯を食いしばる。
ネルが言った。
「ルカ」
「何」
「まだ」
「分かってる」
「顔」
「今は許してくれ」
「許す」
短い返事。
不意に、胸が熱くなった。
ネルが許すと言った。
それだけで、なぜか手の震えが少し止まった。
レイナが続ける。
「ヴァレンさん」
「はい」
「旗が入る場所を、もう少し」
「分かった」
俺はさらに半歩下がる。
これで、俺と白旗の間に小さな空間ができた。
人が立てるほどではない。
布が揺れられる程度の空間。
白旗は、その空間に入った。
そして、止まった。
白い布が、俺の目の前で揺れている。
触れる距離。
でも、まだ触れない。
旗が止まっただけで、捕獲ではない。
捕獲は、触れて、保持して、審判が確認しなければならない。
その一歩が遠い。
ルミナリアも、それを知っている。
アドリアンが最後の一手を打った。
「アウレリア」
彼は旗の名を呼んだ。
声は美しかった。
悔しいくらいに。
「あなたの名誉を、整った場で迎えます」
花びらの道が、俺の背後から白旗の反対側へ伸びる。
退路ではない。
迎え道。
もし白旗が俺の前から離れるなら、その先にルミナリアの整った場がある。
魅力的だ。
少なくとも、俺ならそっちへ行きたい。
俺の前には、汗をかいた元名門の記憶欠け男がいるだけだ。
口は下手。
礼も中途半端。
風を使えば記憶が減る。
捕獲役なのに下がってばかり。
だが、その背後にはカルミアがいる。
ばらばらな礼の庭がある。
俺一人では、白旗に選ばれる理由がない。
だから、一人で選ばれようとしない。
「俺は」
口が勝手に動きそうになる。
閉じる。
一拍。
言うなら、短く。
「俺は、旗を迎えられるほど綺麗じゃない」
観客席が静まる。
「でも、後ろに庭はある」
白旗の布が揺れた。
「触っていいなら、触る」
俺は手を上げない。
まだ。
「嫌なら、行っていい」
その言葉を言うのは、怖かった。
行っていい。
白旗が本当に行ってしまったら、負ける。
ルミナリアの迎え道へ行けば、おそらく彼らが捕る。
カルミアの初勝利は消える。
でも、行っていいと言えないなら、白旗は捕れない。
アウレリアは、そういう旗だ。
白旗の布が、俺の指先の近くで揺れた。
ゆっくり。
ゆっくりと。
白い端が、俺の手の甲に触れた。
ほんの少し。
布の重さはほとんどなかった。
でも、確かに触れた。
俺は動かなかった。
触れられたからといって、掴まない。
触れたのは、旗の選択。
捕獲は、俺の選択。
ここで混ぜると、たぶん逃げる。
白旗の布が、もう一度、俺の手の甲に触れた。
今度は少し長く。
俺は息を吸った。
「捕ります」
宣言した。
白旗が逃げない。
なら。
俺は、手を閉じた。
乱暴にではない。
布を握りつぶさない。
金糸に力をかけない。
指の腹で、白い布の端を支えるように。
捕るというより、受ける。
だが、競技ではそれが捕獲だった。
白旗アウレリアが、俺の手の中で揺れた。
一瞬、逃げるかと思った。
逃げなかった。
審判の札が上がる。
「旗接触、カルミア」
観客席が大きくざわめく。
まだ保持時間が必要だ。
捕獲確定には、三呼吸。
一呼吸。
ルミナリアが動く。
アドリアンは諦めない。
彼の花びらの道が、俺の手元へ伸びる。
白旗を奪うのではない。
俺の保持を乱さず、旗が自分から離れたくなる道を作る。
最後まで礼で戦う。
強い。
嫌になるほど強い。
二呼吸。
セシリアの声が飛ぶ。
「ヴァレンさん、力が入りすぎています」
柔らかい。
助言の形。
本当にそうかもしれない。
俺の指に、知らないうちに力が入っている。
白旗の布が少し緊張する。
逃げる。
まずい。
「ルカ」
ネルの声。
「周り」
短い。
それだけで十分だった。
俺は布そのものを握る力を緩め、手のひら全体で周りの空気ごと支えるようにした。
傷を直接持たない。
周りを持つ。
白旗の布の緊張がほどける。
