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第59話 一度目を置く

 白旗アウレリアは、外周の白い柱の影にいた。


 逃げた。


 でも、消えてはいない。


 それが、今の俺たちに残された全部だった。


 白い庭園の中央では、ルミナリアの選手たちがゆっくりと場を整えている。アドリアンは焦らない。セシリアは観客席側の視線を柔らかく受け流し、ミレーヌは青い光の薄幕でざわめきを拡散する。エリオットは石畳に触れない高さで細い魔力線を浮かべ、フィリップは全体の流れを水面のように均していた。


 綺麗だった。


 嫌になるくらい、綺麗だった。


 白旗に逃げられた後の立て直しまで、形になっている。


 向こうは、旗が逃げることを失敗としてだけ扱っていない。


 逃げた旗が戻るまでの時間も、競技の一部にしている。


 カルミアは、逃げられた事実をまだ手に持っていた。


 熱い。


 痛い。


 持ち方が分からない。


「カルミア、位置維持」


 コレットの声が控え席から飛んだ。


 大きくない。


 でも、通る。


 さっきまで手帳を閉じて見ていた部長は、今、言葉だけで俺たちを支えている。


「集まらない。追わない。まず、逃げた理由を残す」


 逃げた理由。


 ネルの怒りが強くなった。


 レイナの戻りを旗へ押しつけた。


 ミラが止める荷物になろうとして動けなくなった。


 俺が待つと言いながら捕る準備をしすぎた。


 アルフの線が上空に遅れた。


 観客席の分類。


 セシリアの褒め言葉。


 ルミナリアの整った空白。


 全部。


 逃げた理由は一つではない。


 だから、誰か一人のせいにすると、また逃げられる。


「ミラ」


 俺は声をかけた。


 彼女は花壇の縁ぎりぎりで、まだ少し身体を重そうにしている。


 筋力強化の反動。


 完全には戻っていない。


「足、動くか」


「少し」


「無理するな」


「無理じゃない範囲で戻る」


「それでいい」


 ミラは一歩だけ下がった。


 花壇を踏まない。


 白旗を追わない。


 ただ、自分の置き場を戻す。


 白旗アウレリアの布が、外周でほんの少し揺れた。


 ミラを見ているのか。


 分からない。


 でも、見ていると仮定した方がいい。


 この旗は、見ている。


 人の手。


 足。


 目。


 声。


 謝り方。


 怒り方。


 戻り方。


 そして、逃げられた後の持ち方。


「レイナ」


 ネルが言った。


 短い。


 さんは、もうない。


「何ですか、ネル」


 レイナは白旗から目を離さずに答えた。


「今、どうするの」


 質問だった。


 責める声ではなかった。


 急かす声でもない。


 だが、軽くもない。


 公式戦の真ん中で、ネルはレイナに尋ねている。


 あなたが何を選ぶのか。


 レイナはすぐには答えなかった。


 彼女の指先に、さっきの失敗の余韻が残っているように見えた。


 白い手袋はしていない。


 失敗する指。


 戻る指。


 人に見られた指。


 使われそうになった指。


「私は」


 レイナが言った。


 その声は、観客席まで届いた。


 届くように言ったのだ。


「一度目を、置きます」


 置く。


 使う、ではなく。


 見せる、でもなく。


 置く。


 ネルが少しだけ眉を動かした。


「どこに」


「白旗が戻れる場所に」


「囮?」


「囮です」


 レイナははっきり言った。


 観客席がざわめく。


 囮。


 貴族校の庭園で、礼式の中で、彼女はその言葉を選んだ。


 綺麗な言い換えをしない。


 誘導でも、見せ場でも、演出でもない。


 囮。


 自分の一度目の失敗を、旗が見るための場所に置く。


 ただし、勝手に使われるのではなく。


 自分で。


 レイナは続けた。


「私は、初手で失敗します」


 観客席が静まる。


 昨日も、今日も、聞いた言葉。


