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第56話 怒りにも礼がいる

 公式戦の朝は、思ったより静かだった。


 もっと胸の奥が騒ぐかと思っていた。


 鐘が鳴って、廊下がざわついて、誰かが忘れ物をして、ロイが大声を出しかけて、リリィのポケットから迷子一号の親戚が出てきて、ジャックが「殴れば起きる」とか言い出して、ガレスが何かを直し、ミラが荷物表を更新し、クララが記録板に顔を近づけすぎ、ノルが立ったまま寝る。


 そういう朝を、俺は想像していた。


 実際は、違った。


 みんな、静かだった。


 静かすぎて、怖いくらいだった。


 宿泊棟の共同室には、薄い朝日が差し込んでいた。


 白い壁に、窓枠の影がまっすぐ落ちている。テーブルの上には、昨夜の作戦表と、コレットの手帳と、ガレスがどこからか持ってきた布巾が置かれていた。


 布巾は、なぜかきちんと畳まれている。


 ガレスの仕事だ。


 乱れていたものが直されると、この学校では妙に目立つ。


 ここは最初から乱れていないものが多すぎるからだ。


「起きてる?」


 俺が聞くと、ノルが椅子に座ったまま片手を上げた。


「半分」


「残り半分は?」


「白い夢の中」


「戻ってきてくれ」


「試合までには」


 頼もしいのか頼もしくないのか分からない返事だった。


 ロイは胸元の札を確認している。


 今日は「しゃべるな」ではなく、「小さく鳴れ」と書かれている。


 自分で書き直したらしい。


「進化したな」


「昨日、しゃべるなだと何も言えなくなるって気づいたので」


「いい気づきだ」


「小さく鳴るのも難しいです」


「でも、できてる」


 ロイは嬉しそうにしそうになって、すぐに表情を引き締めた。


 小さく喜ぶ練習。


 それも今日の礼の一部かもしれない。


 リリィは迷子一号をテーブルの上に置き、小さな布で包んでいた。


「今日は出てきても、ここを覚えていてください」


「それ、聞こえてるのか?」


「聞こえていると信じます」


「信仰が深まってる」


「迷子一号教ではありません」


「先に否定するあたり、少し危ない」


 リリィは真剣に石へ頷いた。


 ミラは荷物表を三枚に分けている。


「試合用。控え用。もし白旗が予想外に低く飛んだ時用」


「三枚目が急に限定的だな」


「白旗、低く飛ぶと人の膝くらいまで来る。荷物が当たりやすい」


「確かに」


 ガレスはその横で、ミラの荷物紐を無言で見ている。


「緩い」


「どこ?」


「ここ」


 ガレスが結び直す。


 ミラは素直に背中を向けた。


 ジャックは窓辺に立ち、外を見ている。


 いつものように退屈そうだが、指先だけが落ち着きなく動いていた。


「壊すなよ」


 俺が言うと、ジャックは振り向かずに答えた。


「それ昨日から何回目だ」


「必要な回数」


「今日壊すなら、相手の作戦だな」


「言い方が物騒」


「実際そうだろ」


 ジャックは窓の外を睨んだまま言う。


「白旗は壊さねえ。庭も壊さねえ。人も壊さねえ。でも、向こうが作った綺麗な流れは壊す」


 俺は少し黙った。


 悪くない。


 ジャックの魔法は、壊す。


 でも、壊すものを選べるなら、それは武器になる。


 アウレリアの前で壊してはいけないものと、壊すべきもの。


 そこを間違えると終わる。


「それ、あとでコレットに言え」


「もう言った」


「早い」


「書かれた。『壊す対象を場の流れへ限定』って」


「本当に作戦表になってる」


 クララは昨日の観察記録を読み返していた。


 記録板から顔を離すため、また紐で固定している。


 しかし今日は紐が一本増えていた。


「強化したのか」


「昨日、前のめり抑制が不十分でした」


「自分を拘束具で管理する魔法理論担当、だいぶ怖いな」


「拘束ではなく、距離指定です」


「白旗っぽく言えばいいと思ってるだろ」


「少し」


 クララは真顔で言った。


 アルフは、机に置いた白紙の上に何も書かず、指だけで線を引いている。


 見えない戻り線。


 公式戦用に、庭園の形を頭の中へ入れているのだろう。


 彼の目は、もう競技場を見ていた。


 コレットは、その全員を見ていた。


 未来の敗北を見ているのか。


 現在の部員を見ているのか。


 たぶん両方だ。


 そして、レイナとネルは、まだ来ていなかった。


「遅いな」


 俺が言うと、コレットが手帳から顔を上げた。


「二人とも起きてる」


「見たのか」


「見た」


「何を」


「喧嘩」


 共同室が静かになった。


 さっきまでの静けさとは違う。


