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第54話 平民の手

 貴族校の朝は、鐘の音まで姿勢がよかった。


 カルミアの鐘は、鳴るたびにどこか一箇所くらい欠けている。音が揺れる。古い金属が冬の朝に文句を言うみたいに、ぐわん、と鳴って、それから部室の窓枠が少し震える。


 ルミナリアの鐘は違った。


 白い塔の上から落ちてくる音は、薄い水晶を指先で弾いたように澄んでいて、空気の真ん中をまっすぐ通った。鳴り終わったあとにも、校舎の壁、庭の白い石、花壇の青い花、歩いている生徒たちの袖口にまで、その音が残っている気がした。


 俺は朝食の席で、その鐘を聞きながらパンを割った。


 パンの割れ方まで上品だった。


 いや、パンに罪はない。


 ただ、白い皿に載った丸いパンが、こちらの食べ方を見ているような気がしただけだ。


「ルカさん」


 隣の席から、リリィが小声で呼んだ。


「このバター、塗っていいやつでしょうか」


「たぶん、塗るために置いてある」


「でも、形が綺麗すぎて」


「鑑賞用のバターだったら怖いな」


「鑑賞用……」


 リリィは銀色の小さなナイフを持ったまま、しばらく真剣にバターを見つめた。


 その向こうで、ロイが両手を膝の上に置いて固まっている。


「ロイ、食べないのか」


「食べると音がする気がして」


「噛むなと言われたら、それはもう食事じゃない」


「昨日、小さい声って褒められたから、今、全身を小さくしてる」


「人間はそこまで縮まない」


 ロイは口を真一文字に結んだまま、パンを小さくちぎった。


 隣でミラが、皿と皿の隙間を計算しながら肘を動かしている。


「この机、広いのに、置き方が難しい」


「荷物表の応用か?」


「皿を荷物に含めるなら、そう」


「含めるな」


「でも、ぶつけないためには含めた方がいい」


 ミラは真面目に言った。


 白旗アウレリアは、昨日、ミラのそういうところに反応した。


 荷物を乱暴に扱わない。人にぶつけない。花壇を踏まない。落ちた花びらを踏まれない場所に移す。


 貴族校の礼は、形だけではない。


 マリエル先生はそう言った。


 それ自体は、たぶん本当だ。


 ただし、形が整っている場所では、形を使って人を刺すこともできる。


 そのことを、俺たちはまだ、朝食の時点では半分しか知らなかった。


「ネル」


 向かいの席で、ネル・アーレンは皿の上の魚を見下ろしていた。


「何」


「その魚、敵じゃないぞ」


「知ってる」


「じゃあ、なぜそんなに睨む」


「骨が綺麗に取られすぎてる」


「ありがたいだろ」


「ありがたいけど、腹立つ」


「魚に?」


「この学校に」


 ネルは小さなフォークで魚を切った。


 貴族校の魚は、切られ方まで静かだった。


「骨がないってことは、危ないところを誰かが先に取ってるってことじゃない」


「そうだな」


「でも、取った人の手は見えない」


「厨房にいるんじゃないか」


「そういう意味じゃない」


 ネルはフォークを置いた。


「ここ、全部そう。危ないところも、汚いところも、面倒なところも、誰かが先に取ってる。だから綺麗。でも、その誰かは席にいない」


 俺はパンを持ったまま、何も言えなくなった。


 ネルの言葉は、たまに雑で、短くて、尖っている。


 でも、その尖り方は、ただ文句を言うためのものではない。


 手に刺さった木片を、無理やり抜こうとしているみたいな言い方をする。


 痛いから声が荒くなる。


「……ネルさんは、よく見ていますね」


 レイナが静かに言った。


 白いカップを置く動作は、昨日の茶会で見たルミナリアの生徒たちに比べても綺麗だった。


 本人は、それが嫌なのかもしれなかった。


「褒めてる?」


「ええ」


「ほんとに?」


「疑う速度が速すぎます」


「ここで『よく見てますね』って言われると、だいたい『黙っていなさい』の前置きに聞こえる」


 レイナは一瞬、目を伏せた。


「……そう聞こえる場所では、そう聞こえるのでしょうね」


「場所のせいだけ?」


「人のせいでもあります」


 ネルが少しだけ眉を動かした。


 俺は、その二人の間に流れる空気を見て、パンを置いた。


 まだ喧嘩ではない。


 ただ、喧嘩になりそうな材料は、昨日からずっとテーブルの上に置かれている。


 レイナは、この学校に来たかった。


 来られなかった。


 ネルは、こういう学校に来られる人間を信用していない。


 どちらも、自分の痛い場所を手で押さえたまま、相手の痛い場所には触れないふりをしている。


 触れないふりをしている間は、まだいい。


 問題は、誰かが丁寧な手つきで、そこに触った時だ。


 朝食後、俺たちはセシリア・グレイスに案内され、競技庭園の裏側にある「候補接触路」へ向かった。


 候補接触路。


 名前だけ聞くと、何かの行政手続きみたいだ。


 実際には、白旗アウレリアが公式練習や儀礼確認のために通る、庭園内の細い道だった。白い石で縁取られた通路の両側には、低い花が植えられている。青、薄紫、銀に近い白。


 花の高さは、歩く人間の靴先を隠さない程度にそろえられていた。


 踏まれないためだ。


 あるいは、踏む人間を見つけるためだ。


「本日は、アウレリアの反応傾向を確認するため、非公式の接触観察を行います」


 セシリアは、昨日と同じように微笑んでいた。


「公式練習ではありませんので、魔法使用は制限されます。手順、距離、声量、立ち位置。そういったものをご覧になる機会とお考えください」


「見るだけか」


 ジャックが退屈そうに言った。


「見ることは、かなり難しいことですわ」


 セシリアの返事は柔らかかった。


「特に、何かを壊す方にとっては」


「へえ」


 ジャックが笑った。


 壊す笑いではなかった。


「その言い方、けっこう好きじゃねえな」


「失礼いたしました。意図したより直接的でした」


「直接的? 今の、ずいぶん包んでただろ」


「包み方が未熟でした」


 セシリアはすっと頭を下げた。


 綺麗な謝罪だった。


 ジャックは、舌打ちしそうになって、しなかった。


 白い鳥像の上に、白旗アウレリアがいた。


 昨日見た時と同じように、旗というよりは、鳥に近い。


 白い布が風を受け、羽のように震える。金の糸が縁を走り、朝の光で細く光っていた。顔はない。目もない。けれど、見られている感じだけはある。


