第59話 一度目を置く
白旗アウレリアは、外周の白い柱の影にいた。
逃げた。
でも、消えてはいない。
それが、今の俺たちに残された全部だった。
白い庭園の中央では、ルミナリアの選手たちがゆっくりと場を整えている。アドリアンは焦らない。セシリアは観客席側の視線を柔らかく受け流し、ミレーヌは青い光の薄幕でざわめきを拡散する。エリオットは石畳に触れない高さで細い魔力線を浮かべ、フィリップは全体の流れを水面のように均していた。
綺麗だった。
嫌になるくらい、綺麗だった。
白旗に逃げられた後の立て直しまで、形になっている。
向こうは、旗が逃げることを失敗としてだけ扱っていない。
逃げた旗が戻るまでの時間も、競技の一部にしている。
カルミアは、逃げられた事実をまだ手に持っていた。
熱い。
痛い。
持ち方が分からない。
「カルミア、位置維持」
コレットの声が控え席から飛んだ。
大きくない。
でも、通る。
さっきまで手帳を閉じて見ていた部長は、今、言葉だけで俺たちを支えている。
「集まらない。追わない。まず、逃げた理由を残す」
逃げた理由。
ネルの怒りが強くなった。
レイナの戻りを旗へ押しつけた。
ミラが止める荷物になろうとして動けなくなった。
俺が待つと言いながら捕る準備をしすぎた。
アルフの線が上空に遅れた。
観客席の分類。
セシリアの褒め言葉。
ルミナリアの整った空白。
全部。
逃げた理由は一つではない。
だから、誰か一人のせいにすると、また逃げられる。
「ミラ」
俺は声をかけた。
彼女は花壇の縁ぎりぎりで、まだ少し身体を重そうにしている。
筋力強化の反動。
完全には戻っていない。
「足、動くか」
「少し」
「無理するな」
「無理じゃない範囲で戻る」
「それでいい」
ミラは一歩だけ下がった。
花壇を踏まない。
白旗を追わない。
ただ、自分の置き場を戻す。
白旗アウレリアの布が、外周でほんの少し揺れた。
ミラを見ているのか。
分からない。
でも、見ていると仮定した方がいい。
この旗は、見ている。
人の手。
足。
目。
声。
謝り方。
怒り方。
戻り方。
そして、逃げられた後の持ち方。
「レイナ」
ネルが言った。
短い。
さんは、もうない。
「何ですか、ネル」
レイナは白旗から目を離さずに答えた。
「今、どうするの」
質問だった。
責める声ではなかった。
急かす声でもない。
だが、軽くもない。
公式戦の真ん中で、ネルはレイナに尋ねている。
あなたが何を選ぶのか。
レイナはすぐには答えなかった。
彼女の指先に、さっきの失敗の余韻が残っているように見えた。
白い手袋はしていない。
失敗する指。
戻る指。
人に見られた指。
使われそうになった指。
「私は」
レイナが言った。
その声は、観客席まで届いた。
届くように言ったのだ。
「一度目を、置きます」
置く。
使う、ではなく。
見せる、でもなく。
置く。
ネルが少しだけ眉を動かした。
「どこに」
「白旗が戻れる場所に」
「囮?」
「囮です」
レイナははっきり言った。
観客席がざわめく。
囮。
貴族校の庭園で、礼式の中で、彼女はその言葉を選んだ。
綺麗な言い換えをしない。
誘導でも、見せ場でも、演出でもない。
囮。
自分の一度目の失敗を、旗が見るための場所に置く。
ただし、勝手に使われるのではなく。
自分で。
レイナは続けた。
「私は、初手で失敗します」
観客席が静まる。
昨日も、今日も、聞いた言葉。
しかし今は、少し違う。
「それを隠しません。戻ります。ただし、今度は白旗をこちらへ戻すためではありません」
彼女は外周の白旗を見た。
「白旗が、戻るかどうか選べる場所を作るためです」
白旗アウレリアの布が、外周で静かに揺れた。
柱に絡んでいた白い端が、少し緩む。
観客席の誰かが、息を呑んだ。
ルミナリア側も動きを止める。
アドリアンがレイナを見た。
「オルコットさん」
彼の声は静かだった。
「その宣言は、競技者として危険です」
「承知しています」
