第55話 一度目を見られる
公開練習という言葉には、だいたい嘘が混じっている。
練習なら、見なくていい。
公開するなら、もう練習だけでは済まない。
ルミナリア貴族魔法学院の白い競技庭園に向かいながら、俺はそんなことを考えていた。
朝の鐘は、今日も姿勢よく鳴った。
昨日より少し高く聞こえるのは、俺の耳が緊張しているからだろう。
通路には、昨日より人が多かった。
制服を着たルミナリアの生徒。教師。外部から来た貴族家関係者らしい大人たち。競技庭園の観覧席へ案内される人々は、声を張らずに会話をしている。
騒がしくはない。
だからこそ、一つ一つの視線がよく分かる。
白い壁に映る影みたいに、静かにこちらへ伸びてくる。
「見られてる」
ロイが小さな声で言った。
小さかった。
昨日より、ちゃんと小さい。
「公開練習だからな」
「公開って、こんなに見られるんですか」
「非公開よりは」
「ルカさん、何も安心できません」
「俺も言ってからそう思った」
ロイは自分の喉を押さえた。
今日の彼は、胸元に「しゃべるな」の札を入れている。外からは見えない。けれど、本人はそこにあることを何度も確認していた。
大きな音を出せば、観客が見る。
観客が見れば、白旗アウレリアも見る。
アウレリアは、競技者だけを測っているのではない。
庭園全体を見ている。
たぶん、そういう旗だ。
「観客も、礼の一部」
クララが隣で呟いた。
手には小さな記録板。
ただし、昨日の反省から、今日は覗き込みすぎないように紐で自分の胸元へ固定している。物理的な距離制限。クララらしい。
「それ、書いてあるのか」
「昨日、書きました。アウレリアは被観測者の反応だけでなく、観測者の扱いも見る可能性がある、と」
「難しい言い方をすると安心する?」
「します」
「ならいい」
クララは少しだけ頷いた。
ミラは荷物表を抱え、いつもより慎重に歩いている。荷物の角が誰かの袖に触れないよう、歩幅を変えていた。
リリィはポケットの上から迷子一号を押さえている。
「今日は出てきませんように」
「出るときは出るんじゃないか」
「だから祈っています」
「祈りで制御できるなら、それはもう召喚術じゃなくて宗教だ」
「迷子一号教……」
「作るな」
ガレスは無言で、全員の靴紐を見ていた。
「ほどけてない」
「ありがとう、ガレス」
コレットが短く礼を言う。
部長は今日、いつもの手帳を持っている。
ただ、表情は少し硬い。
未来の敗北が見えているのか。
それとも、今日見えるものは未来でなくても十分に嫌なのか。
「コレット」
「何」
「今日の負け筋、見えてるのか」
「たくさん」
「具体的に」
「レイナが一度目の失敗を隠そうとして崩れる。ネルが観客に噛みついて場が荒れる。ルカが庇い方を間違える。ロイが音を出す。ジャックが黙れなくなる。クララが見すぎる。リリィが変なのを出す。ミラが荷物で誰かを守ろうとして進路を塞ぐ。ガレスが直しに行くのが早すぎる。アルフが線を守りすぎて助けに遅れる。ノルが寝る」
「全部じゃないか」
「全部」
コレットは淡々と言った。
「でも、昨日より使い道はある」
「それは心強いのか?」
「心強くはない。使える」
その違いが、カルミアらしかった。
俺は少し後ろを歩くレイナを見た。
彼女はいつも通り、背筋を伸ばして歩いている。
昨日、ネルが「歩き方まで綺麗で腹立つ」と言った歩き方だ。
今日のレイナは、白い手袋をしていなかった。
指先が見えている。
一度目の失敗が出る指。
戻るための指。
その手を隠さないためかもしれない。
あるいは、隠したくても隠せなかっただけかもしれない。
「レイナ」
俺は声をかけた。
口を閉じる手順。
一拍。
「今日、止める時は止めてくれ」
「あなたを、ですか」
「俺を」
「分かりました」
即答だった。
「迷いがないな」
「迷うと被害が広がります」
「俺は災害か」
「時々」
ネルが横から言った。
「人災」
「そこまでか」
「庇う時は、口が先に落ちる」
「昨日の件は本当に反省してる」
「なら今日使って」
ネルは前を向いたまま言った。
「レイナが何か言われたら、あたしが先に怒るかもしれない。その時、あんたはあたしも止めて」
その言葉に、俺は少し驚いた。
ネルが、自分を止めろと言う。
昨日の「追わない」練習が、まだ彼女の中に残っている。
「分かった」
「ただし、下手に止めたら蹴る」
「結局蹴るのか」
「止め方次第」
「難易度が高い」
ネルは鼻を鳴らした。
でも、声は昨日ほど尖っていなかった。
レイナはその会話を聞いて、少しだけ目を伏せた。
「ありがとう」
小さな声だった。
ネルは聞こえないふりをした。
聞こえていたと思う。
でも、聞こえないふりをする距離もある。
競技庭園に入ると、白さが一気に広がった。
昨日の接触路や東屋とは違い、今日は公式練習用の中央庭園が使われる。
石畳の円形広場。
その周囲を低い生垣と花壇が囲み、さらに外側に階段状の観覧席がある。白い石の席に青い布が敷かれ、ところどころに金色の細い柵が立っていた。
カルミアの競技場なら、観覧席はもっと雑だ。
椅子の高さがばらばらで、誰かが持ち込んだ箱が混ざり、風で紙が飛ぶ。
ここでは、紙さえ飛ばないように見えた。
観客はすでに半分ほど入っていた。
静かに座っている。
静かに見ている。
何かを待っている。
俺たちが入ると、視線が一斉に動いた。
拍手はない。
歓声もない。
ただ、視線だけがある。
「うわ」
ロイが小さく言った。
「よく小さく済ませた」
「褒められても嬉しくないです」
