第57話 割れた皿の夜食
少し、話を戻す。
公式戦の朝、俺たちが白い庭園へ踏み出す前。
ネルがレイナの名前を呼び、レイナがネルの名前を呼ぶ前。
怒りにも礼がいる、と二人が言葉にする前。
その前夜。
つまり、俺が見事に仲裁に失敗した夜の話だ。
自分で言うのも何だが、見事だった。
失敗には種類がある。
何もしないで失敗する。
やりすぎて失敗する。
良かれと思って失敗する。
その夜の俺は、最後のやつだった。
白い塔の鐘が、夜の八つを鳴らした。
ルミナリア貴族魔法学院の宿泊棟は、夜になっても白い。
昼の光が消えても、壁そのものが月明かりを少しだけ覚えているみたいだった。廊下の灯りは青白く、窓の向こうに見える庭園の花は、昼より輪郭が柔らかい。
綺麗な場所だ。
それは認める。
ただし、綺麗な場所で休めるかどうかは別問題だ。
共同室の空気は、夕方からずっと薄く張っていた。
公開練習で、レイナの一度目が観客に晒された。
マリエル先生が観覧席をたしなめ、白旗アウレリアはレイナの戻り方に反応した。
俺たちは公式戦の勝ち筋らしきものを掴んだ。
掴んだのだが、それはレイナの一度目を使う作戦だった。
使う。
その言葉が、ネルには引っかかっていた。
俺にも引っかかっていた。
たぶん、レイナ本人にも。
けれど、レイナはそれを顔に出さなかった。
そういう顔に、ネルはさらに腹を立てていた。
「だから、あたしは反対って言ってるわけじゃない」
ネルはテーブルの向こうで腕を組んでいた。
共同室の真ん中に、作戦表が広げられている。
コレットの手帳から写した簡易図。
白旗アウレリアの移動予想。
観客席の位置。
レイナの一度目。
ネルの軌道変更。
アルフの戻り線。
俺の捕獲位置。
何度見ても、面倒くさい作戦だった。
「反対ではないなら、何に怒っているのですか」
レイナの声は静かだった。
静かすぎた。
その静けさが、ネルの眉をさらに険しくする。
「そういう聞き方」
「答えを知りたいだけです」
「知りたい顔じゃない」
「顔で判断しないでください」
「あんただって昨日、あたしに顔のこと言った」
「それについては、後悔しています」
「後悔してる顔じゃない」
「また顔ですか」
「顔よ」
まずい。
それは俺にも分かった。
会話が、内容ではなく顔に寄っている。
顔の話は危ない。
顔はすぐに本人そのものの話になる。
本人そのものの話になると、だいたい刺さる。
コレットは手帳を持ったまま、二人を見ていた。
止めない。
いや、止められないのではない。
見ている。
どこが本当の衝突点なのか、見極めている。
アルフも黙っている。
クララは記録板を抱え、書きたいのを我慢している。
ロイは胸元の札を押さえていた。
札には、今日の昼に書き直した「小さく鳴れ」が入っている。
今、大きな声を出したら終わる。
彼もそれを分かっている。
ジャックは壁際で腕を組み、今にも「面倒だから殴り合え」と言いそうな顔をしていた。
言わないのは偉い。
ミラは荷物表を握っている。
誰かが立ち上がった時、椅子を引っかけない位置を確認しているのだろう。
リリィは迷子一号を両手で包んでいた。
ノルは眠そうだった。
眠そうだが、目は半分開いている。
ガレスはいなかった。
それが、後で大きな意味を持つ。
その時の俺は、まだ知らない。
「レイナ」
俺は口を開いた。
口を閉じる手順。
そうだ。
大事な手順だ。
俺は口を閉じるべきだった。
一拍置くべきだった。
だが、その夜の俺は、少し焦っていた。
公式戦は明日。
勝ち筋は細い。
二人がこのまま噛み合わないと、作戦は崩れる。
ネルが怒りすぎれば、白旗は逃げる。
レイナが平気なふりをしすぎれば、白旗は距離を取る。
俺は、それを何とかしようとした。
結果、何ともならなかった。
「レイナは、平気なふりをしてるわけじゃないと思う」