 しかし今は、少し違う。


「それを隠しません。戻ります。ただし、今度は白旗をこちらへ戻すためではありません」


 彼女は外周の白旗を見た。


「白旗が、戻るかどうか選べる場所を作るためです」


 白旗アウレリアの布が、外周で静かに揺れた。


 柱に絡んでいた白い端が、少し緩む。


 観客席の誰かが、息を呑んだ。


 ルミナリア側も動きを止める。


 アドリアンがレイナを見た。


「オルコットさん」


 彼の声は静かだった。


「その宣言は、競技者として危険です」


「承知しています」


「自分の失敗を囮にすると言えば、観客はそこを見る」


「はい」


「白旗も見る」


「はい」


「そして、私たちも利用する」


「してください」


 レイナの答えに、俺は息を止めた。


 利用してください。


 危ない言葉だ。


 ネルも同じように感じたのだろう。


 一歩動きかける。


 レイナが彼女の名前を呼ぶより早く、ネル自身が止まった。


「……誰の選択?」


 ネルは聞いた。


 声は低い。


 でも、止まっている。


「私の選択です」


 レイナは答えた。


「誰に使わせるの」


「白旗に」


 ネルの目が少し開いた。


 レイナは続ける。


「ルミナリアにも、観客にも、カルミアにも、私の一度目を所有させません。けれど、白旗が戻り道を選ぶために見るなら、置きます」


 言葉が庭園に落ちる。


 白い石に、青い花に、観客席に、俺たちに。


「それでも、囮です」


 レイナは言った。


「綺麗な言葉にはしません」


 ネルはしばらく黙っていた。


 そして、短く言った。


「分かった」


 それだけ。


 でも、その「分かった」は重かった。


 代わりに怒らない。


 本人の選択として受け取る。


 ネルの怒りが消えたわけではない。


 むしろ、ちゃんと手元に戻った。


「コレット」


 俺は控え席へ声を投げた。


「作戦、変える?」


「変えない」


 即答。


 部長は、白旗を見たまま言った。


「名前を変える」


「名前?」


「レイナの一度目を使う作戦じゃない。レイナが一度目を置く作戦」


 細かい。


 でも、重要だった。


 使う。


 置く。


 その違いだけで、手つきが変わる。


「アルフ」


 コレットが続ける。


「戻り線は、レイナの位置を中心にしない。白旗が選べる余白を残す」


「了解」


 アルフが見えない線を引き直す。


 彼の手が少しだけ低く動く。


 線を厳しくしすぎない。


 逃げ道を完全には塞がない。


 戻れる道と逃げられる道を、両方残す。


 それは競技として、かなり怖い。


 逃げ道を残せば、旗は逃げるかもしれない。


 しかし、逃げ道を消せば、白旗はもっと逃げる。


 白旗アウレリアは、捕まえられるために戻る旗ではない。


 尊重される距離を見て、初めて選ぶ旗だ。


「ミラ」


 コレットの声。


「置き場を低くしすぎない」


「分かった」


 ミラはまだ身体が重い。


 だが、彼女は無理に壁になろうとしなかった。


 花壇から半歩離れ、白旗が通れる幅を空ける。


「荷物は、道を塞がない」


 ミラは言った。


「でも、落ちるものがあったら受ける」


「それでいい」


 コレットが頷く。


「ネル」


 部長が呼ぶ。


「何」


「怒りは、まだ使わない」


「分かってる」


「使いたくなったら」


「名前を呼ぶ」


 ネルはレイナを見た。


「レイナ」


「はい、ネル」


「今は見てる」


「はい」


 それだけ。


 短い。


 でも、白旗の布がまた少し緩んだ。


 ルミナリアが動かない。


 アドリアンは、レイナの宣言を聞いた後、すぐに攻めてこなかった。


 彼なら、そこを突けたはずだ。


 観客に見せる言葉を重ねて、レイナの一度目をまた「鑑賞」に変えることもできた。


 だが、彼はそれをしなかった。


 なぜか。


 礼か。


 警戒か。


