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第57話 割れた皿の夜食

 少し、話を戻す。


 公式戦の朝、俺たちが白い庭園へ踏み出す前。


 ネルがレイナの名前を呼び、レイナがネルの名前を呼ぶ前。


 怒りにも礼がいる、と二人が言葉にする前。


 その前夜。


 つまり、俺が見事に仲裁に失敗した夜の話だ。


 自分で言うのも何だが、見事だった。


 失敗には種類がある。


 何もしないで失敗する。


 やりすぎて失敗する。


 良かれと思って失敗する。


 その夜の俺は、最後のやつだった。


 白い塔の鐘が、夜の八つを鳴らした。


 ルミナリア貴族魔法学院の宿泊棟は、夜になっても白い。


 昼の光が消えても、壁そのものが月明かりを少しだけ覚えているみたいだった。廊下の灯りは青白く、窓の向こうに見える庭園の花は、昼より輪郭が柔らかい。


 綺麗な場所だ。


 それは認める。


 ただし、綺麗な場所で休めるかどうかは別問題だ。


 共同室の空気は、夕方からずっと薄く張っていた。


 公開練習で、レイナの一度目が観客に晒された。


 マリエル先生が観覧席をたしなめ、白旗アウレリアはレイナの戻り方に反応した。


 俺たちは公式戦の勝ち筋らしきものを掴んだ。


 掴んだのだが、それはレイナの一度目を使う作戦だった。


 使う。


 その言葉が、ネルには引っかかっていた。


 俺にも引っかかっていた。


 たぶん、レイナ本人にも。


 けれど、レイナはそれを顔に出さなかった。


 そういう顔に、ネルはさらに腹を立てていた。


「だから、あたしは反対って言ってるわけじゃない」


 ネルはテーブルの向こうで腕を組んでいた。


 共同室の真ん中に、作戦表が広げられている。


 コレットの手帳から写した簡易図。


 白旗アウレリアの移動予想。


 観客席の位置。


 レイナの一度目。


 ネルの軌道変更。


 アルフの戻り線。


 俺の捕獲位置。


 何度見ても、面倒くさい作戦だった。


「反対ではないなら、何に怒っているのですか」


 レイナの声は静かだった。


 静かすぎた。


 その静けさが、ネルの眉をさらに険しくする。


「そういう聞き方」


「答えを知りたいだけです」


「知りたい顔じゃない」


「顔で判断しないでください」


「あんただって昨日、あたしに顔のこと言った」


「それについては、後悔しています」


「後悔してる顔じゃない」


「また顔ですか」


「顔よ」


 まずい。


 それは俺にも分かった。


 会話が、内容ではなく顔に寄っている。


 顔の話は危ない。


 顔はすぐに本人そのものの話になる。


 本人そのものの話になると、だいたい刺さる。


 コレットは手帳を持ったまま、二人を見ていた。


 止めない。


 いや、止められないのではない。


 見ている。


 どこが本当の衝突点なのか、見極めている。


 アルフも黙っている。


 クララは記録板を抱え、書きたいのを我慢している。


 ロイは胸元の札を押さえていた。


 札には、今日の昼に書き直した「小さく鳴れ」が入っている。


 今、大きな声を出したら終わる。


 彼もそれを分かっている。


 ジャックは壁際で腕を組み、今にも「面倒だから殴り合え」と言いそうな顔をしていた。


 言わないのは偉い。


 ミラは荷物表を握っている。


 誰かが立ち上がった時、椅子を引っかけない位置を確認しているのだろう。


 リリィは迷子一号を両手で包んでいた。


 ノルは眠そうだった。


 眠そうだが、目は半分開いている。


 ガレスはいなかった。


 それが、後で大きな意味を持つ。


 その時の俺は、まだ知らない。


「レイナ」


 俺は口を開いた。


 口を閉じる手順。


 そうだ。


 大事な手順だ。


 俺は口を閉じるべきだった。


 一拍置くべきだった。


 だが、その夜の俺は、少し焦っていた。


 公式戦は明日。


 勝ち筋は細い。


 二人がこのまま噛み合わないと、作戦は崩れる。


 ネルが怒りすぎれば、白旗は逃げる。


 レイナが平気なふりをしすぎれば、白旗は距離を取る。


 俺は、それを何とかしようとした。


 結果、何ともならなかった。


「レイナは、平気なふりをしてるわけじゃないと思う」


 俺は言った。