俺は言った。
言った瞬間、ネルの目がこちらへ向いた。
怖い。
かなり怖い。
「何であんたがそれを言うの」
「いや、俺は」
「本人?」
「違うけど」
「じゃあ、何で」
答えに詰まった。
ネルの言う通りだった。
俺はレイナではない。
レイナが平気かどうかを、俺が代わりに説明するのは違う。
昨日、自分で言ったばかりだ。
本人の戻る場所を奪わない。
それなのに、俺は最初の一手でレイナの場所に立ってしまった。
レイナも、少しだけ目を伏せた。
それが答えだった。
俺は間違えた。
「すまん」
「謝るの早い」
ネルが言う。
「早すぎる」
レイナも静かに言った。
「謝罪によって会話を終わらせようとしないでください」
「終わらせようとしたわけじゃ」
「では、何をしようとしましたか」
レイナの問いは丁寧だった。
丁寧なぶん、逃げ場がなかった。
俺は自分の手を見た。
風を呼ぶ手。
記憶を失うかもしれない手。
誰かを庇おうとして、時々本人を刺す手。
今日は、本人の代わりに説明しようとした手。
手は悪くない。
口が悪い。
いや、口も俺のものだ。
「……早く、二人に噛み合ってほしかった」
俺は正直に言った。
「明日、作戦があるから」
ネルの顔が、さらに険しくなった。
「作戦のために?」
「違う」
「今そう言った」
「言ったけど、違う」
「どっち」
「どっちでもある」
最悪の返事だった。
俺でも分かる。
ネルは椅子から立ち上がった。
ミラが一瞬で椅子の脚を見た。
ぶつからない。
よかった。
いや、よくない。
「あたしはさ」
ネルの声は低い。
「レイナが作戦に必要だから怒ってるわけじゃない」
「分かってる」
「分かってないから言ったんでしょ」
「……そうかもしれない」
ネルがテーブルの上の作戦表を指した。
「ここに書いてあること、全部必要なんでしょ。レイナの一度目も、あたしの怒りも、ルカの風も、ロイの音も、ミラの荷物も、ジャックの壊すのも」
「そうだ」
「必要なら、使っていいってなるのが嫌なの」
その言葉に、共同室が静かになった。
ネルは息を吸った。
「昨日、あたしが言われたことと何が違うの」
誰もすぐには答えなかった。
実用的な手。
参考。
教材。
平民出身の方。
本人に聞かずに分類する言葉。
ネルはそれを嫌がった。
そして今、作戦表の中に、似たものを見ている。
レイナの一度目。
ネルの怒り。
ルカの風。
ロイの音。
欠陥や痛みを、勝つための部品にする。
カルミアはそれをやっている。
ずっとやってきた。
それが救いになる時もある。
でも、本人の手を離れた瞬間、それはただの利用になる。
俺は、今さらその危うさに気づいた。
遅い。
かなり遅い。
「ネルさん」
レイナが口を開いた。
ネルは彼女を見る。
「私は、使われることに怒っていないわけではありません」
「じゃあ」
「ただ」
レイナは自分の指先を見た。
「私は、自分の失敗を使える形にしたいとも思っています」
「それ、どう違うの」
「私が選ぶかどうかです」
「選べてる?」
ネルの問いは鋭かった。
レイナは黙った。
その沈黙が、答えになってしまう。
選べている、とすぐに言えない。
なら、まだ足りない。
俺はまた何か言いそうになった。
今度はロイが、俺の袖を小さく引いた。
小さい。
でも、止まった。
ロイは口の前で人差し指を立てた。
しゃべるな。
いや、今日は小さく鳴れ。
でも今は、鳴るな。
分かった。
俺は口を閉じた。
ネルはレイナを見ている。
レイナは自分の指を見ている。
テーブルの上には、作戦表。
白い部屋。
外の庭園。
明日の旗。
全てが、やけに遠かった。
「休憩」
コレットが言った。
短い。
命令ではないが、逆らう余地は少ない。
「今続けても、言葉が悪くなる」
「もう悪い」
ネルが言う。
「もっと悪くなる」
「……分かった」
