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第58話 白旗は逃げる

 白い庭園に入った瞬間、音が変わった。


 廊下の中では、鐘の音も足音も壁に沿って流れていた。


 庭園では違う。


 音が上へ抜ける。


 観客席の低いざわめきも、噴水の水音も、誰かが息を吸う小さな気配も、白い石と青い花の上を通って、空へ薄く広がっていく。


 その中心に、白旗アウレリアがいた。


 鳥像の背。


 広げた翼の上に、白い布が立っている。


 金糸の縁が朝の光を受け、静かに燃えているように見えた。


 旗は風を待っていない。


 旗自身が、風を選んでいる。


 そんなふうに見える。


 俺たちカルミア魔法学園第七魔法競技部は、庭園の南側に並んだ。


 向かいには、ルミナリア貴族魔法学院。


 アドリアン・ヴァロワを中心に、白と青の制服が整った線を作っている。


 セシリア・グレイスは少し後ろ。


 彼女は今日、競技補助ではなく控え選手の位置にいる。


 ただ、視線はずっと場を見ていた。


 マリエル先生は審判席の横に立ち、観覧席を一度見渡した。


 昨日、彼女にたしなめられた年配の男性もいる。


 今日は口を閉じている。


 それだけで、白旗の庭園では意味がある。


 観客席は、昨日より多かった。


 ルミナリアの生徒。


 学院関係者。


 外部の貴族家関係者。


 そして、少数だが競技連盟の記録員らしき人影も見える。


 グラナート軍事校の時と違って、ここにあるのは号令の圧ではない。


 もっと柔らかい。


 柔らかいが、逃げ場がない。


 絹で首を絞められるような圧。


 たとえが物騒だ。


 でも、そう感じるものは仕方ない。


「ルカ」


 ネルが小さく呼んだ。


 隣ではない。


 少し前。


 レイナと呼べる距離にいる。


 俺とは、半歩離れている。


 今日の彼女は、その距離を自分で選んでいる。


「顔」


「またか」


「全部見て、全部背負う顔」


「今日はしてないつもりだった」


「してた」


 レイナが静かに頷いた。


「していました」


「二人して判定が厳しい」


「必要です」


 レイナは白旗から目を離さずに言った。


「あなたは、周りを持つ役です」


 傷を直接持たない。


 周りを持つ。


 ガレスの言葉。


 俺は息を吐いた。


「分かった。俺は俺の分だけ」


「怪しい」


 ネルが言う。


「怪しいですね」


 レイナも言う。


「試合前から信用が低い」


「信用しているから確認しています」


 レイナは昨日と同じことを言った。


 少しだけ、口元が緩んでいる。


 ネルも、ほんの少しだけ鼻を鳴らした。


 そのやり取りに、俺は少し救われた。


 すぐに、救われている場合ではなくなった。


「これより」


 審判長の声が響いた。


 白い庭園の中央で、細身の男性が片手を上げる。


 声は大きくない。


 しかし、庭園全体に通った。


「巡業魔法旗競技、ルミナリア貴族魔法学院対カルミア魔法学園、公式戦を開始する」


 観客席が静まる。


 水音がよく聞こえる。


「本競技は五名対五名、動的名誉旗形式。対象旗は白旗アウレリア。捕獲点一点、護持点一点、礼式評価点は審判団および旗反応記録により判定される」


 礼式評価点。


 グラナートでは命令と接触が重要だった。


 ここでは、礼が点になる。


 点になると聞くと、急に嫌なものに見える。


 でも、競技とはそういうものだ。


 大切なものを点にする。


 だからこそ、点にする時の手つきが問われる。


「攻撃魔法は制限範囲内で許可。ただし旗本体への破損行為、庭園設備への故意破壊、観覧席への干渉は禁止。旗への接触は捕獲意図を伴うものに限る」


 ジャックが小さく息を吐いた。


「壊さない」


 自分に言っている。


 ガレスが隣で頷いた。