 言った瞬間、ネルの目がこちらへ向いた。


 怖い。


 かなり怖い。


「何であんたがそれを言うの」


「いや、俺は」


「本人?」


「違うけど」


「じゃあ、何で」


 答えに詰まった。


 ネルの言う通りだった。


 俺はレイナではない。


 レイナが平気かどうかを、俺が代わりに説明するのは違う。


 昨日、自分で言ったばかりだ。


 本人の戻る場所を奪わない。


 それなのに、俺は最初の一手でレイナの場所に立ってしまった。


 レイナも、少しだけ目を伏せた。


 それが答えだった。


 俺は間違えた。


「すまん」


「謝るの早い」


 ネルが言う。


「早すぎる」


 レイナも静かに言った。


「謝罪によって会話を終わらせようとしないでください」


「終わらせようとしたわけじゃ」


「では、何をしようとしましたか」


 レイナの問いは丁寧だった。


 丁寧なぶん、逃げ場がなかった。


 俺は自分の手を見た。


 風を呼ぶ手。


 記憶を失うかもしれない手。


 誰かを庇おうとして、時々本人を刺す手。


 今日は、本人の代わりに説明しようとした手。


 手は悪くない。


 口が悪い。


 いや、口も俺のものだ。


「……早く、二人に噛み合ってほしかった」


 俺は正直に言った。


「明日、作戦があるから」


 ネルの顔が、さらに険しくなった。


「作戦のために?」


「違う」


「今そう言った」


「言ったけど、違う」


「どっち」


「どっちでもある」


 最悪の返事だった。


 俺でも分かる。


 ネルは椅子から立ち上がった。


 ミラが一瞬で椅子の脚を見た。


 ぶつからない。


 よかった。


 いや、よくない。


「あたしはさ」


 ネルの声は低い。


「レイナが作戦に必要だから怒ってるわけじゃない」


「分かってる」


「分かってないから言ったんでしょ」


「……そうかもしれない」


 ネルがテーブルの上の作戦表を指した。


「ここに書いてあること、全部必要なんでしょ。レイナの一度目も、あたしの怒りも、ルカの風も、ロイの音も、ミラの荷物も、ジャックの壊すのも」


「そうだ」


「必要なら、使っていいってなるのが嫌なの」


 その言葉に、共同室が静かになった。


 ネルは息を吸った。


「昨日、あたしが言われたことと何が違うの」


 誰もすぐには答えなかった。


 実用的な手。


 参考。


 教材。


 平民出身の方。


 本人に聞かずに分類する言葉。


 ネルはそれを嫌がった。


 そして今、作戦表の中に、似たものを見ている。


 レイナの一度目。


 ネルの怒り。


 ルカの風。


 ロイの音。


 欠陥や痛みを、勝つための部品にする。


 カルミアはそれをやっている。


 ずっとやってきた。


 それが救いになる時もある。


 でも、本人の手を離れた瞬間、それはただの利用になる。


 俺は、今さらその危うさに気づいた。


 遅い。


 かなり遅い。


「ネルさん」


 レイナが口を開いた。


 ネルは彼女を見る。


「私は、使われることに怒っていないわけではありません」


「じゃあ」


「ただ」


 レイナは自分の指先を見た。


「私は、自分の失敗を使える形にしたいとも思っています」


「それ、どう違うの」


「私が選ぶかどうかです」


「選べてる?」


 ネルの問いは鋭かった。


 レイナは黙った。


 その沈黙が、答えになってしまう。


 選べている、とすぐに言えない。


 なら、まだ足りない。


 俺はまた何か言いそうになった。


 今度はロイが、俺の袖を小さく引いた。


 小さい。


 でも、止まった。


 ロイは口の前で人差し指を立てた。


 しゃべるな。


 いや、今日は小さく鳴れ。


 でも今は、鳴るな。


 分かった。


 俺は口を閉じた。


 ネルはレイナを見ている。


 レイナは自分の指を見ている。


 テーブルの上には、作戦表。


 白い部屋。


 外の庭園。


 明日の旗。


 全てが、やけに遠かった。


「休憩」


 コレットが言った。


 短い。


 命令ではないが、逆らう余地は少ない。


「今続けても、言葉が悪くなる」


「もう悪い」


 ネルが言う。


「もっと悪くなる」


「……分かった」


 ネルは椅子に座らなかった。