 アウレリアは、俺たちが来た時、鳥像の肩から通路へ降りた。


 降りた、というより、布が一度風に解けて、次の瞬間には白い石の上に立っていた。


 旗が立つ、という言葉の意味を、毎回少しずつ書き換えてくる旗だ。


「……綺麗」


 リリィが呟いた。


「うん」


 ミラが頷く。


「でも、重そう」


「どこが?」


「見えないところ」


 その返事に、俺は少しだけ納得した。


 白旗アウレリアは軽そうに見える。


 だからこそ、何かを背負っている。


 旗は、ただの飾りではない。


 鉄旗が「兵を忘れるな」と言ったように。


 白旗も、おそらく何かを忘れない。


 それが名誉なのか、礼なのか、もっと別のものなのかは、まだ分からない。


「本日は、こちらの一年生も見学いたします」


 セシリアが振り返る。


 通路の向こうから、ルミナリアの生徒たちが数人歩いてきた。


 白と青の制服。襟元に小さな金の飾り。歩幅は揃っていて、靴音もほとんどしない。


 一年生、と言われたが、俺たちより年下に見える者もいれば、同じくらいに見える者もいた。


 先頭にいた少年が、丁寧に一礼した。


「見学の機会をいただき、感謝いたします」


 言葉はセシリアに向けられていたが、視線は俺たちにも流れてきた。


 流れて、止まらなかった。


 俺たちを一つずつ見て、評価して、棚に戻すみたいな目だった。


 いや、俺がそう感じただけかもしれない。


 ただ、ネルの肩がほんの少し上がったので、たぶん俺だけではない。


「カルミア魔法学園の皆様ですね。昨日の茶会の話、寮でも伺いました」


 少年は穏やかに笑った。


「アウレリアが、ずいぶん興味を示したとか」


「興味かどうかは分からないけど」


 コレットが言った。


「反応はありました」


「素晴らしいことです。アウレリアは、形だけでは近づきませんから」


 少年は、そこでネルを見た。


「だからこそ、少し驚きました」


 空気が、薄くなった。


 誰もまだ、何も言っていない。


 けれど、言葉の行き先だけが先に見えた。


 ネルは顔を上げた。


「何に?」


「失礼。悪い意味ではありません」


 少年はすぐに言った。


 悪い意味ではありません。


 その言葉は、たいてい悪い意味の前に置かれる。


「平民出身の方が、アウレリアの前であれほど率直に振る舞われたと伺いましたので。形式を恐れず、ありのままを示す勇気とでも言いましょうか」


 ネルの目が細くなる。


 ロイが息を吸った。


 大きな音になる前に、アルフがロイの袖を軽く引いた。


 ロイは、口を閉じた。


 小さい声の練習は、こういう時にも要る。


 少年の隣にいた少女が、柔らかく微笑んだ。


「わたくしたちは、どうしても幼い頃から手順を教わりますから。逆に、あのような自然さは難しいのです」


「自然」


 ネルが繰り返した。


「ええ。とても実用的で」


 少女はネルの手を見た。


「手も、そういう手をなさっていますもの」


 ネルの指が、ぴくりと動いた。


 俺も、その手を見た。


 ネルの手は、綺麗な手ではない。


 細かい傷がある。爪の端に、完全には落ちていない薬草の色が残っている日もある。魔力が一瞬で切れるから、道具を使う。地面を掴む。旗の端に触る。誰かの腕を引っ張る。


 昨日、白旗アウレリアの前で、ネルはその手を隠さなかった。


 触るならちゃんと触る。


 嫌がったら無理に追わない。


 今は触らない。


 それは、ネルにとって精一杯の礼だった。


 その手を、少女は「実用的」と言った。


 褒め言葉の形で。


 棚の下の段に置くみたいに。


「……そう」


 ネルの声は低かった。


「あたしの手、実用的なんだ」


「ええ。とても」


 少女は悪気のない顔をしていた。


 いや、悪気がないかどうかは分からない。


 ただ、悪気があると言い切れない程度に整っていた。


 それが一番厄介だった。


「アウレリアは、粗野なものを嫌うというより、乱暴を嫌います」


 少年が補足する。


「ですから、あなたのような方がどのように距離を学ばれるか、私たちにとっても参考になります」


 あなたのような方。


 俺は、その言葉を聞いた瞬間、足元の白い石が一枚だけ冷たくなったように感じた。


 ネルは笑った。


 笑った、というより、歯を見せた。


「参考」


「ええ」


「見学って、そういう意味?」


「もちろん、互いに学ぶためです」


「互いにって言う時、あんたたちは何を学ぶの」


 少年は少しだけ首を傾げた。


「失礼ながら、既存の形式から外れた接触の可能性を」


「あたしは教材か」


「そういう意味では」


「あるんでしょ」


 ネルの声が鋭くなった。


 セシリアが一歩動いた。


 レイナも、わずかに唇を開いた。


 だが、誰よりも先に、俺が言ってしまった。


「違う」


 言った瞬間、自分でも驚いた。


 声が、思ったより前に出た。


 白旗アウレリアの布が、ふわりと揺れる。


 少年と少女の視線が、俺に向いた。


 セシリアの微笑みが、ごくわずかに固まる。


 ネルも俺を見た。


 その顔に「何でお前が出るんだ」と書いてあった。


 俺もそう思った。


 何で俺が出るんだ。


 いや、出るだろ。


 出なかったら、たぶん一日中、自分の舌を噛みたくなる。


「ネルは教材じゃない」


 俺は続けた。


「あと、参考でもない」


 そこで止まればよかった。


 たぶん、止まるべきだった。


 でも、止まれなかった。


「平民だから乱暴ってわけでもないし、貴族だから丁寧ってわけでもない。ネルが乱暴な時は、平民だからじゃなくてネルだから乱暴なだけで」


「は?」


 ネルが低い声を出した。


 ロイが「ルカさん」と小さく悲鳴を上げた。


 アルフが額を押さえた。


 レイナは目を閉じた。


 終わった。


 今のは、さすがに庇い方として最低に近い。


 俺は急いで言い直そうとした。


「いや、違う。そうじゃなくて」


「どういう意味よ」


「ネルが怒る時は、理由がある。手が荒いとか、出身がどうとかじゃない。ちゃんと見てるから怒る」


「あたしは怒る担当じゃないんだけど」


「知ってる」


「知ってる顔じゃない」


「今、顔の管理までできない」


 ネルが一瞬だけ黙った。


 俺は少年たちに向き直った。


