第58話 白旗は逃げる
白い庭園に入った瞬間、音が変わった。
廊下の中では、鐘の音も足音も壁に沿って流れていた。
庭園では違う。
音が上へ抜ける。
観客席の低いざわめきも、噴水の水音も、誰かが息を吸う小さな気配も、白い石と青い花の上を通って、空へ薄く広がっていく。
その中心に、白旗アウレリアがいた。
鳥像の背。
広げた翼の上に、白い布が立っている。
金糸の縁が朝の光を受け、静かに燃えているように見えた。
旗は風を待っていない。
旗自身が、風を選んでいる。
そんなふうに見える。
俺たちカルミア魔法学園第七魔法競技部は、庭園の南側に並んだ。
向かいには、ルミナリア貴族魔法学院。
アドリアン・ヴァロワを中心に、白と青の制服が整った線を作っている。
セシリア・グレイスは少し後ろ。
彼女は今日、競技補助ではなく控え選手の位置にいる。
ただ、視線はずっと場を見ていた。
マリエル先生は審判席の横に立ち、観覧席を一度見渡した。
昨日、彼女にたしなめられた年配の男性もいる。
今日は口を閉じている。
それだけで、白旗の庭園では意味がある。
観客席は、昨日より多かった。
ルミナリアの生徒。
学院関係者。
外部の貴族家関係者。
そして、少数だが競技連盟の記録員らしき人影も見える。
グラナート軍事校の時と違って、ここにあるのは号令の圧ではない。
もっと柔らかい。
柔らかいが、逃げ場がない。
絹で首を絞められるような圧。
たとえが物騒だ。
でも、そう感じるものは仕方ない。
「ルカ」
ネルが小さく呼んだ。
隣ではない。
少し前。
レイナと呼べる距離にいる。
俺とは、半歩離れている。
今日の彼女は、その距離を自分で選んでいる。
「顔」
「またか」
「全部見て、全部背負う顔」
「今日はしてないつもりだった」
「してた」
レイナが静かに頷いた。
「していました」
「二人して判定が厳しい」
「必要です」
レイナは白旗から目を離さずに言った。
「あなたは、周りを持つ役です」
傷を直接持たない。
周りを持つ。
ガレスの言葉。
俺は息を吐いた。
「分かった。俺は俺の分だけ」
「怪しい」
ネルが言う。
「怪しいですね」
レイナも言う。
「試合前から信用が低い」
「信用しているから確認しています」
レイナは昨日と同じことを言った。
少しだけ、口元が緩んでいる。
ネルも、ほんの少しだけ鼻を鳴らした。
そのやり取りに、俺は少し救われた。
すぐに、救われている場合ではなくなった。
「これより」
審判長の声が響いた。
白い庭園の中央で、細身の男性が片手を上げる。
声は大きくない。
しかし、庭園全体に通った。
「巡業魔法旗競技、ルミナリア貴族魔法学院対カルミア魔法学園、公式戦を開始する」
観客席が静まる。
水音がよく聞こえる。
「本競技は五名対五名、動的名誉旗形式。対象旗は白旗アウレリア。捕獲点一点、護持点一点、礼式評価点は審判団および旗反応記録により判定される」
礼式評価点。
グラナートでは命令と接触が重要だった。
ここでは、礼が点になる。
点になると聞くと、急に嫌なものに見える。
でも、競技とはそういうものだ。
大切なものを点にする。
だからこそ、点にする時の手つきが問われる。
「攻撃魔法は制限範囲内で許可。ただし旗本体への破損行為、庭園設備への故意破壊、観覧席への干渉は禁止。旗への接触は捕獲意図を伴うものに限る」
ジャックが小さく息を吐いた。
「壊さない」
自分に言っている。
ガレスが隣で頷いた。
「流れだけ」
「分かってる」
ジャックは不機嫌そうに答えた。
でも、手は見える場所に置いている。
今日の出場五人は、朝の最終確認で決めた。
レイナ。
ネル。
アルフ。
ミラ。
俺。
控えにコレット、ロイ、ガレス、ジャック、リリィ、クララ、ノル。
コレットは出ない。
部長が出ない試合。
それは少し不安だった。
でも、白旗戦では、彼女は外から負け筋を見る方が必要だと判断した。