「流れだけ」


「分かってる」


 ジャックは不機嫌そうに答えた。


 でも、手は見える場所に置いている。


 今日の出場五人は、朝の最終確認で決めた。


 レイナ。


 ネル。


 アルフ。


 ミラ。


 俺。


 控えにコレット、ロイ、ガレス、ジャック、リリィ、クララ、ノル。


 コレットは出ない。


 部長が出ない試合。


 それは少し不安だった。


 でも、白旗戦では、彼女は外から負け筋を見る方が必要だと判断した。


 勝ち筋を作った本人が、外にいる。


 それもまた、カルミアらしい。


「カルミア、確認」


 審判が言う。


 コレットが一歩出る。


「カルミア魔法学園、第七魔法競技部。出場者、レイナ・オルコット、ネル・アーレン、アルフ・メイナード、ミラ・ガルド、ルカ・ヴァレン」


 名前が庭園に置かれていく。


 棚ではない。


 役割だけでもない。


 名前。


 俺は、その一つ一つを聞いた。


「ルミナリア、確認」


 アドリアンが一歩出る。


「ルミナリア貴族魔法学院。出場者、アドリアン・ヴァロワ、エリオット・サージュ、ミレーヌ・ロシェ、フィリップ・カンブラン、セシリア・グレイス」


 セシリアも出るのか。


 控えではなかった。


 昨日まで案内役のように見えていた彼女が、今日は選手として名を呼ばれる。


 その表情は柔らかい。


 しかし、目は競技者のものだった。


 俺は少しだけ喉を鳴らした。


 厄介だ。


 彼女は場を整えるのがうまい。


 白旗戦では、それだけで強い。


「開始前礼」


 審判が言った。


 ルミナリア側が、一斉に鳥像へ向かって礼をした。


 完璧だった。


 角度。


 呼吸。


 手の位置。


 五人が別々の人間でありながら、一つの絵のように見える。


 観客席が、その整った礼に自然と息を整える。


 これがルミナリアの強さだ。


 戦う前に、場を自分たちの形へ寄せる。


 こちらの番。


 コレットが短く言う。


「形に寄せすぎない」


 俺たちは礼をした。


 角度は揃っていない。


 ミラは少し深すぎた。


 ネルは少し浅い。


 アルフは正確だが、ルミナリアの正確さとは違う。


 レイナは、さすがに綺麗だった。


 俺は、たぶん中途半端だった。


 観客席の空気が少し揺れる。


 整っていない。


 だが、白旗アウレリアは逃げなかった。


 鳥像の上で、布がゆっくり揺れている。


 見ている。


 まだ、拒んではいない。


「開始」


 審判の手が下りた。


 白旗アウレリアが鳥像から消えた。


 正確には、白い布が一度ほどけた。


 風ではなく、水でもなく、光でもない。


 旗の形がほどけ、次の瞬間、庭園中央の噴水脇に立っていた。


 ルミナリアが動く。


 速い。


 しかし、速さが乱暴ではない。


 アドリアンが中央左へ。


 セシリアが右の花壇沿いへ。


 エリオットと呼ばれた少年が後方で細い光の線を引き、ミレーヌが観客席側の進路をふわりと閉じる。


 フィリップは一歩も前に出ない。


 ただ、手を胸の前で開き、庭園全体の魔力の流れを整えている。


 俺たちの初手も、決めていた。


 アルフが戻り線を引く。


 ミラが自分の置き場を確保する。


 俺はレイナとネルの斜め後ろ。


 レイナが一度目を使う位置へ向かう。


 ネルは追わない距離で待つ。


 白旗は噴水脇から動かない。


 観客席が、最初の接触を待っている。


 レイナが一歩出た。


 白い石の上を歩く。


 昨日より、少し崩れている。


 わざとか。


 たぶん、わざとだ。


 完璧な礼に逃げないため。


 ルミナリアの観客に「こちら側の所作」として安心されすぎないため。


 レイナは、自分の綺麗さを少しだけ外した。


 それでも美しい。


 腹立つ、とネルなら言うかもしれない。


 今日は言わなかった。


「一度目」