二呼吸目が終わる。
三呼吸。
フィリップの魔力流が、俺の足元へ滑る。
アルフの線がそれを受ける。
「ここまで」
アルフは言った。
見えない戻り線が、俺の足元ではなく、白旗の逃げ道の端を守る。
逃げられる。
でも、乱されない。
白旗は逃げない。
ミラが動けるようになった身体で、花壇側の置き場を保つ。
レイナの三つの円が光を失わず、ネルの手はもう魔力を持たないまま開かれている。
ロイの小さな音が、最後に一度だけ鳴った。
こん。
三呼吸目が終わった。
審判の札が高く上がる。
「捕獲成立」
時間が止まったように感じた。
捕獲成立。
それは、つまり。
「カルミア魔法学園、捕獲点一点」
白い庭園が爆発した。
いや、音としては爆発ではない。
ルミナリアの観客席は、軍事校のように叫ばない。
でも、ざわめきが一気に膨らんだ。
息を呑む声。
信じられないという声。
拍手しようとして迷う音。
誰かの短い感嘆。
カルミアの控え席は、もっと分かりやすかった。
「やった」
ロイが言った。
小さく。
小さく言ったのに、すぐ両手で口を押さえた。
「やった」
リリィが泣きそうな声で繰り返す。
迷子一号を落としかけ、ガレスがまた支える。
「落とすな」
ジャックが言う。
声が震えていた。
「落としてません」
リリィも震えている。
クララは記録板を開こうとして、手が震えすぎて開けない。
ノルは眠そうな顔で言った。
「白いの、来た」
ガレスは花びらを見ていた。
それから、短く言う。
「捕れた」
コレットは、手帳を開かなかった。
彼女はただ、白旗と俺たちを見ていた。
目が少しだけ大きく開いている。
未来の勝ちを見られない部長が、今、目の前の勝ちを見ている。
その表情を、俺は忘れたくないと思った。
風を使わなくてよかった。
心の底からそう思った。
「ルカ」
ネルが近づいてきた。
近づいてきて、途中で止まった。
白旗を持つ俺の手を見ている。
「力、まだ強い」
「本当か」
「たぶん」
俺はさらに力を緩めた。
白旗は逃げない。
捕獲成立後も、旗を乱暴に扱えば礼式評価に響く。
いや、それ以前に、逃げなかった旗に失礼だ。
レイナも近づいた。
彼女は三つの円を一度見て、それから白旗へ向かって頭を下げた。
「ありがとうございました」
その礼は、完璧ではなかった。
汗をかいていた。
指先も震えていた。
でも、逃げていなかった。
白旗アウレリアの布が、俺の手の中でふわりと揺れた。
レイナへ向けて。
ネルへ向けて。
いや、全員へ向けて。
「ネル」
レイナが言う。
「何」
「曲げましたね」
「押してない」
「はい」
「触ってない」
「はい」
「でも、曲げた」
「はい」
ネルは、顔をしかめた。
怒っているように見える。
でも、違う。
泣きそうなのを怒っている顔で隠しているのだと、俺は思った。
たぶん言うと蹴られる。
だから言わない。
「あたしの魔法」
ネルは言った。
「一瞬だった」
「うん」
俺が答える。
「でも、足りた」
その言葉に、ネルは唇を噛んだ。
足りた。
今まで足りなかったものが。
一瞬で消える魔力が。
白旗に触れないために、ちょうど足りた。
欠けていることが、都合よく美談になるわけではない。
明日からもネルの魔力は一瞬で消える。
困ることの方が多い。
でも、今日だけは。
今日のこの一瞬だけは、その欠け方が旗を逃がさなかった。
「ネル」
コレットが控え席から言った。
声が少しだけ震えていた。
「使えた」
「言い方」
ネルが返す。
でも、怒ってはいない。
「違う」
コレットは首を横に振った。
「ネルが使った」
その訂正に、ネルは黙った。
レイナが小さく頷く。
「そうです」
ネルはそっぽを向いた。
「……知ってる」
その時、審判の声が響いた。
「試合続行。捕獲点によりカルミア一点。ルミナリア、護持奪還可能時間、残り」
そうだ。
勝った。
いや、まだ試合は終わっていない。