勝ち筋を作った本人が、外にいる。
それもまた、カルミアらしい。
「カルミア、確認」
審判が言う。
コレットが一歩出る。
「カルミア魔法学園、第七魔法競技部。出場者、レイナ・オルコット、ネル・アーレン、アルフ・メイナード、ミラ・ガルド、ルカ・ヴァレン」
名前が庭園に置かれていく。
棚ではない。
役割だけでもない。
名前。
俺は、その一つ一つを聞いた。
「ルミナリア、確認」
アドリアンが一歩出る。
「ルミナリア貴族魔法学院。出場者、アドリアン・ヴァロワ、エリオット・サージュ、ミレーヌ・ロシェ、フィリップ・カンブラン、セシリア・グレイス」
セシリアも出るのか。
控えではなかった。
昨日まで案内役のように見えていた彼女が、今日は選手として名を呼ばれる。
その表情は柔らかい。
しかし、目は競技者のものだった。
俺は少しだけ喉を鳴らした。
厄介だ。
彼女は場を整えるのがうまい。
白旗戦では、それだけで強い。
「開始前礼」
審判が言った。
ルミナリア側が、一斉に鳥像へ向かって礼をした。
完璧だった。
角度。
呼吸。
手の位置。
五人が別々の人間でありながら、一つの絵のように見える。
観客席が、その整った礼に自然と息を整える。
これがルミナリアの強さだ。
戦う前に、場を自分たちの形へ寄せる。
こちらの番。
コレットが短く言う。
「形に寄せすぎない」
俺たちは礼をした。
角度は揃っていない。
ミラは少し深すぎた。
ネルは少し浅い。
アルフは正確だが、ルミナリアの正確さとは違う。
レイナは、さすがに綺麗だった。
俺は、たぶん中途半端だった。
観客席の空気が少し揺れる。
整っていない。
だが、白旗アウレリアは逃げなかった。
鳥像の上で、布がゆっくり揺れている。
見ている。
まだ、拒んではいない。
「開始」
審判の手が下りた。
白旗アウレリアが鳥像から消えた。
正確には、白い布が一度ほどけた。
風ではなく、水でもなく、光でもない。
旗の形がほどけ、次の瞬間、庭園中央の噴水脇に立っていた。
ルミナリアが動く。
速い。
しかし、速さが乱暴ではない。
アドリアンが中央左へ。
セシリアが右の花壇沿いへ。
エリオットと呼ばれた少年が後方で細い光の線を引き、ミレーヌが観客席側の進路をふわりと閉じる。
フィリップは一歩も前に出ない。
ただ、手を胸の前で開き、庭園全体の魔力の流れを整えている。
俺たちの初手も、決めていた。
アルフが戻り線を引く。
ミラが自分の置き場を確保する。
俺はレイナとネルの斜め後ろ。
レイナが一度目を使う位置へ向かう。
ネルは追わない距離で待つ。
白旗は噴水脇から動かない。
観客席が、最初の接触を待っている。
レイナが一歩出た。
白い石の上を歩く。
昨日より、少し崩れている。
わざとか。
たぶん、わざとだ。
完璧な礼に逃げないため。
ルミナリアの観客に「こちら側の所作」として安心されすぎないため。
レイナは、自分の綺麗さを少しだけ外した。
それでも美しい。
腹立つ、とネルなら言うかもしれない。
今日は言わなかった。
「一度目」
レイナが言った。
まだ失敗していない。
先に宣言した。
観客席が揺れる。
自分の失敗を、先に場へ置いた。
補助魔法の光が指先に生まれる。
ぱちん。
小さく弾けた。
一度目の失敗。
昨日より音は小さい。
でも、公式戦では昨日より重い。
観客の視線が指先へ落ちる。
俺の足が少し動きかける。
ガレスの言葉。
傷を直接持たない。
俺は止まった。
周りを持つ。
水を出す。
座る場所を空ける。
今の俺にできる周りは何だ。
視線を、レイナの指先から白旗へ戻す。
彼女を見世物にしない。
俺が見続けることで、観客の視線を固定しない。
レイナは半歩下がった。
「戻ります」
二度目の光。
今度は安定した。
白旗アウレリアが、ほんの少し近づく。
よし。
予定通り。
そう思った瞬間、ルミナリアが動いた。
アドリアンではない。