 レイナが言った。


 まだ失敗していない。


 先に宣言した。


 観客席が揺れる。


 自分の失敗を、先に場へ置いた。


 補助魔法の光が指先に生まれる。


 ぱちん。


 小さく弾けた。


 一度目の失敗。


 昨日より音は小さい。


 でも、公式戦では昨日より重い。


 観客の視線が指先へ落ちる。


 俺の足が少し動きかける。


 ガレスの言葉。


 傷を直接持たない。


 俺は止まった。


 周りを持つ。


 水を出す。


 座る場所を空ける。


 今の俺にできる周りは何だ。


 視線を、レイナの指先から白旗へ戻す。


 彼女を見世物にしない。


 俺が見続けることで、観客の視線を固定しない。


 レイナは半歩下がった。


「戻ります」


 二度目の光。


 今度は安定した。


 白旗アウレリアが、ほんの少し近づく。


 よし。


 予定通り。


 そう思った瞬間、ルミナリアが動いた。


 アドリアンではない。


 セシリアだった。


 彼女は、白旗の進路に立ちふさがるのではなく、観客席側へ一歩引いた。


 そして、昨日の茶会で見たような柔らかい声で言った。


「オルコットさんの戻りは、美しいですね」


 褒め言葉。


 柔らかい。


 丁寧。


 しかし、庭園全体に届く。


 観客席が、またレイナを見る。


 戻り。


 つまり、一度目の失敗と二度目の成功。


 それを美しいと評する。


 悪意ではない。


 だが、レイナの戻りを観客の鑑賞対象にする言葉だった。


 白旗が止まった。


 レイナの肩がわずかに硬くなる。


 ネルの足が動いた。


 速い。


「ネル」


 レイナが呼んだ。


 ネルは止まった。


 呼べる距離。


 朝に決めた距離。


 ネルの歯が見える。


 怒っている。


 でも、止まった。


「あたしの怒り」


 ネルは言った。


 小さく。


 しかし、聞こえた。


「あんたの褒め方、嫌い」


 セシリアは表情を崩さなかった。


「失礼しました。試合中に余計な評価でした」


 謝罪は早い。


 整っている。


 だが、その早さがまたネルを刺した。


「早いのも嫌い」


 ネルが言う。


「ネル」


 レイナの声。


 ネルは息を吐いた。


「分かってる」


 そこで終われば、まだよかった。


 だが公式戦は、待ってくれない。


 アドリアンがその一瞬を使った。


 彼は白旗に向かって進むのではなく、白旗とカルミアの間に「整った空白」を作った。


 何も置かない。


 何も言わない。


 ただ、アウレリアが進みやすい綺麗な道を開ける。


 セシリアの言葉で場が揺れた後、アドリアンの沈黙が場を整える。


 ルミナリアは、言葉と沈黙の両方で戦う。


 白旗アウレリアは、その綺麗な空白へ向かった。


「アルフ」


 コレットの声が外から飛ぶ。


 アルフは戻り線を調整する。


 見えない線が、白旗の進路を中央寄りへ戻す。


 ミラが半歩動き、自分の置き場を保ちながら進路を塞がない。


 俺は捕獲位置へ入る。


 まだ早い。


 レイナの戻り。


 ネルの軌道変更。


 そこまで待つ。


 白旗がアドリアンの空白へ流れる。


 レイナがもう一度前に出る。


「戻ります」


 今度は失敗の後ではない。


 場を戻すための言葉。


 白旗が反応した。


 布が一度、レイナの方へ傾く。


 ネルがそこへ合わせる。


「怒ってる」


 彼女の指先に、短い魔力が生まれる。


「でも、乱暴にはしない」


 朝の練習通り。


 魔力は白旗に触れない。


 空気だけを弾く。


 軌道を曲げる。


 そのはずだった。


 しかし、観客席から小さな声が落ちた。


「あの平民の子が」


 誰が言ったのか分からない。


 たぶん、悪意を込めた声ではない。


 驚き。


 好奇心。


 昨日から続く、分類の視線。


