第54話 平民の手
貴族校の朝は、鐘の音まで姿勢がよかった。
カルミアの鐘は、鳴るたびにどこか一箇所くらい欠けている。音が揺れる。古い金属が冬の朝に文句を言うみたいに、ぐわん、と鳴って、それから部室の窓枠が少し震える。
ルミナリアの鐘は違った。
白い塔の上から落ちてくる音は、薄い水晶を指先で弾いたように澄んでいて、空気の真ん中をまっすぐ通った。鳴り終わったあとにも、校舎の壁、庭の白い石、花壇の青い花、歩いている生徒たちの袖口にまで、その音が残っている気がした。
俺は朝食の席で、その鐘を聞きながらパンを割った。
パンの割れ方まで上品だった。
いや、パンに罪はない。
ただ、白い皿に載った丸いパンが、こちらの食べ方を見ているような気がしただけだ。
「ルカさん」
隣の席から、リリィが小声で呼んだ。
「このバター、塗っていいやつでしょうか」
「たぶん、塗るために置いてある」
「でも、形が綺麗すぎて」
「鑑賞用のバターだったら怖いな」
「鑑賞用……」
リリィは銀色の小さなナイフを持ったまま、しばらく真剣にバターを見つめた。
その向こうで、ロイが両手を膝の上に置いて固まっている。
「ロイ、食べないのか」
「食べると音がする気がして」
「噛むなと言われたら、それはもう食事じゃない」
「昨日、小さい声って褒められたから、今、全身を小さくしてる」
「人間はそこまで縮まない」
ロイは口を真一文字に結んだまま、パンを小さくちぎった。
隣でミラが、皿と皿の隙間を計算しながら肘を動かしている。
「この机、広いのに、置き方が難しい」
「荷物表の応用か?」
「皿を荷物に含めるなら、そう」
「含めるな」
「でも、ぶつけないためには含めた方がいい」
ミラは真面目に言った。
白旗アウレリアは、昨日、ミラのそういうところに反応した。
荷物を乱暴に扱わない。人にぶつけない。花壇を踏まない。落ちた花びらを踏まれない場所に移す。
貴族校の礼は、形だけではない。
マリエル先生はそう言った。
それ自体は、たぶん本当だ。
ただし、形が整っている場所では、形を使って人を刺すこともできる。
そのことを、俺たちはまだ、朝食の時点では半分しか知らなかった。
「ネル」
向かいの席で、ネル・アーレンは皿の上の魚を見下ろしていた。
「何」
「その魚、敵じゃないぞ」
「知ってる」
「じゃあ、なぜそんなに睨む」
「骨が綺麗に取られすぎてる」
「ありがたいだろ」
「ありがたいけど、腹立つ」
「魚に?」
「この学校に」
ネルは小さなフォークで魚を切った。
貴族校の魚は、切られ方まで静かだった。
「骨がないってことは、危ないところを誰かが先に取ってるってことじゃない」
「そうだな」
「でも、取った人の手は見えない」
「厨房にいるんじゃないか」
「そういう意味じゃない」
ネルはフォークを置いた。
「ここ、全部そう。危ないところも、汚いところも、面倒なところも、誰かが先に取ってる。だから綺麗。でも、その誰かは席にいない」
俺はパンを持ったまま、何も言えなくなった。
ネルの言葉は、たまに雑で、短くて、尖っている。
でも、その尖り方は、ただ文句を言うためのものではない。
手に刺さった木片を、無理やり抜こうとしているみたいな言い方をする。
痛いから声が荒くなる。
「……ネルさんは、よく見ていますね」
レイナが静かに言った。
白いカップを置く動作は、昨日の茶会で見たルミナリアの生徒たちに比べても綺麗だった。
本人は、それが嫌なのかもしれなかった。
「褒めてる?」
「ええ」
「ほんとに?」
「疑う速度が速すぎます」
「ここで『よく見てますね』って言われると、だいたい『黙っていなさい』の前置きに聞こえる」
レイナは一瞬、目を伏せた。
「……そう聞こえる場所では、そう聞こえるのでしょうね」
「場所のせいだけ?」
「人のせいでもあります」
ネルが少しだけ眉を動かした。
俺は、その二人の間に流れる空気を見て、パンを置いた。
まだ喧嘩ではない。
ただ、喧嘩になりそうな材料は、昨日からずっとテーブルの上に置かれている。
レイナは、この学校に来たかった。
来られなかった。
ネルは、こういう学校に来られる人間を信用していない。
どちらも、自分の痛い場所を手で押さえたまま、相手の痛い場所には触れないふりをしている。
触れないふりをしている間は、まだいい。
問題は、誰かが丁寧な手つきで、そこに触った時だ。
朝食後、俺たちはセシリア・グレイスに案内され、競技庭園の裏側にある「候補接触路」へ向かった。
候補接触路。
名前だけ聞くと、何かの行政手続きみたいだ。
実際には、白旗アウレリアが公式練習や儀礼確認のために通る、庭園内の細い道だった。白い石で縁取られた通路の両側には、低い花が植えられている。青、薄紫、銀に近い白。
花の高さは、歩く人間の靴先を隠さない程度にそろえられていた。
踏まれないためだ。
あるいは、踏む人間を見つけるためだ。
「本日は、アウレリアの反応傾向を確認するため、非公式の接触観察を行います」
セシリアは、昨日と同じように微笑んでいた。
「公式練習ではありませんので、魔法使用は制限されます。手順、距離、声量、立ち位置。そういったものをご覧になる機会とお考えください」