「その手は、実用的とか自然とか、そういう言葉でまとめる手じゃない」


 少女の表情が少しだけ硬くなった。


「では、どのように?」


「届く手だ」


 言ってから、自分の言葉に追いつくまでに少し時間がかかった。


 ネルの手。


 鉄旗に触った手。


 列車で荷物を乱暴に押し込むのではなく、ミラの荷物表に文句を言いながらも書き足した手。


 リリィの迷子一号を拾い上げて「これ、邪魔」と言いながら落とさなかった手。


 ロイの暴発音に耳を塞ぎながら、次にどうするか考えた手。


 俺が風を使う前、戻り言葉を決める時、袖を掴んだ手。


 あの手は、綺麗ではない。


 でも、届く。


 届かせようとする。


「魔法が一瞬しか続かないから、ネルは手を伸ばす。足も使う。道具も使う。文句も使う」


「文句も?」


 ネルが言った。


「使うだろ」


「使うけど」


「だから、その手を見て『平民出身だからこういう手』って言うのは違う。ネルが何に届こうとしたかを見てない」


 言い終えて、息が少し乱れていることに気づいた。


 俺は、こんなに喋るつもりではなかった。


 もっと気の利いたことを、短く、上品に言えたらよかった。


 だが俺は、そういう人間ではない。


 昔はどうだったか、分からない。


 今の俺は、白い庭園で、貴族校の生徒相手に、仲間を庇おうとして本人を一回刺した男だ。


 終わっている。


 ネルはしばらく黙っていた。


 それから、小さく息を吐いた。


「……庇い方、下手すぎ」


「分かってる」


「分かってるなら、もうちょっと何とかしなさいよ」


「次は努力する」


「次がある前提やめて」


 ネルはそう言って、俺から視線を外した。


 耳が少し赤かった。


 怒りで赤いのか、別の理由かは分からない。


 分からないことにした。


「ヴァレンさん」


 少年が静かに言った。


「誤解を招いたなら、謝罪します。私たちは、決して彼女を貶めるつもりでは」


「貶めるつもりがある時だけ、下に見るわけじゃないだろ」


 俺は言った。


 また口が先に動いた。


 もう今日はだめかもしれない。


「上から見ていることに、上にいる側が気づかないこともある」


 少年の眉が、ほんの少しだけ動いた。


「それは、あなた方にも言えることでは?」


「言える」


 俺はすぐに答えた。


「だから、間違えたら言ってほしい」


 そこまでは、たぶんよかった。


 だが次の言葉は、少し遅れて出た。


「今みたいに、ネルにも言われたし」


「あたしを例にするな」


「すまん」


 少年は、俺とネルを交互に見た。


 そして、少し困ったように笑った。


 初めて、年相応の顔に見えた。


「……カルミアの方々は、会話の距離が近いのですね」


「近いというか、ぶつかってるだけですわ」


 レイナが口を開いた。


 その声は、静かだった。


 だが、さっきまでとは違う。


 自分の場所から一歩出る声だった。


「そして、ぶつかった時に、相手を教材にしない努力はしているようです」


 ネルがレイナを見た。


 レイナは少年たちに向かって、ゆっくり続けた。


「ルミナリアでは、『学ぶ』という言葉は美しく聞こえます。けれど、人を本人の同意なく材料にする時、その美しさは逃げます」


 少年が表情を正した。


「オルコットさん」


「あなた方がネルさんから学ぶのなら、まず彼女を説明する前に、彼女に尋ねるべきです」


 レイナの目が少しだけ細くなる。


「それから、手を褒める時は、その手が何をしてきたのかを知らずに形容しない方がいい」


 少女が唇を結んだ。


「失礼いたしました」


 彼女はネルに向かって頭を下げた。


 形は綺麗だった。


 昨日見た茶会の礼に近い。


「あなたの手について、軽率に申し上げました」


 ネルは、その謝罪を見ていた。


 すぐには返事をしなかった。


 白旗アウレリアが、通路の端で揺れている。


 風はほとんどない。


 なのに、布が揺れる。


 まるで、人間の言葉の重さを測っているみたいだった。


「……別に」


 ネルが言った。


 その声は、まだ硬かった。


「謝られたから全部いい、とはならない」


 少女の肩が小さく動く。


「はい」


「でも、今のは聞いた」


「ありがとうございます」


「あと、実用的って言葉、嫌いじゃない」


 ネルは自分の手を見た。


「ただ、あんたに言われると腹立つ」


 ロイが変な音を喉で止めた。


 笑いかけたらしい。


 セシリアが片手で口元を押さえた。笑ったわけではない。たぶん。


 少女は一瞬だけ目を丸くして、それから小さく頷いた。


「覚えておきます」


「覚えるだけじゃなくて、次は聞いて」


「はい」


 ネルは、それ以上言わなかった。


 白旗アウレリアが、一歩動いた。


 白い石の上を、影のない足で進む。


 最初に近づいたのは、ネルではなかった。


 アウレリアは、俺の前でも、レイナの前でも止まらなかった。


 少女の前まで行き、少しだけ布を傾けた。


 少女は息を止める。


 その瞬間、俺は少し驚いた。


 アウレリアは、謝った側を見た。


 正しく謝れたか。


 形に逃げなかったか。


 自分の言葉が相手をどう扱ったか、見たか。


 そういうことを、確かめているように見えた。


 少女はもう一度、ネルに向かって頭を下げた。


 今度は、さっきより少しだけ不格好だった。


 肩に力が入っている。


 角度も、たぶん完璧ではない。


 けれど、ネルを見る目は、さっきよりまっすぐだった。


「申し訳ありませんでした、アーレンさん」


 ネルが、ほんの少し眉を上げた。


 名前。


 あなたのような方、ではなく。


 平民出身の方、でもなく。


 アーレンさん。


「……はい」


 ネルの返事は短かった。


 でも、受け取らない返事ではなかった。


 白旗アウレリアの布が、ふわりと膨らむ。


 それから、今度はネルの方へ向かった。


 ネルは反射的に手を引きそうになった。


 けれど、引かなかった。


 ただ、手を開いた。


「触らない」


 ネルは言った。


「今は、触らない。でも、見る」


 アウレリアが止まる。


「あたしの手は、触るための手。掴むための手。引っ張るための手。たまに殴りそうになる手」


「たまに?」


 ジャックが呟いた。


 ネルは睨んだ。


「黙って」


「はい」