 そのまま共同室を出て行く。


 レイナも少し遅れて立ち上がった。


「私も、少し外します」


 彼女は一礼しようとして、途中で止めた。


 その止め方が、今日の彼女らしかった。


 形に逃げない。


 でも、完全には捨てない。


 レイナも出て行った。


 共同室の扉が静かに閉まる。


 誰もすぐには話さなかった。


「失敗した」


 俺は言った。


「うん」


 コレットが即答した。


 優しさがない。


 必要な優しさもない。


「かなり」


 ジャックが追加した。


「刺したな」


「分かってる」


「両方刺した」


「分かってる」


 アルフが作戦表を見たまま言う。


「でも、問題点は出た」


「それは慰めか?」


「事実」


 カルミアの人間は、事実を慰めの代わりに出してくることがある。


 効く時もある。


 効かない時もある。


 今は、少し効いた。


 ミラが荷物表を畳んだ。


「使うって言葉、重い」


「そうだな」


「荷物も、持ち主に聞かずに持つと怒られる」


「いい例えだ」


「勝手に持つと、軽くしてるつもりでも、置き場所が変わる」


 ミラは真面目な顔で言った。


 それは、かなり大事なことのように聞こえた。


 勝手に持つと、置き場所が変わる。


 痛みも、怒りも、失敗も。


 誰かが勝手に持つと、本人の中での置き場所が変わってしまう。


 リリィが迷子一号を見つめた。


「迷子一号も、勝手に持っていくと迷子になります」


「元から迷子では?」


 ロイが小さく言った。


「さらに迷子になります」


「なるほど」


 分かったような、分からないような。


 でも、言いたいことは伝わった。


 クララが、我慢しきれずに一行だけ書いた。


「本人の同意なき戦術化は、教材化と同型の危険」


「難しい」


 ジャックが言う。


 クララはすぐに言い換えた。


「勝つためでも、勝手に材料にしたらだめ」


「それなら分かる」


 俺も分かる。


 分かるのが遅い。


 ノルが椅子にもたれたまま呟いた。


「白い夢、割れてた」


「何が?」


 俺が聞く。


「皿」


「皿?」


「誰かが直す」


 そこで、共同室の扉が開いた。


 ガレスが入ってきた。


 両手に盆を持っている。


 盆の上には、白い皿が一枚。


 その皿は、真ん中から一度割れた跡があった。


 金ではない。


 銀でもない。


 透明な接着剤のようなもので、ひびが細く繋がれている。


 そして、その上に、小さな丸い焼き菓子と、薄切りのパン、温かいスープの器が並んでいた。


「夜食」


 ガレスは言った。


 いつも通り、説明が少ない。


 だが、その一言で共同室の空気が少し変わった。


 夜食。


 戦術ではない。


 評価でもない。


 勝ち筋でもない。


 ただ、食べるもの。


「どこから」


 俺が聞く。


「厨房」


「また何か直したのか」


「皿」


 ガレスは盆をテーブルに置いた。


 白い皿のひびを指で示す。


「割れてた」


「魔法で?」


「手で」


 いつもの答え。


 でも、今日はその答えが少し違って聞こえた。


 ガレスの魔法は、壊す。


 だから、彼は直す時、手を使う。


 壊す力を持っているからこそ、直すことを諦めていない。


 彼の皿には、割れた跡が残っていた。


 綺麗な皿ではない。


 でも、夜食を載せている。


 役に立っている。


 ただし、役に立つために割られたのではない。


 割れた後に、使えるように直された。


 その違いが、やけに大きく見えた。


「食べる」


 ガレスは言った。


 命令のように聞こえる。


 でも、たぶん気遣いだ。


 コレットが焼き菓子を一つ取った。


「ありがとう」


「うん」


 ロイも取る。


「いただきます。小さく」


「食べる音まで小さくしなくていい」


「でも、練習です」


 ミラはパンを二枚取り、リリィに一枚渡した。


 リリィは迷子一号の横に小さなパンくずを置きかけ、慌てて自分で食べた。


 ジャックは皿のひびを見ていた。


「これ、直ってんのか」


「直ってる」


 ガレスが言う。


「ひび残ってる」


「残る」


「いいのか」


「皿は皿」


 ガレスの言葉は短い。


 短いが、その夜は全員が聞いた。