 嫌な方向の静けさ。


「喧嘩?」


 ロイが小さく聞く。


 小さくできている。


 偉い。


 でも今はそこではない。


「まだ大きくはない」


 コレットは言った。


「でも、このままだと大きくなる」


「止めに行く?」


 ミラが荷物紐を押さえながら聞いた。


 コレットは俺を見た。


「ルカ」


「はい」


「口を閉じる」


「そこから?」


「そこから」


「行っていいのか」


「行って」


 部長は短く言った。


「ただし、止めるんじゃなくて、聞く」


「聞く」


「二人とも、今たぶん止められたら余計に怒る」


「俺が止めに行ったら?」


「蹴られる」


「ネルに?」


「レイナにも」


「レイナは蹴らないだろ」


「上品に踏むかもしれない」


「それはそれで怖い」


 コレットは手帳を閉じた。


「今日の試合で、二人はぶつかる。なら、試合前に何にぶつかってるのか見ておく必要がある」


「部長、冷たいな」


「必要」


「分かってる」


 俺は立ち上がった。


 廊下へ出る前に、ロイが小さく拳を握った。


「小さく応援してます」


「ありがとう」


「頑張って聞いてください」


「そこを応援される俺、かなり不安だな」


 廊下は白かった。


 朝の光が床に長く伸びている。


 カルミアの廊下なら、どこかしら板が鳴る。壁に昔の張り紙の跡がある。窓枠に少し埃が積もる。


 ルミナリアの廊下は、音を吸う。


 足音が上品になったような錯覚さえする。


 でも、角を曲がると、上品ではない声が聞こえた。


「だから、そういうところがむかつくって言ってるの」


 ネルの声。


 低く、鋭い。


「私は、あなたにむかつかれないために話しているわけではありません」


 レイナの声。


 静かだが、硬い。


 中庭へ続く扉の手前。


 白い柱の影が落ちる小さな広間に、二人は向かい合って立っていた。


 ネルは腕を組み、片足に重心を乗せている。


 レイナは背筋を伸ばしているが、指先が少し強く握られている。


 どちらも戦闘姿勢ではない。


 でも、十分に危ない。


 俺は扉の手前で止まった。


 口を閉じる。


 聞く。


「昨日、あんた言ったじゃん。怒ってるって」


 ネルが言う。


「言いました」


「なら、何で今日の作戦で自分をまた晒すのを普通に受け入れてるの」


「普通には受け入れていません」


「受け入れてる顔してる」


「顔で決めないでください」


「あんたも昨日、あたしに顔のこと言った」


「言いました。だから今、少し後悔しています」


「後悔で済むなら楽ね」


 レイナの眉が、ほんの少し動いた。


 ネルは止まらない。


「コレットが必要って言ったから? 白旗が見てるから? 場を立て直すため? そういう言い方すると全部綺麗だけど、結局あんたがまた笑われるんでしょ」


「笑われるかどうかは、相手が決めることです」


「それがむかつくって言ってんの」


 ネルは一歩近づいた。


「あたしなら嫌だ。あんなふうに見られて、また同じことやれって言われたら、絶対腹立つ」


「私も腹立っています」


「腹立ってるなら、腹立ってるってもっと言えばいいじゃん」


「言えば何が変わりますか」


「少なくとも、あんたが平気なふりしてるのを見るこっちの腹は立たない」


 俺は思わず息を止めた。


 ネルの言葉は、荒い。


 でも、中心はそこだった。


 レイナが傷つかないふりをする。


 それがネルには腹立たしい。


 たぶん、ネル自身が傷ついた時に平気なふりをするのが嫌いだからだ。


 いや。


 嫌いなのではなく、そうしないと生きてこられなかった時期があるのかもしれない。


「あなたは」


 レイナが言った。


 声が少し低くなっている。


「私が怒れば満足ですか」


「違う」


「では、私にどうしてほしいのですか」


「知らない」


「知らないのに責めるのですか」


「知らないから聞いてんの」


「聞き方が責めています」


「責めてるから」


「では聞いていません」


 二人の間の空気が、さらに硬くなる。


 俺は一歩出かけた。


 止まる。


 口を閉じる。


 聞く。


 これ、どこまで聞けばいいんだ。


 手順はいいが、手順には限界がある。


「ネルさん」


 レイナは、名前を呼んだ。


 昨日までより少し強い。


「あなたは、自分が怒ることを正しいと思いすぎています」


 ネルの顔が変わった。


「何それ」


「怒りは必要です。昨日、あなたに言われて、私もそう思いました。礼と怒りは同時に持てる、と」


「じゃあ」