「自分の失敗を囮にすると言えば、観客はそこを見る」
「はい」
「白旗も見る」
「はい」
「そして、私たちも利用する」
「してください」
レイナの答えに、俺は息を止めた。
利用してください。
危ない言葉だ。
ネルも同じように感じたのだろう。
一歩動きかける。
レイナが彼女の名前を呼ぶより早く、ネル自身が止まった。
「……誰の選択?」
ネルは聞いた。
声は低い。
でも、止まっている。
「私の選択です」
レイナは答えた。
「誰に使わせるの」
「白旗に」
ネルの目が少し開いた。
レイナは続ける。
「ルミナリアにも、観客にも、カルミアにも、私の一度目を所有させません。けれど、白旗が戻り道を選ぶために見るなら、置きます」
言葉が庭園に落ちる。
白い石に、青い花に、観客席に、俺たちに。
「それでも、囮です」
レイナは言った。
「綺麗な言葉にはしません」
ネルはしばらく黙っていた。
そして、短く言った。
「分かった」
それだけ。
でも、その「分かった」は重かった。
代わりに怒らない。
本人の選択として受け取る。
ネルの怒りが消えたわけではない。
むしろ、ちゃんと手元に戻った。
「コレット」
俺は控え席へ声を投げた。
「作戦、変える?」
「変えない」
即答。
部長は、白旗を見たまま言った。
「名前を変える」
「名前?」
「レイナの一度目を使う作戦じゃない。レイナが一度目を置く作戦」
細かい。
でも、重要だった。
使う。
置く。
その違いだけで、手つきが変わる。
「アルフ」
コレットが続ける。
「戻り線は、レイナの位置を中心にしない。白旗が選べる余白を残す」
「了解」
アルフが見えない線を引き直す。
彼の手が少しだけ低く動く。
線を厳しくしすぎない。
逃げ道を完全には塞がない。
戻れる道と逃げられる道を、両方残す。
それは競技として、かなり怖い。
逃げ道を残せば、旗は逃げるかもしれない。
しかし、逃げ道を消せば、白旗はもっと逃げる。
白旗アウレリアは、捕まえられるために戻る旗ではない。
尊重される距離を見て、初めて選ぶ旗だ。
「ミラ」
コレットの声。
「置き場を低くしすぎない」
「分かった」
ミラはまだ身体が重い。
だが、彼女は無理に壁になろうとしなかった。
花壇から半歩離れ、白旗が通れる幅を空ける。
「荷物は、道を塞がない」
ミラは言った。
「でも、落ちるものがあったら受ける」
「それでいい」
コレットが頷く。
「ネル」
部長が呼ぶ。
「何」
「怒りは、まだ使わない」
「分かってる」
「使いたくなったら」
「名前を呼ぶ」
ネルはレイナを見た。
「レイナ」
「はい、ネル」
「今は見てる」
「はい」
それだけ。
短い。
でも、白旗の布がまた少し緩んだ。
ルミナリアが動かない。
アドリアンは、レイナの宣言を聞いた後、すぐに攻めてこなかった。
彼なら、そこを突けたはずだ。
観客に見せる言葉を重ねて、レイナの一度目をまた「鑑賞」に変えることもできた。
だが、彼はそれをしなかった。
なぜか。
礼か。
警戒か。
それとも、白旗に見られているからか。
たぶん全部だ。
「ルミナリア、待機」
アドリアンが言った。
セシリアが一瞬彼を見る。
フィリップも指先の魔力を止める。
ミレーヌの青い光が薄くなる。
彼らは待つことを選んだ。
白旗アウレリアが、外周からゆっくり離れた。
柱の影を抜け、白い石の上へ。
まだ中央へは来ない。
外周をなぞるように、低く滑る。
白い布が、花壇の青い花に影を落とす。
その影を見て、ガレスが控え席で少し動いた。
花が踏まれないか見ているのだろう。
出場していなくても、彼の礼はそこにある。
「レイナ」
コレットが言った。
「置いて」
レイナは頷いた。
彼女は中央へ走らない。
白旗へ近づきすぎない。
自分の位置を選ぶ。
庭園の中央より少し南。
観客席から見える。
白旗からも見える。
ルミナリアからも見える。
隠れられない場所。
だが、白旗の進路を塞がない場所。
そこで彼女は立ち止まった。
「一度目」