 ネルは息を吸った。


「でも、乱暴にするつもりで触る手じゃない」


 白旗アウレリアは動かなかった。


 動かないまま、聞いていた。


「あんたが嫌なら、触らない。触っていい時は、ちゃんと言って。……いや、旗がどう言うのか分かんないけど」


 ネルは少しだけ顔をしかめた。


「分かるようにする」


 白い布の端が、ゆっくり持ち上がった。


 ネルの指先から、拳一つ分ほど離れたところで止まる。


 触れていない。


 だが、そこに距離が置かれた。


 無視ではない距離。


 拒絶ではない距離。


 触る前の、許可を待つ距離。


 クララが、横で小さく息を呑んだ。


「距離を……指定している?」


「書くなよ」


 コレットが小声で言う。


「今は」


「分かってる。あとで書く」


 クララは震える手を押さえた。


 コレットは、その隣で目だけを細くした。


 未来の負け筋を見ているのか。


 それとも、今見えたものを、書くべきかどうか考えているのか。


 分からない。


 でも、コレットは紙を出さなかった。


 昨日、白旗の前で決めた通りに。


 今は、見る。


 書くのは、あと。


「……変な旗」


 ネルが言った。


 アウレリアの布が、ほんの少し揺れた。


 笑ったように見えた。


 旗が笑うわけがない。


 鉄旗の時にも、同じことを思った。


 旗が返事をするわけがない。


 でも、返事はあった。


 世界は、俺の常識より少しだけ広い。


 その広さに、俺たちは何度も足を取られる。


 接触観察は、そこで一度中断された。


 セシリアが、穏やかな声で言った。


「少し休憩を挟みましょう。皆様、庭園東屋へ」


 その声はいつも通りだったが、彼女の目は少し忙しかった。


 貴族校の一年生たちも、完全に平静ではない。


 カルミアの生徒は、もっと平静ではない。


 特に俺は、ネルに後で何を言われるかを考えて、すでに胃が重かった。


 東屋は、白い柱と青い屋根でできていた。


 柱には蔓植物が絡み、まだ小さな蕾をつけている。テーブルには水差しと薄い茶が用意されていた。


 ガレスが真っ先に椅子の脚を確認した。


「壊れてない」


「壊れてない椅子を確認するの、ガレス先輩らしいですね」


 ロイが小声で言った。


「壊れてからでは遅い」


「深い」


「普通」


 ガレスは椅子を少しだけ引いた。


 誰かが座りやすい角度に。


 白旗アウレリアは遠くの通路に残っていたが、その布の向きだけは、こちらを見ているようだった。


 俺は水を飲んだ。


 冷たかった。


 喉を通ると、さっきまで前に出すぎていた声が、少し下がった。


「ルカ」


 ネルが隣に立った。


「はい」


「何で敬語?」


「これから怒られる気がして」


「怒るけど」


「はい」


 ネルは俺の足を軽く蹴った。


 痛くはない。


 ただ、怒っていることだけが伝わる力加減だった。


「あんたさ」


「うん」


「あたしを庇うなら、あたしを刺さないで」


「本当にごめん」


「『ネルだから乱暴』って何」


「言い方を間違えた」


「間違えすぎ」


「反省してる」


「反省の顔が腹立つ」


「どんな顔ならいいんだ」


「知らない」


 ネルは腕を組んだ。


 少しの間、黙った。


 俺はその沈黙が怖くて、水差しの模様を見ていた。


 青い花の模様。


 たぶん、ルミナリアの校章と同じ花だ。


「でも」


 ネルが言った。


「届く手って言ったのは、まあ」


「まあ?」


「……悪くなかった」


 俺は水差しを見るのをやめた。


 ネルはそっぽを向いている。


「本当か」


「聞き返したら取り消す」


「聞き返さない」


「今した」


「してないことにしてくれ」


「無理」


 ネルの耳は、まだ少し赤かった。


 今度も理由は分からないことにした。


 分からないことにする能力は、たぶん生きる上で必要だ。


「あたし、ああいうの嫌い」


 ネルは言った。


「馬鹿にされるなら、馬鹿にされたって分かる言い方の方がまだいい」


「分かる」


「分かるの?」


「たぶん」


「貴族の家の子でしょ、あんた」


 その言葉は、鋭かった。


 でも、さっきのルミナリアの生徒たちの言葉とは違う。


 ネルは俺を棚に置こうとしていない。


 俺がどこに立っているのかを、確かめている。


 俺は、自分の記憶を探った。


 ヴァレン家。


 礼儀。


 白い手袋。


 誰かの声。


 覚えているようで、覚えていない。


 思い出そうとすると、記憶の端が水に濡れた紙みたいに柔らかくなって、形を失う。


「そう、だったと思う」


「思う?」


「覚えてないところがある」


 ネルは俺を見た。


 さっきより少しだけ、怒りが引いた目だった。


「……そういうの、ずるい」


「え」


「怒りにくい」


「ごめん」


「謝るな。もっと怒りにくい」


 ネルは息を吐いた。


「あんたが貴族側の人間なのか、あたし側の人間なのか、よく分かんない」


「俺側じゃだめか」


「便利な答え」


「便利じゃない。俺側は、だいたい困ってる」


 ネルは少しだけ笑った。


 本当に少しだけ。


「それはそう」


 その笑いを見て、胸の奥が変に軽くなった。


 すぐに重くもなった。


 こういう瞬間を、俺は忘れるかもしれない。


 魔法を使えば、何かを失う。


 風を呼べば、過去が一枚はがれる。


 この会話も、いつか、はがれる側に入るかもしれない。


 だから、見ておく。


 ネルの不機嫌な横顔。


 怒っているのに、完全には離れない距離。


 届く手。


 俺はそれを、なるべく言葉にしないで覚えようとした。


 言葉にすると、たぶん変なことを言う。


 今日の俺には前科がある。


「ヴァレンさん」


 声をかけてきたのは、レイナだった。


 ネルの肩が、ほんの少し硬くなる。


「先ほどのことですが」


「はい」


「庇い方は、最低に近かったです」


「はい」


「ですが、言おうとしたことは分かりました」


「ありがとうございます」


「褒めていません」


「はい」


 レイナはネルを見た。


「ネルさん」


「何」


「私も、言うのが遅れました」


 ネルの眉が動いた。


「何を」


「彼らの言葉が、あなたを見下ろしていると」


 レイナの声は、静かだった。