「見るだけか」
ジャックが退屈そうに言った。
「見ることは、かなり難しいことですわ」
セシリアの返事は柔らかかった。
「特に、何かを壊す方にとっては」
「へえ」
ジャックが笑った。
壊す笑いではなかった。
「その言い方、けっこう好きじゃねえな」
「失礼いたしました。意図したより直接的でした」
「直接的? 今の、ずいぶん包んでただろ」
「包み方が未熟でした」
セシリアはすっと頭を下げた。
綺麗な謝罪だった。
ジャックは、舌打ちしそうになって、しなかった。
白い鳥像の上に、白旗アウレリアがいた。
昨日見た時と同じように、旗というよりは、鳥に近い。
白い布が風を受け、羽のように震える。金の糸が縁を走り、朝の光で細く光っていた。顔はない。目もない。けれど、見られている感じだけはある。
アウレリアは、俺たちが来た時、鳥像の肩から通路へ降りた。
降りた、というより、布が一度風に解けて、次の瞬間には白い石の上に立っていた。
旗が立つ、という言葉の意味を、毎回少しずつ書き換えてくる旗だ。
「……綺麗」
リリィが呟いた。
「うん」
ミラが頷く。
「でも、重そう」
「どこが?」
「見えないところ」
その返事に、俺は少しだけ納得した。
白旗アウレリアは軽そうに見える。
だからこそ、何かを背負っている。
旗は、ただの飾りではない。
鉄旗が「兵を忘れるな」と言ったように。
白旗も、おそらく何かを忘れない。
それが名誉なのか、礼なのか、もっと別のものなのかは、まだ分からない。
「本日は、こちらの一年生も見学いたします」
セシリアが振り返る。
通路の向こうから、ルミナリアの生徒たちが数人歩いてきた。
白と青の制服。襟元に小さな金の飾り。歩幅は揃っていて、靴音もほとんどしない。
一年生、と言われたが、俺たちより年下に見える者もいれば、同じくらいに見える者もいた。
先頭にいた少年が、丁寧に一礼した。
「見学の機会をいただき、感謝いたします」
言葉はセシリアに向けられていたが、視線は俺たちにも流れてきた。
流れて、止まらなかった。
俺たちを一つずつ見て、評価して、棚に戻すみたいな目だった。
いや、俺がそう感じただけかもしれない。
ただ、ネルの肩がほんの少し上がったので、たぶん俺だけではない。
「カルミア魔法学園の皆様ですね。昨日の茶会の話、寮でも伺いました」
少年は穏やかに笑った。
「アウレリアが、ずいぶん興味を示したとか」
「興味かどうかは分からないけど」
コレットが言った。
「反応はありました」
「素晴らしいことです。アウレリアは、形だけでは近づきませんから」
少年は、そこでネルを見た。
「だからこそ、少し驚きました」
空気が、薄くなった。
誰もまだ、何も言っていない。
けれど、言葉の行き先だけが先に見えた。
ネルは顔を上げた。
「何に?」
「失礼。悪い意味ではありません」
少年はすぐに言った。
悪い意味ではありません。
その言葉は、たいてい悪い意味の前に置かれる。
「平民出身の方が、アウレリアの前であれほど率直に振る舞われたと伺いましたので。形式を恐れず、ありのままを示す勇気とでも言いましょうか」
ネルの目が細くなる。
ロイが息を吸った。
大きな音になる前に、アルフがロイの袖を軽く引いた。
ロイは、口を閉じた。
小さい声の練習は、こういう時にも要る。
少年の隣にいた少女が、柔らかく微笑んだ。
「わたくしたちは、どうしても幼い頃から手順を教わりますから。逆に、あのような自然さは難しいのです」
「自然」
ネルが繰り返した。
「ええ。とても実用的で」
少女はネルの手を見た。
「手も、そういう手をなさっていますもの」
ネルの指が、ぴくりと動いた。
俺も、その手を見た。
ネルの手は、綺麗な手ではない。
細かい傷がある。爪の端に、完全には落ちていない薬草の色が残っている日もある。魔力が一瞬で切れるから、道具を使う。地面を掴む。旗の端に触る。誰かの腕を引っ張る。
昨日、白旗アウレリアの前で、ネルはその手を隠さなかった。
触るならちゃんと触る。
嫌がったら無理に追わない。
今は触らない。
それは、ネルにとって精一杯の礼だった。
その手を、少女は「実用的」と言った。
褒め言葉の形で。
棚の下の段に置くみたいに。
「……そう」
ネルの声は低かった。
「あたしの手、実用的なんだ」
「ええ。とても」
少女は悪気のない顔をしていた。
いや、悪気がないかどうかは分からない。
ただ、悪気があると言い切れない程度に整っていた。
それが一番厄介だった。
「アウレリアは、粗野なものを嫌うというより、乱暴を嫌います」
少年が補足する。
「ですから、あなたのような方がどのように距離を学ばれるか、私たちにとっても参考になります」
あなたのような方。
俺は、その言葉を聞いた瞬間、足元の白い石が一枚だけ冷たくなったように感じた。
ネルは笑った。
笑った、というより、歯を見せた。
「参考」
「ええ」
「見学って、そういう意味?」
「もちろん、互いに学ぶためです」
「互いにって言う時、あんたたちは何を学ぶの」
少年は少しだけ首を傾げた。
「失礼ながら、既存の形式から外れた接触の可能性を」
「あたしは教材か」
「そういう意味では」
「あるんでしょ」