ネルは椅子に座らなかった。
そのまま共同室を出て行く。
レイナも少し遅れて立ち上がった。
「私も、少し外します」
彼女は一礼しようとして、途中で止めた。
その止め方が、今日の彼女らしかった。
形に逃げない。
でも、完全には捨てない。
レイナも出て行った。
共同室の扉が静かに閉まる。
誰もすぐには話さなかった。
「失敗した」
俺は言った。
「うん」
コレットが即答した。
優しさがない。
必要な優しさもない。
「かなり」
ジャックが追加した。
「刺したな」
「分かってる」
「両方刺した」
「分かってる」
アルフが作戦表を見たまま言う。
「でも、問題点は出た」
「それは慰めか?」
「事実」
カルミアの人間は、事実を慰めの代わりに出してくることがある。
効く時もある。
効かない時もある。
今は、少し効いた。
ミラが荷物表を畳んだ。
「使うって言葉、重い」
「そうだな」
「荷物も、持ち主に聞かずに持つと怒られる」
「いい例えだ」
「勝手に持つと、軽くしてるつもりでも、置き場所が変わる」
ミラは真面目な顔で言った。
それは、かなり大事なことのように聞こえた。
勝手に持つと、置き場所が変わる。
痛みも、怒りも、失敗も。
誰かが勝手に持つと、本人の中での置き場所が変わってしまう。
リリィが迷子一号を見つめた。
「迷子一号も、勝手に持っていくと迷子になります」
「元から迷子では?」
ロイが小さく言った。
「さらに迷子になります」
「なるほど」
分かったような、分からないような。
でも、言いたいことは伝わった。
クララが、我慢しきれずに一行だけ書いた。
「本人の同意なき戦術化は、教材化と同型の危険」
「難しい」
ジャックが言う。
クララはすぐに言い換えた。
「勝つためでも、勝手に材料にしたらだめ」
「それなら分かる」
俺も分かる。
分かるのが遅い。
ノルが椅子にもたれたまま呟いた。
「白い夢、割れてた」
「何が?」
俺が聞く。
「皿」
「皿?」
「誰かが直す」
そこで、共同室の扉が開いた。
ガレスが入ってきた。
両手に盆を持っている。
盆の上には、白い皿が一枚。
その皿は、真ん中から一度割れた跡があった。
金ではない。
銀でもない。
透明な接着剤のようなもので、ひびが細く繋がれている。
そして、その上に、小さな丸い焼き菓子と、薄切りのパン、温かいスープの器が並んでいた。
「夜食」
ガレスは言った。
いつも通り、説明が少ない。
だが、その一言で共同室の空気が少し変わった。
夜食。
戦術ではない。
評価でもない。
勝ち筋でもない。
ただ、食べるもの。
「どこから」
俺が聞く。
「厨房」
「また何か直したのか」
「皿」
ガレスは盆をテーブルに置いた。
白い皿のひびを指で示す。
「割れてた」
「魔法で?」
「手で」
いつもの答え。
でも、今日はその答えが少し違って聞こえた。
ガレスの魔法は、壊す。
だから、彼は直す時、手を使う。
壊す力を持っているからこそ、直すことを諦めていない。
彼の皿には、割れた跡が残っていた。
綺麗な皿ではない。
でも、夜食を載せている。
役に立っている。
ただし、役に立つために割られたのではない。
割れた後に、使えるように直された。
その違いが、やけに大きく見えた。
「食べる」
ガレスは言った。
命令のように聞こえる。
でも、たぶん気遣いだ。
コレットが焼き菓子を一つ取った。
「ありがとう」
「うん」
ロイも取る。
「いただきます。小さく」
「食べる音まで小さくしなくていい」
「でも、練習です」
ミラはパンを二枚取り、リリィに一枚渡した。
リリィは迷子一号の横に小さなパンくずを置きかけ、慌てて自分で食べた。
ジャックは皿のひびを見ていた。
「これ、直ってんのか」
「直ってる」
ガレスが言う。
「ひび残ってる」
「残る」
「いいのか」
「皿は皿」
ガレスの言葉は短い。