「でも、怒っていれば相手を見ていることになるわけではありません」


 レイナの声は静かだった。


 静かなまま、踏み込んでいた。


「あなたは私を心配しているのかもしれない。腹を立ててくれているのかもしれない。けれど、その怒りで私を包んだ時、私が何を選びたいかを見ていません」


 ネルは黙った。


 レイナは続ける。


「私は晒されたいわけではありません。笑われたいわけでもありません。でも、昨日、見られた上で戻った自分を、なかったことにしたくない」


 彼女の指が震えている。


 でも、声は戻ってきている。


「今日の作戦で一度目を使うのは、私が平気だからではありません。平気ではないまま、使うと決めたからです」


「……それ、損じゃん」


 ネルが言った。


 声の鋭さが少し落ちている。


「あんたばっかり痛い」


「そうですね」


 レイナは認めた。


「ずるい」


「誰が」


「作戦が」


「作戦はずるいものです」


「そういう話じゃない」


 ネルは顔をしかめる。


「あたしは、あんたが自分を道具みたいに使うのが嫌」


 その言葉は、二人の間にまっすぐ落ちた。


 昨日、ネルが言われたこと。


 教材。


 参考。


 実用的な手。


 人を材料にする言葉。


 ネルは、自分がされたことを、今度はレイナに向けられる作戦の中に見ている。


 だから怒っている。


 レイナは、しばらく何も言わなかった。


 彼女の表情は、少しだけ変わっていた。


 怒りではない。


 痛みに触れた顔。


「……私は」


 レイナが言った。


「自分を道具にしているつもりはありません」


「ほんとに?」


「分かりません」


 ネルが目を細めた。


 レイナは自分の手を見る。


 白い手袋は、今日もしていない。


「でも、私は、失敗をただ隠して終わる自分に戻りたくない」


 彼女は言った。


「招待状を受け取った時、私は来られない理由を何度も綺麗な言葉に直しました。家の事情。時期の問題。縁がなかった。今いる場所にも価値がある」


 その一つ一つは、嘘ではなかったのだろう。


 でも、嘘ではない言葉でも、本当の痛みを隠すことがある。


「そう言っている間に、私は怒り方を忘れました。悔しかった、と言うことまで礼に反する気がした」


 レイナは顔を上げた。


「だから昨日、あなたが言った『礼と怒りは一緒に持てる』という言葉は、私には必要でした」


 ネルはそっぽを向いた。


「……別に、あんたのために言ったわけじゃない」


「それでも、届きました」


 届き方。


 マリエル先生の言葉が、俺の中で響く。


 つもりではなく、届き方。


 ネルの言葉は荒い。


 でも、レイナに届いた。


 レイナの言葉は整っている。


 でも、ネルに刺さることがある。


 二人は、その差にずっと腹を立てている。


「なら」


 ネルが言った。


「今日の作戦、あんたが自分で選んだって言いなさいよ」


「言っています」


「もっと」


「もっと?」


「コレットが必要って言ったからじゃなくて、白旗が見てるからじゃなくて、あんたが選んだって」


 ネルはレイナを見る。


「そうじゃないと、あたしはたぶん試合中に怒る。あんたを使ってるみたいに見えたら、止まれない」


 レイナの目が少し見開かれた。


 ネルは自分の弱点を言った。


 止まれない。


 追わない練習をしたばかりなのに。


 いや、したばかりだからこそ、分かっているのかもしれない。


 自分がどこで止まれなくなるか。


「……私は」


 レイナはゆっくり言った。


「今日、自分の一度目を使います」


 言葉が廊下に落ちる。


 白い壁に反響する。


「見せ物にするためではありません。あなたたちに使わせるためでもありません」


 ネルは黙って聞いている。


「私が、失敗のあとに戻る自分を、公式戦の中で証明したいからです」


 レイナは深く息を吸った。


「そして、その戻り方を、チームの勝ち筋にします」


 ネルの眉が動いた。


「本当に?」


「本当に」


「痛くても?」


「痛くても」


「腹立ってても?」


「腹立っていても」


「礼は?」


「失いません」


「怒りは?」


「捨てません」


 ネルはしばらく黙った。


 そして、低く言った。


「じゃあ、あたしも選ぶ」


「何を」


「怒り方」


 その言葉に、レイナが少しだけ目を細める。


「あなたは今まで選んでいなかったのですか」


「うるさい」


「確認です」


「だいたい勝手に出る」


「でしょうね」


「分かってる顔するな」


「分かりやすいので」


 ネルが舌打ちしそうになって、しなかった。