ネルの声が鋭くなった。
セシリアが一歩動いた。
レイナも、わずかに唇を開いた。
だが、誰よりも先に、俺が言ってしまった。
「違う」
言った瞬間、自分でも驚いた。
声が、思ったより前に出た。
白旗アウレリアの布が、ふわりと揺れる。
少年と少女の視線が、俺に向いた。
セシリアの微笑みが、ごくわずかに固まる。
ネルも俺を見た。
その顔に「何でお前が出るんだ」と書いてあった。
俺もそう思った。
何で俺が出るんだ。
いや、出るだろ。
出なかったら、たぶん一日中、自分の舌を噛みたくなる。
「ネルは教材じゃない」
俺は続けた。
「あと、参考でもない」
そこで止まればよかった。
たぶん、止まるべきだった。
でも、止まれなかった。
「平民だから乱暴ってわけでもないし、貴族だから丁寧ってわけでもない。ネルが乱暴な時は、平民だからじゃなくてネルだから乱暴なだけで」
「は?」
ネルが低い声を出した。
ロイが「ルカさん」と小さく悲鳴を上げた。
アルフが額を押さえた。
レイナは目を閉じた。
終わった。
今のは、さすがに庇い方として最低に近い。
俺は急いで言い直そうとした。
「いや、違う。そうじゃなくて」
「どういう意味よ」
「ネルが怒る時は、理由がある。手が荒いとか、出身がどうとかじゃない。ちゃんと見てるから怒る」
「あたしは怒る担当じゃないんだけど」
「知ってる」
「知ってる顔じゃない」
「今、顔の管理までできない」
ネルが一瞬だけ黙った。
俺は少年たちに向き直った。
「その手は、実用的とか自然とか、そういう言葉でまとめる手じゃない」
少女の表情が少しだけ硬くなった。
「では、どのように?」
「届く手だ」
言ってから、自分の言葉に追いつくまでに少し時間がかかった。
ネルの手。
鉄旗に触った手。
列車で荷物を乱暴に押し込むのではなく、ミラの荷物表に文句を言いながらも書き足した手。
リリィの迷子一号を拾い上げて「これ、邪魔」と言いながら落とさなかった手。
ロイの暴発音に耳を塞ぎながら、次にどうするか考えた手。
俺が風を使う前、戻り言葉を決める時、袖を掴んだ手。
あの手は、綺麗ではない。
でも、届く。
届かせようとする。
「魔法が一瞬しか続かないから、ネルは手を伸ばす。足も使う。道具も使う。文句も使う」
「文句も?」
ネルが言った。
「使うだろ」
「使うけど」
「だから、その手を見て『平民出身だからこういう手』って言うのは違う。ネルが何に届こうとしたかを見てない」
言い終えて、息が少し乱れていることに気づいた。
俺は、こんなに喋るつもりではなかった。
もっと気の利いたことを、短く、上品に言えたらよかった。
だが俺は、そういう人間ではない。
昔はどうだったか、分からない。
今の俺は、白い庭園で、貴族校の生徒相手に、仲間を庇おうとして本人を一回刺した男だ。
終わっている。
ネルはしばらく黙っていた。
それから、小さく息を吐いた。
「……庇い方、下手すぎ」
「分かってる」
「分かってるなら、もうちょっと何とかしなさいよ」
「次は努力する」
「次がある前提やめて」
ネルはそう言って、俺から視線を外した。
耳が少し赤かった。
怒りで赤いのか、別の理由かは分からない。
分からないことにした。
「ヴァレンさん」
少年が静かに言った。
「誤解を招いたなら、謝罪します。私たちは、決して彼女を貶めるつもりでは」
「貶めるつもりがある時だけ、下に見るわけじゃないだろ」
俺は言った。
また口が先に動いた。
もう今日はだめかもしれない。
「上から見ていることに、上にいる側が気づかないこともある」
少年の眉が、ほんの少しだけ動いた。
「それは、あなた方にも言えることでは?」
「言える」
俺はすぐに答えた。
「だから、間違えたら言ってほしい」
そこまでは、たぶんよかった。
だが次の言葉は、少し遅れて出た。
「今みたいに、ネルにも言われたし」
「あたしを例にするな」
「すまん」
少年は、俺とネルを交互に見た。
そして、少し困ったように笑った。
初めて、年相応の顔に見えた。
「……カルミアの方々は、会話の距離が近いのですね」
「近いというか、ぶつかってるだけですわ」
レイナが口を開いた。
その声は、静かだった。
だが、さっきまでとは違う。
自分の場所から一歩出る声だった。
「そして、ぶつかった時に、相手を教材にしない努力はしているようです」
ネルがレイナを見た。
レイナは少年たちに向かって、ゆっくり続けた。
「ルミナリアでは、『学ぶ』という言葉は美しく聞こえます。けれど、人を本人の同意なく材料にする時、その美しさは逃げます」
少年が表情を正した。
「オルコットさん」
「あなた方がネルさんから学ぶのなら、まず彼女を説明する前に、彼女に尋ねるべきです」
レイナの目が少しだけ細くなる。
「それから、手を褒める時は、その手が何をしてきたのかを知らずに形容しない方がいい」
少女が唇を結んだ。
「失礼いたしました」
彼女はネルに向かって頭を下げた。
形は綺麗だった。
昨日見た茶会の礼に近い。
「あなたの手について、軽率に申し上げました」
ネルは、その謝罪を見ていた。
すぐには返事をしなかった。
白旗アウレリアが、通路の端で揺れている。
風はほとんどない。