短いが、その夜は全員が聞いた。
皿は皿。
割れても。
ひびが残っても。
夜食を載せているなら、皿は皿。
誰かの失敗も、怒りも、傷も、欠陥も。
使えるかどうかで名前が変わるわけではない。
レイナの一度目は、レイナのもの。
ネルの怒りは、ネルのもの。
俺の風は、俺のもの。
それをチームで使うなら、本人が皿としてテーブルに置く必要がある。
勝手に持ち出してはいけない。
「ガレス」
俺は聞いた。
「その皿、厨房の人に直していいか聞いたのか」
「聞いた」
「何て」
「捨てるって言った」
「それを直したいって?」
「うん」
「何で」
ガレスは少し考えた。
「割れ方が、まだ使える割れ方」
「そんなのあるのか」
「ある」
ガレスは皿のひびを指でなぞった。
「粉々は無理。欠けすぎも危ない。これは、戻る」
戻る。
その言葉に、レイナの声が重なった。
一度目。
戻ります。
俺は皿を見た。
戻る皿。
割れたことをなかったことにはしない。
ひびを消さない。
でも、使えるように直す。
ガレスは、言葉にすると照れるようなことを、皿でやっていた。
「レイナとネルにも」
コレットが言った。
ガレスは頷いた。
「残してる」
盆の端に、焼き菓子が二つ。
スープも二つ。
パンも二つ。
きちんと分けられている。
勝手に食べない。
勝手に持たない。
本人の分を残す。
ガレスの礼は、いつも手にある。
その手は、魔法を使えば壊す。
でも、魔法を使わない時、誰よりも丁寧に直す。
「俺、呼んでくる」
俺は立ち上がった。
「ルカ」
コレットが言う。
「はい」
「説明しようとしない」
「分かってる」
「分かってない顔」
「顔で判断するの、流行ってるのか」
「分かってない時の顔は分かる」
反論できない。
俺は深呼吸した。
「呼んでくるだけ」
「それなら」
コレットは頷いた。
廊下へ出ると、夜の白さがさらに強く感じた。
ネルはすぐに見つかった。
中庭へ続く窓の前で、外を睨んでいた。
外の何に怒っているのかは分からない。
たぶん、外ではなく自分の中を睨んでいる。
「ネル」
俺は声をかけた。
口を閉じる。
一拍。
「夜食」
ネルが振り向いた。
「それだけ?」
「それだけ」
「謝罪とか、説明とか、励ましとかないの」
「今すると失敗する気がする」
「もうしてる」
「追加失敗を避けたい」
ネルは少しだけ鼻を鳴らした。
「賢い」
「褒めてる?」
「ほんの少し」
「ありがたい」
「調子に乗らない」
「はい」
ネルは窓の外へ視線を戻した。
「ガレス?」
「うん」
「何か直した?」
「皿」
「割れた皿?」
「割れた皿」
ネルは少し黙った。
「……行く」
それ以上、何も言わなかった。
レイナは、反対側の小さな読書室にいた。
扉は開いていて、中には白い背表紙の本が並んでいる。
彼女は本を読んでいなかった。
ただ、椅子に座り、手袋をしていない指先を見ていた。
「レイナ」
俺は呼んだ。
彼女が顔を上げる。
「はい」
口を閉じる。
一拍。
「夜食」
レイナは少し目を瞬いた。
「夜食、ですか」
「ガレスが」
「何か直したのですね」
「皿」
「割れていたのですか」
「割れてた」
レイナは指先を見た。
それから、少しだけ息を吐いた。
「分かりました」
「それだけで通じるの、ガレスすごいな」
「あなたが余計な説明をしなかったことも、少し」
「成長?」
「小さな成長です」
「ロイみたいだ」
レイナは少し笑った。
完全な笑いではない。
でも、共同室を出て行った時よりは、少し戻っていた。
二人を連れて戻ると、共同室の空気はさっきより低く、温かくなっていた。
スープの湯気があるからかもしれない。
ガレスの皿が、テーブルの真ん中にあるからかもしれない。
ネルとレイナは、隣には座らなかった。
向かい合いもしなかった。
少し斜めの位置。
見えるが、ぶつからない距離。