「分かっていました。分かっていたのに、すぐには言いませんでした」


 ネルは何も言わない。


 レイナは続ける。


「この学校の言葉を、私は知っています。どう刺さるかも、どこまでなら『失礼ではない』と言い張れるかも。だから、本来は私が先に止めるべきでした」


「……何で止めなかったの」


 ネルの声は低い。


 責めている。


 でも、聞いてもいる。


 レイナはすぐには答えなかった。


 白い柱の影が、彼女の制服の袖に落ちている。


「羨ましかったのだと思います」


 その答えは、予想していなかった。


 ネルも少し目を開いた。


「誰が」


「あなたが」


「あたし?」


「ええ」


 レイナは微笑まなかった。


「私は、この学校に来られなかったことを、まだ綺麗に片付けられていません。昨日、茶会でそれを認めました。認めたつもりでした」


 彼女は指先を見た。


 白いカップを持つための、綺麗な指。


 でも、その手も、きっと何かを掴み損ねた手だ。


「あなたは、この場所に怒れる。私は、その怒り方が少し羨ましかった」


「怒れないの?」


「怒り方が分からないのです」


 ネルは言葉を失ったようだった。


 レイナは続けた。


「私は、招待状を持っていました。でも来なかった。来られなかった。だから、今でもこの場所に対して、礼を尽くすべきなのか、恨むべきなのか、分からない」


「どっちもでしょ」


 ネルが言った。


 早かった。


 迷いがなかった。


「礼を尽くすのと、怒るのは、別に一緒にできるでしょ」


 レイナが瞬きをした。


「簡単に言いますね」


「簡単じゃないけど、別に禁止されてない」


「貴族社会では、かなり禁止されています」


「だから面倒くさいのよ」


 ネルは腕を組み直した。


「あたしは、あんたが羨ましいけど」


 今度はレイナが驚いた。


「私が?」


「だって、あんたは言葉を知ってる。あいつらが何で刺してきてるか分かる。あたしは、腹立つことだけ分かって、どこが刃なのか後から考える」


 ネルは視線を逸らした。


「それ、結構むかつく」


「褒めていますか?」


「褒めてない」


「そうですか」


 レイナは少しだけ笑った。


 笑った、というより、息がほどけた。


「では、お互い、むかつくところがあるのですね」


「お互いどころじゃないけど」


「そこまでですか」


「あんた、歩き方まで綺麗だから」


「歩き方を責められたのは初めてです」


「こっちは、魚の骨の取り方にまで腹立ってるんだから、歩き方くらい入る」


 レイナは今度こそ、少し笑った。


 ネルも、ほんの少しだけ口元を緩めた。


 仲直り、ではない。


 たぶん、そんな綺麗な言葉で片付けると、二人とも怒る。


 ただ、さっきよりは、相手の痛い場所を見ている。


 触る前に、少しだけ距離を測っている。


 白旗アウレリアが好む距離。


 いや。


 白旗が好むかどうか以前に、人間に必要な距離。


「ヴァレンさん」


 レイナが俺を見た。


「はい」


「あなたは、次に誰かを庇う時、最初に一度、口を閉じてください」


「はい」


「それから話してください」


「努力します」


「努力ではなく、手順です」


「手順」


 俺は頷いた。


 貴族校の礼は苦手だが、手順なら少し分かる。


 風前確認と同じだ。


 魔法を使う前に、誰を信じるかを言う。


 風を使うなら、戻り言葉を決める。


 庇う前に、まず口を閉じる。


 それは、俺に必要な手順かもしれない。


「記録しておきます」


 コレットが横から言った。


 いつの間にか、手帳を持っている。


「今は書くのか」


「休憩中だから」


「白旗の前じゃないから?」


「白旗は見てる気がするけど、今は書かないと忘れる」


 コレットは真剣な顔でペンを走らせた。


「項目。綺麗に包まれた見下ろし」


「嫌な項目だな」


「必要」


 コレットは続ける。


「平民出身への針。『実用的』という褒め言葉の使い方。本人に聞かずに教材化する危険」


 クララが隣から覗き込む。


「白旗反応としては、謝罪者側への確認が重要です。謝る形ではなく、相手の名前を呼び直した時に接近しました」


「書く」


「あと、ネルさんの『触らない。でも見る』で距離指定が起きました」


「書く」


 コレットは、さらに一行書いた。


「ルカの庇い方。下手。でも、相手を物にしない」


「下手って書く必要あるか」


「ある」


 ネルが即答した。


 レイナも頷いた。


「あります」


 ロイまで小さく手を上げた。


「俺も、あると思います」


「ロイまで」


「だって、忘れたらまたやりそうなので」


「俺はそんなに信用がないのか」


「あります」


 アルフが静かに言った。


「だから記録する」


 それは、なかなか逃げ場のない言葉だった。


 信用があるから、失敗も記録する。


 カルミアの表は、いつからこんなに厳しくなったのか。


 たぶん、最初からだ。


 敗北の使い道表。


 責任表。


 見えなかったもの。


 俺たちは、自分たちの失敗を、なるべく飾らない。


 飾らないから、見苦しい。


 でも、見苦しいまま置いておかない。


 次に何をするかに変える。


「……では」


 セシリアが近づいてきた。


 彼女は、先ほどの生徒たちを少し離れた場所へ戻していた。


 戻し方も丁寧だった。


 ただ、顔にはさすがに疲れがあった。


「休憩後、予定を一部変更します」


「変更?」


 コレットが顔を上げる。


「はい。アウレリアが想定より早く距離反応を示しましたので、午後に予定していた『礼式歩行と接触停止』の確認を前倒しします」


「それは、何をするんですか」


 アルフが聞いた。


「旗が近づく、または離れる状況で、競技者がどのように立ち止まり、どのように相手の進路を尊重するかを確認します」


 セシリアは一拍置いた。


「簡単に言えば、追わない練習です」


 ネルが顔をしかめた。


「追わない」


「はい」


「競技なのに?」


「追う競技だからこそです」


 セシリアの返事は、今回だけ少し速かった。


「アウレリアは、乱暴な追跡を嫌います。ですが、追跡そのものを否定しているわけではありません。礼を失わずに追えるか。距離を尊重しながら捕まえられるか。それが、ルミナリア戦の最初の問いになります」