 それとも、白旗に見られているからか。


 たぶん全部だ。


「ルミナリア、待機」


 アドリアンが言った。


 セシリアが一瞬彼を見る。


 フィリップも指先の魔力を止める。


 ミレーヌの青い光が薄くなる。


 彼らは待つことを選んだ。


 白旗アウレリアが、外周からゆっくり離れた。


 柱の影を抜け、白い石の上へ。


 まだ中央へは来ない。


 外周をなぞるように、低く滑る。


 白い布が、花壇の青い花に影を落とす。


 その影を見て、ガレスが控え席で少し動いた。


 花が踏まれないか見ているのだろう。


 出場していなくても、彼の礼はそこにある。


「レイナ」


 コレットが言った。


「置いて」


 レイナは頷いた。


 彼女は中央へ走らない。


 白旗へ近づきすぎない。


 自分の位置を選ぶ。


 庭園の中央より少し南。


 観客席から見える。


 白旗からも見える。


 ルミナリアからも見える。


 隠れられない場所。


 だが、白旗の進路を塞がない場所。


 そこで彼女は立ち止まった。


「一度目」


 声が響いた。


 指先に白い光。


 弾ける。


 失敗。


 観客席の視線が集まる。


 昨日と同じ。


 今日の最初と同じ。


 しかし、レイナは指先を隠さなかった。


 手を下げもしない。


 失敗した指を、そのまま場に置いた。


「これは、私の一度目です」


 彼女は言った。


「誰かに笑われるためではありません」


 観客席が静まる。


「誰かに慰められるためでもありません」


 俺は足を止めている。


 慰めない。


 説明しない。


 周りを持つ。


「白旗アウレリア」


 レイナは旗を呼んだ。


 旗の名前。


 名誉旗として。


 物ではなく、ただの獲物でもなく。


「私は、失敗します。そして戻ります。あなたが戻らなくても、戻ります」


 白旗の布が揺れた。


 レイナは半歩下がった。


「戻ります」


 二度目の光。


 成功。


 ただし、その光は白旗へ伸びなかった。


 足元に落ちた。


 白い石の上に、小さな円を描く。


 戻りの印。


 旗を引き寄せる線ではない。


 レイナ自身が戻った場所を示す円。


 アルフが息を呑む。


「線じゃない」


「場所」


 俺が言う。


 アルフは頷いた。


「なら、周りに余白を作る」


 彼の見えない戻り線が、その円の周囲に広がる。


 囲まない。


 押さえない。


 ただ、円が踏み荒らされないように距離を置く。


 ミラがその外側に立つ。


 荷物を守るように。


 ネルは、まだ動かない。


 彼女はレイナの円と白旗を見ていた。


 怒りを使わない。


 今は見る。


 白旗アウレリアは、外周を一周するように滑った。


 近づいているようで、近づかない。


 遠ざかっているようで、見ている。


 観客席は静かだった。


 誰も「二度目なら」とは言わない。


 マリエル先生の視線が、観客席を静かに押さえている。


 ルミナリアも動かない。


 だが、その待機は永遠ではない。


 アドリアンが静かに手を上げた。


「ミレーヌ」


「はい」


 ミレーヌが青い光を再び広げる。


 観客席の視線を拡散するだけではない。


 今度は、レイナの円と白旗の間に、柔らかい光の膜を作った。


 遮断ではない。


 緩衝。


 白旗がレイナの円へ向かうなら、その途中でルミナリアの礼式に触れることになる。


 うまい。


 向こうは、レイナの選択を否定しない。


 ただ、その間に自分たちの礼を置く。


 白旗が戻る道を、ルミナリア経由にしようとしている。


「セシリア」


 アドリアンが続ける。


 セシリアはレイナへ向かって一礼した。


「オルコットさん」


 声が通る。


 また言葉だ。


 俺は少し身構えた。


 ネルも身構える。


 セシリアは続けた。


「あなたの一度目を、私たちは奪いません」


 観客席がざわめく。