ガレスがそれぞれに皿を渡した。
割れていない小皿だった。
だが、中央の割れた皿から取り分ける形だ。
「食べる」
「命令?」
ネルが聞く。
「提案」
ガレスは答えた。
珍しく、言葉を少し選んだ。
ネルは焼き菓子を取った。
レイナも取った。
二人の手は、皿の上で近づいたが、ぶつからなかった。
第54話の夜にも似た光景だった。
ただ、今夜は少し違う。
あの時は、距離を測るだけだった。
今夜は、距離の理由を少し知っている。
「皿」
ネルが言った。
「直したんだ」
「うん」
ガレスが答える。
「ひび、残ってる」
「残る」
「消せないの」
「消すと、たぶん割れる」
ネルの手が止まる。
レイナも皿を見た。
ガレスは淡々と続ける。
「ひびを消そうとすると、削る。薄くなる。弱くなる。だから、残す」
誰もすぐには言わなかった。
ガレスの言葉は、たまにとても遅れて届く。
ひびを消そうとすると、弱くなる。
レイナの一度目。
ネルの怒り。
俺の失敗。
全部、消そうとすると弱くなるのかもしれない。
見えなくすることが、強くすることとは限らない。
「でも」
レイナが言った。
「ひびがある皿を、来客用には出さないでしょう」
「出さない」
ガレスはすぐに答える。
その正直さに、レイナは少しだけ目を伏せた。
「そうですね」
「でも、夜食には使える」
ガレスは皿を見た。
「何に使うか、選ぶ」
レイナが顔を上げる。
ネルも、ガレスを見た。
彼は別に、二人を説得しようとしていない。
ただ、皿の話をしている。
だから届く。
たぶん。
「選ぶ」
ネルが繰り返した。
「うん」
「皿が?」
「使う人が」
「皿本人は?」
ネルの問いは、少し意地悪だった。
でも、核心でもあった。
ガレスは考え込んだ。
かなり長く考えた。
共同室の全員が、その答えを待った。
ガレスが皿に話しかけるのではないか、と一瞬思った。
それはそれで、白旗の影響を受けすぎだ。
「皿は」
ガレスが言った。
「割れたら、使う人が聞く」
「皿に?」
「自分に」
ネルが眉を寄せる。
ガレスは言葉を探した。
「これはまだ使っていい割れ方か。使うと危ないか。飾るだけか。捨てるか。直すか」
彼は皿のひびを指でなぞる。
「皿は答えない。でも、見れば分かる時がある。分からない時は、使わない」
クララが小さく息を呑んだ。
記録したい。
しかし、今は書かなかった。
コレットも手帳を開かない。
今は、見る。
「人は」
ガレスは続けた。
「答える」
レイナの指が、皿の縁に触れた。
「答えられるなら、聞くべきですね」
「うん」
「答えられない時は?」
ネルが聞いた。
ガレスはまた考えた。
「待つ」
短い答え。
でも、その夜の共同室には十分だった。
答えられない時は、待つ。
作戦に必要でも。
明日が公式戦でも。
勝ち筋が細くても。
本人が答えられないなら、待つ。
ただし、待っている間にも、夜食は冷める。
それは困る。
ガレスはスープを指した。
「冷める」
「急に現実」
ネルが言う。
「食べる」
「はいはい」
二人はスープを飲んだ。
温かい湯気が、白い部屋の空気を少し柔らかくした。
レイナはゆっくり器を置いた。
「ネルさん」
「何」
「私は、まだ答えきれていません」
ネルはスープを飲む手を止めた。
「今日の作戦で、自分の一度目を使うことを、本当に選べているのか」
レイナは言う。
「明日の朝までに、答えます」
ネルは彼女を見た。
「今じゃないんだ」
「今、無理に答えると、形だけになります」
「……そう」
ネルは少し不満そうだった。
でも、怒鳴らなかった。
「なら、待つ」
ガレスの言葉を使った。
レイナは目を伏せた。
「ありがとうございます」
「感謝されると腹立つ」
「では、保留します」
「それも腹立つ」
「難しいですね」
レイナは少しだけ笑った。