声が響いた。
指先に白い光。
弾ける。
失敗。
観客席の視線が集まる。
昨日と同じ。
今日の最初と同じ。
しかし、レイナは指先を隠さなかった。
手を下げもしない。
失敗した指を、そのまま場に置いた。
「これは、私の一度目です」
彼女は言った。
「誰かに笑われるためではありません」
観客席が静まる。
「誰かに慰められるためでもありません」
俺は足を止めている。
慰めない。
説明しない。
周りを持つ。
「白旗アウレリア」
レイナは旗を呼んだ。
旗の名前。
名誉旗として。
物ではなく、ただの獲物でもなく。
「私は、失敗します。そして戻ります。あなたが戻らなくても、戻ります」
白旗の布が揺れた。
レイナは半歩下がった。
「戻ります」
二度目の光。
成功。
ただし、その光は白旗へ伸びなかった。
足元に落ちた。
白い石の上に、小さな円を描く。
戻りの印。
旗を引き寄せる線ではない。
レイナ自身が戻った場所を示す円。
アルフが息を呑む。
「線じゃない」
「場所」
俺が言う。
アルフは頷いた。
「なら、周りに余白を作る」
彼の見えない戻り線が、その円の周囲に広がる。
囲まない。
押さえない。
ただ、円が踏み荒らされないように距離を置く。
ミラがその外側に立つ。
荷物を守るように。
ネルは、まだ動かない。
彼女はレイナの円と白旗を見ていた。
怒りを使わない。
今は見る。
白旗アウレリアは、外周を一周するように滑った。
近づいているようで、近づかない。
遠ざかっているようで、見ている。
観客席は静かだった。
誰も「二度目なら」とは言わない。
マリエル先生の視線が、観客席を静かに押さえている。
ルミナリアも動かない。
だが、その待機は永遠ではない。
アドリアンが静かに手を上げた。
「ミレーヌ」
「はい」
ミレーヌが青い光を再び広げる。
観客席の視線を拡散するだけではない。
今度は、レイナの円と白旗の間に、柔らかい光の膜を作った。
遮断ではない。
緩衝。
白旗がレイナの円へ向かうなら、その途中でルミナリアの礼式に触れることになる。
うまい。
向こうは、レイナの選択を否定しない。
ただ、その間に自分たちの礼を置く。
白旗が戻る道を、ルミナリア経由にしようとしている。
「セシリア」
アドリアンが続ける。
セシリアはレイナへ向かって一礼した。
「オルコットさん」
声が通る。
また言葉だ。
俺は少し身構えた。
ネルも身構える。
セシリアは続けた。
「あなたの一度目を、私たちは奪いません」
観客席がざわめく。
綺麗な言葉。
整った宣言。
たぶん、本心でもある。
だが同時に、白旗に向けた言葉でもある。
ルミナリアは奪わない。
そう宣言することで、彼らは自分たちの礼を旗に見せている。
強い。
そして少し、ずるい。
いや、競技として正しい。
セシリアはさらに言った。
「ですが、戻る道を美しく保つことはできます」
青い光が整う。
白旗がそちらへ少し傾く。
レイナの円へ直接ではなく、ルミナリアの緩衝を通って戻る道。
白旗にとって、そちらの方が安全に見えるかもしれない。
カルミアの礼は未完成。
ルミナリアの礼は整っている。
未完成の円と、整った道。
旗がどちらを選ぶか。
簡単に見える。
簡単に見えるからこそ、俺は腹が立った。
でも、腹を立てるだけでは白旗は逃げる。
「ネル」
俺は言った。
彼女は俺を見ない。
「あんたに言われなくても分かってる」
「まだ何も言ってない」
「言いそうだった」
「顔?」
「顔」
彼女は白旗を見たまま、短く息を吐いた。
「怒ってる」
「うん」
「でも、まだ使わない」
「うん」
「あたし、綺麗な道、嫌い」
「うん」
「でも、白旗が選ぶなら仕方ない」
「うん」
「うん以外ないの」
「今は周りを持ってる」
ネルが一瞬だけこちらを見た。
「下手だけど、まあ」
「まあ?」
「今はそれでいい」
評価が少しずつ複雑になっている。
悪くない。
たぶん。
レイナは、セシリアの言葉を聞き終え、静かに頷いた。