 それも選んだのかもしれない。


「あたしは、今日、怒る」


 ネルは言った。


「でも、あんたの代わりには怒らない」


 レイナは黙っている。


「あたしが腹立った分は、あたしのものとして使う。あんたが腹立った分は、あんたが使いなさいよ」


 レイナの口元が、ほんの少し緩んだ。


「ずいぶん乱暴な分担ですね」


「分担表いる?」


「コレットさんなら作るでしょうね」


「作られそう」


 二人の空気が、少しだけ緩む。


 完全には緩まない。


 むしろ、まだ火はある。


 ただ、火の置き場所が決まった。


 誰かを焼くためではなく、試合で使うために。


 俺はそこで、ようやく一歩出た。


「聞いた」


 二人が同時にこちらを見た。


 怖い。


 かなり怖い。


「いつから」


 ネルが言う。


「途中から」


「どこから」


「怒れば満足ですか、あたり」


「ほぼ最初じゃない」


「口を閉じて聞けってコレットに言われた」


「言い訳が早い」


 レイナが静かに言った。


「謝る前に、まず聞くのでは」


「今から聞く」


「遅い」


 ネルが言う。


「でも、今のは」


 俺は一拍置いた。


 口を閉じる。


 もう一度開く。


「二人とも、ちゃんと自分で選んだってことでいいのか」


 ネルとレイナは、互いを見た。


 それから、ほぼ同時に頷いた。


「私は選びました」


 レイナが言う。


「あたしも」


 ネルが続ける。


「じゃあ、コレットに伝える」


「待って」


 ネルが俺を止めた。


「何」


「あんたは?」


「俺?」


「今日、何を選ぶの」


 急に来た。


 俺は少し詰まった。


 俺が選ぶこと。


 風を使うかどうか。


 誰を信じるか。


 口を閉じるか、言うか。


 記憶を失うかもしれない場面で、何を残すか。


「俺は」


 答えようとして、止まる。


 白い廊下。


 朝の光。


 ネルの手。


 レイナの指。


 昨日の観客。


 アウレリアの布。


 何を選ぶ。


「風を、勝手に使わない」


 俺は言った。


「必要になったら、先に戻り言葉を確認する」


「それはいつもの手順でしょ」


 ネルが言う。


「今日の選択」


 レイナも静かに促した。


 俺は苦笑した。


 逃がしてくれない。


 いい仲間だ。


 ひどい仲間でもある。


「今日、俺は、誰かが物語にされそうになった時、すぐに奪い返しに行かない」


 自分で言って、少し意外だった。


 ネルが眉を上げる。


「どういう意味」


「昨日のレイナの時、俺が先に言ったら、レイナの戻り方を取ってた」


 レイナは何も言わない。


「ネルの時も、俺が勝手に庇うと、ネルの怒り方を取る」


「昨日ちょっと取った」


「反省してる」


「かなり取った」


「深く反省してる」


 ネルはふん、と鼻を鳴らした。


「だから今日は、まず本人が戻る場所を残す。それでも必要なら、言う」


「口を閉じる、進化版ですね」


 レイナが言った。


「そう。たぶん」


「良いと思います」


 その言葉は、少し温かかった。


 ネルも不機嫌そうに頷いた。


「まあ、昨日よりまし」


「評価が少しずつ上がってる」


「調子に乗らない」


「はい」


 三人で共同室へ戻ると、全員がこちらを見た。


 見すぎないようにしている者もいた。


 クララだけは見すぎそうになり、紐に止められていた。


「戻った」


 コレットが言った。


「戻った」


 俺が返す。


「結果」


「二人とも自分で選んだ。レイナは一度目を使う。ネルは怒り方を選ぶ。俺は、本人の戻る場所を奪わない」


 コレットは手帳を開いた。


「書く」


「今か」


「今」


 彼女はさらさらとペンを走らせる。


「怒りと礼の分担表」


「本当に作るの?」


 ネルが顔をしかめる。


「作る」


 コレットは迷わない。


「レイナ。一度目を自分で使う。痛みを隠さない。怒りを捨てない。礼を失わない」


 レイナは黙って聞いた。


「ネル。代わりに怒らない。自分の怒りを軌道変更に使う。追う時と追わない時を選ぶ」


「軌道変更」


 ネルが繰り返す。


「今日の勝ち筋」


 コレットは言った。


「白旗がレイナの一度目で一度離れ、戻る。その戻りで観客の視線も動く。ネルは怒りで飛び出さない。怒りを一瞬の魔力に乗せて、旗の逃げ道を曲げる」


 クララが記録板を見た。


「昨日の距離反応から考えると、乱暴な追跡では逃げます。しかし、怒りの宣言があり、触れない距離を保ったまま軌道だけ変えるなら、拒絶反応ではなく確認反応になる可能性があります」