 綺麗な言葉。


 整った宣言。


 たぶん、本心でもある。


 だが同時に、白旗に向けた言葉でもある。


 ルミナリアは奪わない。


 そう宣言することで、彼らは自分たちの礼を旗に見せている。


 強い。


 そして少し、ずるい。


 いや、競技として正しい。


 セシリアはさらに言った。


「ですが、戻る道を美しく保つことはできます」


 青い光が整う。


 白旗がそちらへ少し傾く。


 レイナの円へ直接ではなく、ルミナリアの緩衝を通って戻る道。


 白旗にとって、そちらの方が安全に見えるかもしれない。


 カルミアの礼は未完成。


 ルミナリアの礼は整っている。


 未完成の円と、整った道。


 旗がどちらを選ぶか。


 簡単に見える。


 簡単に見えるからこそ、俺は腹が立った。


 でも、腹を立てるだけでは白旗は逃げる。


「ネル」


 俺は言った。


 彼女は俺を見ない。


「あんたに言われなくても分かってる」


「まだ何も言ってない」


「言いそうだった」


「顔?」


「顔」


 彼女は白旗を見たまま、短く息を吐いた。


「怒ってる」


「うん」


「でも、まだ使わない」


「うん」


「あたし、綺麗な道、嫌い」


「うん」


「でも、白旗が選ぶなら仕方ない」


「うん」


「うん以外ないの」


「今は周りを持ってる」


 ネルが一瞬だけこちらを見た。


「下手だけど、まあ」


「まあ?」


「今はそれでいい」


 評価が少しずつ複雑になっている。


 悪くない。


 たぶん。


 レイナは、セシリアの言葉を聞き終え、静かに頷いた。


「ありがとうございます」


 その返事に、ネルが少しだけ眉をひそめる。


 だがレイナは続けた。


「美しい道は、白旗が選びやすいでしょう」


 セシリアは微笑んだ。


「ええ」


「ですが」


 レイナの声が少し変わった。


「私は、美しいから戻るのではありません」


 白旗の布が止まった。


「失敗した場所に、私の足があるから戻ります」


 彼女は足元の円を見る。


「この円は、美しくありません。私の一度目の跡です。緩衝も装飾もありません」


 観客席が静まる。


「でも、ここに戻ったことだけは、私のものです」


 セシリアの微笑みが、ごくわずかに変わった。


 アドリアンの目が細くなる。


 レイナは白旗を見た。


「アウレリア。美しい道を選んでも構いません。戻らなくても構いません。ただ、もし失敗の跡を見たいなら、ここにあります」


 囮。


 確かに囮だった。


 だが、白旗を釣るための餌ではない。


 旗が見てもいい場所として、置いた失敗。


 白旗アウレリアは動かなかった。


 長い沈黙。


 水音。


 観客の呼吸。


 俺たちの足元の石。


 全部が、やけに大きく感じられた。


 そして、白旗は動いた。


 ルミナリアの青い光の方へ。


 俺の胸が沈む。


 駄目か。


 そう思った。


 しかし、白旗は青い光に触れる直前で止まった。


 布の端が、光の膜を撫でるように揺れる。


 それから、青い光を通らずに、少しだけ横へずれた。


 直接、レイナの円へ向かうのではない。


 でも、ルミナリアの道も通らない。


 第三の道。


 外周から中央へ戻る、細い斜めの道。


 そこには何もない。


 いや。


 何もないから、ある。


 余白。


 アルフが息を吸った。


「戻り線、空けて」


 彼は見えない線をさらに開く。


 ミラが半歩下がり、低い荷物になりすぎない位置へ。


 俺は捕獲位置に入らない。


 まだ。


 ネルが、じっと白旗を見ている。


 彼女の指先が小さく震えている。


 動きたい。


 曲げたい。


 でも、まだ使わない。


 白旗は、斜めの道をゆっくり進んだ。


 観客席は息を止めている。


 ルミナリアは動かない。


 動けば、礼を奪うことになる。


 カルミアも動かない。


 動けば、戻りを押しつけることになる。