「でも偉い」
「ちょっと嬉しいです」
ロイは複雑な顔をした。
庭園の向こう側には、ルミナリアの競技代表たちがいた。
アドリアン・ヴァロワ。
昨日と同じように、整った姿勢で立っている。制服の白が、周囲の石と馴染んでいるのに、彼だけは輪郭を失わない。
セシリア・グレイスは、その少し横。
彼女は俺たちに気づくと、柔らかく一礼した。
マリエル先生もいる。
年配の女性教師は、今日も姿勢の角度を目で測れそうなほど正確に立っていた。
白旗アウレリアは、中央庭園の鳥像の上にいた。
昨日より高い像だ。
翼を広げた白い鳥の背に、旗が立っている。
布は風を受けていないのに揺れる。
金糸が朝の光を拾い、細い炎のように光った。
アウレリアは、観客の方を見ているように見えた。
いや、顔はない。
見ているように感じるだけだ。
けれど、その「感じるだけ」が、この旗に関してはだいたい外れていない。
「公開練習の形式を説明いたします」
セシリアの声が庭園に通った。
声量は大きくない。
でも、きちんと届く。
ロイが少し羨ましそうに見ていた。
「本日は、公式戦前の交流練習として、白旗アウレリアとの礼式接触確認を行います。競技魔法は制限され、攻撃、捕獲、拘束は禁止。各校代表者が順に、アウレリアの進路を尊重しつつ接触可能距離まで近づきます」
観客の視線が、アウレリアへ移る。
白い旗は、ゆっくり揺れた。
「なお、アウレリアは歴代の名誉旗です。競技者の所作だけでなく、場全体の礼を測るとされています」
場全体。
観客席の何人かが、少し姿勢を正した。
聞いている。
でも、どれだけ自分のこととして聞いているのかは分からない。
「まずはルミナリア側から模範確認を行います。その後、カルミア魔法学園の皆様にお願いします」
アドリアンが一歩出た。
観客席から、静かな空気が流れた。
期待。
安心。
この人なら間違えない、という見る側の甘え。
アドリアンは鳥像へ向かって一礼した。
角度は完璧だった。
歩き出す。
白い石の上を、音を立てずに。
アウレリアは鳥像から降りた。
布が白い花のように開き、石畳の上へ滑る。
アドリアンは追わない。
先回りもしすぎない。
進路を塞ぐ寸前で止まり、手を胸の高さまで上げる。
指先は開いている。
掴む手ではなく、迎える手。
アウレリアは、彼の手前で止まった。
観客席から、小さな感嘆が漏れる。
アドリアンは微笑んだ。
完璧。
その言葉が、場に漂った。
俺は素直に感心した。
うまい。
礼も距離も、競技としての読みも。
あれを相手に、公式戦で勝つ必要がある。
面倒すぎる。
「さすが」
リリィが小声で言う。
「綺麗すぎて、足を引っかけたくなる」
ジャックが呟いた。
「やめろ」
「やらねえよ。思っただけだ」
「思うのもほどほどに」
「思うなって言われると、もっと思うだろ」
「ジャックさん、声」
ロイが逆に注意した。
ジャックは眉を上げたが、黙った。
アドリアンの次に、セシリアが模範確認を行った。
彼女の動きは、アドリアンほど華やかではない。
ただ、場の空気を乱さない。
旗が動く前に、自分の存在を少し薄くする。
アウレリアは彼女の前で一度布を傾け、通り過ぎた。
それは拒絶ではなく、通行の許可のようだった。
セシリアは追わず、通り過ぎた旗へ一礼した。
観客は、また静かに感嘆した。
次に、ルミナリアの一年生が一人出た。
昨日、ネルに謝った少女だった。
彼女は緊張していた。
それが遠目にも分かる。
昨日より肩が硬い。
でも、彼女はアウレリアの前で、先にネルの方を見た。
ほんの一瞬。
それから、自分の手を見た。
歩き出す。
完璧ではない。
途中で一度、足が早くなりすぎた。
彼女は自分で止まった。
「失礼」
誰にともなく言った。
アウレリアは逃げなかった。
観客席が少しざわめく。
模範というには、不完全。
けれど、アウレリアはその不完全を咎めなかった。
少女は、接触距離の手前で止まり、頭を下げた。
白旗の布が、軽く揺れる。
昨日の謝罪が、今日の動きに残っている。
ネルはそれを見て、無言だった。
腕を組み、眉間にしわを寄せている。
でも、昨日ほど敵を見る顔ではない。
敵をやめたわけではない。
ただ、人間として見ている。
それはたぶん、白旗の庭では大きい。
「続いて、カルミア魔法学園」
セシリアがこちらを見た。
コレットが小さく頷く。
「順番は予定通り」
予定通り。
俺たちは昨夜、順番を決めていた。
最初はアルフ。
安定した距離測定を見せる。
次にミラ。
進路と荷物の扱い。
その後、ロイ、リリィ、クララ、ガレス、ジャック、ノル。
ネルは今日は中盤。
レイナは後半。
最後にコレットと俺。
レイナを最後にしなかったのは、晒される時間を長引かせないためではない。
失敗が出た後に、チームがどう続けるかを見せるためだ。
コレットの判断だった。
冷たい。
必要。
厳しい。
やっぱり必要。
アルフが出た。
彼はいつも通り、無駄な動きが少ない。
観客席は、アドリアンの時ほど期待していない。
むしろ、様子見。
地方校がどの程度やるか。
敗戦後に評価補助点を得た学校は、何を見せるのか。
そういう視線だ。
アルフは、その視線に反応しなかった。
見えない戻り線を自分の中に引く。
白い石に印をつけない。
庭園を傷つけない。
アウレリアが斜めに動いた時、彼は半歩だけ引いた。
進路を塞がず、逃がしすぎず。
白旗は、彼の前を通り過ぎて、少しだけ戻った。
観客席が小さくざわめく。
「よし」
コレットが低く言った。
ミラは、一度深呼吸してから出た。