「ありがとうございます」
その返事に、ネルが少しだけ眉をひそめる。
だがレイナは続けた。
「美しい道は、白旗が選びやすいでしょう」
セシリアは微笑んだ。
「ええ」
「ですが」
レイナの声が少し変わった。
「私は、美しいから戻るのではありません」
白旗の布が止まった。
「失敗した場所に、私の足があるから戻ります」
彼女は足元の円を見る。
「この円は、美しくありません。私の一度目の跡です。緩衝も装飾もありません」
観客席が静まる。
「でも、ここに戻ったことだけは、私のものです」
セシリアの微笑みが、ごくわずかに変わった。
アドリアンの目が細くなる。
レイナは白旗を見た。
「アウレリア。美しい道を選んでも構いません。戻らなくても構いません。ただ、もし失敗の跡を見たいなら、ここにあります」
囮。
確かに囮だった。
だが、白旗を釣るための餌ではない。
旗が見てもいい場所として、置いた失敗。
白旗アウレリアは動かなかった。
長い沈黙。
水音。
観客の呼吸。
俺たちの足元の石。
全部が、やけに大きく感じられた。
そして、白旗は動いた。
ルミナリアの青い光の方へ。
俺の胸が沈む。
駄目か。
そう思った。
しかし、白旗は青い光に触れる直前で止まった。
布の端が、光の膜を撫でるように揺れる。
それから、青い光を通らずに、少しだけ横へずれた。
直接、レイナの円へ向かうのではない。
でも、ルミナリアの道も通らない。
第三の道。
外周から中央へ戻る、細い斜めの道。
そこには何もない。
いや。
何もないから、ある。
余白。
アルフが息を吸った。
「戻り線、空けて」
彼は見えない線をさらに開く。
ミラが半歩下がり、低い荷物になりすぎない位置へ。
俺は捕獲位置に入らない。
まだ。
ネルが、じっと白旗を見ている。
彼女の指先が小さく震えている。
動きたい。
曲げたい。
でも、まだ使わない。
白旗は、斜めの道をゆっくり進んだ。
観客席は息を止めている。
ルミナリアは動かない。
動けば、礼を奪うことになる。
カルミアも動かない。
動けば、戻りを押しつけることになる。
白旗はレイナの円から少し離れた場所で止まった。
近い。
だが、まだ遠い。
布が低く揺れる。
レイナは触れない。
頭も下げない。
今礼をすれば、選択を終わらせることになる。
彼女はただ立っている。
一度目の跡と一緒に。
「ネル」
コレットの声。
短い。
ネルは反応した。
「まだ」
自分で言った。
「まだ使わない」
白旗が、また少し動く。
レイナの円の周りを、半円を描くように回った。
昨日、ネルの周りを回った時のように。
公開練習でレイナの背後を回った時のように。
ただし、今回は円の周り。
失敗の跡の周り。
触れない。
踏まない。
消さない。
確認している。
俺は手を開いたまま、動けなかった。
美しかった。
ルミナリアの美しさとは違う。
もっと危うい。
割れた皿のひびに沿って、光が落ちるような美しさ。
ガレスが見たら、何と言うだろう。
たぶん、短く「戻る」と言う。
白旗が円の反対側へ回った瞬間、アドリアンが動いた。
彼は待っていた。
白旗がレイナの円を確認し、そこへ注意を向けた時。
その背後。
いや、旗に背後という概念があるかは知らない。
とにかく、カルミアの視線が円へ集中した一瞬。
アドリアンは花びらの道を、白旗の退路へ伸ばした。
捕獲ではない。
退路の誘導。
白旗が円から離れるなら、ルミナリア側へ戻るように。
強い。
待つことさえ、彼らは攻撃に変える。
「アルフ」
俺が言うより早く、アルフは動いていた。
「見えてる」
彼の見えない戻り線が、花びらの道の端に沿う。
消さない。
壊さない。
ただ、道の意味をずらす。
白旗がルミナリアへ戻る道を、中央の余白へ戻る道に変える。
アドリアンの眉が少し動いた。
初めて、少しだけ。
「やりますね」
彼は言った。
評価。
しかし今度は、針ではなく、競技者としての反応だった。
アルフは答えない。
答えず、線を維持する。