 白旗はレイナの円から少し離れた場所で止まった。


 近い。


 だが、まだ遠い。


 布が低く揺れる。


 レイナは触れない。


 頭も下げない。


 今礼をすれば、選択を終わらせることになる。


 彼女はただ立っている。


 一度目の跡と一緒に。


「ネル」


 コレットの声。


 短い。


 ネルは反応した。


「まだ」


 自分で言った。


「まだ使わない」


 白旗が、また少し動く。


 レイナの円の周りを、半円を描くように回った。


 昨日、ネルの周りを回った時のように。


 公開練習でレイナの背後を回った時のように。


 ただし、今回は円の周り。


 失敗の跡の周り。


 触れない。


 踏まない。


 消さない。


 確認している。


 俺は手を開いたまま、動けなかった。


 美しかった。


 ルミナリアの美しさとは違う。


 もっと危うい。


 割れた皿のひびに沿って、光が落ちるような美しさ。


 ガレスが見たら、何と言うだろう。


 たぶん、短く「戻る」と言う。


 白旗が円の反対側へ回った瞬間、アドリアンが動いた。


 彼は待っていた。


 白旗がレイナの円を確認し、そこへ注意を向けた時。


 その背後。


 いや、旗に背後という概念があるかは知らない。


 とにかく、カルミアの視線が円へ集中した一瞬。


 アドリアンは花びらの道を、白旗の退路へ伸ばした。


 捕獲ではない。


 退路の誘導。


 白旗が円から離れるなら、ルミナリア側へ戻るように。


 強い。


 待つことさえ、彼らは攻撃に変える。


「アルフ」


 俺が言うより早く、アルフは動いていた。


「見えてる」


 彼の見えない戻り線が、花びらの道の端に沿う。


 消さない。


 壊さない。


 ただ、道の意味をずらす。


 白旗がルミナリアへ戻る道を、中央の余白へ戻る道に変える。


 アドリアンの眉が少し動いた。


 初めて、少しだけ。


「やりますね」


 彼は言った。


 評価。


 しかし今度は、針ではなく、競技者としての反応だった。


 アルフは答えない。


 答えず、線を維持する。


 だが、フィリップがそこで魔力の流れを変えた。


 見えない線の上を、水のような魔力が滑る。


 アルフの線が薄くなる。


「消される」


 アルフが言う。


「線を壊されたわけじゃない。流されてる」


 ジャックが控え席で舌打ちした。


「俺がいれば」


「今はいない」


 コレットが言う。


「見て」


 ジャックは黙った。


 見る。


 控えの役目。


 線が流される。


 白旗の退路が、またルミナリア側へ傾く。


 レイナの円が、少し遠くなる。


 ネルの指先が震えた。


 今度は、怒りではない。


 焦り。


 負けたくない。


 白旗がルミナリアへ行く。


 レイナの一度目が、ただ見られただけで終わる。


 それを止めたい。


 でも、今動けば、押しつけになる。


「ネル」


 レイナが呼んだ。


 ネルは答えない。


「ネル」


 二度目。


 ネルは歯を食いしばった。


「分かってる」


「今、何ですか」


「焦り」


「誰の」


「あたしの」


「なら、まだ」


「分かってる!」


 声が少し大きくなる。


 白旗の布が揺れた。


 危ない。


 俺は動きかける。


 止まる。


 傷を直接持たない。


 周りを持つ。


「ロイ」


 俺は控え席へ言った。


「小さく」


 ロイは一瞬驚いた顔をした。


 でも、すぐに胸元の札を押さえた。


「小さく鳴れ」


 そして、庭園に届くぎりぎりの声で言った。


「まだです」


 ネルの肩が止まる。


 ロイの声。


 大きすぎる音を持つ彼が、小さく鳴らした合図。


 それは、ネルの焦りを少しだけ押さえた。


 白旗も逃げなかった。


 ロイは控え席で、ほとんど泣きそうな顔をしていた。


 でも、音は小さい。


 偉い。