 ネルの魔力が、ほんのわずかに強くなった。


 指先の光が鋭く跳ねる。


 空気を弾く力が、予定より強い。


 白旗アウレリアの布が、一瞬硬くなった。


 逃げる。


 俺はそう思った。


 次の瞬間、白旗は真上へ跳ねた。


 鳥のように。


 いや、鳥より速い。


 白い布が光を裂き、噴水の水しぶきを越え、観客席側の空中へ逃げた。


 観客席がどよめく。


 ネルが息を呑む。


「触ってない!」


 彼女が叫ぶ。


 その声は大きかった。


 ロイの音ではない。


 ネルの怒り。


「ネル!」


 レイナが呼ぶ。


「触ってないって言ってるでしょ!」


「分かっています」


「じゃあ何で逃げるのよ!」


 白旗は、答えない。


 ただ、逃げる。


 庭園の空を、白い布が鋭く横切る。


 アドリアンがすぐに追わない手を上げた。


「追跡礼式、第二型」


 ルミナリアの選手たちが動く。


 速い。


 乱れない。


 逃げた白旗を追うのではなく、逃げた先に綺麗な道を作る。


 白旗は、乱暴な追跡を嫌う。


 なら、逃げた先で待つ。


 道を整え、迎える。


 ルミナリアはそれを知っている。


 カルミアも、知っていたはずだった。


 でも、実戦では遅れた。


 ネルの叫び。


 レイナの呼び声。


 俺の一瞬の迷い。


 アルフの線は、上空の動きに対応しきれない。


 ミラは花壇を踏まないよう動き、半歩遅れる。


 白旗はルミナリア側へ流れた。


 アドリアンの手前で、ふわりと止まる。


 観客席から、息を飲む音。


 アドリアンは手を伸ばさない。


 ただ、一礼した。


「失礼いたしました、アウレリア」


 謝る。


 何に。


 逃げさせた場に。


 乱れた空気に。


 それとも、白旗自身に。


 白旗の布が揺れた。


 ルミナリア側に、礼式評価が入った。


 審判席の記録員が札を上げる。


 正式な得点ではない。


 だが、流れは明らかに向こうへ傾いた。


「カルミア、立て直し」


 コレットの声。


 短い。


 冷たい。


 必要。


 俺は息を吸った。


 ここで俺が何か言うと、また傷を直接持つ。


 周りを持つ。


 何が周りだ。


 レイナがネルを見ている。


 ネルは白旗を睨んでいる。


 自分のせいで逃げたと思っている。


 違う。


 彼女だけのせいではない。


 観客席の声。


 セシリアの言葉。


 俺の迷い。


 全員の未完成。


 それらが絡んで、白旗は逃げた。


 そう説明したい。


 でも、今説明すると、ネルの怒りを俺が持つことになる。


 レイナの呼び方を俺が奪うことになる。


 だから、俺は水を出す代わりのことをした。


「アルフ」


 俺は言った。


「線、低く」


 アルフがすぐに頷く。


 説明ではなく、場を整える。


 線を低く。


 白旗が上へ逃げたなら、次に下へ戻る道を作る。


「ミラ、花壇側、置き場だけ」


「分かった」


 ミラが動く。


 ネルにはまだ言わない。


 レイナにもまだ言わない。


 それぞれが戻る場所を作る。


 レイナが先に動いた。


「ネル」


 名前。


 呼べる距離。


 ネルは返事をしない。


「ネル」


 二度目。


 今度は少し強い。


「誰の怒りですか」


 ネルの肩が震えた。


「……あたしの」


「なら、戻してください」


「分かってる」


「分かっていない顔です」


「顔で」


 ネルは言い返しかけて、止まった。


 歯を食いしばる。


 呼吸を戻す。


「分かった」


 彼女は言った。


「あたしの怒り。戻す」


 白旗アウレリアは、ルミナリア側の空白を抜け、再び中央へ向かおうとしていた。


 アドリアンは捕りに行かない。


 早い捕獲より、旗の信頼を取るつもりだ。


 いや、白旗に対して信頼という言葉が正しいかは分からない。