 距離を尊重しながら捕まえる。


 矛盾しているようで、競技としては核心に近い。


 旗は奪うものだ。


 でも、旗をただの物として扱えば、ここでは逃げられる。


 相手を人として見る。


 旗を歴史として見る。


 その上で、勝つ。


 面倒くさい。


 だが、面倒くさいほど、カルミア向きかもしれない。


 俺たちは、簡単な勝ち方を知らない。


「追わない練習なら」


 ネルが言った。


「あたし、得意じゃない」


「知ってる」


 俺が言うと、ネルが睨んだ。


「また刺した?」


「今のは事実確認」


「事実でも刺さる時がある」


「覚えておく」


 レイナが横で小さく咳払いした。


「口を閉じる手順は?」


「今のは間に合わなかった」


「早すぎます」


 俺は口を閉じた。


 ネルが少し笑った。


 その笑いを、俺はまた見ておく。


 午後の確認は、庭園の一角で行われた。


 白い石の通路が複雑に分かれ、低い生垣が視界を遮る。中央には小さな噴水があり、水音が静かに響いている。


 アウレリアは、その通路を自由に動く。


 こちらは、一定距離まで近づいたら立ち止まり、手を伸ばすか、退くか、進路を譲るかを判断する。


 魔法は使わない。


 足と目と声だけ。


「まずは、代表者一名で」


 セシリアが言った。


「誰から?」


 コレットが全員を見た。


 ネルは一歩出かけて、止まった。


「あたし、やる」


「ネルさん」


 レイナが呼ぶ。


「何」


「追わない練習です」


「分かってる」


「分かっている顔ではありません」


「あんたもさっきから顔の管理うるさい」


 それでも、ネルは戻らなかった。


 コレットが少し考えたあと、頷いた。


「ネルで」


「いいのか」


 俺が聞く。


「今やるのが一番失敗しそうだから」


「それでいいのか」


「失敗したら、今のうちに使う」


 コレットは短く言った。


 敗北の使い道。


 カルミアの部長は、時々ものすごく冷たい判断をする。


 その冷たさは、仲間を見捨てるためではなく、仲間の失敗に使い道を与えるためにある。


 ネルは通路に立った。


 白旗アウレリアは、噴水の向こう側にいる。


 布が水音に合わせて揺れているように見えた。


「開始」


 セシリアの声。


 ネルは歩き出した。


 歩幅は少し大きい。


 肩に力が入っている。


 アウレリアは逃げなかった。


 白い石の上で、ただ待っている。


 ネルが距離を詰める。


 あと三歩。


 あと二歩。


 そこで、アウレリアの布が横に流れた。


 通路の枝分かれへ逃げる。


 ネルの足が反射的に動いた。


 追う。


 速い。


 魔法ではない。


 ただの身体の反応。


 ネルは、届かないものに届こうとする時、迷わない。


 だからこそ、一瞬で距離を詰める。


 アウレリアがさらに横へ滑る。


 ネルの手が伸びる。


「ネル」


 俺は呼びそうになった。


 でも、閉じた。


 口を閉じる手順。


 俺が止めるより、ネルが止まる方がいい。


 ネルの手は、アウレリアの布の端に届く寸前で止まった。


 指先が震えている。


 掴める。


 たぶん、掴めた。


 でも、ネルは掴まなかった。


「……っ」


 息を飲む音が聞こえた。


 ネルは手を下ろした。


 白旗アウレリアは逃げなかった。


 布の端が、ネルの指先があった場所で少しだけ揺れる。


「追わない」


 ネルが言った。


 自分に言うように。


「今は、追わない」


 アウレリアは、ゆっくりとネルの周りを回った。


 旗が、人の周りを回る。


 それは不思議な光景だった。


 獲物と追手が、ほんの一瞬、役割を交換したように見える。


 ネルは動かない。


 歯を食いしばっている。


 我慢しているのが、遠目にも分かる。


 美しい礼ではない。


 けれど、乱暴ではなかった。


 アウレリアはネルの背後まで回り、それから通路の端へ戻った。


「終了」


 セシリアが言った。


 ネルはその場で大きく息を吐いた。


「……腹立つ」


「何が」


 俺が聞く。


「掴めた」


「うん」


「掴めたのに、掴まなかった」


「うん」


「偉いでしょ」


「偉い」


 俺は即答した。


 ネルが目を細める。


「今のは、まあまあ」


「庇ってないから?」


「余計なこと言わなかったから」


 レイナが小さく頷く。


「手順が生きましたね」


「俺の成長が早い」


「黙っていただけです」


「それが難しいんだ」


 ロイが横で真剣に頷いた。


「分かります」


「ロイは分かるよな」


「はい。音を出さないの、すごく難しいです」


 俺とロイは、少しだけ同志の気分になった。


 すぐにアルフが「種類が違う」と言った。


 午後の確認は、そのあと全員で続いた。


 ミラは進路を譲りすぎて、自分が花壇の端に追い込まれた。


「荷物と同じ。自分の置き場も必要」


 セシリアが助言した。