「難しい言い方やめて」


 ネルが言う。


 クララは少し考えた。


「怒っていると先に言えば、旗がびっくりしにくいかもしれません」


「急に雑」


「翻訳です」


 アルフが机の白紙に見えない線を引く。


「ネルが曲げた後、旗は観客席側ではなく中央へ戻る可能性がある。そこでレイナが二度目で場を整え、僕が戻り線で進路を絞る」


「捕るのは?」


 ジャックが聞く。


 コレットは俺を見た。


 やっぱり来た。


「ルカ」


「俺か」


「ただし、風は最終手段」


「最終手段」


「風を使うなら、戻り言葉確認。使わないなら、誰を信じるかを言う」


「試合中に?」


「短く」


 コレットは表に線を引いた。


「捕獲役はルカ。ただし一人で捕るんじゃない。レイナの戻り、ネルの曲げ、アルフの線、ミラの位置、ロイの小さい音、ジャックの流れ破壊、ガレスの直し、リリィの予定外、クララの読み、ノルの夢、全部で捕る」


「全部盛り」


 ロイが小さく言った。


「そう」


 コレットは頷いた。


「カルミアは、綺麗な一手で勝たない」


 その言葉に、部屋の空気が少し変わった。


 ルミナリアは綺麗だ。


 白い庭園。


 整った礼。


 アドリアンの初手。


 セシリアの場の整え方。


 白旗アウレリアの名誉。


 そこに、綺麗な一手で勝とうとすれば、たぶん負ける。


 カルミアには、そんな一手はない。


 あるのは、失敗を拾う手。


 怒りを選ぶ手。


 戻る手。


 壊さないと先に言う手。


 荷物をぶつけない手。


 迷子に場所を与える手。


 見すぎたら下がる目。


 寝ながら聞く耳。


 未来の負けを書き、今は閉じる部長。


 そして、記憶を失うかもしれない風。


「綺麗じゃないな」


 俺が言うと、ネルが鼻で笑った。


「今さら」


「でも」


 レイナが言った。


「礼がないわけではありません」


 ネルが彼女を見る。


 レイナもネルを見る。


「怒りにも礼がいる」


 レイナは言った。


「礼にも怒りがいる」


 ネルが返した。


 言葉だけ見ると、かなり変なやり取りだ。


 でも、二人には通じている。


 コレットはそのまま手帳に書いた。


「第56話表題候補」


「何で表題の話してるの」


「必要」


 もう何も言わないことにした。


 午前の戦術確認は、短く、濃かった。


 ルミナリアの公式戦は午後。


 午前中は各校に最終調整時間が与えられる。


 俺たちは宿泊棟横の小庭を借りた。


 白い石の小さな広場。中央には水鉢。周囲には背の低い花。


 もちろん、本物の白旗アウレリアはいない。


 代わりに、ガレスが布巾を細い棒に結んで簡易旗を作った。


「白旗代理」


「布巾じゃないか」


「白い」


「そうだけど」


 リリィが迷子一号をその根元に置いた。


「見守り役です」


「代理旗に見守り役がついた」


 クララは真剣に頷いた。


「古代旗の模擬としては不十分ですが、距離と軌道の確認には使えます」


「布巾なのに評価されてる」


 ガレスは少しだけ満足そうだった。


 練習は、まずレイナから始めた。


 彼女は小庭の端に立ち、手袋のない指を開く。


「一度目」


 自分で言う。


 小さな補助魔法をわざと起こし、失敗させる。


 光が弾ける。


 昨日よりは小さい。


 でも、やはり胸が痛む。


 失敗を、練習で何度も見る。


 それを戦術にする。


 ネルの顔が険しくなる。


「ネル」


 コレットが言う。


「怒り」


「分かってる」


「代わりに怒らない」


「分かってるって」


 ネルは歯を食いしばる。


 レイナは半歩下がった。


「戻ります」


 二度目。


 成功。


 その瞬間、ネルが横から一歩出る。


 魔力は一瞬。


 彼女の魔法は、長く続かない。


 だから、使う位置を間違えれば終わる。


「怒ってる」


 ネルは言った。


 突然の宣言。


 でも、必要な宣言。


「でも、乱暴にはしない」


 指先に、短い光が走った。


 風ではない。


 火でも水でもない。


 ネルの魔力は、いつも瞬きみたいに出て、すぐ消える。


 その一瞬が、布巾代理の旗の棒に触れない位置で、空気を弾いた。


 布巾がふわりと軌道を変える。


 白旗なら、逃げるか。


 近づくか。


 分からない。


 でも、軌道は変わった。


「今の」


 アルフが言う。


「強すぎない」


「強すぎると?」


「押したことになる」


「じゃあ、弱くする」


 ネルはすぐに言った。


 怒っているのに、調整を聞いている。


 それだけで、昨日までとは少し違う。


 何度も繰り返した。


 レイナが一度目を失敗する。


 戻る。


 ネルが怒りを宣言する。


 軌道だけ曲げる。


 アルフが線を絞る。