だが、フィリップがそこで魔力の流れを変えた。
見えない線の上を、水のような魔力が滑る。
アルフの線が薄くなる。
「消される」
アルフが言う。
「線を壊されたわけじゃない。流されてる」
ジャックが控え席で舌打ちした。
「俺がいれば」
「今はいない」
コレットが言う。
「見て」
ジャックは黙った。
見る。
控えの役目。
線が流される。
白旗の退路が、またルミナリア側へ傾く。
レイナの円が、少し遠くなる。
ネルの指先が震えた。
今度は、怒りではない。
焦り。
負けたくない。
白旗がルミナリアへ行く。
レイナの一度目が、ただ見られただけで終わる。
それを止めたい。
でも、今動けば、押しつけになる。
「ネル」
レイナが呼んだ。
ネルは答えない。
「ネル」
二度目。
ネルは歯を食いしばった。
「分かってる」
「今、何ですか」
「焦り」
「誰の」
「あたしの」
「なら、まだ」
「分かってる!」
声が少し大きくなる。
白旗の布が揺れた。
危ない。
俺は動きかける。
止まる。
傷を直接持たない。
周りを持つ。
「ロイ」
俺は控え席へ言った。
「小さく」
ロイは一瞬驚いた顔をした。
でも、すぐに胸元の札を押さえた。
「小さく鳴れ」
そして、庭園に届くぎりぎりの声で言った。
「まだです」
ネルの肩が止まる。
ロイの声。
大きすぎる音を持つ彼が、小さく鳴らした合図。
それは、ネルの焦りを少しだけ押さえた。
白旗も逃げなかった。
ロイは控え席で、ほとんど泣きそうな顔をしていた。
でも、音は小さい。
偉い。
ものすごく偉い。
「まだ」
ネルは自分でも言った。
「まだ使わない」
その間に、レイナが動いた。
円から一歩出る。
「一度目を、置き直します」
観客席がざわめく。
またやるのか。
白旗も止まる。
レイナは、さっきの円を踏まなかった。
踏まないまま、その隣へ立つ。
「同じ場所へ戻るだけでは、道になりません」
彼女は言った。
「戻り道は、一つではない」
指先に光。
一度目。
弾ける。
失敗。
今度は、さっきよりわずかに大きい。
観客席の息が揺れる。
ルミナリアも見る。
白旗も見る。
ネルも見る。
俺も見る。
レイナは半歩下がらない。
その場で息を吸う。
「戻ります」
二度目。
成功。
新しい円が、最初の円の隣に生まれた。
二つの円。
一度目の跡と、戻った場所。
点が二つになった。
道ができる。
白旗の布が、大きく揺れた。
ルミナリアの花びらの道。
フィリップの流れ。
アルフの線。
そのどれとも違う、失敗と戻りで作った道。
美しくはない。
しかし、白旗が見ている。
「三つ目は?」
ネルが低く聞いた。
レイナは彼女を見た。
「必要なら」
「痛い?」
「痛いです」
「腹立つ?」
「腹立ちます」
「誰の?」
「私の」
ネルは頷いた。
「じゃあ、見てる」
レイナも頷いた。
「はい」
白旗アウレリアは、二つの円の間へ近づいた。
近い。
さっきより近い。
でも、まだ捕獲距離ではない。
俺は動かない。
レイナの道を俺の捕獲に変えるには早すぎる。
白旗は、二つの円の間で止まり、布を低くした。
まるで、そこにある見えない段差を確かめるように。
失敗。
戻り。
また失敗。
また戻り。
人間が見れば、傷の連続だ。
白旗には、それが道に見えるのかもしれない。
いや、見えるように、レイナが置いた。
「アドリアン」
セシリアが小さく言った。
ルミナリア側が少し動く。
このまま見ていれば、白旗はカルミアの道へ寄る。
彼らは止めに来る。
当然だ。
アドリアンが手を上げる。
「礼式誘導、交差」
ミレーヌの青い光と、フィリップの流れ、エリオットの細線が重なる。
美しい交差。
白旗の前に、三本の整った道が現れる。
レイナの不格好な二つの円に対して、ルミナリアは完成された三つの道を置いた。
観客席が感嘆する。
さすが。
美しい。
そういう空気。
白旗が迷う。
布が揺れる。
レイナは動かない。
ネルも動かない。
アルフは線を流され、ミラはまだ完全には動けない。