捕獲点は取った。
でも、ルミナリアには奪還の時間がある。
白旗を一定時間保持し、指定位置へ運ばなければ、完全勝利ではない。
俺たちの気が、一瞬緩みかけていた。
アドリアンは、それを見逃さなかった。
「ルミナリア、奪還礼式」
彼の声が鋭くなる。
美しいだけではない。
勝ちに来ている。
花びらの道が再び広がり、セシリアが右へ回る。
ミレーヌの青い光が観客席の視線を抑え、フィリップが流れを速める。
エリオットの細線が、俺の保持している白旗の周囲に近づく。
攻撃ではない。
奪還のための礼式。
白旗が自分から離れたくなる場を作る。
最後まで、ルミナリアらしい。
「保持隊形」
コレットが叫ぶ。
今度は少し大きい。
ロイがびくっとした。
部長の声が大きくなるほど、状況は危ない。
アルフが俺の左へ。
ミラが花壇側へ。
レイナが三つの円の前に立つ。
ネルは俺の右前。
白旗を奪い合うのではない。
白旗が逃げたくならないように、場を守る。
「ルカ、握らない」
コレットの声。
「分かってる」
「分かってない顔」
「今それ言う?」
「言う」
俺は笑いそうになった。
笑っている場合ではない。
でも、笑いそうになるくらいには、手の力が抜けた。
白旗は逃げない。
ルミナリアの奪還礼式が近づく。
アドリアンが一礼した。
「ヴァレンさん。こちらへ渡すなら、アウレリアはより安定した場に戻れます」
声は穏やか。
事実でもある。
安定した場。
ルミナリアの方が、たぶんそうだ。
俺は安定していない。
カルミアも安定していない。
ばらばらで、未完成で、さっきまで逃げられていた。
それでも。
「安定はしてない」
俺は言った。
「でも、戻る場所はある」
レイナの円。
ネルの手。
ミラの置き場。
アルフの線。
控え席の小さな音、迷子一号、花びら、壊さない宣言、見すぎない目、夢、閉じた手帳。
全部。
「白旗が嫌なら、離します」
俺は言った。
観客席が揺れる。
この状況で言うことではない。
でも、言わなければ力が入る。
力が入れば逃げる。
「でも、まだ嫌がってない」
白旗の布が、俺の手の中で静かに揺れた。
逃げない。
アドリアンの目が、少しだけ変わった。
「……なるほど」
彼は言った。
「保持ではなく、滞在ですか」
滞在。
白旗を保持するのではなく、白旗が滞在している状態を守る。
うまい言葉だ。
悔しいが、アドリアンの言葉は時々とても正確だ。
「それ、もらっていいか」
俺が言うと、アドリアンは一瞬だけ笑った。
「試合後なら」
「今は?」
「奪います」
彼は手を振った。
ルミナリアの奪還礼式が一気に近づく。
花びらの道が俺の足元に届く。
白旗が少し揺れた。
心地よい道。
戻りたい道。
安定した道。
「ネル」
俺は言った。
「二回目、いけるか」
聞いてから、自分で怖くなった。
ネルの魔力は一瞬だ。
連続で使えるものではない。
朝から何度も練習し、さっき本番で使った。
もう無理かもしれない。
ネルは俺を睨んだ。
「いけない」
「だよな」
「でも、手はある」
「何」
「魔法がない後の手」
彼女は笑った。
不敵に。
怒っているように。
でも、楽しそうに。
「ミラ」
ネルが言った。
「低い荷物、もう一回」
「動ける範囲」
「それでいい」
ミラが花壇を踏まないよう、低い位置へ身体を置く。
ルミナリアの花びらの道が、その重さでほんの少し曲がる。
「アルフ、線、あたしの手前」
「了解」
アルフが線を引く。
ネルの足元に戻り線。
「レイナ」
ネルが呼ぶ。
「はい」
「一度目じゃなくて、三つ目」
レイナはすぐに理解した。
三つ目の円。
戻った場所。
白旗が見た場所。
彼女はその円へ向かって一歩下がる。
ルミナリアの道と、カルミアの三つの円が重なる。
ネルは魔法を使わない。
使えない。
だから、手と足と声で動く。
彼女は白旗に触れない距離で、俺とアドリアンの花びらの間に入った。