 でも、そう見える。


 アドリアンは白旗を追いつめない。


 白旗が自分から寄る道を作る。


 強い。


 かなり強い。


 こちらは、逃げられた。


 逃げられたあと、戻す。


 グラナートの時とは違う難しさだ。


 鉄旗は命令で動いた。


 白旗は、場から逃げる。


 命令を遅らせるだけでは足りない。


 場そのものを戻す必要がある。


「レイナ」


 ネルが言った。


 さんなし。


 試合中に、ちゃんと呼んだ。


「あたし、今、代わりに怒った?」


 その問いに、レイナは一瞬だけ驚いた。


 だが、すぐに答えた。


「少し」


「そっか」


「でも、戻れます」


「戻る」


 ネルは頷いた。


 観客席が静かになる。


 このやり取りも、見られている。


 白旗も見ている。


 ルミナリアも見ている。


 晒されている。


 でも、二人は隠さなかった。


 レイナは一歩出た。


「一度目」


 また言う。


 今度は補助魔法ではない。


 場を整えるための礼式魔法。


 白い光が指先に生まれ、弾ける。


 失敗。


 観客席が揺れる。


 もう一度やるのか。


 その揺れを、今度はセシリアが使う前に、レイナが言った。


「戻ります」


 二度目。


 白い光が、低く広がる。


 完璧ではない。


 でも、白旗が少しだけ中央へ向いた。


「怒ってる」


 ネルが続く。


「でも、これはあたしの怒り」


 指先の魔力。


 今度は弱い。


 しかし、弱すぎない。


 白旗に触れず、進路の横の空気を押す。


 布が揺れる。


 白旗は逃げなかった。


 ただ、距離を取った。


 逃げるのではない。


 測る距離。


 俺は捕獲位置へ入らなかった。


 まだ早い。


 ここで捕ろうとすれば、さっきの逃走を繰り返す。


「ルカ」


 コレットの声。


「待つ」


「分かってる」


 分かってる、と言いながら、足は少し前に出ていた。


 危ない。


 俺も未完成だ。


 白旗は中央の噴水近くで止まり、こちらとルミナリアの間を揺れた。


 場は戻った。


 完全ではない。


 でも、さっきよりは戻った。


 その時、ルミナリアのミレーヌが動いた。


 彼女は観客席側へ向け、薄い青い光を広げた。


 防壁ではない。


 反射板のような魔法。


 観客席の視線を、柔らかく拡散する。


 直接的な視線を弱める。


 礼の補助。


 うまい。


 観客の刺さる視線を薄めることで、白旗にとって心地よい場を作る。


 ルミナリアは、観客さえ戦術に組み込んでいる。


 俺たちは、観客の言葉に揺れた。


 向こうは、観客の視線を整えた。


 差がある。


 白旗アウレリアは、ミレーヌの青い光の方へ少し傾いた。


「ミラ」


 アルフが言う。


「荷物」


「ない」


「ある」


 ミラは一瞬戸惑い、すぐに自分の身体を見た。


 荷物はない。


 でも、自分の身体そのものが、場に置かれた重さだ。


 ミラは花壇と観客席の間に立つ。


 青い光を塞がない。


 ただ、白旗がそちらへ行きすぎた時に、ぶつからない壁になる。


「置き場、ここ」


 彼女は言った。


 白旗が少し止まる。


 ミラの礼は、派手ではない。


 でも、場に重量を作る。


 ルミナリアの青い光が柔らかく視線を拡散し、ミラの立ち位置が行きすぎを止める。


 その間で、白旗が揺れる。


 拮抗。


 初めて、少しだけ拮抗した。


「今」


 外から小さな声が聞こえた。


 ロイだ。


 控え席からの合図。


 小さい。


 でも、届いた。


 俺は動く。


 捕獲ではない。


 白旗の進路に、手を伸ばさず入る。


「風は使わない」


 自分に言う。


 白旗がこちらを見るように揺れた。


 見ている。


 たぶん。


「レイナとネルを信じる」