 ミラが自分の位置を保ち、ぶつからないよう進路を空ける。


 ロイが小さな音で合図する。


「今」


 小さく。


 でも、聞こえる。


 ジャックが場の流れを壊す。


 攻撃ではない。


 相手が当然そう動くだろうという綺麗な流れに、身体の向きだけで違和感を入れる。


「壊さない」


 毎回、言う。


「流れだけ」


 ガレスは、誰かが踏みそうな花を先に見つける。


 リリィは予定外の影が出た時の置き場を決める。


 クララは見すぎたら二歩下がる。


 ノルは、白い夢で「布巾が逃げる方向」を言う。


「右」


「今のは左だぞ」


 ジャックが言う。


「夢では右」


「夢から帰ってこい」


「たぶん、白旗なら右」


 アルフが考え込んだ。


「あり得る。布巾は重心が単純すぎる」


「布巾に重心の文句を言うな」


 ガレスが布巾を少し結び直した。


「改善」


「改善されてる」


 こうして見ると、俺たちは本当に綺麗ではない。


 布巾を白旗代理にして、迷子一号を見守り役に置き、夢と紐と荷物表と小さい声と怒りの宣言で作戦を組んでいる。


 ルミナリアの生徒が見たら、たぶん困惑する。


 でも、これがカルミアだ。


 俺たちは自分たちの欠け方を隠すより、使う方に慣れてきた。


 練習の途中、レイナの一度目が失敗した瞬間、ネルがいつもより早く動いた。


「早い」


 アルフが言う。


 ネルは止まりきれず、布巾の棒に指先を触れかけた。


 俺が動く前に、レイナが言った。


「ネルさん」


 声は静かだった。


 だが、止まる声だった。


「私の代わりに怒っています」


 ネルの手が止まる。


 布巾が揺れる。


 ネルは唇を噛んだ。


「……分かってる」


「では、戻ってください」


「あんたに言われると腹立つ」


「今は、それを使ってください」


 ネルは一歩下がった。


 乱暴にではない。


 戻るために。


「怒ってる」


 彼女はもう一度言った。


「でも、これはあたしの怒り」


 次の一瞬、魔力はさっきより弱く、鋭かった。


 布巾の横をかすめ、軌道だけを変える。


 アルフが頷く。


「今の」


 コレットが手帳に書く。


「使える」


 ネルは息を吐いた。


 レイナも、少しだけ肩の力を抜いた。


 その後、逆のことも起きた。


 レイナが一度目を失敗した後、戻る言葉を飲み込んだ。


 観客がいない練習なのに、声が出ない。


 昨日の視線が、まだ喉に残っているのかもしれない。


 ネルが言った。


「言いなさいよ」


 レイナは目を閉じる。


「分かっています」


「分かってるだけじゃ聞こえない」


「分かっています」


「レイナ」


 ネルが名前を呼んだ。


 それは、昨日の観客たちが呼ばなかった呼び方だ。


 オルコット家の娘。


 惜しい方。


 二度目ならできる。


 そういう棚ではなく。


 レイナ。


「あんたが選んだんでしょ」


 レイナは目を開けた。


 ゆっくり息を吸う。


「一度目」


 声が出た。


「戻ります」


 二度目。


 成功。


 ネルはすぐには動かなかった。


 レイナを見る。


 本人が戻ったことを確認してから、動く。


「怒ってる」


 ネルは言った。


「でも、待った」


 魔力が走る。


 布巾が曲がる。


 今度は、とても綺麗に。


 布巾なのに、少しだけ白旗に見えた。


 俺はその瞬間、胸の奥に小さな熱を感じた。


 勝てるかもしれない。


 そう思った。


 思った直後に、怖くなった。


 勝てると思うことは、負け筋を見落とすことと隣り合わせだ。


 コレットも同じだったのかもしれない。


「休憩」


 部長は言った。


「今のまま続けると、調子に乗る」


「部長、言い方」


 ロイが小さく言う。


「事実」


 コレットは冷たい。


 でも、休憩は必要だった。


 小庭の端に座り、水を飲む。


 白い壁の向こうから、公式戦準備の音が聞こえる。


 椅子を並べる音。


 布を張る音。


 誰かが静かに指示を出す声。


 そのすべてが、整っている。


 こちらの小庭には、布巾の旗と迷子一号と、疲れた部員たちがいる。


「ねえ」


 ネルが言った。


 レイナの隣に座っている。


 さっきまで喧嘩していた二人が、微妙な距離で並んでいた。


「はい」


「今日、もしあたしが怒りすぎたら」


「止めます」


 レイナは即答した。


「早い」


「決めていました」


「どうやって」


「名前を呼びます」


「それだけ?」


「それで止まらなければ、あなたの怒りが誰のものか尋ねます」


 ネルは少し嫌そうな顔をした。


「めんどくさい止め方」


「効きそうです」


「効きそうなのが腹立つ」


 レイナは少し笑った。