彼女は荷物を持っていない。
それでも、肩や腕が、いつもの荷物の重さを覚えている。
アウレリアが近づく。
ミラは自分の立つ幅を確保し、花壇側へ押し出されない位置で止まった。
追わない。
譲りすぎない。
自分の置き場も礼の一部。
昨日の助言を、ちゃんと使っていた。
白旗は彼女の横を通り、布の端をわずかに高くした。
ミラは嬉しそうな顔をしかけて、慌てて引き締めた。
観客席からは、今度は少しはっきりしたざわめきが起きた。
カルミアが思ったよりできる。
そういう空気。
思ったより。
これもまた、上からの言葉だ。
でも、点にはなる。
競技では、相手の見下ろしさえ使えるなら使う。
ロイは、出る前に胸元の札を押さえた。
「小さい声」
俺が言うと、ロイは頷いた。
「小さい音」
それから彼は庭園へ出た。
観客席の一部が、少しだけ身構えた。
昨日までに、ロイの魔法発動音について噂が流れているのかもしれない。
ロイはその視線に気づいた。
肩が上がる。
喉が動く。
俺は口を開きかけた。
閉じる。
ロイは自分で胸元を押さえた。
「よろしく、お願いします」
小さい。
でも、届く声だった。
アウレリアは、彼の大きすぎない挨拶に対して、昨日と同じように布を揺らした。
観客席の誰かが、少し笑った。
嘲笑ではない。
たぶん、可愛らしいものを見る笑い。
それでも、ロイの耳は赤くなった。
小さく扱われることも、時々刺さる。
ロイはそれでも音を出さなかった。
終わって戻ってきた時、俺は小さく拳を出した。
ロイは無言で拳を合わせた。
音はしなかった。
リリィは、途中で本当に迷子一号の影を出しかけた。
灰色の小さな石のような影が、靴先に転がる。
観客席が息を飲んだ。
リリィは悲鳴を上げなかった。
「ここ」
彼女は小さな影を両手で囲むようにして、通路の外へ置いた。
「今日は見学」
影はころりと転がって、花壇の縁で止まった。
アウレリアは、その影を避けず、ただ進路を少し変えて通った。
予定外にも場所を与える礼。
リリィは戻ってきて、膝から崩れそうになった。
ミラが支えた。
「出ました」
「出たけど、居場所はあった」
ミラが言う。
「はい」
リリィは半泣きで頷いた。
クララは、記録板の紐のおかげで前のめりになりすぎなかった。
ただ、目だけはものすごく前のめりだった。
アウレリアが布を揺らすたび、彼女の瞳も揺れる。
見たい。
読みたい。
知りたい。
その欲が、白い庭園ではかなりはっきり見える。
クララは途中で自分の目元に手を当てた。
「見すぎています」
そして二歩下がった。
観客席から、少し笑いが漏れた。
変わった子だ、という笑い。
クララは聞こえていないふりをした。
いや、たぶん本当に半分聞こえていない。
アウレリアは離れなかった。
ガレスは、通路の端に落ちていた小さな青い花を拾った。
観客席の一部が、少しざわつく。
競技中に何をしているのか。
だが、マリエル先生は何も言わなかった。
ガレスは花を花壇の土の上に戻し、それからアウレリアに向き直った。
「踏まない」
短い。
それだけ。
白旗は、ガレスの前で長く止まった。
昨日と同じように。
直す礼。
観客席の空気が変わる。
派手ではない。
けれど、何かを見た、という沈黙。
ジャックはその直後だった。
「やりづれえ」
「壊すなよ」
俺が言う。
「言われなくても」
ジャックは庭園へ出る。
彼の立ち方は、他の誰よりも危なっかしく見える。
実際、危ない。
魔法を使わなくても、彼の身体は攻撃の形を覚えている。
アウレリアが斜めに逃げた。
ジャックの手が動く。
速い。
観客席が緊張する。
「壊さない」
ジャックは、手を止めるより先に言った。
いや、ほぼ同時だった。
「今は、壊さない」
手は旗の端の手前で止まる。
白旗は、一度だけ大きく布を揺らした。
それは警戒か、確認か。
ジャックは舌打ちしなかった。
ただ、一歩下がった。
「悪い。速かった」
その声に、アウレリアは逃げずに通り過ぎた。
コレットが短く頷いた。
ノルは、なぜか観客席の方が静かになった。
彼女が眠そうに出ていくと、誰も笑わない。
笑ったら何か悪い夢を見る気がするのかもしれない。
ノルはアウレリアの前で立ち止まり、目を半分閉じた。
「今日は、白い夢」
誰にも説明しない。
でも、白旗は布を傾けた。
「見られても、寝てるふりじゃない」
ノルは言った。
「聞いてる」
アウレリアは彼女の前をゆっくり通った。
観客席の静けさが、少し深くなった。
そして、ネルの番になった。
昨日のことがある。
彼女を「平民出身」と見た生徒たちは、今日も観客席の一角にいた。
少女は姿勢を正していた。
少年もいる。
彼らだけではない。
外部の大人たちの中にも、ネルを見る視線がある。
珍しいものを見る視線。
荒いものを見る視線。
予想外にできるかどうかを見る視線。
ネルは肩を回した。
「噛みつくなよ」
俺は小声で言った。
ネルは俺を見た。
「止め方、下手」
「今のも?」
「今のはまあまあ」
「判定が難しい」
ネルは庭園へ出た。
歩き方は綺麗ではない。
でも、昨日より急いでいない。
アウレリアが動く。
ネルの足が反応する。
追いかけそうになる。
止まる。
観客席の誰かが、小さく息を吐いた。
止まれると思っていなかったのか。
その息が、ネルに届いた。
肩が上がる。
彼女の指が少し曲がる。
掴みに行きそうになる。
俺は口を開きかけた。
閉じる。
ネルは、歯を食いしばった。
「追わない」
低い声。
「でも、見る」
アウレリアが止まる。