セシリアだった。
彼女は、白旗の進路に立ちふさがるのではなく、観客席側へ一歩引いた。
そして、昨日の茶会で見たような柔らかい声で言った。
「オルコットさんの戻りは、美しいですね」
褒め言葉。
柔らかい。
丁寧。
しかし、庭園全体に届く。
観客席が、またレイナを見る。
戻り。
つまり、一度目の失敗と二度目の成功。
それを美しいと評する。
悪意ではない。
だが、レイナの戻りを観客の鑑賞対象にする言葉だった。
白旗が止まった。
レイナの肩がわずかに硬くなる。
ネルの足が動いた。
速い。
「ネル」
レイナが呼んだ。
ネルは止まった。
呼べる距離。
朝に決めた距離。
ネルの歯が見える。
怒っている。
でも、止まった。
「あたしの怒り」
ネルは言った。
小さく。
しかし、聞こえた。
「あんたの褒め方、嫌い」
セシリアは表情を崩さなかった。
「失礼しました。試合中に余計な評価でした」
謝罪は早い。
整っている。
だが、その早さがまたネルを刺した。
「早いのも嫌い」
ネルが言う。
「ネル」
レイナの声。
ネルは息を吐いた。
「分かってる」
そこで終われば、まだよかった。
だが公式戦は、待ってくれない。
アドリアンがその一瞬を使った。
彼は白旗に向かって進むのではなく、白旗とカルミアの間に「整った空白」を作った。
何も置かない。
何も言わない。
ただ、アウレリアが進みやすい綺麗な道を開ける。
セシリアの言葉で場が揺れた後、アドリアンの沈黙が場を整える。
ルミナリアは、言葉と沈黙の両方で戦う。
白旗アウレリアは、その綺麗な空白へ向かった。
「アルフ」
コレットの声が外から飛ぶ。
アルフは戻り線を調整する。
見えない線が、白旗の進路を中央寄りへ戻す。
ミラが半歩動き、自分の置き場を保ちながら進路を塞がない。
俺は捕獲位置へ入る。
まだ早い。
レイナの戻り。
ネルの軌道変更。
そこまで待つ。
白旗がアドリアンの空白へ流れる。
レイナがもう一度前に出る。
「戻ります」
今度は失敗の後ではない。
場を戻すための言葉。
白旗が反応した。
布が一度、レイナの方へ傾く。
ネルがそこへ合わせる。
「怒ってる」
彼女の指先に、短い魔力が生まれる。
「でも、乱暴にはしない」
朝の練習通り。
魔力は白旗に触れない。
空気だけを弾く。
軌道を曲げる。
そのはずだった。
しかし、観客席から小さな声が落ちた。
「あの平民の子が」
誰が言ったのか分からない。
たぶん、悪意を込めた声ではない。
驚き。
好奇心。
昨日から続く、分類の視線。
ネルの魔力が、ほんのわずかに強くなった。
指先の光が鋭く跳ねる。
空気を弾く力が、予定より強い。
白旗アウレリアの布が、一瞬硬くなった。
逃げる。
俺はそう思った。
次の瞬間、白旗は真上へ跳ねた。
鳥のように。
いや、鳥より速い。
白い布が光を裂き、噴水の水しぶきを越え、観客席側の空中へ逃げた。
観客席がどよめく。
ネルが息を呑む。
「触ってない!」
彼女が叫ぶ。
その声は大きかった。
ロイの音ではない。
ネルの怒り。
「ネル!」
レイナが呼ぶ。
「触ってないって言ってるでしょ!」
「分かっています」
「じゃあ何で逃げるのよ!」
白旗は、答えない。
ただ、逃げる。
庭園の空を、白い布が鋭く横切る。
アドリアンがすぐに追わない手を上げた。
「追跡礼式、第二型」
ルミナリアの選手たちが動く。
速い。
乱れない。
逃げた白旗を追うのではなく、逃げた先に綺麗な道を作る。
白旗は、乱暴な追跡を嫌う。
なら、逃げた先で待つ。
道を整え、迎える。
ルミナリアはそれを知っている。
カルミアも、知っていたはずだった。
でも、実戦では遅れた。
ネルの叫び。
レイナの呼び声。
俺の一瞬の迷い。
アルフの線は、上空の動きに対応しきれない。
ミラは花壇を踏まないよう動き、半歩遅れる。
白旗はルミナリア側へ流れた。
アドリアンの手前で、ふわりと止まる。