なのに、布が揺れる。
まるで、人間の言葉の重さを測っているみたいだった。
「……別に」
ネルが言った。
その声は、まだ硬かった。
「謝られたから全部いい、とはならない」
少女の肩が小さく動く。
「はい」
「でも、今のは聞いた」
「ありがとうございます」
「あと、実用的って言葉、嫌いじゃない」
ネルは自分の手を見た。
「ただ、あんたに言われると腹立つ」
ロイが変な音を喉で止めた。
笑いかけたらしい。
セシリアが片手で口元を押さえた。笑ったわけではない。たぶん。
少女は一瞬だけ目を丸くして、それから小さく頷いた。
「覚えておきます」
「覚えるだけじゃなくて、次は聞いて」
「はい」
ネルは、それ以上言わなかった。
白旗アウレリアが、一歩動いた。
白い石の上を、影のない足で進む。
最初に近づいたのは、ネルではなかった。
アウレリアは、俺の前でも、レイナの前でも止まらなかった。
少女の前まで行き、少しだけ布を傾けた。
少女は息を止める。
その瞬間、俺は少し驚いた。
アウレリアは、謝った側を見た。
正しく謝れたか。
形に逃げなかったか。
自分の言葉が相手をどう扱ったか、見たか。
そういうことを、確かめているように見えた。
少女はもう一度、ネルに向かって頭を下げた。
今度は、さっきより少しだけ不格好だった。
肩に力が入っている。
角度も、たぶん完璧ではない。
けれど、ネルを見る目は、さっきよりまっすぐだった。
「申し訳ありませんでした、アーレンさん」
ネルが、ほんの少し眉を上げた。
名前。
あなたのような方、ではなく。
平民出身の方、でもなく。
アーレンさん。
「……はい」
ネルの返事は短かった。
でも、受け取らない返事ではなかった。
白旗アウレリアの布が、ふわりと膨らむ。
それから、今度はネルの方へ向かった。
ネルは反射的に手を引きそうになった。
けれど、引かなかった。
ただ、手を開いた。
「触らない」
ネルは言った。
「今は、触らない。でも、見る」
アウレリアが止まる。
「あたしの手は、触るための手。掴むための手。引っ張るための手。たまに殴りそうになる手」
「たまに?」
ジャックが呟いた。
ネルは睨んだ。
「黙って」
「はい」
ネルは息を吸った。
「でも、乱暴にするつもりで触る手じゃない」
白旗アウレリアは動かなかった。
動かないまま、聞いていた。
「あんたが嫌なら、触らない。触っていい時は、ちゃんと言って。……いや、旗がどう言うのか分かんないけど」
ネルは少しだけ顔をしかめた。
「分かるようにする」
白い布の端が、ゆっくり持ち上がった。
ネルの指先から、拳一つ分ほど離れたところで止まる。
触れていない。
だが、そこに距離が置かれた。
無視ではない距離。
拒絶ではない距離。
触る前の、許可を待つ距離。
クララが、横で小さく息を呑んだ。
「距離を……指定している?」
「書くなよ」
コレットが小声で言う。
「今は」
「分かってる。あとで書く」
クララは震える手を押さえた。
コレットは、その隣で目だけを細くした。
未来の負け筋を見ているのか。
それとも、今見えたものを、書くべきかどうか考えているのか。
分からない。
でも、コレットは紙を出さなかった。
昨日、白旗の前で決めた通りに。
今は、見る。
書くのは、あと。
「……変な旗」
ネルが言った。
アウレリアの布が、ほんの少し揺れた。
笑ったように見えた。
旗が笑うわけがない。
鉄旗の時にも、同じことを思った。
旗が返事をするわけがない。
でも、返事はあった。
世界は、俺の常識より少しだけ広い。
その広さに、俺たちは何度も足を取られる。
接触観察は、そこで一度中断された。
セシリアが、穏やかな声で言った。
「少し休憩を挟みましょう。皆様、庭園東屋へ」
その声はいつも通りだったが、彼女の目は少し忙しかった。
貴族校の一年生たちも、完全に平静ではない。
カルミアの生徒は、もっと平静ではない。
特に俺は、ネルに後で何を言われるかを考えて、すでに胃が重かった。
東屋は、白い柱と青い屋根でできていた。
柱には蔓植物が絡み、まだ小さな蕾をつけている。テーブルには水差しと薄い茶が用意されていた。
ガレスが真っ先に椅子の脚を確認した。
「壊れてない」
「壊れてない椅子を確認するの、ガレス先輩らしいですね」
ロイが小声で言った。
「壊れてからでは遅い」
「深い」
「普通」
ガレスは椅子を少しだけ引いた。
誰かが座りやすい角度に。
白旗アウレリアは遠くの通路に残っていたが、その布の向きだけは、こちらを見ているようだった。
俺は水を飲んだ。
冷たかった。
喉を通ると、さっきまで前に出すぎていた声が、少し下がった。
「ルカ」
ネルが隣に立った。
「はい」
「何で敬語?」
「これから怒られる気がして」
「怒るけど」
「はい」
ネルは俺の足を軽く蹴った。
痛くはない。
ただ、怒っていることだけが伝わる力加減だった。
「あんたさ」
「うん」
「あたしを庇うなら、あたしを刺さないで」
「本当にごめん」
「『ネルだから乱暴』って何」
「言い方を間違えた」
「間違えすぎ」
「反省してる」
「反省の顔が腹立つ」
「どんな顔ならいいんだ」
「知らない」
ネルは腕を組んだ。