ネルは手を開いた。
「あたしの手は、あんたを乱暴にするためじゃない」
観客席が静かになる。
ネルは続けた。
「掴みたい。でも、今は掴まない」
白旗の布が、少し近づいた。
ネルの指先から、昨日と同じくらいの距離で止まる。
触れていない。
でも、昨日より長く留まった。
ネルの顔が、少し歪む。
掴める距離にあるものを掴まない。
彼女にとって、それはかなりの負荷だ。
それでも、止まった。
観客席の一角で、昨日の少女が小さく頭を下げた。
ネルはそれを見た。
見たが、返事はしなかった。
練習中だから。
あるいは、今はまだ返せないから。
それでいい。
ネルは戻ってくると、俺の横に立った。
「偉い?」
「偉い」
「今のは、まあまあ」
「よし」
「調子に乗らない」
「はい」
そこまでで、カルミアの流れは悪くなかった。
むしろ、良かった。
白旗アウレリアは、俺たちを拒絶していない。
観客席の見方も、最初より少し変わっている。
地方校。
問題児。
欠陥魔法。
そういう棚に入れていた視線が、少しずつ揺れている。
だからこそ。
次が、目立つ。
「レイナ・オルコットさん」
セシリアが呼んだ。
その声は、いつも通りだった。
でも、観客席の空気が変わった。
俺でも分かる。
知っている名前。
オルコット家。
ルミナリアから招待状を受け取り、入学しなかった少女。
あるいは、入学できなかった少女。
どちらの言い方をするかで、見方は変わる。
だが、観客は本人に聞かない。
勝手に物語にする。
レイナは一歩出た。
背筋は伸びている。
手袋はしていない。
指先は、少し白い。
俺は息を吸った。
何か言いそうになった。
閉じる。
今は、俺の番ではない。
レイナは鳥像へ向かって一礼した。
角度は綺麗だった。
観客席の何人かが、わずかに頷く。
知っている礼だ。
あの子は本来、こちら側の所作を知っている。
そういう視線。
レイナは歩き出した。
アウレリアが鳥像から降りる。
白い布が石畳へ滑り、レイナの前方で止まった。
一歩。
二歩。
レイナは近づく。
綺麗だ。
昨日ネルが腹を立てた通り、歩き方まで綺麗だ。
でも、その綺麗さは今日、彼女を守る鎧ではなかった。
むしろ、鎧の継ぎ目を目立たせる。
あれだけ綺麗なのに、失敗する。
そう見られる。
アウレリアが横へ動いた。
レイナは追わない。
半歩引き、進路を空ける。
そこまでは完璧だった。
次に、アウレリアがふわりと高く浮いた。
昨日より少し速い。
観客の前だからか。
それとも、レイナを測っているのか。
レイナは手を上げた。
掴むためではない。
接触距離を示すため。
だが、その瞬間、彼女の指先に光が生まれた。
癖。
姿勢を補正するための、小さな魔法。
おそらく、貴族校の礼式歩行で使われる補助の一種。
使わなくても歩ける。
でも、完璧に見せるために、身体が覚えている。
レイナの魔法は、一度失敗しなければ成功しない。
小さな光は、指先で弾けた。
ぱちん。
音は、本当に小さかった。
でも、白い庭園では、その小さな音がよく響いた。
観客席の視線が、一斉に指先へ落ちる。
レイナの足が止まった。
空気が止まる。
誰かが、かすかに笑った。
笑ったのは一人かもしれない。
でも、一人の笑いは、静かな場所では波紋になる。
すぐに別の誰かが咳払いをした。
隠すためか。
笑いを消すためか。
分からない。
外部席の年配の男性が、隣の女性に何か囁いた。
言葉は聞こえない。
聞こえないのに、意味だけが伝わってくる。
やはり。
そういう感じの囁きだった。
レイナの頬が、少しだけ白くなった。
赤くなるのではなく、白くなる。
血が引く。
俺は、足を出しかけた。
ネルが俺の袖を掴んだ。
強い。
痛いくらい。
止められた。
俺は口を閉じた。
手順。
今は、レイナの一度目だ。
彼女が戻る番だ。
俺が先に言えば、彼女の戻り方を奪う。
分かっている。
でも、見ているだけは、こんなに難しい。
レイナは指先を見た。
観客は彼女を見ている。
白旗アウレリアも、動かずに見ている。
全員が見ている。
白い庭園で、一度目の失敗が晒されている。
「一度目」
レイナが言った。
声は、昨日より小さかった。
だが、消えなかった。
「戻ります」
観客席の空気が揺れた。
戻ります。
失敗のあとに、その言葉を公衆の前で言う。
それは、礼なのか。
開き直りなのか。
言い訳なのか。
観客たちは判断しようとしている。
でも、レイナは彼らに判断を委ねるために言ったのではない。
自分が戻るために言った。
レイナは半歩下がった。
そして、もう一度、手を上げる。
今度は、光が安定した。
二度目。
成功。
小さな補助魔法が、彼女の姿勢を整える。
乱れた肩が戻る。
指先が開く。
歩き出す。
観客席の誰かが、また囁いた。
今度は聞こえた。
「二度目なら、できるのね」
悪意の強い声ではなかった。
むしろ、感想。
だから刺さる。
二度目なら、できる。
一度目は、できない。
その一文だけで、レイナを説明できると思っている声。
ネルの手が、俺の袖から離れた。
彼女が一歩出そうになる。
今度は、俺がネルの手首を掴んだ。
ネルが俺を見る。
目が怒っている。
止めるな、と言っている。
俺は首を横に振った。
今は。
今は、まだ。
ネルは歯を食いしばった。
それでも止まった。
追わない。
でも、見る。
彼女は昨日、自分でそう言った。
レイナはアウレリアの前で止まる。
手を伸ばす。
触れない距離。
白旗は動かない。
いや。
少しだけ、離れた。
観客席がざわめく。
失敗したから?