 ものすごく偉い。


「まだ」


 ネルは自分でも言った。


「まだ使わない」


 その間に、レイナが動いた。


 円から一歩出る。


「一度目を、置き直します」


 観客席がざわめく。


 またやるのか。


 白旗も止まる。


 レイナは、さっきの円を踏まなかった。


 踏まないまま、その隣へ立つ。


「同じ場所へ戻るだけでは、道になりません」


 彼女は言った。


「戻り道は、一つではない」


 指先に光。


 一度目。


 弾ける。


 失敗。


 今度は、さっきよりわずかに大きい。


 観客席の息が揺れる。


 ルミナリアも見る。


 白旗も見る。


 ネルも見る。


 俺も見る。


 レイナは半歩下がらない。


 その場で息を吸う。


「戻ります」


 二度目。


 成功。


 新しい円が、最初の円の隣に生まれた。


 二つの円。


 一度目の跡と、戻った場所。


 点が二つになった。


 道ができる。


 白旗の布が、大きく揺れた。


 ルミナリアの花びらの道。


 フィリップの流れ。


 アルフの線。


 そのどれとも違う、失敗と戻りで作った道。


 美しくはない。


 しかし、白旗が見ている。


「三つ目は?」


 ネルが低く聞いた。


 レイナは彼女を見た。


「必要なら」


「痛い?」


「痛いです」


「腹立つ?」


「腹立ちます」


「誰の?」


「私の」


 ネルは頷いた。


「じゃあ、見てる」


 レイナも頷いた。


「はい」


 白旗アウレリアは、二つの円の間へ近づいた。


 近い。


 さっきより近い。


 でも、まだ捕獲距離ではない。


 俺は動かない。


 レイナの道を俺の捕獲に変えるには早すぎる。


 白旗は、二つの円の間で止まり、布を低くした。


 まるで、そこにある見えない段差を確かめるように。


 失敗。


 戻り。


 また失敗。


 また戻り。


 人間が見れば、傷の連続だ。


 白旗には、それが道に見えるのかもしれない。


 いや、見えるように、レイナが置いた。


「アドリアン」


 セシリアが小さく言った。


 ルミナリア側が少し動く。


 このまま見ていれば、白旗はカルミアの道へ寄る。


 彼らは止めに来る。


 当然だ。


 アドリアンが手を上げる。


「礼式誘導、交差」


 ミレーヌの青い光と、フィリップの流れ、エリオットの細線が重なる。


 美しい交差。


 白旗の前に、三本の整った道が現れる。


 レイナの不格好な二つの円に対して、ルミナリアは完成された三つの道を置いた。


 観客席が感嘆する。


 さすが。


 美しい。


 そういう空気。


 白旗が迷う。


 布が揺れる。


 レイナは動かない。


 ネルも動かない。


 アルフは線を流され、ミラはまだ完全には動けない。


 俺は、手を開いたまま立っている。


 どうする。


 ここで風を使えば、三本の道を乱せるかもしれない。


 だが、風を使えば記憶を失う。


 それに、今風で乱せば、白旗はまた逃げる可能性が高い。


 風は最終手段。


 まだ。


 まだだ。


「ルカ」


 ノルの声が控え席から聞こえた。


 眠そうだ。


 でも、はっきりしている。


「夢、三つの道、全部白い」


「何だそれ」


「白すぎると、どれも見えない」


 クララがはっとした。


「同質化」


「分かる言葉で」


 ジャックが言う。


 クララは早口になりかけ、紐で前のめりを止められた。


「ルミナリアの道は美しすぎて、白旗には選択肢の違いが薄いのかもしれません」


「つまり?」


「違う色が要る」


 違う色。


 カルミアの色。


 綺麗ではない道。


 レイナの円は、その一つだ。


 でも、まだ足りない。


 ネルの一瞬。


 まだ使わないと言った怒り。


 今、使うのか。


 いや、違う。


 第59話は、レイナが道を作る回だ。


 ネルの決定的な一瞬は、次だ。