 皿は皿。


 割れても。


 ひびが残っても。


 夜食を載せているなら、皿は皿。


 誰かの失敗も、怒りも、傷も、欠陥も。


 使えるかどうかで名前が変わるわけではない。


 レイナの一度目は、レイナのもの。


 ネルの怒りは、ネルのもの。


 俺の風は、俺のもの。


 それをチームで使うなら、本人が皿としてテーブルに置く必要がある。


 勝手に持ち出してはいけない。


「ガレス」


 俺は聞いた。


「その皿、厨房の人に直していいか聞いたのか」


「聞いた」


「何て」


「捨てるって言った」


「それを直したいって?」


「うん」


「何で」


 ガレスは少し考えた。


「割れ方が、まだ使える割れ方」


「そんなのあるのか」


「ある」


 ガレスは皿のひびを指でなぞった。


「粉々は無理。欠けすぎも危ない。これは、戻る」


 戻る。


 その言葉に、レイナの声が重なった。


 一度目。


 戻ります。


 俺は皿を見た。


 戻る皿。


 割れたことをなかったことにはしない。


 ひびを消さない。


 でも、使えるように直す。


 ガレスは、言葉にすると照れるようなことを、皿でやっていた。


「レイナとネルにも」


 コレットが言った。


 ガレスは頷いた。


「残してる」


 盆の端に、焼き菓子が二つ。


 スープも二つ。


 パンも二つ。


 きちんと分けられている。


 勝手に食べない。


 勝手に持たない。


 本人の分を残す。


 ガレスの礼は、いつも手にある。


 その手は、魔法を使えば壊す。


 でも、魔法を使わない時、誰よりも丁寧に直す。


「俺、呼んでくる」


 俺は立ち上がった。


「ルカ」


 コレットが言う。


「はい」


「説明しようとしない」


「分かってる」


「分かってない顔」


「顔で判断するの、流行ってるのか」


「分かってない時の顔は分かる」


 反論できない。


 俺は深呼吸した。


「呼んでくるだけ」


「それなら」


 コレットは頷いた。


 廊下へ出ると、夜の白さがさらに強く感じた。


 ネルはすぐに見つかった。


 中庭へ続く窓の前で、外を睨んでいた。


 外の何に怒っているのかは分からない。


 たぶん、外ではなく自分の中を睨んでいる。


「ネル」


 俺は声をかけた。


 口を閉じる。


 一拍。


「夜食」


 ネルが振り向いた。


「それだけ?」


「それだけ」


「謝罪とか、説明とか、励ましとかないの」


「今すると失敗する気がする」


「もうしてる」


「追加失敗を避けたい」


 ネルは少しだけ鼻を鳴らした。


「賢い」


「褒めてる?」


「ほんの少し」


「ありがたい」


「調子に乗らない」


「はい」


 ネルは窓の外へ視線を戻した。


「ガレス?」


「うん」


「何か直した?」


「皿」


「割れた皿?」


「割れた皿」


 ネルは少し黙った。


「……行く」


 それ以上、何も言わなかった。


 レイナは、反対側の小さな読書室にいた。


 扉は開いていて、中には白い背表紙の本が並んでいる。


 彼女は本を読んでいなかった。


 ただ、椅子に座り、手袋をしていない指先を見ていた。


「レイナ」


 俺は呼んだ。


 彼女が顔を上げる。


「はい」


 口を閉じる。


 一拍。


「夜食」


 レイナは少し目を瞬いた。


「夜食、ですか」


「ガレスが」


「何か直したのですね」


「皿」


「割れていたのですか」


「割れてた」


 レイナは指先を見た。


 それから、少しだけ息を吐いた。


「分かりました」


「それだけで通じるの、ガレスすごいな」


「あなたが余計な説明をしなかったことも、少し」


「成長?」


「小さな成長です」


「ロイみたいだ」


 レイナは少し笑った。


 完全な笑いではない。


 でも、共同室を出て行った時よりは、少し戻っていた。


 二人を連れて戻ると、共同室の空気はさっきより低く、温かくなっていた。


 スープの湯気があるからかもしれない。


 ガレスの皿が、テーブルの真ん中にあるからかもしれない。


 ネルとレイナは、隣には座らなかった。


 向かい合いもしなかった。


 少し斜めの位置。


 見えるが、ぶつからない距離。


 ガレスがそれぞれに皿を渡した。