観客席から、息を飲む音。
アドリアンは手を伸ばさない。
ただ、一礼した。
「失礼いたしました、アウレリア」
謝る。
何に。
逃げさせた場に。
乱れた空気に。
それとも、白旗自身に。
白旗の布が揺れた。
ルミナリア側に、礼式評価が入った。
審判席の記録員が札を上げる。
正式な得点ではない。
だが、流れは明らかに向こうへ傾いた。
「カルミア、立て直し」
コレットの声。
短い。
冷たい。
必要。
俺は息を吸った。
ここで俺が何か言うと、また傷を直接持つ。
周りを持つ。
何が周りだ。
レイナがネルを見ている。
ネルは白旗を睨んでいる。
自分のせいで逃げたと思っている。
違う。
彼女だけのせいではない。
観客席の声。
セシリアの言葉。
俺の迷い。
全員の未完成。
それらが絡んで、白旗は逃げた。
そう説明したい。
でも、今説明すると、ネルの怒りを俺が持つことになる。
レイナの呼び方を俺が奪うことになる。
だから、俺は水を出す代わりのことをした。
「アルフ」
俺は言った。
「線、低く」
アルフがすぐに頷く。
説明ではなく、場を整える。
線を低く。
白旗が上へ逃げたなら、次に下へ戻る道を作る。
「ミラ、花壇側、置き場だけ」
「分かった」
ミラが動く。
ネルにはまだ言わない。
レイナにもまだ言わない。
それぞれが戻る場所を作る。
レイナが先に動いた。
「ネル」
名前。
呼べる距離。
ネルは返事をしない。
「ネル」
二度目。
今度は少し強い。
「誰の怒りですか」
ネルの肩が震えた。
「……あたしの」
「なら、戻してください」
「分かってる」
「分かっていない顔です」
「顔で」
ネルは言い返しかけて、止まった。
歯を食いしばる。
呼吸を戻す。
「分かった」
彼女は言った。
「あたしの怒り。戻す」
白旗アウレリアは、ルミナリア側の空白を抜け、再び中央へ向かおうとしていた。
アドリアンは捕りに行かない。
早い捕獲より、旗の信頼を取るつもりだ。
いや、白旗に対して信頼という言葉が正しいかは分からない。
でも、そう見える。
アドリアンは白旗を追いつめない。
白旗が自分から寄る道を作る。
強い。
かなり強い。
こちらは、逃げられた。
逃げられたあと、戻す。
グラナートの時とは違う難しさだ。
鉄旗は命令で動いた。
白旗は、場から逃げる。
命令を遅らせるだけでは足りない。
場そのものを戻す必要がある。
「レイナ」
ネルが言った。
さんなし。
試合中に、ちゃんと呼んだ。
「あたし、今、代わりに怒った?」
その問いに、レイナは一瞬だけ驚いた。
だが、すぐに答えた。
「少し」
「そっか」
「でも、戻れます」
「戻る」
ネルは頷いた。
観客席が静かになる。
このやり取りも、見られている。
白旗も見ている。
ルミナリアも見ている。
晒されている。
でも、二人は隠さなかった。
レイナは一歩出た。
「一度目」
また言う。
今度は補助魔法ではない。
場を整えるための礼式魔法。
白い光が指先に生まれ、弾ける。
失敗。
観客席が揺れる。
もう一度やるのか。
その揺れを、今度はセシリアが使う前に、レイナが言った。
「戻ります」
二度目。
白い光が、低く広がる。
完璧ではない。
でも、白旗が少しだけ中央へ向いた。
「怒ってる」
ネルが続く。
「でも、これはあたしの怒り」
指先の魔力。
今度は弱い。
しかし、弱すぎない。
白旗に触れず、進路の横の空気を押す。
布が揺れる。
白旗は逃げなかった。
ただ、距離を取った。
逃げるのではない。
測る距離。
俺は捕獲位置へ入らなかった。
まだ早い。
ここで捕ろうとすれば、さっきの逃走を繰り返す。
「ルカ」
コレットの声。
「待つ」
「分かってる」
分かってる、と言いながら、足は少し前に出ていた。
危ない。
俺も未完成だ。
白旗は中央の噴水近くで止まり、こちらとルミナリアの間を揺れた。
場は戻った。
完全ではない。
でも、さっきよりは戻った。