それとも、場が乱れたから?
レイナの指先が、わずかに震える。
また光が出そうになる。
彼女は手を握り、魔法を止めた。
「二度目を、見せるためではありません」
レイナは言った。
誰に向けた言葉か、分からなかった。
アウレリアか。
観客か。
自分か。
「一度目から、戻るためです」
白旗の布が、止まった。
レイナは続けた。
「私は、一度失敗します」
観客席が、さらに静かになる。
それを自分で言うのか。
そういう沈黙。
「それは、私の魔法の性質です。恥ではありません」
声が少し揺れた。
恥ではない。
そう言う時点で、恥として扱われてきたことが分かる。
「ですが、恥ずかしくないと言い切れるほど、私は強くありません」
レイナは一度、息を吸った。
俺は動けなかった。
ネルも動かなかった。
誰も動かない。
白い庭園の真ん中で、レイナだけが立っている。
「だから、戻ります」
彼女は言った。
「見られても、戻ります」
アウレリアの布が、ゆっくり広がった。
白い鳥が翼を広げるように。
観客席から、息を飲む音がした。
白旗はレイナへ近づいた。
一歩。
いや、旗に足はない。
でも、そう見えた。
レイナの手前で止まり、布の端を彼女の指先の近くへ下ろす。
触れていない。
だが、昨日より近い。
レイナの目が揺れる。
彼女は触れようとしなかった。
ただ、頭を下げた。
「ありがとうございます」
その礼は、完璧ではなかった。
肩が少し震えていた。
角度も、たぶん彼女自身なら減点する。
でも、逃げなかった。
その時だった。
観客席の外部席から、低い声が聞こえた。
「惜しい方だ」
誰かが言った。
今度は、はっきり聞こえた。
年配の男性。
白い手袋。青い外套。胸元に家紋らしい銀の飾り。
「所作は美しい。だが、初手が乱れるのでは、ルミナリアでは苦労したでしょうな」
周囲の誰かが、止めるように小さく咳払いをした。
だが、もう遅い。
言葉は庭園に落ちた。
白い石の上で、よく響いた。
レイナは動かなかった。
アウレリアも動かなかった。
俺の中で、何かが跳ねた。
口を閉じる手順。
一拍。
閉じた。
閉じたが、次は言う番だと思った。
しかし、俺より先に、マリエル先生が動いた。
「観覧席の方」
声は大きくなかった。
だが、庭園全体が聞いた。
年配の男性が、少し驚いたように彼女を見る。
「公開練習における観覧者の礼について、先ほど説明がありました」
マリエル先生は、表情を変えずに言った。
「競技者の未完成を、本人の前で所有物の鑑定のように評することは、当学院の礼に含まれません」
空気が凍った。
鋭い。
丁寧なのに、まっすぐ刺した。
俺が言ったら絶対にこうはならない。
年配の男性は、わずかに顔を赤くした。
「これは失礼。鑑定のつもりでは」
「つもりの話ではありません」
マリエル先生は言った。
「届き方の話です」
俺は思わず、ネルを見た。
ネルも俺を見ていた。
昨日の話だ。
言葉は、つもりではなく、届き方で相手を傷つける。
白旗アウレリアの布が、マリエル先生の方へ少し向いた。
観客席は静まり返っている。
レイナは、まだ庭園の中央に立っていた。
マリエル先生は彼女へ向き直る。
「オルコットさん。続けられますか」
その問いは、優しかった。
だが、甘くはなかった。
続けるか。
自分で決めるか。
逃げる許可も、続ける責任も、本人に返す問いだった。
レイナは目を伏せた。
ほんの一瞬。
それから、顔を上げた。
「続けます」
声は震えていた。
でも、届いた。
「一度目から、戻ります」
アウレリアの布が、レイナの前でゆっくり揺れた。
練習は続いた。
レイナは再び位置についた。
今度は、補助魔法を使わない。
素の身体で歩く。
さっきより綺麗ではない。
観客席の視線は、まだ鋭い。
しかし、誰も声には出さない。
マリエル先生がいるから。
それだけではない。
白旗アウレリアが、観客席を見ているから。
場全体の礼。
さっきの一言で、観客も測られる側になった。
レイナは一歩進む。
アウレリアが横へ流れる。
レイナは追わない。
半歩引く。
その引き方は、昨日より少し崩れている。
でも、逃げてはいない。
「戻ります」
彼女は、小さく言った。
今度は失敗の後ではない。
動きの中で、自分の位置を戻すための言葉。
アウレリアが彼女の前を通る。
レイナは手を伸ばさない。
通り過ぎたあと、頭を下げる。
白旗は、通り過ぎかけて、戻った。
観客席が息を飲む。
アウレリアはレイナの背後を一周した。
昨日、ネルにしたように。
ただ、ネルの時とは違う。
ネルの時は、追う手の周りを測った。
レイナの時は、戻る背中を測っている。
白い布が、彼女の肩の近くで揺れる。
触れない。
だが、離れない。
レイナは泣かなかった。
笑いもしなかった。
ただ、立っていた。
「終了」
セシリアの声が響いた。
その瞬間、観客席から拍手が起きかけた。
ぱら、と小さな音。
だが、すぐに止まった。
拍手していいのか。
失敗を見て、戻った姿に拍手することは、励ましなのか、消費なのか。
観客たちは迷った。
その迷いを、アウレリアが見ている。
布が観客席へ向く。
拍手は完全に止まった。
重い沈黙。
でも、悪い沈黙ではなかった。
少なくとも、さっきの笑いよりはずっとましだ。