 割れていない小皿だった。


 だが、中央の割れた皿から取り分ける形だ。


「食べる」


「命令?」


 ネルが聞く。


「提案」


 ガレスは答えた。


 珍しく、言葉を少し選んだ。


 ネルは焼き菓子を取った。


 レイナも取った。


 二人の手は、皿の上で近づいたが、ぶつからなかった。


 第54話の夜にも似た光景だった。


 ただ、今夜は少し違う。


 あの時は、距離を測るだけだった。


 今夜は、距離の理由を少し知っている。


「皿」


 ネルが言った。


「直したんだ」


「うん」


 ガレスが答える。


「ひび、残ってる」


「残る」


「消せないの」


「消すと、たぶん割れる」


 ネルの手が止まる。


 レイナも皿を見た。


 ガレスは淡々と続ける。


「ひびを消そうとすると、削る。薄くなる。弱くなる。だから、残す」


 誰もすぐには言わなかった。


 ガレスの言葉は、たまにとても遅れて届く。


 ひびを消そうとすると、弱くなる。


 レイナの一度目。


 ネルの怒り。


 俺の失敗。


 全部、消そうとすると弱くなるのかもしれない。


 見えなくすることが、強くすることとは限らない。


「でも」


 レイナが言った。


「ひびがある皿を、来客用には出さないでしょう」


「出さない」


 ガレスはすぐに答える。


 その正直さに、レイナは少しだけ目を伏せた。


「そうですね」


「でも、夜食には使える」


 ガレスは皿を見た。


「何に使うか、選ぶ」


 レイナが顔を上げる。


 ネルも、ガレスを見た。


 彼は別に、二人を説得しようとしていない。


 ただ、皿の話をしている。


 だから届く。


 たぶん。


「選ぶ」


 ネルが繰り返した。


「うん」


「皿が?」


「使う人が」


「皿本人は?」


 ネルの問いは、少し意地悪だった。


 でも、核心でもあった。


 ガレスは考え込んだ。


 かなり長く考えた。


 共同室の全員が、その答えを待った。


 ガレスが皿に話しかけるのではないか、と一瞬思った。


 それはそれで、白旗の影響を受けすぎだ。


「皿は」


 ガレスが言った。


「割れたら、使う人が聞く」


「皿に?」


「自分に」


 ネルが眉を寄せる。


 ガレスは言葉を探した。


「これはまだ使っていい割れ方か。使うと危ないか。飾るだけか。捨てるか。直すか」


 彼は皿のひびを指でなぞる。


「皿は答えない。でも、見れば分かる時がある。分からない時は、使わない」


 クララが小さく息を呑んだ。


 記録したい。


 しかし、今は書かなかった。


 コレットも手帳を開かない。


 今は、見る。


「人は」


 ガレスは続けた。


「答える」


 レイナの指が、皿の縁に触れた。


「答えられるなら、聞くべきですね」


「うん」


「答えられない時は?」


 ネルが聞いた。


 ガレスはまた考えた。


「待つ」


 短い答え。


 でも、その夜の共同室には十分だった。


 答えられない時は、待つ。


 作戦に必要でも。


 明日が公式戦でも。


 勝ち筋が細くても。


 本人が答えられないなら、待つ。


 ただし、待っている間にも、夜食は冷める。


 それは困る。


 ガレスはスープを指した。


「冷める」


「急に現実」


 ネルが言う。


「食べる」


「はいはい」


 二人はスープを飲んだ。


 温かい湯気が、白い部屋の空気を少し柔らかくした。


 レイナはゆっくり器を置いた。


「ネルさん」


「何」


「私は、まだ答えきれていません」


 ネルはスープを飲む手を止めた。


「今日の作戦で、自分の一度目を使うことを、本当に選べているのか」


 レイナは言う。


「明日の朝までに、答えます」


 ネルは彼女を見た。


「今じゃないんだ」


「今、無理に答えると、形だけになります」


「……そう」


 ネルは少し不満そうだった。


 でも、怒鳴らなかった。


「なら、待つ」


 ガレスの言葉を使った。


 レイナは目を伏せた。


「ありがとうございます」


「感謝されると腹立つ」


「では、保留します」


「それも腹立つ」


「難しいですね」


 レイナは少しだけ笑った。


 ネルも、ほんの少しだけ口元を緩めた。