 短く。


 白旗が一歩、こちらへ。


 俺は手を上げない。


 まだ触れない。


 触る前の距離。


 ガレスの皿。


 傷を直接持たない。


 白旗の布が、俺の指先からかなり離れたところで止まる。


 遠い。


 捕獲には足りない。


 だが、逃げてはいない。


 その瞬間、アドリアンが静かに言った。


「初手の乱れを、よく戻しました」


 また評価。


 だが、セシリアのような柔らかい褒め言葉ではない。


 競技者としての評価。


 同時に、鋭い針でもある。


 初手の乱れ。


 戻した。


 つまり、乱れた事実を場に残す言葉。


 白旗が微かに揺れる。


 レイナの表情は変わらない。


 ネルの肩は動かない。


 耐えた。


 俺も耐える。


 言い返さない。


 ここで言い返せば、また白旗が逃げる。


 アドリアンは一礼した。


「では、こちらも」


 彼の指先に白い光が生まれる。


 礼式誘導魔法。


 失敗しない。


 最初から整っている。


 光は、白旗の足元に花びらのような道を作った。


 いや、足元という言い方はおかしい。


 旗に足はない。


 でも、その道は、白旗が進みたくなるように設計されていた。


 観客席が静かに感嘆する。


 ルミナリアらしい美しさ。


 白旗アウレリアは、その道へ近づいた。


 俺たちが戻した場が、また向こうへ傾く。


 これが、実力差。


 俺は歯を食いしばった。


 ジャックが出ていれば、ここで流れを壊せたかもしれない。


 だが、今日の出場は俺たち五人。


 ジャックは控え。


 流れを壊す役は、今ここにいない。


 いや、違う。


 俺たちにも壊せる。


 綺麗な流れを、壊すのではなく、乱す。


 ただし、乱暴にではなく。


「ミラ」


 俺は言った。


「荷物表、三枚目」


 ミラがはっとする。


 白旗が低く飛んだ時用。


 朝の練習で作った限定的すぎる表。


 今、白旗はアドリアンの花びらの道へ沿って、低く流れようとしている。


 ミラは身体を低くした。


 筋力強化。


 一瞬だけ。


 その後、動けなくなるリスクがある。


 だが彼女は使わない。


 使う前に、自分の身体の重さだけで進路の端を作る。


「ここ、低い荷物」


 妙な宣言。


 観客席が少しざわめく。


 だが、白旗は止まった。


 低い位置に置かれた、ぶつからない重さ。


 アドリアンの花びらの道が、その重さでほんの少し曲がる。


 アルフがすぐに線を合わせる。


「戻り線、三」


 白旗は、花びらの道からわずかに外れた。


 ルミナリアのフィリップが手を動かす。


 魔力の流れを整え直す。


 そこへ、ネルが一歩入る。


「怒ってない」


 彼女は言った。


 意外だった。


 白旗も、たぶん意外だった。


 布が少し揺れる。


「今は、負けたくないだけ」


 ネルの指先に、小さな魔力。


 怒りではなく、意地。


 白旗に触れず、花びらの道の端をほんの少し押す。


 アドリアンの道が、さらに曲がる。


 レイナがそこへ戻りの礼式を重ねる。


「戻ります」


 白い光。


 今度は一度目ではない。


 成功している。


 場が中央へ戻る。


 観客席が大きく揺れた。


 カルミアが、ルミナリアの礼式誘導を曲げた。


 白旗アウレリアは、中央へ戻った。


 そして、止まらなかった。


 逃げた。


 二度目の逃走。


 今度は上ではない。


 地面すれすれ。


 白い布が、花壇の縁をかすめるように走る。


 速い。


 触れられる距離ではない。


 白旗は、俺たちとルミナリアのどちらにも寄らず、庭園の外周へ逃げた。


「追わない!」


 コレットの声。


 だが、ミラが反射的に動いた。


 荷物を止める身体。


 低く飛ぶ旗を止める位置。


 彼女は花壇を踏まないように足を置こうとして、筋力強化を一瞬使った。