少しの間、黙った。
俺はその沈黙が怖くて、水差しの模様を見ていた。
青い花の模様。
たぶん、ルミナリアの校章と同じ花だ。
「でも」
ネルが言った。
「届く手って言ったのは、まあ」
「まあ?」
「……悪くなかった」
俺は水差しを見るのをやめた。
ネルはそっぽを向いている。
「本当か」
「聞き返したら取り消す」
「聞き返さない」
「今した」
「してないことにしてくれ」
「無理」
ネルの耳は、まだ少し赤かった。
今度も理由は分からないことにした。
分からないことにする能力は、たぶん生きる上で必要だ。
「あたし、ああいうの嫌い」
ネルは言った。
「馬鹿にされるなら、馬鹿にされたって分かる言い方の方がまだいい」
「分かる」
「分かるの?」
「たぶん」
「貴族の家の子でしょ、あんた」
その言葉は、鋭かった。
でも、さっきのルミナリアの生徒たちの言葉とは違う。
ネルは俺を棚に置こうとしていない。
俺がどこに立っているのかを、確かめている。
俺は、自分の記憶を探った。
ヴァレン家。
礼儀。
白い手袋。
誰かの声。
覚えているようで、覚えていない。
思い出そうとすると、記憶の端が水に濡れた紙みたいに柔らかくなって、形を失う。
「そう、だったと思う」
「思う?」
「覚えてないところがある」
ネルは俺を見た。
さっきより少しだけ、怒りが引いた目だった。
「……そういうの、ずるい」
「え」
「怒りにくい」
「ごめん」
「謝るな。もっと怒りにくい」
ネルは息を吐いた。
「あんたが貴族側の人間なのか、あたし側の人間なのか、よく分かんない」
「俺側じゃだめか」
「便利な答え」
「便利じゃない。俺側は、だいたい困ってる」
ネルは少しだけ笑った。
本当に少しだけ。
「それはそう」
その笑いを見て、胸の奥が変に軽くなった。
すぐに重くもなった。
こういう瞬間を、俺は忘れるかもしれない。
魔法を使えば、何かを失う。
風を呼べば、過去が一枚はがれる。
この会話も、いつか、はがれる側に入るかもしれない。
だから、見ておく。
ネルの不機嫌な横顔。
怒っているのに、完全には離れない距離。
届く手。
俺はそれを、なるべく言葉にしないで覚えようとした。
言葉にすると、たぶん変なことを言う。
今日の俺には前科がある。
「ヴァレンさん」
声をかけてきたのは、レイナだった。
ネルの肩が、ほんの少し硬くなる。
「先ほどのことですが」
「はい」
「庇い方は、最低に近かったです」
「はい」
「ですが、言おうとしたことは分かりました」
「ありがとうございます」
「褒めていません」
「はい」
レイナはネルを見た。
「ネルさん」
「何」
「私も、言うのが遅れました」
ネルの眉が動いた。
「何を」
「彼らの言葉が、あなたを見下ろしていると」
レイナの声は、静かだった。
「分かっていました。分かっていたのに、すぐには言いませんでした」
ネルは何も言わない。
レイナは続ける。
「この学校の言葉を、私は知っています。どう刺さるかも、どこまでなら『失礼ではない』と言い張れるかも。だから、本来は私が先に止めるべきでした」
「……何で止めなかったの」
ネルの声は低い。
責めている。
でも、聞いてもいる。
レイナはすぐには答えなかった。
白い柱の影が、彼女の制服の袖に落ちている。
「羨ましかったのだと思います」
その答えは、予想していなかった。
ネルも少し目を開いた。
「誰が」
「あなたが」
「あたし?」
「ええ」
レイナは微笑まなかった。
「私は、この学校に来られなかったことを、まだ綺麗に片付けられていません。昨日、茶会でそれを認めました。認めたつもりでした」
彼女は指先を見た。
白いカップを持つための、綺麗な指。
でも、その手も、きっと何かを掴み損ねた手だ。
「あなたは、この場所に怒れる。私は、その怒り方が少し羨ましかった」
「怒れないの?」
「怒り方が分からないのです」
ネルは言葉を失ったようだった。
レイナは続けた。
「私は、招待状を持っていました。でも来なかった。来られなかった。だから、今でもこの場所に対して、礼を尽くすべきなのか、恨むべきなのか、分からない」
「どっちもでしょ」
ネルが言った。
早かった。
迷いがなかった。
「礼を尽くすのと、怒るのは、別に一緒にできるでしょ」
レイナが瞬きをした。
「簡単に言いますね」
「簡単じゃないけど、別に禁止されてない」
「貴族社会では、かなり禁止されています」
「だから面倒くさいのよ」
ネルは腕を組み直した。
「あたしは、あんたが羨ましいけど」
今度はレイナが驚いた。
「私が?」
「だって、あんたは言葉を知ってる。あいつらが何で刺してきてるか分かる。あたしは、腹立つことだけ分かって、どこが刃なのか後から考える」
ネルは視線を逸らした。
「それ、結構むかつく」
「褒めていますか?」
「褒めてない」
「そうですか」
レイナは少しだけ笑った。
笑った、というより、息がほどけた。
「では、お互い、むかつくところがあるのですね」
「お互いどころじゃないけど」
「そこまでですか」
「あんた、歩き方まで綺麗だから」
「歩き方を責められたのは初めてです」
「こっちは、魚の骨の取り方にまで腹立ってるんだから、歩き方くらい入る」