その時、ルミナリアのミレーヌが動いた。
彼女は観客席側へ向け、薄い青い光を広げた。
防壁ではない。
反射板のような魔法。
観客席の視線を、柔らかく拡散する。
直接的な視線を弱める。
礼の補助。
うまい。
観客の刺さる視線を薄めることで、白旗にとって心地よい場を作る。
ルミナリアは、観客さえ戦術に組み込んでいる。
俺たちは、観客の言葉に揺れた。
向こうは、観客の視線を整えた。
差がある。
白旗アウレリアは、ミレーヌの青い光の方へ少し傾いた。
「ミラ」
アルフが言う。
「荷物」
「ない」
「ある」
ミラは一瞬戸惑い、すぐに自分の身体を見た。
荷物はない。
でも、自分の身体そのものが、場に置かれた重さだ。
ミラは花壇と観客席の間に立つ。
青い光を塞がない。
ただ、白旗がそちらへ行きすぎた時に、ぶつからない壁になる。
「置き場、ここ」
彼女は言った。
白旗が少し止まる。
ミラの礼は、派手ではない。
でも、場に重量を作る。
ルミナリアの青い光が柔らかく視線を拡散し、ミラの立ち位置が行きすぎを止める。
その間で、白旗が揺れる。
拮抗。
初めて、少しだけ拮抗した。
「今」
外から小さな声が聞こえた。
ロイだ。
控え席からの合図。
小さい。
でも、届いた。
俺は動く。
捕獲ではない。
白旗の進路に、手を伸ばさず入る。
「風は使わない」
自分に言う。
白旗がこちらを見るように揺れた。
見ている。
たぶん。
「レイナとネルを信じる」
短く。
白旗が一歩、こちらへ。
俺は手を上げない。
まだ触れない。
触る前の距離。
ガレスの皿。
傷を直接持たない。
白旗の布が、俺の指先からかなり離れたところで止まる。
遠い。
捕獲には足りない。
だが、逃げてはいない。
その瞬間、アドリアンが静かに言った。
「初手の乱れを、よく戻しました」
また評価。
だが、セシリアのような柔らかい褒め言葉ではない。
競技者としての評価。
同時に、鋭い針でもある。
初手の乱れ。
戻した。
つまり、乱れた事実を場に残す言葉。
白旗が微かに揺れる。
レイナの表情は変わらない。
ネルの肩は動かない。
耐えた。
俺も耐える。
言い返さない。
ここで言い返せば、また白旗が逃げる。
アドリアンは一礼した。
「では、こちらも」
彼の指先に白い光が生まれる。
礼式誘導魔法。
失敗しない。
最初から整っている。
光は、白旗の足元に花びらのような道を作った。
いや、足元という言い方はおかしい。
旗に足はない。
でも、その道は、白旗が進みたくなるように設計されていた。
観客席が静かに感嘆する。
ルミナリアらしい美しさ。
白旗アウレリアは、その道へ近づいた。
俺たちが戻した場が、また向こうへ傾く。
これが、実力差。
俺は歯を食いしばった。
ジャックが出ていれば、ここで流れを壊せたかもしれない。
だが、今日の出場は俺たち五人。
ジャックは控え。
流れを壊す役は、今ここにいない。
いや、違う。
俺たちにも壊せる。
綺麗な流れを、壊すのではなく、乱す。
ただし、乱暴にではなく。
「ミラ」
俺は言った。
「荷物表、三枚目」
ミラがはっとする。
白旗が低く飛んだ時用。
朝の練習で作った限定的すぎる表。
今、白旗はアドリアンの花びらの道へ沿って、低く流れようとしている。
ミラは身体を低くした。
筋力強化。
一瞬だけ。
その後、動けなくなるリスクがある。
だが彼女は使わない。
使う前に、自分の身体の重さだけで進路の端を作る。
「ここ、低い荷物」
妙な宣言。
観客席が少しざわめく。
だが、白旗は止まった。
低い位置に置かれた、ぶつからない重さ。
アドリアンの花びらの道が、その重さでほんの少し曲がる。
アルフがすぐに線を合わせる。
「戻り線、三」
白旗は、花びらの道からわずかに外れた。
ルミナリアのフィリップが手を動かす。
魔力の流れを整え直す。
そこへ、ネルが一歩入る。
「怒ってない」