ネルも、ほんの少しだけ口元を緩めた。
仲直りではない。
解決でもない。
ただ、待つことになった。
それは、今夜の俺たちには十分だった。
「ネル」
今度はレイナが呼びかけた。
さんをつけなかった。
全員が一瞬、動きを止める。
ネルも止まった。
「……何」
「あなたは、明日の朝までに答えられますか」
「何を」
「自分の怒りを、私の代わりに使わないことを」
ネルはすぐには答えなかった。
さっきのレイナと同じように。
彼女は自分の手を見る。
荒い手。
届く手。
掴める距離で、掴まなかった手。
「今は、無理」
ネルは言った。
「あんたがまた笑われたら、たぶん腹立つ。代わりかどうか分かんなくなる」
「では、明日の朝までに」
「答える」
ネルは言った。
「答えられなかったら?」
レイナの問い。
ネルは少し考えた。
「その時は、あたしを作戦から外して」
共同室が凍った。
「ネル」
俺は思わず言った。
口を閉じる手順は、どこかへ行った。
ネルは俺を睨む。
「何」
「いや、それは」
「あたしが代わりに怒って、白旗を逃がすなら、いない方がいいでしょ」
正論だった。
冷たい。
でも、正しい。
コレットがネルを見る。
「外す可能性はある」
部長も冷たい。
必要な冷たさだ。
ネルは頷いた。
「それでいい」
レイナは、静かに言った。
「私も、答えられなければ作戦から外してください」
「駄目です」
コレットが即答した。
全員が彼女を見る。
「レイナは外さない」
「なぜですか」
「白旗戦の勝ち筋に必要だから」
ネルの顔が険しくなる。
コレットは続けた。
「だからこそ、答えを待つ。必要だから外せない。外せないから、本人の選択を曖昧にしない」
言葉が少しずつ部屋に落ちた。
必要だから外せない。
その言い方は危うい。
でも、コレットは危うさを隠さなかった。
「私は、部長として、レイナの一度目を勝ち筋に使いたい」
コレットは言った。
「それは事実」
レイナは黙っている。
「でも、レイナが選ばずに使えば、白旗はたぶん逃げる。何より、カルミアが駄目になる」
「カルミアが?」
ロイが小さく聞く。
「うん」
コレットは頷いた。
「欠陥を使う部活じゃなくて、欠陥を持つ人を使う部活になる」
その違い。
その小さくて大きい差。
俺たちがずっと歩いてきた細い線。
俺は少し息を吐いた。
怖かった。
知らないうちに、その線を踏み外していたかもしれない。
いや、踏み外しかけていた。
今夜、ネルが怒らなかったら。
レイナが黙っていたら。
俺が勝手に取り繕っていたら。
白旗戦の勝ち筋はできたかもしれない。
でも、その勝ち筋は、何かを間違えたものになっていた。
コレットは手帳を閉じた。
「だから、夜食を食べる」
「なぜそこに戻る」
ジャックが言う。
「冷める」
ガレスが言った。
「そう」
コレットは頷いた。
「答えは朝。今は、食べる」
それは、思ったより強い決定だった。
夜に全部を解決しない。
明日に持ち越す。
ただし、逃げるのではなく、持ち越すと決める。
俺たちは夜食を食べた。
スープは、少し薄味だった。
ルミナリアの厨房らしく上品な味だ。
だが、ガレスが持ってくると、なぜかカルミアの味に近くなる。
雑に安心する味。
焼き菓子は固かった。
ロイが噛む音を小さくしようとして、余計に時間をかけていた。
「普通に噛め」
ジャックが言う。
「普通の音量が分からないんです」
「そこからか」
ミラが自分のパンを半分に割り、リリィの皿に置いた。
「足りない」
「ありがとうございます」
「迷子一号にはあげない」
「はい。今日は我慢させます」
迷子一号に我慢という概念があるのかは分からない。
クララは皿のひびを見たくて仕方なさそうだった。
しかし、ガレスが「見るだけ」と言うと、二歩下がって見た。
「距離を取った観察」
「うん」
ガレスは頷いた。