レイナは戻ってきた。
足取りは崩れていない。
だが、顔色はよくない。
ネルが一歩近づいた。
言葉を探している。
たぶん、向いていない。
でも探している。
「……戻ったじゃん」
ネルは言った。
短い。
雑。
でも、レイナを見る言葉だった。
レイナは一瞬だけ目を見開き、それから小さく頷いた。
「はい」
「むかつくけど」
「何がですか」
「あんたを見てるやつら」
「私も、少しむかついています」
レイナは静かに言った。
ネルが驚いたように彼女を見る。
「少し?」
「かなり」
「なら言いなさいよ」
「今、言いました」
「もっと早く」
「努力します」
ネルは何か言おうとして、やめた。
代わりに、レイナの横に立った。
それだけ。
肩を抱くわけでも、慰めるわけでもない。
ただ、横に立つ。
平民の手と、貴族の手。
今日は触れなかった。
でも、距離は昨日より近かった。
コレットが小さく息を吐く。
「続ける」
部長は言った。
冷たい。
必要。
今日の練習は、まだ終わっていない。
レイナの失敗で終われば、観客の物語はそこで固まる。
オルコット家の娘が失敗した日。
そうなる。
だから、続ける。
その後に、カルミアが何をするかを見せる。
「次、コレット」
自分で言って、彼女は庭園へ出た。
小さな部長の背中に、観客席の視線が集まる。
コレットは手帳を持っていない。
今日は書かない。
少なくとも、旗の前では。
アウレリアは、レイナの後だからか、少し高い位置に浮いていた。
コレットはそれを見上げた。
「あなたが見ている負け方は、たぶん私より多い」
彼女は言った。
観客席がざわつく。
何の話か分からない。
分からなくていい。
これは、コレットと白旗の話だ。
「でも、今は書かない」
コレットは両手を下ろした。
「見ます」
アウレリアが少し下がる。
コレットは追わない。
彼女は、未来の敗北を見る。
勝ち筋ではなく、負け筋を見る。
だから、彼女にとって、目の前で失敗したレイナは「予想された負け」でもある。
でも、コレットはそれを表に閉じ込めなかった。
今は、見る。
観客席も、少しずつそれに引きずられる。
分析しようとした空気が、見る空気に変わる。
アウレリアはコレットの前で止まり、布を小さく畳むように揺らした。
部長が戻る。
最後は俺だった。
正直、出たくなかった。
出れば、何か言う。
何か言えば、たぶん下手だ。
でも、俺が出ないと、カルミアの順番は終わらない。
俺は庭園へ出た。
白い石が、靴の下で少し冷たい。
観客席が俺を見る。
ヴァレン。
俺の名前を知っている人間がいるかどうかは分からない。
でも、何人かの視線が少し変わった。
元は別の場所にいた子。
カルミアに落ちた子。
魔法を使うたびに何かを忘れる子。
そういう話は、どこかから漏れる。
物語は、人より速く歩く。
俺は鳥像へ一礼した。
角度は、たぶんよくない。
昔、ちゃんとできたのかもしれない。
今は覚えていない。
「教えてください」
俺は言った。
昨日と同じ。
「忘れているかもしれないので」
観客席が少し揺れた。
忘れている。
その言葉も、彼らにとっては物語になる。
かわいそう。
危険。
不完全。
元名門。
落ちた。
忘れる。
俺を説明する棚は、たぶんいくつもある。
でも、俺は今日、それを全部片付けるために出たわけではない。
レイナが戻った後に、俺も戻るために出た。
アウレリアが近づいてくる。
白い布が、視界の中でゆっくり揺れる。
俺は手を上げない。
風を呼ばない。
魔法を使わない。
ただ、歩く。
一歩。
二歩。
アウレリアが横へ逃げる。
追える。
風を使えば、もっと追える。
使わない。
風前確認。
今日は、風を使わない。
だから、誰を信じるかを言う。
「レイナを信じます」
俺は言った。
観客席がざわついた。
レイナが息を呑む気配がした。
「一度目で終わらなかったので」
口を閉じる手順は守った。
でも、言葉はやっぱり下手かもしれない。
それでも言う。
「ネルも信じます。追わなかったので」
ネルが後ろで何か言いかけた気配がした。
たぶん、今言うな、とか、恥ずかしい、とか。
俺は続けた。
「ロイも、ミラも、リリィも、クララも、ガレスも、ジャックも、ノルも、アルフも、コレットも」
名前を一つずつ置く。
棚ではなく、名前として。
「失敗した時、戻る方法を持っている。まだ下手でも」
アウレリアが止まった。
俺の前ではなく、少し横。
観客席と俺たちの間。
白い布が、観客の方へ向く。
まるで、今の言葉を誰に聞かせるべきか選んでいるみたいだった。
「俺は、庇い方が下手です」
自分で言うと、かなり情けない。
でも、コレットの表にも書かれた事実だ。
「だから、今日は最初に口を閉じました」
ロイが後ろで小さく「偉い」と言った。
ネルが「今言うな」と小さく返した。
聞こえている。
ありがとう。
「それでも、言います」
俺は観客席を見た。
年配の男性の顔も見えた。
マリエル先生に注意された人だ。
彼は俺を見ている。
「一度目を見ただけで、その人を終わりにしないでください」
庭園が静かになる。
「俺たちは、それを競技で証明します」
言った。
言ってしまった。
公式戦で勝たないと、かなり格好悪い。
でも、格好悪いのは今さらだ。