 今ここでネルが曲げれば、捕獲まで行ってしまう。


 でも、道に色をつける必要はある。


 俺は控え席を見た。


 リリィが迷子一号を握っている。


 彼女は出場していない。


 でも、予定外に場所を与える礼は、白旗が見たものだ。


「リリィ」


 俺は呼んだ。


 彼女がびくっとする。


「迷子一号、見せるだけ」


「えっ」


「出すな。投げるな。見せるだけ」


 リリィは慌てて迷子一号を両手で持ち上げた。


 控え席から、白旗に見える高さへ。


「ここにも、予定外の場所があります」


 声は震えていた。


 でも、聞こえた。


「今日は、出ません。でも、います」


 意味が分かるようで、分からない。


 だが白旗の布が、わずかに控え席へ向いた。


 ルミナリアの三本の道。


 レイナの二つの円。


 そして、控え席の迷子一号。


 突然の石。


 予定外。


 でも、場所を与えられたもの。


 観客席が少しざわめく。


 何をしているのか分からない。


 当然だ。


 俺も完全には分からない。


 でも、白旗は見ている。


「クララ」


 俺は続けた。


「見すぎないで読め」


「難しい要求です」


「分かってる」


 クララは記録板を閉じた。


 読むのをやめたわけではない。


 目を少し細め、白旗と道の間を見る。


「アウレリアは、同じ礼よりも、違う礼が互いに距離を取って並ぶ時に反応します」


 彼女は言った。


「ルミナリアの三本は整っています。でも、似ています。レイナさんの円、リリィさんの予定外、ミラさんの置き場、ロイさんの小さい声。違う礼を、混ぜずに置くべきです」


 混ぜずに置く。


 それだ。


 カルミアは一つの綺麗な道を作れない。


 なら、違う礼を並べる。


 押しつけず、混ぜず、余白を残して。


「ロイ」


 俺が呼ぶ。


「はい」


「小さく、道」


「道?」


「音で。小さく」


 ロイは喉を押さえた。


 音を出すのは怖い。


 でも、彼は頷いた。


「小さく鳴れ」


 彼は自分に言ってから、指先で胸元の札を叩いた。


 こん。


 小さな音。


 ほとんど聞こえない。


 でも、白い庭園では、届いた。


 命令ではない音。


 乱暴ではない音。


 歓迎の鐘にしたいと言っていた音。


 白旗の布が、また少し揺れる。


 ルミナリアの三本の道の白さの中に、カルミアの小さな音が置かれた。


「ガレス」


 コレットが言った。


 俺ではなく、部長が呼んだ。


 ガレスは控え席の足元に落ちていた花びらを見つけ、そっと拾った。


 踏まれない場所へ移す。


 ただそれだけ。


 直す礼。


 白旗は見た。


 確かに見た。


 布が低く震える。


 ジャックが控え席で歯を食いしばっている。


 自分も何かしたいのだろう。


 でも、今ジャックの礼は、壊さないことだ。


 彼は手を見える場所に置いたまま、低く言った。


「壊さない」


 声は小さい。


「今は、壊さない」


 その言葉も、置かれた。


 控えも含めたカルミア全体が、違う礼を置いていく。


 出場者だけではない。


 場全体。


 白旗アウレリアは、場全体を見る。


 そうだった。


 俺たちは、五人だけで捕る必要はない。


 五人で触る。


 でも、十二人で場を作る。


 白旗の布が、ルミナリアの三本の道から離れた。


 ゆっくり。


 ゆっくりと。


 レイナの二つの円。


 リリィの迷子一号。


 ロイの小さな音。


 ガレスの花びら。


 ジャックの壊さない宣言。


 ミラの置き場。


 アルフの余白。


 ネルの使わない怒り。


 俺の開いた手。


 コレットの書かない手帳。


 クララの見すぎない読み。


 ノルの夢。


 全部が、ばらばらに置かれている。


 一つの道ではない。


 でも、戻れる場所が増えていく。


 白旗アウレリアは、二つの円の間から、さらに中央へ一歩滑った。


 観客席が静まり返る。