「あたしの魔法、もうない」
ネルは言った。
「でも、乱暴にしないって言った」
白旗が揺れる。
ネルは両手を開いた。
「だから、今は手だけ」
彼女は花びらの道に触れない。
白旗にも触れない。
ただ、自分の身体を置く。
平民の手。
実用的と言われた手。
届く手。
その手が、白旗の逃げ道を塞がず、ルミナリアの誘導を受け流す距離に置かれる。
魔法ではない。
でも、白旗は見た。
アドリアンの花びらの道が、ネルの手前で止まる。
無理に進めば、ネルを押すことになる。
それは礼ではない。
アドリアンは即座に道を引いた。
強い。
そして、誠実でもある。
「見事」
彼は言った。
「魔法なしで道を曲げるとは」
「褒めるな」
ネルが言う。
「むかつく」
「失礼」
「でも、今の謝り方はまあまあ」
観客席から、小さな笑いが起きた。
今度も悪い笑いではなかった。
白旗は逃げない。
奪還礼式の時間が減っていく。
審判が残りを告げる。
「保持、残り二呼吸」
二呼吸。
あと二呼吸で、カルミアの捕獲点が確定勝利になる。
ルミナリアは最後の一手を使う。
セシリアが前へ出た。
彼女は俺ではなく、白旗へ向かって一礼した。
「アウレリア。こちらの庭は、まだ整っています」
柔らかい声。
白旗が少し揺れる。
セシリアは続ける。
「けれど、あちらの庭は、今、あなたを引き留めていません」
俺は息を呑んだ。
褒めた。
敵であるこちらを。
いや、白旗へ事実を言った。
カルミアは引き留めていない。
滞在できる場所を作っている。
セシリアは、それを認めた。
「ですから、選んでください」
彼女は頭を下げた。
奪還礼式ではない。
最後に、選択を白旗へ返した。
ルミナリアも、強いだけではない。
白旗アウレリアの布が、俺の手の中で大きく膨らんだ。
離れるかもしれない。
俺は手を緩めた。
行くなら、行っていい。
怖い。
怖いが、言ったのだから守る。
白旗は、ふわりと浮いた。
俺の手から、布の重さが消える。
観客席が息を止める。
負けた。
一瞬、そう思った。
しかし白旗は、俺の手から離れて、逃げなかった。
俺の手の上に、少し高く浮いた。
滞在の位置を変えた。
手の中ではなく、手の上。
掴まれていない。
でも、離れていない。
審判が目を見開いた。
マリエル先生が、ほんの少しだけ頷いた。
「保持、継続」
審判が言った。
白旗自身が滞在を選んだ。
保持は切れなかった。
残り一呼吸。
最後の一呼吸。
俺はもう、何も言わなかった。
ネルも言わない。
レイナも。
ミラも、アルフも。
控え席も。
ルミナリアも。
観客席も。
白い庭園全体が、白旗アウレリアの一呼吸を待った。
旗に呼吸はない。
それでも、そう感じた。
白旗は、俺の手の上で揺れた。
金糸が光る。
白い布が、ほんの少しだけネルの方へ傾き、レイナの円へ傾き、控え席のばらばらな礼へ傾き、最後に鳥像の方へ向いた。
一呼吸が終わる。
審判の札が、高く上がった。
「競技終了」
庭園が止まる。
「捕獲点一点、保持成立。礼式評価、審判団確認」
記録員たちが動く。
数秒。
いや、もっと長かったかもしれない。
俺には永遠に感じた。
白旗はまだ俺の手の上にいる。
逃げない。
ルミナリアは整列している。
カルミアは整列できていない。
でも、誰も動かない。
審判長が札を受け取り、庭園中央へ出た。
「判定」
声が響く。
「捕獲点、カルミア魔法学園一点。護持、カルミア魔法学園成立。礼式評価、双方加点あり」
俺は息を止める。
双方加点。
点数は。
「総合、カルミア魔法学園一点。ルミナリア貴族魔法学院、零点」
静寂。
真っ白な静寂。
そして。
「勝者、カルミア魔法学園」
今度こそ、庭園が揺れた。
拍手が起きた。
最初は、ルミナリアの一年生の少女だった。
昨日、ネルに謝った子。
彼女が手を打った。
次に、マリエル先生。
セシリア。