「あなたは、私がまた平気なふりをしたら止めてください」


「どうやって」


「さきほどのように、名前を呼んでください」


「レイナって?」


「はい」


 ネルは少しだけ黙った。


「……呼び慣れない」


「私も、ネルさんと呼ぶのにまだ少し力が入ります」


「さん、いらなくない?」


 その言葉に、レイナが動きを止めた。


 ネル自身も、言ってから「あ」と思った顔をした。


 共同室の空気が、急に変な方向へ柔らかくなる。


 ロイが口を押さえた。


 リリィが迷子一号を抱きしめる。


 ジャックがにやにやしそうになって、ガレスに肩を叩かれた。


 叩かれたというより、静止された。


 レイナは少し困った顔をした。


「では、ネル」


 声に、まだ慣れなさがある。


 でも、呼んだ。


 ネルの耳が赤くなる。


「……何」


「呼んだだけです」


「用がないなら呼ばないで」


「あなたが、さんはいらないと」


「今じゃなくて」


「では、試合中に」


「それはそれで変」


 レイナは楽しそうにしていた。


 ネルは不機嫌そうにしていた。


 でも、さっきまでの喧嘩とは違う。


 火は残っている。


 ただ、燃え移る先を二人で選び始めている。


 それを見ていたコレットが、手帳に何かを書いた。


「何書いた」


 俺が聞く。


「名前呼び」


「それも作戦表に?」


「入る」


 部長は本気だった。


「レイナが平気なふりをしたら、ネルが名前を呼ぶ。ネルが代わりに怒ったら、レイナが名前を呼ぶ」


「青春みたいなのに、表に入ると途端に事務的だな」


「事務は大事」


 コレットは手帳を閉じた。


「休憩終わり。最後に一回だけ通す」


 最後の通し練習は、今までで一番よかった。


 完璧ではない。


 ロイの合図は少し早かった。


 ミラの位置が半歩ずれた。


 クララが見すぎた。


 ジャックの流れ破壊は少し派手すぎた。


 リリィの迷子一号は、なぜか本当に二センチ動いた。


 ノルは途中で「右」と言いながら左を指した。


 ガレスは布巾代理が落ちかけた瞬間、直しに行きそうになった。


 アルフの戻り線は厳しすぎて、俺の足が引っかかりかけた。


 コレットはそのすべてを書いた。


 それでも、最後の場面。


 レイナの一度目。


「一度目」


 戻る。


 ネルの怒り。


「怒ってる。でも、これはあたしの」


 曲げる。


 アルフの線。


「ここまで」


 ロイの小さい音。


「今」


 ジャックの身体が流れを壊す。


「壊さない」


 ミラが進路を空ける。


 ガレスが花を踏まない位置へ足を置く。


 リリィが迷子の置き場を確保する。


 クララが二歩下がりながら読む。


 ノルが眠そうに言う。


「戻ってくる」


 そして俺が、布巾代理の前に立つ。


 風は使わない。


 誰を信じるか。


 言う。


「レイナとネル」


 短く。


 布巾代理を捕る。


 ガレスの結び方が強すぎて、棒ごと持ち上がった。


 全員が一瞬黙った。


 それから、ロイが小さく笑った。


「捕りましたね」


「棒ごと」


 ジャックが言う。


「旗だけ捕る練習じゃなかったのか」


「本番では棒はない」


 アルフが冷静に言った。


「ならいい」


 ネルが雑にまとめる。


 コレットは深く頷いた。


「よし」


「本当によし?」


 俺が聞く。


「よし」


 部長は言った。


「勝ちに行く」


 その言葉は、いつもより少し大きかった。


 大きいと言っても、ロイの通常声よりはずっと小さい。


 でも、カルミアの中では十分に大きかった。


 昼前、俺たちは競技用の制服に着替え、公式戦の集合場所へ向かった。


 白い廊下を進む。


 朝より足音がある。


 全員が、少しずつ自分の音を持って歩いている。


 ロイは小さい。


 ミラは荷物をぶつけない。


 ジャックは手をポケットに入れず、見える場所に置いている。


 クララは記録板を閉じている。


 リリィは迷子一号をポケットの奥に入れた。


 ガレスは扉の歪みを見つけても触らなかった。


 ノルは歩きながら寝ていない。たぶん。


 アルフは無言で線を引いている。


 コレットは手帳を持たず、前を見ている。


 ネルとレイナは、並んでいない。


 でも、離れすぎてもいない。


 ちょうど、呼べる距離。


 中庭へ出る扉の前で、セシリアが待っていた。


「カルミア魔法学園の皆様」


 彼女は一礼する。


「まもなく公式戦前の入場確認を行います」


「はい」


 コレットが答えた。


 セシリアの視線が、ネルとレイナを少しだけ行き来した。


 彼女は何かに気づいたかもしれない。


 だが、何も言わなかった。


 代わりに、柔らかく微笑んだ。


「本日の観覧席は、昨日より多くなります」


「でしょうね」