レイナは今度こそ、少し笑った。
ネルも、ほんの少しだけ口元を緩めた。
仲直り、ではない。
たぶん、そんな綺麗な言葉で片付けると、二人とも怒る。
ただ、さっきよりは、相手の痛い場所を見ている。
触る前に、少しだけ距離を測っている。
白旗アウレリアが好む距離。
いや。
白旗が好むかどうか以前に、人間に必要な距離。
「ヴァレンさん」
レイナが俺を見た。
「はい」
「あなたは、次に誰かを庇う時、最初に一度、口を閉じてください」
「はい」
「それから話してください」
「努力します」
「努力ではなく、手順です」
「手順」
俺は頷いた。
貴族校の礼は苦手だが、手順なら少し分かる。
風前確認と同じだ。
魔法を使う前に、誰を信じるかを言う。
風を使うなら、戻り言葉を決める。
庇う前に、まず口を閉じる。
それは、俺に必要な手順かもしれない。
「記録しておきます」
コレットが横から言った。
いつの間にか、手帳を持っている。
「今は書くのか」
「休憩中だから」
「白旗の前じゃないから?」
「白旗は見てる気がするけど、今は書かないと忘れる」
コレットは真剣な顔でペンを走らせた。
「項目。綺麗に包まれた見下ろし」
「嫌な項目だな」
「必要」
コレットは続ける。
「平民出身への針。『実用的』という褒め言葉の使い方。本人に聞かずに教材化する危険」
クララが隣から覗き込む。
「白旗反応としては、謝罪者側への確認が重要です。謝る形ではなく、相手の名前を呼び直した時に接近しました」
「書く」
「あと、ネルさんの『触らない。でも見る』で距離指定が起きました」
「書く」
コレットは、さらに一行書いた。
「ルカの庇い方。下手。でも、相手を物にしない」
「下手って書く必要あるか」
「ある」
ネルが即答した。
レイナも頷いた。
「あります」
ロイまで小さく手を上げた。
「俺も、あると思います」
「ロイまで」
「だって、忘れたらまたやりそうなので」
「俺はそんなに信用がないのか」
「あります」
アルフが静かに言った。
「だから記録する」
それは、なかなか逃げ場のない言葉だった。
信用があるから、失敗も記録する。
カルミアの表は、いつからこんなに厳しくなったのか。
たぶん、最初からだ。
敗北の使い道表。
責任表。
見えなかったもの。
俺たちは、自分たちの失敗を、なるべく飾らない。
飾らないから、見苦しい。
でも、見苦しいまま置いておかない。
次に何をするかに変える。
「……では」
セシリアが近づいてきた。
彼女は、先ほどの生徒たちを少し離れた場所へ戻していた。
戻し方も丁寧だった。
ただ、顔にはさすがに疲れがあった。
「休憩後、予定を一部変更します」
「変更?」
コレットが顔を上げる。
「はい。アウレリアが想定より早く距離反応を示しましたので、午後に予定していた『礼式歩行と接触停止』の確認を前倒しします」
「それは、何をするんですか」
アルフが聞いた。
「旗が近づく、または離れる状況で、競技者がどのように立ち止まり、どのように相手の進路を尊重するかを確認します」
セシリアは一拍置いた。
「簡単に言えば、追わない練習です」
ネルが顔をしかめた。
「追わない」
「はい」
「競技なのに?」
「追う競技だからこそです」
セシリアの返事は、今回だけ少し速かった。
「アウレリアは、乱暴な追跡を嫌います。ですが、追跡そのものを否定しているわけではありません。礼を失わずに追えるか。距離を尊重しながら捕まえられるか。それが、ルミナリア戦の最初の問いになります」
距離を尊重しながら捕まえる。
矛盾しているようで、競技としては核心に近い。
旗は奪うものだ。
でも、旗をただの物として扱えば、ここでは逃げられる。
相手を人として見る。
旗を歴史として見る。
その上で、勝つ。
面倒くさい。
だが、面倒くさいほど、カルミア向きかもしれない。
俺たちは、簡単な勝ち方を知らない。
「追わない練習なら」
ネルが言った。
「あたし、得意じゃない」
「知ってる」
俺が言うと、ネルが睨んだ。
「また刺した?」
「今のは事実確認」
「事実でも刺さる時がある」
「覚えておく」
レイナが横で小さく咳払いした。
「口を閉じる手順は?」
「今のは間に合わなかった」
「早すぎます」
俺は口を閉じた。
ネルが少し笑った。
その笑いを、俺はまた見ておく。
午後の確認は、庭園の一角で行われた。
白い石の通路が複雑に分かれ、低い生垣が視界を遮る。中央には小さな噴水があり、水音が静かに響いている。
アウレリアは、その通路を自由に動く。
こちらは、一定距離まで近づいたら立ち止まり、手を伸ばすか、退くか、進路を譲るかを判断する。
魔法は使わない。
足と目と声だけ。
「まずは、代表者一名で」
セシリアが言った。
「誰から?」
コレットが全員を見た。
ネルは一歩出かけて、止まった。
「あたし、やる」
「ネルさん」
レイナが呼ぶ。
「何」
「追わない練習です」
「分かってる」
「分かっている顔ではありません」
「あんたもさっきから顔の管理うるさい」
それでも、ネルは戻らなかった。
コレットが少し考えたあと、頷いた。
「ネルで」
「いいのか」
俺が聞く。
「今やるのが一番失敗しそうだから」
「それでいいのか」