俺は、手を開いたまま立っている。
どうする。
ここで風を使えば、三本の道を乱せるかもしれない。
だが、風を使えば記憶を失う。
それに、今風で乱せば、白旗はまた逃げる可能性が高い。
風は最終手段。
まだ。
まだだ。
「ルカ」
ノルの声が控え席から聞こえた。
眠そうだ。
でも、はっきりしている。
「夢、三つの道、全部白い」
「何だそれ」
「白すぎると、どれも見えない」
クララがはっとした。
「同質化」
「分かる言葉で」
ジャックが言う。
クララは早口になりかけ、紐で前のめりを止められた。
「ルミナリアの道は美しすぎて、白旗には選択肢の違いが薄いのかもしれません」
「つまり?」
「違う色が要る」
違う色。
カルミアの色。
綺麗ではない道。
レイナの円は、その一つだ。
でも、まだ足りない。
ネルの一瞬。
まだ使わないと言った怒り。
今、使うのか。
いや、違う。
第59話は、レイナが道を作る回だ。
ネルの決定的な一瞬は、次だ。
今ここでネルが曲げれば、捕獲まで行ってしまう。
でも、道に色をつける必要はある。
俺は控え席を見た。
リリィが迷子一号を握っている。
彼女は出場していない。
でも、予定外に場所を与える礼は、白旗が見たものだ。
「リリィ」
俺は呼んだ。
彼女がびくっとする。
「迷子一号、見せるだけ」
「えっ」
「出すな。投げるな。見せるだけ」
リリィは慌てて迷子一号を両手で持ち上げた。
控え席から、白旗に見える高さへ。
「ここにも、予定外の場所があります」
声は震えていた。
でも、聞こえた。
「今日は、出ません。でも、います」
意味が分かるようで、分からない。
だが白旗の布が、わずかに控え席へ向いた。
ルミナリアの三本の道。
レイナの二つの円。
そして、控え席の迷子一号。
突然の石。
予定外。
でも、場所を与えられたもの。
観客席が少しざわめく。
何をしているのか分からない。
当然だ。
俺も完全には分からない。
でも、白旗は見ている。
「クララ」
俺は続けた。
「見すぎないで読め」
「難しい要求です」
「分かってる」
クララは記録板を閉じた。
読むのをやめたわけではない。
目を少し細め、白旗と道の間を見る。
「アウレリアは、同じ礼よりも、違う礼が互いに距離を取って並ぶ時に反応します」
彼女は言った。
「ルミナリアの三本は整っています。でも、似ています。レイナさんの円、リリィさんの予定外、ミラさんの置き場、ロイさんの小さい声。違う礼を、混ぜずに置くべきです」
混ぜずに置く。
それだ。
カルミアは一つの綺麗な道を作れない。
なら、違う礼を並べる。
押しつけず、混ぜず、余白を残して。
「ロイ」
俺が呼ぶ。
「はい」
「小さく、道」
「道?」
「音で。小さく」
ロイは喉を押さえた。
音を出すのは怖い。
でも、彼は頷いた。
「小さく鳴れ」
彼は自分に言ってから、指先で胸元の札を叩いた。
こん。
小さな音。
ほとんど聞こえない。
でも、白い庭園では、届いた。
命令ではない音。
乱暴ではない音。
歓迎の鐘にしたいと言っていた音。
白旗の布が、また少し揺れる。
ルミナリアの三本の道の白さの中に、カルミアの小さな音が置かれた。
「ガレス」
コレットが言った。
俺ではなく、部長が呼んだ。
ガレスは控え席の足元に落ちていた花びらを見つけ、そっと拾った。
踏まれない場所へ移す。
ただそれだけ。
直す礼。
白旗は見た。
確かに見た。
布が低く震える。
ジャックが控え席で歯を食いしばっている。
自分も何かしたいのだろう。
でも、今ジャックの礼は、壊さないことだ。
彼は手を見える場所に置いたまま、低く言った。
「壊さない」
声は小さい。
「今は、壊さない」
その言葉も、置かれた。
控えも含めたカルミア全体が、違う礼を置いていく。
出場者だけではない。
場全体。
白旗アウレリアは、場全体を見る。
そうだった。
俺たちは、五人だけで捕る必要はない。
五人で触る。
でも、十二人で場を作る。
白旗の布が、ルミナリアの三本の道から離れた。