 ルミナリアも動かない。


 アドリアンは、手を下げた。


「……なるほど」


 彼は小さく言った。


「道ではなく、庭を作る」


 庭。


 その言葉に、白旗が揺れた。


 ルミナリアの庭。


 白い塔の庭。


 貴族校の整った庭。


 そこに、カルミアは別の庭を置いた。


 不揃いで、荷物が多くて、音が怖くて、花びらを拾って、迷子の石がいて、失敗の円が二つある庭。


 綺麗ではない。


 でも、誰か一人の形に押し込めない庭。


 白旗がさらに近づく。


 レイナは動かない。


 ネルも動かない。


 俺も動かない。


 今、動くのは早い。


 まだ、戻り道を作る段階だ。


 捕るのは次。


 そう分かっているのに、手が少し震えた。


 届くかもしれない。


 捕れるかもしれない。


 勝てるかもしれない。


 その「かもしれない」が、一番危ない。


「ルカ」


 コレットの声。


「まだ」


「分かってる」


「顔」


「みんな顔を見るな」


 観客席の一部が小さく笑った。


 緊張が、ほんの少し緩んだ。


 悪い笑いではない。


 白旗も逃げなかった。


 白旗アウレリアは、レイナの二つの円の近くで止まった。


 そして、布の端を、二つ目の円の外側へ少しだけ下ろした。


 触れた。


 いや、石に触れた。


 レイナには触れていない。


 円にも触れていない。


 円の外側。


 戻った場所を尊重する距離。


 レイナの目が揺れた。


 ネルが息を呑む。


 アルフの線が震える。


 ミラが身体の重さを忘れたように背筋を伸ばす。


 控え席でロイが口を押さえ、リリィが迷子一号を落としかけ、ガレスがそっと支え、ジャックが「落とすな」と小声で言い、クララが見すぎて紐に止められ、ノルが「白い」と呟いた。


 コレットだけが、まだ手帳を開かなかった。


 見ている。


 白旗は、戻り道を見た。


 完全には近づいていない。


 でも、逃げてはいない。


 それだけで、今は十分だった。


「ネル」


 レイナが言った。


 声は小さい。


「次、あなたです」


 ネルの指先に、何も生まれていない。


 まだ。


「分かってる」


 ネルは言った。


「今度は、曲げる」


「押さないで」


「押さない」


「怒りは?」


「あたしの」


「焦りは?」


「あたしの」


「勝ちたい気持ちは?」


 ネルは少し黙った。


 そして、白旗を見た。


「みんなの」


 レイナは頷いた。


「はい」


 その言葉を聞いた時、俺はようやく次の形が見えた。


 ネルの怒りはネルのもの。


 焦りもネルのもの。


 でも、勝ちたい気持ちは全員のもの。


 だから、彼女の一瞬は、誰かの代わりに怒るためではなく、全員が作った庭の中で旗の軌道を少し曲げるために使える。


 白旗アウレリアが、二つの円の外側から、ほんの少しだけ中央へ傾いた。


 次だ。


 誰も言わなかった。


 言うと、早すぎる気がした。


 ただ、全員が分かっていた。


 第七魔法競技部のばらばらな礼は、白旗の戻り道を作った。


 まだ捕っていない。


 まだ勝っていない。


 ルミナリアは強い。


 アドリアンは次の一手を持っている。


 セシリアも、ミレーヌも、フィリップも、エリオットも、動く準備をしている。


 でも、白旗はもう外周の柱にはいない。


 逃げた旗は、戻る場所を見つけた。


 レイナが一度目を置いた場所。


 カルミアがばらばらに礼を置いた庭。


 その真ん中で、ネルが手を開く。


 触るための手。


 掴むための手。


 乱暴にするためではない手。


 俺は、自分の手を開いたまま、息を止めた。


 風は、まだ呼ばない。


 今は、ネルの一瞬を待つ。


 白い庭園に、誰のものでもない静けさが落ちた。


 次の瞬間、きっと、全部が動く。


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