彼女は言った。
意外だった。
白旗も、たぶん意外だった。
布が少し揺れる。
「今は、負けたくないだけ」
ネルの指先に、小さな魔力。
怒りではなく、意地。
白旗に触れず、花びらの道の端をほんの少し押す。
アドリアンの道が、さらに曲がる。
レイナがそこへ戻りの礼式を重ねる。
「戻ります」
白い光。
今度は一度目ではない。
成功している。
場が中央へ戻る。
観客席が大きく揺れた。
カルミアが、ルミナリアの礼式誘導を曲げた。
白旗アウレリアは、中央へ戻った。
そして、止まらなかった。
逃げた。
二度目の逃走。
今度は上ではない。
地面すれすれ。
白い布が、花壇の縁をかすめるように走る。
速い。
触れられる距離ではない。
白旗は、俺たちとルミナリアのどちらにも寄らず、庭園の外周へ逃げた。
「追わない!」
コレットの声。
だが、ミラが反射的に動いた。
荷物を止める身体。
低く飛ぶ旗を止める位置。
彼女は花壇を踏まないように足を置こうとして、筋力強化を一瞬使った。
身体が強くなる。
次の瞬間、動けなくなる。
「ミラ!」
俺が叫ぶ。
ミラの足は、花壇の手前で止まった。
動けない。
白旗はその前をすり抜ける。
逃げる。
ミラは倒れない。
倒れないが、動けない。
花壇は踏んでいない。
白旗にも触れていない。
だが、道は止められなかった。
アウレリアは庭園外周の白い柱へ向かい、そこに一度布を巻きつけるようにして止まった。
まるで、人間から距離を取りたいと言っているように。
観客席がざわめく。
審判が札を上げる。
「旗、外周退避。両校、接触禁止。場の再構成を待つ」
外周退避。
そんな判定があるのか。
クララが控え席で記録板に顔を近づけかけ、紐に止められているのが見えた。
白旗アウレリアは、柱に白い布を絡めたまま、こちらを見ているようだった。
逃げた。
一度ではなく、二度。
初回はネルの怒りと観客の分類で。
二度目は、俺たちとルミナリアの礼式がぶつかり、白旗を中央へ戻しすぎたことで。
未完成。
白旗は、それを見た。
不和。
焦り。
勝ちたいという欲。
礼を整えようとするほど、旗を自分たちの場所へ引き込もうとした。
それが逃げられた理由だ。
ミラはまだ動けない。
俺は彼女の方へ行こうとした。
「待って」
アルフが言う。
「花壇」
ミラの足元。
花壇の縁ぎりぎり。
俺が急いで行けば、踏む。
傷を直接持たない。
周りを持つ。
俺は足を止めた。
「ミラ、聞こえるか」
「聞こえる」
ミラは硬い声で答えた。
「動けない」
「知ってる」
「花壇、踏んでない」
「踏んでない」
「白旗、逃げた」
「逃げた」
「ごめん」
「まだ謝るな」
俺は言った。
「今謝ると、たぶん全部ミラのせいになる」
ミラの目が少し動いた。
俺は水を出す代わりに、言葉を選んだ。
「今は、戻る場所を作る。アルフ」
「分かってる」
アルフが見えない線を引く。
ミラが動けなくても、彼女を中心に安全な円を作る。
レイナが白旗を見ていた。
ネルも白旗を見ている。
二人とも、言葉を探していた。
探している間に、アドリアンが審判に向かって一礼した。
「ルミナリア、場の再構成を行います」
「許可」
彼らは早い。
外周退避時の手順も知っている。
白旗が人間から距離を取った時、どう待つか。
ルミナリアは慣れている。
カルミアは慣れていない。
当然だ。
でも、当然で負けが消えるわけではない。
ルミナリアの五人が、白旗から一定距離を取り、庭園全体へゆっくり礼をする。
観客席にも、白旗にも、花壇にも、審判にも。
場全体へ礼を返す動き。
白旗アウレリアの布が、わずかに緩んだ。
強い。
思っていたより、ずっと強い。
俺たちは作戦を持ってきた。
でも、ルミナリアは生活としてこれを持っている。
礼を競技にしているだけではない。
競技にする前から、身についている。
その身についたものの中に見下ろしが混ざるから厄介なのだが、強いことには変わりない。