 仲直りではない。


 解決でもない。


 ただ、待つことになった。


 それは、今夜の俺たちには十分だった。


「ネル」


 今度はレイナが呼びかけた。


 さんをつけなかった。


 全員が一瞬、動きを止める。


 ネルも止まった。


「……何」


「あなたは、明日の朝までに答えられますか」


「何を」


「自分の怒りを、私の代わりに使わないことを」


 ネルはすぐには答えなかった。


 さっきのレイナと同じように。


 彼女は自分の手を見る。


 荒い手。


 届く手。


 掴める距離で、掴まなかった手。


「今は、無理」


 ネルは言った。


「あんたがまた笑われたら、たぶん腹立つ。代わりかどうか分かんなくなる」


「では、明日の朝までに」


「答える」


 ネルは言った。


「答えられなかったら?」


 レイナの問い。


 ネルは少し考えた。


「その時は、あたしを作戦から外して」


 共同室が凍った。


「ネル」


 俺は思わず言った。


 口を閉じる手順は、どこかへ行った。


 ネルは俺を睨む。


「何」


「いや、それは」


「あたしが代わりに怒って、白旗を逃がすなら、いない方がいいでしょ」


 正論だった。


 冷たい。


 でも、正しい。


 コレットがネルを見る。


「外す可能性はある」


 部長も冷たい。


 必要な冷たさだ。


 ネルは頷いた。


「それでいい」


 レイナは、静かに言った。


「私も、答えられなければ作戦から外してください」


「駄目です」


 コレットが即答した。


 全員が彼女を見る。


「レイナは外さない」


「なぜですか」


「白旗戦の勝ち筋に必要だから」


 ネルの顔が険しくなる。


 コレットは続けた。


「だからこそ、答えを待つ。必要だから外せない。外せないから、本人の選択を曖昧にしない」


 言葉が少しずつ部屋に落ちた。


 必要だから外せない。


 その言い方は危うい。


 でも、コレットは危うさを隠さなかった。


「私は、部長として、レイナの一度目を勝ち筋に使いたい」


 コレットは言った。


「それは事実」


 レイナは黙っている。


「でも、レイナが選ばずに使えば、白旗はたぶん逃げる。何より、カルミアが駄目になる」


「カルミアが?」


 ロイが小さく聞く。


「うん」


 コレットは頷いた。


「欠陥を使う部活じゃなくて、欠陥を持つ人を使う部活になる」


 その違い。


 その小さくて大きい差。


 俺たちがずっと歩いてきた細い線。


 俺は少し息を吐いた。


 怖かった。


 知らないうちに、その線を踏み外していたかもしれない。


 いや、踏み外しかけていた。


 今夜、ネルが怒らなかったら。


 レイナが黙っていたら。


 俺が勝手に取り繕っていたら。


 白旗戦の勝ち筋はできたかもしれない。


 でも、その勝ち筋は、何かを間違えたものになっていた。


 コレットは手帳を閉じた。


「だから、夜食を食べる」


「なぜそこに戻る」


 ジャックが言う。


「冷める」


 ガレスが言った。


「そう」


 コレットは頷いた。


「答えは朝。今は、食べる」


 それは、思ったより強い決定だった。


 夜に全部を解決しない。


 明日に持ち越す。


 ただし、逃げるのではなく、持ち越すと決める。


 俺たちは夜食を食べた。


 スープは、少し薄味だった。


 ルミナリアの厨房らしく上品な味だ。


 だが、ガレスが持ってくると、なぜかカルミアの味に近くなる。


 雑に安心する味。


 焼き菓子は固かった。


 ロイが噛む音を小さくしようとして、余計に時間をかけていた。


「普通に噛め」


 ジャックが言う。


「普通の音量が分からないんです」


「そこからか」


 ミラが自分のパンを半分に割り、リリィの皿に置いた。


「足りない」


「ありがとうございます」


「迷子一号にはあげない」


「はい。今日は我慢させます」


 迷子一号に我慢という概念があるのかは分からない。


 クララは皿のひびを見たくて仕方なさそうだった。


 しかし、ガレスが「見るだけ」と言うと、二歩下がって見た。


「距離を取った観察」


「うん」


 ガレスは頷いた。


 ノルはスープを飲みながら目を閉じていた。


「夢、変わった」


「どう」


 アルフが聞く。