ノルはスープを飲みながら目を閉じていた。
「夢、変わった」
「どう」
アルフが聞く。
「割れた皿、白旗の下にあった」
「悪い夢?」
「たぶん、悪くない」
ノルは眠そうに言った。
「ひびを避けて、旗が立ってた」
それだけ言って、また黙る。
夢の話は、いつも分かりにくい。
でも、分かりにくいまま残しておく価値がある。
クララが小さく記録した。
今度は、誰も止めなかった。
夜食が終わる頃、共同室の空気は完全には軽くなっていなかった。
でも、張りつめた糸は少し緩んでいた。
ネルはレイナを見た。
「朝」
短く言う。
「はい」
レイナが頷く。
「答える」
「私も」
「逃げないでよ」
「逃げません」
「平気なふりも」
「努力します」
「努力じゃなくて」
ネルは少し考えた。
「手順」
レイナが少し笑った。
「手順にします」
ネルは満足したのか、不満なのか分からない顔をした。
たぶん、両方だ。
その夜、解散前にガレスは割れた皿を片付けようとした。
俺はそれを手伝おうとして、皿に手を伸ばした。
「待って」
ガレスが言った。
珍しく、少し強い声だった。
俺は手を止める。
「危ない?」
「持つ場所」
ガレスは皿のひびの位置を示した。
「ここを持つと、力が入る。割れる」
「じゃあ、どこ」
「ここ」
彼は皿の縁を示す。
ひびから離れた場所。
でも、支えられる場所。
「傷を直接持たない」
ガレスは言った。
「周りを持つ」
俺はその言葉を、しばらく聞いていた。
傷を直接持たない。
周りを持つ。
誰かの痛みを助けたい時、痛い場所そのものを掴むと、さらに割れることがある。
周りを支える。
本人が持てるように。
それは、俺に一番必要な言葉だった。
「分かった」
俺は皿の縁を持った。
ガレスの示した場所。
軽い。
でも、少し怖い。
割れた皿を持つのは、綺麗な皿を持つより緊張する。
それでも、持てる。
ひびは残っている。
皿は皿だ。
俺はガレスと一緒に、皿を厨房へ返しに行った。
廊下を歩く間、ガレスはほとんど何も言わなかった。
俺も、あまり言わなかった。
言わない方が、皿が割れない気がした。
厨房では、夜番の人が皿を見て少し驚いた。
「本当に直したんですか」
「うん」
ガレスが答える。
「ただ、来客用には使わないでください」
俺が慌てて補足すると、厨房の人は笑った。
「もちろんです。まかない用にします」
まかない。
夜食。
完璧な席では出ない皿。
でも、誰かを温める皿。
それでいいのかもしれない。
厨房を出た後、ガレスがぽつりと言った。
「ルカ」
「何」
「仲裁、下手」
「ガレスにも言われた」
「うん」
「やっぱり?」
「うん」
容赦がない。
でも、ガレスの声は責めるものではなかった。
「どうすればよかった?」
俺が聞くと、ガレスはしばらく考えた。
「皿を持つ時と同じ」
「傷を直接持たない?」
「うん」
「周りを持つ」
「うん」
「具体的には?」
ガレスは立ち止まった。
白い廊下の真ん中。
彼の影が、床に短く落ちている。
「水を出す」
「水」
「座る場所を空ける」
「うん」
「夜食を置く」
「それはガレスがやった」
「ルカもできる」
俺は少し笑った。
「俺、料理できない」
「持ってくる」
「それならできる」
「言葉だけじゃない」
ガレスは言った。
短いが、重かった。
言葉だけじゃない。
俺は、いつも言葉でどうにかしようとする。
庇う言葉。
謝る言葉。
説明する言葉。
信じると言う言葉。
どれも必要だ。
でも、言葉は時々、傷を直接掴む。
水を出す。
座る場所を空ける。
夜食を置く。
皿の縁を持つ。
そういう仲裁もある。
俺は、その手をあまり持っていなかった。
持っていないなら、覚えればいい。
ガレスから。
「ありがとう」
俺が言うと、ガレスは頷いた。
「うん」
「明日、俺がまた下手に仲裁しそうだったら」
「止める」