 ネルが言う。


 セシリアは少しだけ苦笑した。


「昨日の公開練習が、予想以上に話題になりましたので」


「レイナの失敗が?」


 ネルの声が低くなる。


 レイナが名前を呼ぶより早く、ネル自身が息を吐いた。


「違う。今のは、あたしの怒り」


 セシリアはその言葉を聞き、目を瞬いた。


 レイナが静かに言う。


「話題になったのは、何ですか」


 セシリアは少し考えてから答えた。


「一度目から戻る姿勢と、観覧席の礼についてです」


 レイナは頷いた。


「そうですか」


「もちろん、不躾な言い方をする者もいます」


 セシリアは続けた。


「ですが、マリエル先生が昨日の件を正式に注意事項へ加えました。本日は観覧者にも、競技者を所有物の鑑定のように評さないことが求められます」


「所有物の鑑定」


 ジャックが口の端を上げる。


「いい言い方だな」


「良くはありません」


 セシリアが返す。


「だから、禁止されます」


 彼女の声は柔らかいが、芯があった。


 ルミナリアにも、ルミナリアの中で戦っている人がいる。


 それを忘れると、俺たちは簡単に相手を「貴族校」として棚に戻してしまう。


 昨日、何度も見た失敗だ。


「セシリアさん」


 レイナが言った。


「はい」


「今日、私は一度目を使います」


 セシリアの表情が少し変わった。


「承知しました」


「見世物ではありません」


「はい」


「私が選んだことです」


 セシリアは深く一礼した。


「そのように扱います」


 ネルが横で、小さく頷いた。


 レイナはそれを見ていないふりをした。


 でも、たぶん見ていた。


 扉の向こうから、観客席の気配が聞こえる。


 昨日より多い。


 静かだが、厚い。


 俺は自分の手を見た。


 風を呼ぶ手。


 記憶を失う手。


 誰かの戻る場所を、奪わないようにしなければならない手。


「ルカ」


 ネルが呼んだ。


「何」


「顔」


「また顔か」


「今、全部背負う顔してた」


「してたか?」


「してた」


 レイナも頷いた。


「していました」


「二人に言われると逃げ場がない」


「逃げる場所ではありません」


 レイナが言う。


「戻る場所です」


 ネルが続ける。


「あんたも、自分で選んだ分だけ背負いなさいよ」


 それは、かなり重い言葉だった。


 でも、不思議と嫌ではなかった。


 全部背負うな。


 自分の分を持て。


 相手の分まで奪うな。


 今日の二人が掴んだことを、そのまま俺に返してきた。


「分かった」


 俺は言った。


「俺は、俺の分だけ」


「怪しい」


 ネルが言う。


「怪しいですね」


 レイナも言う。


「信用がない」


「あります」


 レイナは静かに言った。


「だから、確認しています」


 その言い方は、アルフに少し似ていた。


 信用しているから、線を引く。


 信用しているから、止める。


 信用しているから、表に書く。


 カルミアのそういう厳しさが、俺は少し好きになっていた。


 扉が開いた。


 白い競技庭園の光が差し込む。


 観客席の気配。


 白旗アウレリアの揺れ。


 ルミナリアの整った陣形。


 アドリアンの視線。


 セシリアの一礼。


 マリエル先生のまっすぐな姿勢。


 全部が、扉の向こうにある。


 コレットが先頭に立った。


「行く」


 短い言葉。


 全員が頷いた。


 ネルが、レイナを見た。


「レイナ」


 呼んだ。


 さんなしで。


「何ですか、ネル」


 レイナも呼んだ。


 少しだけぎこちなく。


 でも、呼んだ。


「怒ってる?」


「怒っています」


「礼は?」


「失いません」


「よし」


 レイナがネルを見る。


「ネルは?」


「怒ってる」


「誰の怒りですか」


「あたしの」


「よし」


 二人は、それ以上何も言わなかった。


 握手もしない。


 肩も叩かない。


 ただ、呼べる距離で並んだ。


 俺はその後ろを歩く。


 口を閉じる。


 まだ言う時ではない。


 公式戦は、もうすぐ始まる。


 白旗アウレリアが見る前で、俺たちはたぶん失敗する。


 一度目で。


 二度目で。


 もっと先で。


 でも、今日の俺たちは、失敗を終わりにしない方法を一つ増やした。


 怒りにも礼がいる。


 礼にも怒りがいる。


 そして、誰かを信じるなら、その人が戻る場所まで奪わない。


 白い庭園に、一歩踏み出した。


 鐘が鳴る。


 姿勢のいい音が、空に伸びる。


 俺たちは姿勢よくないまま、その音の下を歩いた。


 でも今日は、それが少しだけ誇らしかった。


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