「失敗したら、今のうちに使う」
コレットは短く言った。
敗北の使い道。
カルミアの部長は、時々ものすごく冷たい判断をする。
その冷たさは、仲間を見捨てるためではなく、仲間の失敗に使い道を与えるためにある。
ネルは通路に立った。
白旗アウレリアは、噴水の向こう側にいる。
布が水音に合わせて揺れているように見えた。
「開始」
セシリアの声。
ネルは歩き出した。
歩幅は少し大きい。
肩に力が入っている。
アウレリアは逃げなかった。
白い石の上で、ただ待っている。
ネルが距離を詰める。
あと三歩。
あと二歩。
そこで、アウレリアの布が横に流れた。
通路の枝分かれへ逃げる。
ネルの足が反射的に動いた。
追う。
速い。
魔法ではない。
ただの身体の反応。
ネルは、届かないものに届こうとする時、迷わない。
だからこそ、一瞬で距離を詰める。
アウレリアがさらに横へ滑る。
ネルの手が伸びる。
「ネル」
俺は呼びそうになった。
でも、閉じた。
口を閉じる手順。
俺が止めるより、ネルが止まる方がいい。
ネルの手は、アウレリアの布の端に届く寸前で止まった。
指先が震えている。
掴める。
たぶん、掴めた。
でも、ネルは掴まなかった。
「……っ」
息を飲む音が聞こえた。
ネルは手を下ろした。
白旗アウレリアは逃げなかった。
布の端が、ネルの指先があった場所で少しだけ揺れる。
「追わない」
ネルが言った。
自分に言うように。
「今は、追わない」
アウレリアは、ゆっくりとネルの周りを回った。
旗が、人の周りを回る。
それは不思議な光景だった。
獲物と追手が、ほんの一瞬、役割を交換したように見える。
ネルは動かない。
歯を食いしばっている。
我慢しているのが、遠目にも分かる。
美しい礼ではない。
けれど、乱暴ではなかった。
アウレリアはネルの背後まで回り、それから通路の端へ戻った。
「終了」
セシリアが言った。
ネルはその場で大きく息を吐いた。
「……腹立つ」
「何が」
俺が聞く。
「掴めた」
「うん」
「掴めたのに、掴まなかった」
「うん」
「偉いでしょ」
「偉い」
俺は即答した。
ネルが目を細める。
「今のは、まあまあ」
「庇ってないから?」
「余計なこと言わなかったから」
レイナが小さく頷く。
「手順が生きましたね」
「俺の成長が早い」
「黙っていただけです」
「それが難しいんだ」
ロイが横で真剣に頷いた。
「分かります」
「ロイは分かるよな」
「はい。音を出さないの、すごく難しいです」
俺とロイは、少しだけ同志の気分になった。
すぐにアルフが「種類が違う」と言った。
午後の確認は、そのあと全員で続いた。
ミラは進路を譲りすぎて、自分が花壇の端に追い込まれた。
「荷物と同じ。自分の置き場も必要」
セシリアが助言した。
ミラは真剣に頷き、次は自分の立つ幅を先に確保した。
ガレスは、旗が逃げた先に小石があることに気づき、先に小石をどけた。
アウレリアは、その小石のあった場所を避けずに通った。
ジャックは一度、手が速すぎてセシリアに止められた。
「壊さないって言う前に、手が出ました」
「悪い」
「悪い、だけでは足りません」
「今の手は危なかった。次は出す前に言う」
アウレリアは、遠くで布を揺らした。
リリィは、予想外に出てきた小さな召喚影に進路を譲らせようとして、自分も一緒に迷子になった。
「迷子二号ですか」
「いいえ、これは多分、迷子一号の影です」
「ややこしい」
クララは記録欲を抑えきれず、一度だけ視線が近すぎた。
自分で気づいて、二歩下がった。
「見すぎました」
アウレリアは離れなかった。
アルフは見えない戻り線を使い、通路に印をつけず、自分の歩数だけで位置を測った。
「ここまで」
彼が止まった場所は、アウレリアの進路を塞がないぎりぎりだった。
ノルは半分眠りながら、なぜか一番自然に止まった。
「旗が、こっち来ない夢を見た」
「今起きてますよね?」
「たぶん」
アウレリアは、ノルの前でしばらく揺れていた。
そして最後に、レイナの番になった。
彼女は通路に立つ前、手袋を一度外した。
白い手袋。
昨日も見た。
貴族校の礼を知っている手。
来られなかった学校の形式を、まだ覚えている手。
「レイナさん」
コレットが声をかける。
「無理なら」
「やります」
レイナは即答した。
「ここで逃げる方が、後で失敗します」
その言葉に、ネルが少しだけ視線を向けた。
レイナは気づいているのかいないのか、通路へ歩いた。
アウレリアは噴水の近くに戻っている。
「開始」
セシリアの声。
レイナの歩き方は、やはり綺麗だった。
ネルが腹立つと言った歩き方。
背筋、肩、視線、指先。
どれも整っている。
それだけなら、アウレリアは近づかないのかもしれない。
昨日の白旗は、形だけでは動かなかった。
レイナが一歩進む。
アウレリアが横へ動く。
レイナは追わない。
距離を測る。
次の通路を予測して、半歩だけ斜めに動く。
うまい。
礼の形を競技に変えている。
だが、噴水の水音が少し強くなった瞬間、レイナの指先が揺れた。
魔法の気配。
使うつもりではなかったのだろう。
ただ、癖のように、補助魔法を入れようとした。
そして、失敗した。