「どうやって」
ガレスは少し考えた。
「水」
「水をかけるのか?」
「渡す」
「よかった」
その違いは大きい。
共同室に戻ると、ほとんどの部員はもう部屋へ戻っていた。
残っていたのは、コレットだけだった。
手帳を開いている。
月明かりと灯りの境目で、彼女の影が小さく見えた。
「書いてるのか」
「うん」
「今は書く?」
「今は書く」
彼女はペンを止めない。
「何を」
「明日の負け筋」
「増えた?」
「減ったのもある。増えたのもある」
「例えば」
「レイナが選べないまま一度目を使う負け筋は、朝まで保留」
「保留」
「ネルが代わりに怒る負け筋も、朝まで保留」
「保留だらけだ」
「保留は、見ないふりよりいい」
コレットは手帳を閉じた。
「ルカが仲裁に失敗する負け筋は、今日使った」
「使ったのか」
「うん」
「明日は?」
「まだある」
「あるのか」
「でも、少し形が分かった」
彼女は俺を見た。
「ルカは、傷を直接持とうとする」
「ガレスにも言われた」
「なら、明日は周りを持つ」
「具体的には?」
「名前を呼ぶ。水を渡す。戻る場所を空ける。必要になるまで説明しない」
「難しいな」
「難しい」
コレットは頷いた。
「でも、できないと白旗は捕れない」
結局、そこに戻る。
白旗アウレリア。
礼。
距離。
触れる前の確認。
人を物にしないこと。
失敗を終わりにしないこと。
怒りを誰のものとして使うか。
割れた皿を、どう持つか。
この章は、競技の準備というより、人を扱う手つきの話になっている。
でも、白旗を捕るには、たぶんそれが必要なのだ。
「明日、勝てると思うか」
俺が聞くと、コレットは少し考えた。
「負け筋は多い」
「知ってる」
「でも、勝ち筋もある」
「珍しいな」
「見えたわけじゃない」
コレットは手帳に手を置いた。
「作った」
その言葉は、静かだった。
未来の勝ちを見られない部長が、勝ち筋を作った。
敗北を見る目で。
割れた皿の夜食で。
怒りを保留にして。
レイナの一度目を、本人の答えが出るまで待って。
ネルの怒りを、誰のものか問い直して。
「なら、明日使うか」
「うん」
コレットは頷いた。
「ただし、本人が選んだら」
「分かった」
その夜、俺は部屋に戻っても、しばらく眠れなかった。
窓の外には、白い塔が見える。
月明かりの中で、塔は昼より少し遠く見えた。
姿勢のいい鐘は鳴らない。
夜の学校は静かだ。
俺は手を見た。
傷を直接持たない。
周りを持つ。
言葉だけじゃない。
水を出す。
座る場所を空ける。
夜食を置く。
俺にできるだろうか。
分からない。
でも、明日、やるしかない。
レイナは朝までに答える。
ネルも朝までに答える。
俺も、朝までに少しはまともにならなければならない。
かなり難しい。
自分の成長に期限を切られるのは、なかなかの無茶だ。
でも、カルミアはだいたい無茶な場所だ。
欠けた魔法を持つ人間が、旗を追いかける。
動く古代旗を相手に、礼を学ぶ。
割れた皿を夜食に使い、公式戦の勝ち筋にする。
普通ではない。
だが、俺はその普通ではなさに、少し救われている。
眠る前、廊下の向こうで小さな声が聞こえた。
ネルの声だった。
「レイナ」
返事は聞こえなかった。
でも、少しして、レイナの声がした。
「はい、ネル」
それだけ。
それだけだった。
会話の内容は分からない。
ただ、名前を呼んだ。
さんをつけずに。
棚ではなく、役割でもなく、作戦の部品でもなく。
名前で。
俺は目を閉じた。
明日の朝、二人はまたぶつかるだろう。
すぐに綺麗にはならない。
むしろ、ぶつかった上で、ようやく答えを出すのだと思う。
でも今夜、割れた皿は割れたまま使われた。
スープは冷める前に飲まれた。
誰かの分は、勝手に食べられなかった。
それで十分だった。
少なくとも、夜を越えるには。