 ミラは真剣に頷き、次は自分の立つ幅を先に確保した。


 ガレスは、旗が逃げた先に小石があることに気づき、先に小石をどけた。


 アウレリアは、その小石のあった場所を避けずに通った。


 ジャックは一度、手が速すぎてセシリアに止められた。


「壊さないって言う前に、手が出ました」


「悪い」


「悪い、だけでは足りません」


「今の手は危なかった。次は出す前に言う」


 アウレリアは、遠くで布を揺らした。


 リリィは、予想外に出てきた小さな召喚影に進路を譲らせようとして、自分も一緒に迷子になった。


「迷子二号ですか」


「いいえ、これは多分、迷子一号の影です」


「ややこしい」


 クララは記録欲を抑えきれず、一度だけ視線が近すぎた。


 自分で気づいて、二歩下がった。


「見すぎました」


 アウレリアは離れなかった。


 アルフは見えない戻り線を使い、通路に印をつけず、自分の歩数だけで位置を測った。


「ここまで」


 彼が止まった場所は、アウレリアの進路を塞がないぎりぎりだった。


 ノルは半分眠りながら、なぜか一番自然に止まった。


「旗が、こっち来ない夢を見た」


「今起きてますよね?」


「たぶん」


 アウレリアは、ノルの前でしばらく揺れていた。


 そして最後に、レイナの番になった。


 彼女は通路に立つ前、手袋を一度外した。


 白い手袋。


 昨日も見た。


 貴族校の礼を知っている手。


 来られなかった学校の形式を、まだ覚えている手。


「レイナさん」


 コレットが声をかける。


「無理なら」


「やります」


 レイナは即答した。


「ここで逃げる方が、後で失敗します」


 その言葉に、ネルが少しだけ視線を向けた。


 レイナは気づいているのかいないのか、通路へ歩いた。


 アウレリアは噴水の近くに戻っている。


「開始」


 セシリアの声。


 レイナの歩き方は、やはり綺麗だった。


 ネルが腹立つと言った歩き方。


 背筋、肩、視線、指先。


 どれも整っている。


 それだけなら、アウレリアは近づかないのかもしれない。


 昨日の白旗は、形だけでは動かなかった。


 レイナが一歩進む。


 アウレリアが横へ動く。


 レイナは追わない。


 距離を測る。


 次の通路を予測して、半歩だけ斜めに動く。


 うまい。


 礼の形を競技に変えている。


 だが、噴水の水音が少し強くなった瞬間、レイナの指先が揺れた。


 魔法の気配。


 使うつもりではなかったのだろう。


 ただ、癖のように、補助魔法を入れようとした。


 そして、失敗した。


 小さな光が、指先で弾ける。


 ほとんど音はなかった。


 それでも、ルミナリアの一年生たちが見ていた。


 白い庭園で、小さな失敗はよく目立つ。


 レイナの足が止まる。


 アウレリアも止まる。


 セシリアが何かを言おうとした。


 それより早く、レイナが息を吸った。


「一度目」


 彼女は言った。


 声は、わずかに震えていた。


「戻ります」


 昨日と同じ言葉。


 失敗を隠さない。


 戻る姿勢として見せる。


 レイナは半歩下がった。


 そして、魔法を使わずに、もう一度歩いた。


 今度は、補助なしで。


 綺麗さは少し崩れた。


 でも、止まらなかった。


 アウレリアは、その崩れた歩き方の前で、布をゆっくり広げた。


 遠くで、誰かが小さく息を呑む。


 俺は、その音の方を見なかった。


 見れば、レイナが失敗を見られていることを、さらに強くしてしまう気がした。


 ただ、レイナを見た。


 彼女は戻っている。


 戻ろうとしている。


 失敗のあとに。


 その姿は、たぶん明日のどこかで、もっと大きく晒される。


 嫌な予感がした。


 コレットも、同じものを見たのかもしれない。


 手帳を持つ指が、白くなっていた。


 確認が終わる頃、空は午後の淡い金色になっていた。


 白い庭園は、朝より少しだけ冷たく見える。


 セシリアは今日の結果をまとめ、明日の公開練習の説明をした。


「明日は、学院内の観覧席を一部開放します。公式戦前の慣例ですので、外部の貴族家関係者も少数入ります」


「観客つきか」


 ジャックが言う。


「はい」


「面倒だな」


「面倒です」


 セシリアが、珍しくそのまま認めた。


「アウレリアは、見られ方にも反応します。競技者が観客にどう扱われるか、競技者が観客をどう意識するか。そのすべてが、礼の一部になります」


 レイナの表情が、ほんの少し硬くなった。


 ネルがそれを見る。


 俺も見る。


 たぶん明日、レイナの失敗は、今日より大きく見える。


 白い場所では、小さな染みが目立つ。


 でも、染みを隠そうとすれば、もっと広がる。


 カルミアは、隠さない方向へ進むしかない。


 それが正しいかどうかは、まだ分からない。


 ただ、白旗アウレリアは、隠したものより、戻ろうとしたものに近づいた。


 その事実だけは、記録できる。


 夜、宿泊棟の共同室で、コレットは今日の表を読み上げた。


「第54話時点。白旗アウレリア観察表」