ゆっくり。
ゆっくりと。
レイナの二つの円。
リリィの迷子一号。
ロイの小さな音。
ガレスの花びら。
ジャックの壊さない宣言。
ミラの置き場。
アルフの余白。
ネルの使わない怒り。
俺の開いた手。
コレットの書かない手帳。
クララの見すぎない読み。
ノルの夢。
全部が、ばらばらに置かれている。
一つの道ではない。
でも、戻れる場所が増えていく。
白旗アウレリアは、二つの円の間から、さらに中央へ一歩滑った。
観客席が静まり返る。
ルミナリアも動かない。
アドリアンは、手を下げた。
「……なるほど」
彼は小さく言った。
「道ではなく、庭を作る」
庭。
その言葉に、白旗が揺れた。
ルミナリアの庭。
白い塔の庭。
貴族校の整った庭。
そこに、カルミアは別の庭を置いた。
不揃いで、荷物が多くて、音が怖くて、花びらを拾って、迷子の石がいて、失敗の円が二つある庭。
綺麗ではない。
でも、誰か一人の形に押し込めない庭。
白旗がさらに近づく。
レイナは動かない。
ネルも動かない。
俺も動かない。
今、動くのは早い。
まだ、戻り道を作る段階だ。
捕るのは次。
そう分かっているのに、手が少し震えた。
届くかもしれない。
捕れるかもしれない。
勝てるかもしれない。
その「かもしれない」が、一番危ない。
「ルカ」
コレットの声。
「まだ」
「分かってる」
「顔」
「みんな顔を見るな」
観客席の一部が小さく笑った。
緊張が、ほんの少し緩んだ。
悪い笑いではない。
白旗も逃げなかった。
白旗アウレリアは、レイナの二つの円の近くで止まった。
そして、布の端を、二つ目の円の外側へ少しだけ下ろした。
触れた。
いや、石に触れた。
レイナには触れていない。
円にも触れていない。
円の外側。
戻った場所を尊重する距離。
レイナの目が揺れた。
ネルが息を呑む。
アルフの線が震える。
ミラが身体の重さを忘れたように背筋を伸ばす。
控え席でロイが口を押さえ、リリィが迷子一号を落としかけ、ガレスがそっと支え、ジャックが「落とすな」と小声で言い、クララが見すぎて紐に止められ、ノルが「白い」と呟いた。
コレットだけが、まだ手帳を開かなかった。
見ている。
白旗は、戻り道を見た。
完全には近づいていない。
でも、逃げてはいない。
それだけで、今は十分だった。
「ネル」
レイナが言った。
声は小さい。
「次、あなたです」
ネルの指先に、何も生まれていない。
まだ。
「分かってる」
ネルは言った。
「今度は、曲げる」
「押さないで」
「押さない」
「怒りは?」
「あたしの」
「焦りは?」
「あたしの」
「勝ちたい気持ちは?」
ネルは少し黙った。
そして、白旗を見た。
「みんなの」
レイナは頷いた。
「はい」
その言葉を聞いた時、俺はようやく次の形が見えた。
ネルの怒りはネルのもの。
焦りもネルのもの。
でも、勝ちたい気持ちは全員のもの。
だから、彼女の一瞬は、誰かの代わりに怒るためではなく、全員が作った庭の中で旗の軌道を少し曲げるために使える。
白旗アウレリアが、二つの円の外側から、ほんの少しだけ中央へ傾いた。
次だ。
誰も言わなかった。
言うと、早すぎる気がした。
ただ、全員が分かっていた。
第七魔法競技部のばらばらな礼は、白旗の戻り道を作った。
まだ捕っていない。
まだ勝っていない。
ルミナリアは強い。
アドリアンは次の一手を持っている。
セシリアも、ミレーヌも、フィリップも、エリオットも、動く準備をしている。
でも、白旗はもう外周の柱にはいない。
逃げた旗は、戻る場所を見つけた。
レイナが一度目を置いた場所。
カルミアがばらばらに礼を置いた庭。
その真ん中で、ネルが手を開く。
触るための手。
掴むための手。
乱暴にするためではない手。
俺は、自分の手を開いたまま、息を止めた。
風は、まだ呼ばない。
今は、ネルの一瞬を待つ。
白い庭園に、誰のものでもない静けさが落ちた。
次の瞬間、きっと、全部が動く。