「割れた皿、白旗の下にあった」


「悪い夢?」


「たぶん、悪くない」


 ノルは眠そうに言った。


「ひびを避けて、旗が立ってた」


 それだけ言って、また黙る。


 夢の話は、いつも分かりにくい。


 でも、分かりにくいまま残しておく価値がある。


 クララが小さく記録した。


 今度は、誰も止めなかった。


 夜食が終わる頃、共同室の空気は完全には軽くなっていなかった。


 でも、張りつめた糸は少し緩んでいた。


 ネルはレイナを見た。


「朝」


 短く言う。


「はい」


 レイナが頷く。


「答える」


「私も」


「逃げないでよ」


「逃げません」


「平気なふりも」


「努力します」


「努力じゃなくて」


 ネルは少し考えた。


「手順」


 レイナが少し笑った。


「手順にします」


 ネルは満足したのか、不満なのか分からない顔をした。


 たぶん、両方だ。


 その夜、解散前にガレスは割れた皿を片付けようとした。


 俺はそれを手伝おうとして、皿に手を伸ばした。


「待って」


 ガレスが言った。


 珍しく、少し強い声だった。


 俺は手を止める。


「危ない?」


「持つ場所」


 ガレスは皿のひびの位置を示した。


「ここを持つと、力が入る。割れる」


「じゃあ、どこ」


「ここ」


 彼は皿の縁を示す。


 ひびから離れた場所。


 でも、支えられる場所。


「傷を直接持たない」


 ガレスは言った。


「周りを持つ」


 俺はその言葉を、しばらく聞いていた。


 傷を直接持たない。


 周りを持つ。


 誰かの痛みを助けたい時、痛い場所そのものを掴むと、さらに割れることがある。


 周りを支える。


 本人が持てるように。


 それは、俺に一番必要な言葉だった。


「分かった」


 俺は皿の縁を持った。


 ガレスの示した場所。


 軽い。


 でも、少し怖い。


 割れた皿を持つのは、綺麗な皿を持つより緊張する。


 それでも、持てる。


 ひびは残っている。


 皿は皿だ。


 俺はガレスと一緒に、皿を厨房へ返しに行った。


 廊下を歩く間、ガレスはほとんど何も言わなかった。


 俺も、あまり言わなかった。


 言わない方が、皿が割れない気がした。


 厨房では、夜番の人が皿を見て少し驚いた。


「本当に直したんですか」


「うん」


 ガレスが答える。


「ただ、来客用には使わないでください」


 俺が慌てて補足すると、厨房の人は笑った。


「もちろんです。まかない用にします」


 まかない。


 夜食。


 完璧な席では出ない皿。


 でも、誰かを温める皿。


 それでいいのかもしれない。


 厨房を出た後、ガレスがぽつりと言った。


「ルカ」


「何」


「仲裁、下手」


「ガレスにも言われた」


「うん」


「やっぱり?」


「うん」


 容赦がない。


 でも、ガレスの声は責めるものではなかった。


「どうすればよかった?」


 俺が聞くと、ガレスはしばらく考えた。


「皿を持つ時と同じ」


「傷を直接持たない?」


「うん」


「周りを持つ」


「うん」


「具体的には?」


 ガレスは立ち止まった。


 白い廊下の真ん中。


 彼の影が、床に短く落ちている。


「水を出す」


「水」


「座る場所を空ける」


「うん」


「夜食を置く」


「それはガレスがやった」


「ルカもできる」


 俺は少し笑った。


「俺、料理できない」


「持ってくる」


「それならできる」


「言葉だけじゃない」


 ガレスは言った。


 短いが、重かった。


 言葉だけじゃない。


 俺は、いつも言葉でどうにかしようとする。


 庇う言葉。


 謝る言葉。


 説明する言葉。


 信じると言う言葉。


 どれも必要だ。


 でも、言葉は時々、傷を直接掴む。


 水を出す。


 座る場所を空ける。


 夜食を置く。


 皿の縁を持つ。


 そういう仲裁もある。


 俺は、その手をあまり持っていなかった。


 持っていないなら、覚えればいい。


 ガレスから。


「ありがとう」


 俺が言うと、ガレスは頷いた。


「うん」


「明日、俺がまた下手に仲裁しそうだったら」


「止める」


「どうやって」


 ガレスは少し考えた。


「水」