アドリアン。
それから観客席全体へ、拍手が広がった。
熱狂ではない。
だが、確かな拍手だった。
カルミアの控え席は、もう静かではいられなかった。
「勝った」
ロイが言った。
今度は少し大きかった。
でも、誰も怒らなかった。
「勝ったんですよね?」
リリィが泣きそうな顔で聞く。
「勝った」
ジャックが答えた。
不機嫌そうに。
でも、声は嬉しそうだった。
「勝った」
ガレスも言った。
短い。
重い。
クララは記録板を開き、何も書けずに閉じ、また開いた。
「どこから書けば」
「最初から」
ノルが眠そうに言う。
「夢、覚めた」
コレットは、まだ手帳を開かなかった。
彼女はゆっくり立ち上がり、俺たちを見た。
そして、小さく言った。
「勝った」
その声を聞いた瞬間、俺の足から力が抜けそうになった。
勝った。
カルミアが。
第七魔法競技部が。
公式戦で。
初めて。
白旗アウレリアは、俺の手の上からふわりと離れた。
今度は逃げではない。
鳥像の方へ戻る動き。
俺は手を下げ、頭を下げた。
「ありがとうございました」
礼は、たぶん下手だった。
でも、白旗は逃げなかった。
鳥像へ戻り、白い翼の上に立つ。
金糸が光る。
布が一度、大きく広がった。
それは拍手への返礼のようにも見えた。
あるいは、ただの風かもしれない。
どちらでもよかった。
レイナが、三つの円の前で立っている。
円は少しずつ光を失っている。
ネルがその隣へ行った。
「レイナ」
「はい、ネル」
「勝った」
「はい」
「あんたの一度目、役に立った」
言ってから、ネルは顔をしかめた。
「違う。言い方」
レイナが少し笑った。
「私が置きました」
「そう。それ」
「ネルが曲げました」
「押してない」
「はい。曲げました」
二人は、握手しなかった。
抱き合いもしなかった。
ただ、三つの円の前で並んだ。
平民の手。
貴族の手。
届く手。
戻る手。
どちらも、白旗には触れていない。
でも、勝利の中心には、その二つの手があった。
アドリアンが近づいてきた。
ルミナリアの選手たちを従えて。
俺たちは少し身構える。
彼はまず鳥像へ礼をし、それからコレットへ向かって礼をした。
「完敗です」
その言葉に、観客席が少しざわめいた。
完敗。
点数だけ見れば一点差。
だが、彼はそう言った。
コレットは瞬きをした。
「完敗ではないです」
「いえ」
アドリアンは静かに言った。
「白旗が最後に選んだのは、こちらの整った場ではありませんでした」
彼は俺たちの方を見た。
「不揃いな庭でした」
「不揃い」
ネルが低く言う。
「事実です」
アドリアンは微笑んだ。
「そして、強かった」
ネルは黙った。
レイナが一礼する。
「ありがとうございました」
「こちらこそ。オルコットさん」
アドリアンは彼女を見た。
「あなたの一度目は、今日、初手の欠点ではありませんでした」
レイナの指が少し動く。
「何でしたか」
「庭の入口でした」
レイナはしばらく黙った。
それから、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
今度の礼は、少しだけ崩れていた。
でも、本人がそれを直そうとはしなかった。
セシリアがネルへ向かって一礼した。
「アーレンさん」
「何」
「あなたの手は、今日、白旗を乱暴に扱いませんでした」
ネルは少し警戒した。
実用的、と言われた日の顔を思い出しているのかもしれない。
セシリアは言葉を選び直した。
「いえ。訂正します」
彼女はまっすぐネルを見た。
「あなたは、乱暴にできる距離で、乱暴にしませんでした」
ネルは少し黙った。
「……まあ」
「見事でした」
「褒めすぎ」
「競技者としての評価です」
ネルはそっぽを向いた。
「それなら、まあ」
ロイが控え席で小さく笑った。
今度は、ちゃんと小さかった。
試合後の礼が終わると、白旗アウレリアは鳥像の上から降りてきた。