「カルミア」
コレットが言った。
「集まらない」
普通なら、ここで集まって作戦会議をしたくなる。
でも、白旗は距離を見ている。
群がれば、また逃げる。
「距離を保って、声だけ」
コレットの指示。
俺たちはそれぞれの位置で止まった。
ミラは動けない。
アルフは彼女の周りに線を作る。
レイナは中央。
ネルはその斜め前。
俺は少し後ろ。
白旗は外周の柱。
距離がある。
声を届けるには、少し大きくしなければならない。
でも大きすぎると、乱れる。
ロイの小さい声が欲しい。
彼は控え席にいる。
「ロイ」
コレットが控え席で言った。
「合図だけ」
ロイは胸元の札を押さえた。
「小さく鳴れ」
小さく。
でも庭園へ届く声。
「一回、戻ってください」
誰に向けたのか。
全員に。
その声は、不思議と届いた。
俺は息を吐いた。
一回、戻る。
レイナが頷く。
「私は、二度目を急ぎすぎました」
彼女は言った。
白旗まで届くように。
観客にも聞こえる。
自分の失敗を、また晒す。
でも、今回は自分で持っている。
「戻ることを、白旗をこちらへ戻すことと混同しました」
ネルが続いた。
「あたしは、怒りを戻せたと思って、勝ちに急いだ」
ミラが硬い身体のまま言う。
「私は、止める荷物になろうとして、動けなくなった」
アルフが短く言う。
「僕は上の線が遅れた」
俺は白旗を見た。
「俺は、待つと言いながら、捕る準備をしすぎた」
静か。
庭園が、俺たちの自己申告を聞いている。
観客席も聞いている。
ルミナリアも聞いている。
恥ずかしい。
かなり恥ずかしい。
でも、これを隠したら白旗はたぶん戻らない。
コレットが外から言った。
「カルミア、場の再構成」
俺たちは、一斉に礼をしなかった。
揃えなかった。
それぞれの場所で、それぞれに少し頭を下げた。
白旗へ。
花壇へ。
観客席へ。
ミラへ。
互いへ。
形はばらばらだった。
ルミナリアのように綺麗ではない。
でも、誰か一人の形に押し込める礼ではなかった。
白旗アウレリアの布が、柱から少し離れた。
観客席が息を呑む。
戻るのか。
そう思った。
しかし、白旗は戻らなかった。
柱から離れ、庭園の外周をさらに奥へ滑った。
逃げたまま、距離を変えた。
拒絶ではない。
でも、接近でもない。
未完成の礼を見た。
受け取った。
それでも、まだ近づかない。
審判が札を上げる。
「旗、外周移動。試合続行。捕獲制限解除。ただし両校、接触は慎重に」
続行。
ここで終わりではない。
むしろ、ここからだ。
ミラの身体が少しずつ動き始める。
「戻る」
彼女は言った。
「大丈夫か」
「重い。でも戻る」
アルフが線を維持しながら頷く。
レイナがネルを見た。
「ネル」
「何」
「次は、私の戻りを旗に押しつけません」
「じゃあ、あたしも怒りを押しつけない」
「はい」
「でも勝つ」
「はい」
二人の言葉は短い。
しかし、朝より少しだけ具体的だった。
負けた。
いや、まだ試合は負けていない。
でも、第一局面は明らかに負けた。
白旗に逃げられ、ルミナリアに場の再構成で先を行かれた。
それでも、俺たちは完全には崩れなかった。
逃げた白旗は、まだ庭園にいる。
試合は続いている。
コレットが控え席で手帳を閉じた。
その音は聞こえなかった。
でも、見えた。
部長は、今は書かない。
見る。
外周の白旗アウレリアが、白い柱の影からこちらを見ているように揺れた。
俺は手を開いた。
まだ触らない。
まだ捕らない。
まず、逃げられたことを、ちゃんと持つ。
皿のひびを消さないように。
その周りを持つように。
白旗は逃げる。
当然だ。
俺たちはまだ、触るには雑すぎる。
でも、逃げた先を見ることはできる。
追わない時を選ぶことも。
戻る場所を作ることも。
公式戦は、白い庭園の外周からもう一度始まった。
今度は、俺たちが逃げた旗に教わる番だった。