アウレリアの布が、ゆっくり揺れた。
風が吹いた。
いや、風を呼んだわけではない。
ただの風。
白い庭園を渡る、本物の風。
その風で、アウレリアの金糸が光った。
白旗は俺に近づかなかった。
代わりに、俺たち全員の前を横切った。
レイナの前。
ネルの前。
コレットの前。
ロイの前。
順番に。
そして、鳥像へ戻った。
「終了」
セシリアの声が、少し遅れて響いた。
公開練習は終わった。
拍手は、すぐには起きなかった。
今度は、迷いではない。
場が、拍手をする前に何かを考えている。
やがて、マリエル先生が静かに手を打った。
一度。
二度。
それに合わせて、セシリアが拍手した。
ルミナリアの一年生の少女も拍手した。
少しずつ、観客席に拍手が広がる。
派手ではない。
熱狂でもない。
ただ、今見たものを、消費しすぎないように受け取る拍手。
そうであってほしいと、俺は思った。
練習後、庭園の端で、アドリアンが近づいてきた。
彼はレイナに向かって一礼した。
「オルコットさん」
「はい」
「本日の戻り方は、見事でした」
レイナは一瞬、警戒した。
褒め言葉の形をした見下ろしを、今日も何度も見たからだ。
アドリアンはそれに気づいたのか、少しだけ言葉を選び直した。
「訂正します。見事、という言葉では少し遠い」
彼は静かに続けた。
「私は、初手の完成度を重視します。それは今も変わりません。けれど、あなたの二手目は、初手の失敗を隠すためではなく、場の礼を立て直すために使われていた」
レイナは黙って聞いている。
「明日の公式戦では、そこを警戒します」
褒めるだけで終わらない。
相手として見る。
レイナの表情が、少し変わった。
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
アドリアンは次に、俺を見る。
「ヴァレンさん」
「はい」
「あなたの言葉は、かなり危うかった」
「自覚があります」
「ですが、旗は聞いた」
「それは、いいことですか」
「試合では厄介です」
彼は微笑んだ。
その笑みは、昨日までより少しだけ競技者のものだった。
「アウレリアが場全体を見ている以上、カルミアは場を乱すだけでなく、場を組み替える可能性がある」
「褒めてます?」
「警戒しています」
「それはどうも」
アドリアンはネルにも視線を向けた。
「アーレンさん」
ネルの眉が動く。
名前。
「昨日の一年生への応答について、学院内で共有しました」
「何を」
「本人に聞かずに分類しないこと」
ネルは少し黙った。
「……そう」
「明日は、あなたの追わない判断も警戒します」
「追うけど」
「でしょうね」
アドリアンは微笑んだ。
「だから、追わない時が危険になる」
ネルは一瞬、不機嫌そうに口を曲げた。
だが、完全に嫌そうではなかった。
相手に研究される。
それは、見下ろされるのとは違う。
競技者として扱われることだ。
公式戦前の空気が、少しずつ変わっていく。
ルミナリアは、カルミアをただの地方校として見ない。
それはいい。
同時に、勝つのが難しくなる。
それもいい。
簡単に勝てるなら、白旗アウレリアはきっとこちらを見ない。
夕方、宿泊棟へ戻る途中、レイナはいつもより少し遅れて歩いていた。
疲れている。
当然だ。
俺は隣へ行くか迷った。
口を閉じる。
一拍。
それから、少しだけ距離を保って歩く。
「ヴァレンさん」
先に呼ばれた。
「はい」
「今日の最後の言葉」
「すみません」
「まだ責めていません」
「先に謝った方がいいかと」
「それも時々、相手の言葉を奪います」
「……なるほど」
レイナは小さく息を吐いた。
「けれど、今日は助かりました」
「本当に?」
「聞き返すと、減点します」
「はい」
少し前を歩くネルが、肩越しにこちらを見た。
「減点表まで作られそう」
「ネルさんも対象です」
「何で」
「今日、飛び出しかけました」
「止まった」
「止まったので加点もあります」
「面倒くさい」
レイナは少し笑った。
朝より自然だった。
「私は、今日、怒っていました」
彼女は言った。
「でも、怒っていることに気づくのが遅かった」
「気づいたならいいんじゃないか」
「いい、とはまだ思えません」
レイナは自分の指先を見る。
「一度目の失敗を晒されるより、自分が怒っていることを見られる方が怖いのかもしれません」
「何で?」
ネルが聞いた。
遠慮がない。
でも、レイナは答えた。
「怒ると、礼を失うと思っていたからです」
「失わないでしょ」
「あなたは昨日も、同じようなことを言いましたね」
「何回でも言うけど。礼と怒り、別に同時に持てる」
ネルは前を向いた。
「あたしは礼が下手だけど」
「私も、怒りが下手です」
「じゃあ、半分ずつじゃん」
レイナは目を瞬いた。
それから、少しだけ笑った。
「ずいぶん雑な合同訓練ですね」
「カルミアだし」
「納得してしまうのが嫌です」
その会話を聞いて、俺は何も言わなかった。
珍しく、言わなかった。
言わない方が、残るものもある。
夜、共同室で、コレットは今日の表を開いた。
全員が集まっている。
焼き菓子は、今日はなかった。
代わりに、ガレスが厨房からもらった固いパンを薄く切って並べていた。
「皿は直してない」
「今日は何をしたんですか」