審判も観客も少し驚いた。
試合は終わっている。
旗は戻ったはずだった。
なのに、白旗はもう一度、庭園の中央へ降りた。
レイナの三つの円は、もうほとんど消えている。
白旗はその場所へ行き、円があった石の上で布を揺らした。
次に、ネルの前へ。
ネルは反射的に手を引きそうになり、止まった。
「触らない」
彼女は言った。
「今は、触らない」
白旗は、彼女の指先から拳一つ分の距離で止まった。
昨日と同じ距離。
でも、意味は少し違う。
次に、俺の前へ来た。
俺は手を開いた。
「もう捕らない」
白旗の布が、ふわりと揺れる。
それから、控え席の方へ。
ロイ。
リリィ。
ガレス。
ジャック。
クララ。
ノル。
コレット。
一人ずつの前で、白旗は少しずつ違う揺れ方をした。
ロイの前では小さく。
リリィの迷子一号の前では、少し首を傾げるように。
ガレスの前では、落ちた花びらのない地面を確認するように。
ジャックの前では、少し距離を広く。
クララの前では、彼女が二歩下がるのを待つように。
ノルの前では、眠りに合わせるようにゆっくり。
コレットの前では、長く止まった。
部長は手帳を持っていない。
白旗の前で、ただ立っていた。
「書きません」
コレットは言った。
「今は」
白旗が揺れる。
「あとで書きます」
また揺れる。
「でも、今は見ます」
白旗アウレリアは、布を大きく広げた。
それは、返事のように見えた。
旗が返事をするわけがない。
でも、俺たちはもう、その考え方を少し卒業している。
試合後の記録で、カルミア魔法学園はルミナリア貴族魔法学院に公式勝利した、と残る。
捕獲点一点。
護持成立。
礼式評価、双方加点。
総合一点対零点。
数字にすればそれだけだ。
でも、俺たちの中にはもっとたくさん残った。
レイナの一度目。
ネルの一瞬。
ミラの置き場。
アルフの余白。
ロイの小さな音。
リリィの予定外。
ガレスの花びら。
ジャックの壊さない違和感。
クララの見すぎない読み。
ノルの白い夢。
コレットの閉じた手帳。
そして、俺の下がる足。
勝った。
それは、思っていたより静かな実感だった。
もっと跳び上がるかと思っていた。
もっと叫ぶかと思っていた。
実際には、俺はただ、自分の手を見ていた。
白旗の布が触れた手。
風を使わなかった手。
記憶を失わずに済んだ手。
でも、いつか失うかもしれない手。
だから、今のうちに覚えておく。
白い庭園。
金糸の光。
ネルの「足りた」顔。
レイナの崩れた礼。
コレットの勝ちを見た目。
ロイの小さすぎる「やった」。
全部。
「ルカ」
ネルが呼んだ。
「何」
「顔」
「また?」
「今度は、まあまあ」
「何が」
「勝った顔」
俺は少し笑った。
「勝った顔って、どんなだ」
「知らない」
「知らないのにまあまあなのか」
「うるさい」
レイナが隣で小さく笑った。
その笑いは、昨日の晒された後の笑いとは違った。
まだ痛みは残っている。
一度目はこれからも失敗する。
でも、その一度目は、今日、庭の入口になった。
それを彼女は知っている。
ネルも知っている。
俺も知っている。
白旗アウレリアは鳥像へ戻り、白い翼の上に立った。
鐘が鳴る。
姿勢のいい音。
でも、今日はその音が少しだけ違って聞こえた。
こちらへ頭を下げているわけではない。
祝っているわけでもない。
ただ、同じ空の下に鳴っている。
その普通さが、妙に嬉しかった。
カルミア魔法学園第七魔法競技部は、初めて公式戦に勝った。
綺麗な一手ではなく。
欠けたものを無理やり美談にするのでもなく。
それぞれの失敗と礼と怒りを、本人の手元に戻したまま。
白旗が滞在できる庭を作って。
その庭で、旗を捕った。
勝った。
今度こそ、胸の中でその言葉が鳴った。
ロイの小さな音より少し大きく。
ルミナリアの鐘よりずっと不格好に。
でも、確かに。
勝った。