「話数みたいに言うな」


 俺が言うと、コレットは無視した。


「一、礼は形だけではなく、相手を物にしないことを含む」


 クララが頷く。


「二、褒め言葉でも、本人の歴史を見ずに分類すると見下ろしになる」


 ネルが少し嫌そうな顔をした。


「三、謝罪は形だけでなく、相手を名前で呼び直すと反応あり」


 レイナが静かに聞いている。


「四、追わないことは、逃がすことではなく、距離を尊重して次の接触を残すこと」


 アルフが小さく「重要」と呟いた。


「五、失敗を隠さず戻る姿勢は、白旗の接近条件になる可能性」


 その項目で、レイナの指がわずかに動く。


「六、ルカの庇い方は下手」


「まだ書くのか」


「重要」


 全員の何人かが頷いた。


 ひどい。


「でも」


 コレットは、そこで俺を見た。


「下手でも、ネルを教材にしない方向へ場を戻した」


 ネルが横を向く。


 俺は、少しだけ背中がむずがゆくなった。


「七、ネルの手は、触るための手。乱暴にするための手ではない」


 ネルが顔を上げた。


「それ、書くの?」


「書く」


「恥ずかしいんだけど」


「必要」


 コレットは迷わなかった。


 ネルは文句を言いかけて、やめた。


 今日、ネルは手を伸ばさなかった。


 掴める距離で、掴まなかった。


 その我慢は、たぶん誰かが記録しないと、怒りの中に埋もれてしまう。


 埋もれた努力は、次に使えない。


 カルミアは、それを拾う。


 拾って、表にする。


 たまに本人が嫌がる。


 それでも、拾う。


「明日は」


 コレットが言った。


「レイナが中心になる」


 共同室の空気が少し変わった。


 レイナは目を伏せなかった。


「分かっています」


「観客がいる」


「はい」


「一度目の失敗が、見られるかもしれない」


「見られるでしょう」


 レイナは静かに言った。


 強がりではない。


 予測だった。


「ルミナリアの生徒は、見方を知っています。外部の貴族家関係者は、もっと見方を知っています。私の失敗は、彼らにとって分かりやすい話題です」


「分かりやすい話題って何」


 ネルが不機嫌に聞く。


「オルコット家の娘は、やはりルミナリアに来なくて正解だった、という話です」


 誰もすぐには言えなかった。


 俺は手を握った。


 今日、ネルが言われたこと。


 明日、レイナが言われること。


 形は違う。


 でも、根は近い。


 人を本人の前で、物語にしてしまう。


 あの子は平民出身だから。


 あの子は落ちたから。


 あの子は失敗するから。


 そうやって、相手の現在を見ずに、便利な棚へ戻す。


「レイナ」


 俺は呼んだ。


 口を閉じる手順。


 一拍。


 それから、言う。


「明日、俺がまた変な庇い方をしそうだったら、先に止めてくれ」


 レイナが瞬きをした。


「自覚があるのですね」


「今日、さすがに学んだ」


「では、止めます」


「頼む」


 ネルが横から言った。


「あたしも止める」


「それは助かる」


「蹴って止める」


「方法を選んでくれ」


「選択肢はある。脛か足の甲」


「どっちも足だ」


 ロイが小さく笑った。


 ミラも少し笑った。


 レイナの口元も、ほんのわずかに緩んだ。


 明日はたぶん、笑えない場面がある。


 だから今、笑えるところで笑っておく。


 ガレスが、共同室の隅から皿を持ってきた。


 小さな焼き菓子が載っていた。


「厨房から」


「もらったのか」


「割れた皿を直した」


「魔法で?」


「手で」


 ガレスは焼き菓子をテーブルに置いた。


「食べる」


 命令みたいな言い方だったが、たぶん気遣いだった。


 ネルが一つ取る。


 レイナも一つ取る。


 二人の手が、皿の上で一瞬近づいた。


 ぶつからなかった。


 どちらも引きすぎなかった。


 ただ、距離を測った。


 白旗アウレリアが見ていたら、どう反応しただろう。


 分からない。


 でも、今日の最後に、それが見えたことを俺は覚えておく。


 平民の手。


 貴族の手。


 届く手。


 戻る手。


 触る前に止まる手。


 俺は、自分の手を見た。


 風を呼ぶ手。


 記憶を失う手。


 誰かを庇おうとして、時々本人を刺す手。


 最悪だ。


 でも、まだ使い道はある。


 明日、白い庭園で、誰かがレイナを物語にしようとするなら。


 その前に、俺は一度、口を閉じる。


 それから、必要なら言う。


 下手でも。


 間違えながらでも。


 相手を棚に戻さない言葉を。


 白い塔の鐘が、夜の空気を澄ませるように鳴った。


 その音はやはり、姿勢がよかった。


 俺たちは姿勢よくないまま、焼き菓子を食べた。


 それでも、皿は割れなかった。


 誰かの手も、乱暴には扱われなかった。


 今日のところは、それで十分だった。


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