リリィが聞く。
「棚のがたつき」
「それでパンを」
「もらった」
ガレスの交換経済は、だんだん謎の安定感を持ち始めている。
コレットはペンを持った。
「第55話時点。白旗アウレリア観察表」
「だから話数みたいに言うな」
「定着しましたね」
クララが言った。
「定着させるな」
コレットは無視して読み上げる。
「一、白旗は競技者だけでなく観客の礼も見る」
全員が頷く。
「二、失敗そのものより、失敗を本人以外がどう物語化するかに強く反応する」
レイナの指が少し動いた。
コレットは続ける。
「三、レイナの『一度目、戻ります』は、隠すためではなく、場を立て直すために使える」
レイナが目を伏せる。
「四、ただし観客の前では負荷が大きい。公式戦で狙われる可能性あり」
「狙われる?」
ロイが聞く。
アルフが答えた。
「ルミナリアが直接侮辱するとは思わない。でも、白旗の前でレイナ先輩の一度目を誘発し、観客の視線ごと場を傾けることはあり得る」
「それ、性格悪くないですか」
「競技としては正しい」
ジャックが言う。
「嫌な正しさ」
ネルが吐き捨てた。
コレットは頷く。
「五、観客の視線を逆に使えば、白旗への場全体の働きかけになる」
「使うの?」
レイナが静かに聞く。
「使う」
コレットは迷わなかった。
「ただし、レイナを晒し物にしない形で」
「難しいですね」
「難しい。でも必要」
コレットは次の行を見る。
「六、ルカの発言は危ういが、名前を並べたことで棚ではなく個人として場に置いた」
「危うい、まだ入るのか」
「入る」
ネルが言った。
「でも、今日のは昨日よりまし」
「成長してる」
「一日で低いところからちょっと上がっただけ」
「それでも成長」
ロイが小さく拍手しようとして、やめた。
今日、拍手の扱いを見たばかりだからかもしれない。
代わりに、親指を立てた。
音がしない。
いい判断だった。
コレットは表を閉じた。
「明日は公式戦」
共同室が静かになる。
ルミナリア戦。
白旗アウレリア。
礼と距離。
観客。
レイナの一度目。
ネルの追う手。
全部が試される。
「勝ち筋は、まだ細い」
コレットは言った。
「でも、見えた」
「どう勝つ」
ジャックが聞く。
コレットは少しだけ沈黙した。
「アウレリアは、乱暴な追跡から逃げる。でも、戻る姿勢と、距離を尊重する追跡には近づく」
クララが続ける。
「観客の視線によって場が傾くと、旗の経路も変わります。今日、レイナさんの場面で一度離れ、その後戻りました」
アルフが指で机に見えない線を引く。
「つまり、旗の物理的な軌道だけでなく、場の礼の軌道を読む必要がある」
「意味わかんない」
ネルが言う。
でも、目は真剣だった。
コレットはネルを見た。
「最後は、ネルの一瞬が要る」
ネルの顔が変わる。
「あたし?」
「レイナの一度目で場を動かす。白旗が戻る。その戻り際を、ネルが追う。ただし、掴むためじゃなく、軌道を曲げるため」
「曲げる」
「捕るのは、別の人」
コレットは俺を見た。
俺は嫌な予感がした。
「誰」
「まだ決めない」
「今の目、俺だっただろ」
「まだ決めない」
部長は同じ言葉を繰り返した。
怖い。
「明日の前に、もう一度だけ確認する」
コレットは全員を見た。
「レイナ」
「はい」
「一度目を隠さない。でも、見せ物にしない。戻るために使う」
「はい」
「ネル」
「何」
「怒りを消さない。でも、追い方を選ぶ」
「……はい」
「ルカ」
「はい」
「口を閉じる」
「そこから?」
「そこから」
全員が頷いた。
ひどい。
でも、正しい。
「それから、信じる相手を間違えない」
コレットは言った。
その言葉は、少しだけ重かった。
風前確認。
俺が風を使わない時、誰を信じるかを言う。
今日、俺は全員の名前を言った。
公式戦で、もし風を使うなら。
俺は何を失うかもしれない。
何を忘れるかもしれない。
でも、戻り言葉は決まっている。
ルカ。
仲間が俺を呼ぶ名前。
「分かった」
俺は言った。
「明日は、ちゃんと閉じる」
「口だけじゃなくて、余計な格好つけも」
ネルが言う。
「そこまで閉じると何も残らない」
「じゃあ少し残して」
「調整が難しい」
レイナが小さく笑った。
今日、晒された人の笑いだ。
壊れていない。
壊れなかったのではなく、戻った。
その違いを、俺たちは覚えておく必要がある。
窓の外で、白い塔の鐘が鳴った。
姿勢のいい音。
今日の俺たちは、その音に少しだけ慣れていた。
慣れたからといって、この場所の人間になるわけではない。
カルミアはカルミアだ。
姿勢はよくない。
声は大きすぎる。
手は荒い。
一度目は失敗する。
見すぎる。
壊しかける。
眠い。
荷物が多い。
未来の負けだけが見える。
記憶は抜け落ちる。
でも、戻る。
追わない時を選ぶ。
名前を呼ぶ。
明日、白旗アウレリアが何を見るのかは分からない。
ただ、今日一つ分かった。
一度目を見られても、人はそこで終わらない。
終わらせるかどうかを、見る側も試されている。
白い庭園は、競技場であり、鏡だった。
俺たちは明日、その鏡の中で走る。
できれば、割らずに。
たぶん、少しくらいひびは入る。
でも、ひびにも使い道はある。
カルミア魔法学園第七魔法競技部は、そういう場所だ。