 身体が強くなる。


 次の瞬間、動けなくなる。


「ミラ!」


 俺が叫ぶ。


 ミラの足は、花壇の手前で止まった。


 動けない。


 白旗はその前をすり抜ける。


 逃げる。


 ミラは倒れない。


 倒れないが、動けない。


 花壇は踏んでいない。


 白旗にも触れていない。


 だが、道は止められなかった。


 アウレリアは庭園外周の白い柱へ向かい、そこに一度布を巻きつけるようにして止まった。


 まるで、人間から距離を取りたいと言っているように。


 観客席がざわめく。


 審判が札を上げる。


「旗、外周退避。両校、接触禁止。場の再構成を待つ」


 外周退避。


 そんな判定があるのか。


 クララが控え席で記録板に顔を近づけかけ、紐に止められているのが見えた。


 白旗アウレリアは、柱に白い布を絡めたまま、こちらを見ているようだった。


 逃げた。


 一度ではなく、二度。


 初回はネルの怒りと観客の分類で。


 二度目は、俺たちとルミナリアの礼式がぶつかり、白旗を中央へ戻しすぎたことで。


 未完成。


 白旗は、それを見た。


 不和。


 焦り。


 勝ちたいという欲。


 礼を整えようとするほど、旗を自分たちの場所へ引き込もうとした。


 それが逃げられた理由だ。


 ミラはまだ動けない。


 俺は彼女の方へ行こうとした。


「待って」


 アルフが言う。


「花壇」


 ミラの足元。


 花壇の縁ぎりぎり。


 俺が急いで行けば、踏む。


 傷を直接持たない。


 周りを持つ。


 俺は足を止めた。


「ミラ、聞こえるか」


「聞こえる」


 ミラは硬い声で答えた。


「動けない」


「知ってる」


「花壇、踏んでない」


「踏んでない」


「白旗、逃げた」


「逃げた」


「ごめん」


「まだ謝るな」


 俺は言った。


「今謝ると、たぶん全部ミラのせいになる」


 ミラの目が少し動いた。


 俺は水を出す代わりに、言葉を選んだ。


「今は、戻る場所を作る。アルフ」


「分かってる」


 アルフが見えない線を引く。


 ミラが動けなくても、彼女を中心に安全な円を作る。


 レイナが白旗を見ていた。


 ネルも白旗を見ている。


 二人とも、言葉を探していた。


 探している間に、アドリアンが審判に向かって一礼した。


「ルミナリア、場の再構成を行います」


「許可」


 彼らは早い。


 外周退避時の手順も知っている。


 白旗が人間から距離を取った時、どう待つか。


 ルミナリアは慣れている。


 カルミアは慣れていない。


 当然だ。


 でも、当然で負けが消えるわけではない。


 ルミナリアの五人が、白旗から一定距離を取り、庭園全体へゆっくり礼をする。


 観客席にも、白旗にも、花壇にも、審判にも。


 場全体へ礼を返す動き。


 白旗アウレリアの布が、わずかに緩んだ。


 強い。


 思っていたより、ずっと強い。


 俺たちは作戦を持ってきた。


 でも、ルミナリアは生活としてこれを持っている。


 礼を競技にしているだけではない。


 競技にする前から、身についている。


 その身についたものの中に見下ろしが混ざるから厄介なのだが、強いことには変わりない。


「カルミア」


 コレットが言った。


「集まらない」


 普通なら、ここで集まって作戦会議をしたくなる。


 でも、白旗は距離を見ている。


 群がれば、また逃げる。


「距離を保って、声だけ」


 コレットの指示。


 俺たちはそれぞれの位置で止まった。


 ミラは動けない。


 アルフは彼女の周りに線を作る。


 レイナは中央。


 ネルはその斜め前。


 俺は少し後ろ。


 白旗は外周の柱。


 距離がある。


 声を届けるには、少し大きくしなければならない。


 でも大きすぎると、乱れる。


 ロイの小さい声が欲しい。