「水をかけるのか?」


「渡す」


「よかった」


 その違いは大きい。


 共同室に戻ると、ほとんどの部員はもう部屋へ戻っていた。


 残っていたのは、コレットだけだった。


 手帳を開いている。


 月明かりと灯りの境目で、彼女の影が小さく見えた。


「書いてるのか」


「うん」


「今は書く?」


「今は書く」


 彼女はペンを止めない。


「何を」


「明日の負け筋」


「増えた?」


「減ったのもある。増えたのもある」


「例えば」


「レイナが選べないまま一度目を使う負け筋は、朝まで保留」


「保留」


「ネルが代わりに怒る負け筋も、朝まで保留」


「保留だらけだ」


「保留は、見ないふりよりいい」


 コレットは手帳を閉じた。


「ルカが仲裁に失敗する負け筋は、今日使った」


「使ったのか」


「うん」


「明日は?」


「まだある」


「あるのか」


「でも、少し形が分かった」


 彼女は俺を見た。


「ルカは、傷を直接持とうとする」


「ガレスにも言われた」


「なら、明日は周りを持つ」


「具体的には?」


「名前を呼ぶ。水を渡す。戻る場所を空ける。必要になるまで説明しない」


「難しいな」


「難しい」


 コレットは頷いた。


「でも、できないと白旗は捕れない」


 結局、そこに戻る。


 白旗アウレリア。


 礼。


 距離。


 触れる前の確認。


 人を物にしないこと。


 失敗を終わりにしないこと。


 怒りを誰のものとして使うか。


 割れた皿を、どう持つか。


 この章は、競技の準備というより、人を扱う手つきの話になっている。


 でも、白旗を捕るには、たぶんそれが必要なのだ。


「明日、勝てると思うか」


 俺が聞くと、コレットは少し考えた。


「負け筋は多い」


「知ってる」


「でも、勝ち筋もある」


「珍しいな」


「見えたわけじゃない」


 コレットは手帳に手を置いた。


「作った」


 その言葉は、静かだった。


 未来の勝ちを見られない部長が、勝ち筋を作った。


 敗北を見る目で。


 割れた皿の夜食で。


 怒りを保留にして。


 レイナの一度目を、本人の答えが出るまで待って。


 ネルの怒りを、誰のものか問い直して。


「なら、明日使うか」


「うん」


 コレットは頷いた。


「ただし、本人が選んだら」


「分かった」


 その夜、俺は部屋に戻っても、しばらく眠れなかった。


 窓の外には、白い塔が見える。


 月明かりの中で、塔は昼より少し遠く見えた。


 姿勢のいい鐘は鳴らない。


 夜の学校は静かだ。


 俺は手を見た。


 傷を直接持たない。


 周りを持つ。


 言葉だけじゃない。


 水を出す。


 座る場所を空ける。


 夜食を置く。


 俺にできるだろうか。


 分からない。


 でも、明日、やるしかない。


 レイナは朝までに答える。


 ネルも朝までに答える。


 俺も、朝までに少しはまともにならなければならない。


 かなり難しい。


 自分の成長に期限を切られるのは、なかなかの無茶だ。


 でも、カルミアはだいたい無茶な場所だ。


 欠けた魔法を持つ人間が、旗を追いかける。


 動く古代旗を相手に、礼を学ぶ。


 割れた皿を夜食に使い、公式戦の勝ち筋にする。


 普通ではない。


 だが、俺はその普通ではなさに、少し救われている。


 眠る前、廊下の向こうで小さな声が聞こえた。


 ネルの声だった。


「レイナ」


 返事は聞こえなかった。


 でも、少しして、レイナの声がした。


「はい、ネル」


 それだけ。


 それだけだった。


 会話の内容は分からない。


 ただ、名前を呼んだ。


 さんをつけずに。


 棚ではなく、役割でもなく、作戦の部品でもなく。


 名前で。


 俺は目を閉じた。


 明日の朝、二人はまたぶつかるだろう。


 すぐに綺麗にはならない。


 むしろ、ぶつかった上で、ようやく答えを出すのだと思う。


 でも今夜、割れた皿は割れたまま使われた。


 スープは冷める前に飲まれた。


 誰かの分は、勝手に食べられなかった。


 それで十分だった。


 少なくとも、夜を越えるには。


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