 彼は控え席にいる。


「ロイ」


 コレットが控え席で言った。


「合図だけ」


 ロイは胸元の札を押さえた。


「小さく鳴れ」


 小さく。


 でも庭園へ届く声。


「一回、戻ってください」


 誰に向けたのか。


 全員に。


 その声は、不思議と届いた。


 俺は息を吐いた。


 一回、戻る。


 レイナが頷く。


「私は、二度目を急ぎすぎました」


 彼女は言った。


 白旗まで届くように。


 観客にも聞こえる。


 自分の失敗を、また晒す。


 でも、今回は自分で持っている。


「戻ることを、白旗をこちらへ戻すことと混同しました」


 ネルが続いた。


「あたしは、怒りを戻せたと思って、勝ちに急いだ」


 ミラが硬い身体のまま言う。


「私は、止める荷物になろうとして、動けなくなった」


 アルフが短く言う。


「僕は上の線が遅れた」


 俺は白旗を見た。


「俺は、待つと言いながら、捕る準備をしすぎた」


 静か。


 庭園が、俺たちの自己申告を聞いている。


 観客席も聞いている。


 ルミナリアも聞いている。


 恥ずかしい。


 かなり恥ずかしい。


 でも、これを隠したら白旗はたぶん戻らない。


 コレットが外から言った。


「カルミア、場の再構成」


 俺たちは、一斉に礼をしなかった。


 揃えなかった。


 それぞれの場所で、それぞれに少し頭を下げた。


 白旗へ。


 花壇へ。


 観客席へ。


 ミラへ。


 互いへ。


 形はばらばらだった。


 ルミナリアのように綺麗ではない。


 でも、誰か一人の形に押し込める礼ではなかった。


 白旗アウレリアの布が、柱から少し離れた。


 観客席が息を呑む。


 戻るのか。


 そう思った。


 しかし、白旗は戻らなかった。


 柱から離れ、庭園の外周をさらに奥へ滑った。


 逃げたまま、距離を変えた。


 拒絶ではない。


 でも、接近でもない。


 未完成の礼を見た。


 受け取った。


 それでも、まだ近づかない。


 審判が札を上げる。


「旗、外周移動。試合続行。捕獲制限解除。ただし両校、接触は慎重に」


 続行。


 ここで終わりではない。


 むしろ、ここからだ。


 ミラの身体が少しずつ動き始める。


「戻る」


 彼女は言った。


「大丈夫か」


「重い。でも戻る」


 アルフが線を維持しながら頷く。


 レイナがネルを見た。


「ネル」


「何」


「次は、私の戻りを旗に押しつけません」


「じゃあ、あたしも怒りを押しつけない」


「はい」


「でも勝つ」


「はい」


 二人の言葉は短い。


 しかし、朝より少しだけ具体的だった。


 負けた。


 いや、まだ試合は負けていない。


 でも、第一局面は明らかに負けた。


 白旗に逃げられ、ルミナリアに場の再構成で先を行かれた。


 それでも、俺たちは完全には崩れなかった。


 逃げた白旗は、まだ庭園にいる。


 試合は続いている。


 コレットが控え席で手帳を閉じた。


 その音は聞こえなかった。


 でも、見えた。


 部長は、今は書かない。


 見る。


 外周の白旗アウレリアが、白い柱の影からこちらを見ているように揺れた。


 俺は手を開いた。


 まだ触らない。


 まだ捕らない。


 まず、逃げられたことを、ちゃんと持つ。


 皿のひびを消さないように。


 その周りを持つように。


 白旗は逃げる。


 当然だ。


 俺たちはまだ、触るには雑すぎる。


 でも、逃げた先を見ることはできる。


 追わない時を選ぶことも。


 戻る場所を作ることも。


 公式戦は、白い庭園の外周からもう一度始まった。


 今度は、俺たちが逃げた旗に教わる番だった。


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