小さな光が、指先で弾ける。
ほとんど音はなかった。
それでも、ルミナリアの一年生たちが見ていた。
白い庭園で、小さな失敗はよく目立つ。
レイナの足が止まる。
アウレリアも止まる。
セシリアが何かを言おうとした。
それより早く、レイナが息を吸った。
「一度目」
彼女は言った。
声は、わずかに震えていた。
「戻ります」
昨日と同じ言葉。
失敗を隠さない。
戻る姿勢として見せる。
レイナは半歩下がった。
そして、魔法を使わずに、もう一度歩いた。
今度は、補助なしで。
綺麗さは少し崩れた。
でも、止まらなかった。
アウレリアは、その崩れた歩き方の前で、布をゆっくり広げた。
遠くで、誰かが小さく息を呑む。
俺は、その音の方を見なかった。
見れば、レイナが失敗を見られていることを、さらに強くしてしまう気がした。
ただ、レイナを見た。
彼女は戻っている。
戻ろうとしている。
失敗のあとに。
その姿は、たぶん明日のどこかで、もっと大きく晒される。
嫌な予感がした。
コレットも、同じものを見たのかもしれない。
手帳を持つ指が、白くなっていた。
確認が終わる頃、空は午後の淡い金色になっていた。
白い庭園は、朝より少しだけ冷たく見える。
セシリアは今日の結果をまとめ、明日の公開練習の説明をした。
「明日は、学院内の観覧席を一部開放します。公式戦前の慣例ですので、外部の貴族家関係者も少数入ります」
「観客つきか」
ジャックが言う。
「はい」
「面倒だな」
「面倒です」
セシリアが、珍しくそのまま認めた。
「アウレリアは、見られ方にも反応します。競技者が観客にどう扱われるか、競技者が観客をどう意識するか。そのすべてが、礼の一部になります」
レイナの表情が、ほんの少し硬くなった。
ネルがそれを見る。
俺も見る。
たぶん明日、レイナの失敗は、今日より大きく見える。
白い場所では、小さな染みが目立つ。
でも、染みを隠そうとすれば、もっと広がる。
カルミアは、隠さない方向へ進むしかない。
それが正しいかどうかは、まだ分からない。
ただ、白旗アウレリアは、隠したものより、戻ろうとしたものに近づいた。
その事実だけは、記録できる。
夜、宿泊棟の共同室で、コレットは今日の表を読み上げた。
「第54話時点。白旗アウレリア観察表」
「話数みたいに言うな」
俺が言うと、コレットは無視した。
「一、礼は形だけではなく、相手を物にしないことを含む」
クララが頷く。
「二、褒め言葉でも、本人の歴史を見ずに分類すると見下ろしになる」
ネルが少し嫌そうな顔をした。
「三、謝罪は形だけでなく、相手を名前で呼び直すと反応あり」
レイナが静かに聞いている。
「四、追わないことは、逃がすことではなく、距離を尊重して次の接触を残すこと」
アルフが小さく「重要」と呟いた。
「五、失敗を隠さず戻る姿勢は、白旗の接近条件になる可能性」
その項目で、レイナの指がわずかに動く。
「六、ルカの庇い方は下手」
「まだ書くのか」
「重要」
全員の何人かが頷いた。
ひどい。
「でも」
コレットは、そこで俺を見た。
「下手でも、ネルを教材にしない方向へ場を戻した」
ネルが横を向く。
俺は、少しだけ背中がむずがゆくなった。
「七、ネルの手は、触るための手。乱暴にするための手ではない」
ネルが顔を上げた。
「それ、書くの?」
「書く」
「恥ずかしいんだけど」
「必要」
コレットは迷わなかった。
ネルは文句を言いかけて、やめた。
今日、ネルは手を伸ばさなかった。
掴める距離で、掴まなかった。
その我慢は、たぶん誰かが記録しないと、怒りの中に埋もれてしまう。
埋もれた努力は、次に使えない。
カルミアは、それを拾う。
拾って、表にする。
たまに本人が嫌がる。
それでも、拾う。
「明日は」
コレットが言った。
「レイナが中心になる」
共同室の空気が少し変わった。
レイナは目を伏せなかった。
「分かっています」
「観客がいる」
「はい」
「一度目の失敗が、見られるかもしれない」
「見られるでしょう」
レイナは静かに言った。
強がりではない。
予測だった。
「ルミナリアの生徒は、見方を知っています。外部の貴族家関係者は、もっと見方を知っています。私の失敗は、彼らにとって分かりやすい話題です」
「分かりやすい話題って何」
ネルが不機嫌に聞く。
「オルコット家の娘は、やはりルミナリアに来なくて正解だった、という話です」
誰もすぐには言えなかった。
俺は手を握った。
今日、ネルが言われたこと。
明日、レイナが言われること。
形は違う。
でも、根は近い。
人を本人の前で、物語にしてしまう。
あの子は平民出身だから。
あの子は落ちたから。
あの子は失敗するから。
そうやって、相手の現在を見ずに、便利な棚へ戻す。
「レイナ」
俺は呼んだ。
口を閉じる手順。
一拍。
それから、言う。
「明日、俺がまた変な庇い方をしそうだったら、先に止めてくれ」
レイナが瞬きをした。
「自覚があるのですね」
「今日、さすがに学んだ」
「では、止めます」
「頼む」
ネルが横から言った。
「あたしも止める」
「それは助かる」
「蹴って止める」
「方法を選んでくれ」
「選択肢はある。脛か足の甲」
「どっちも足だ」
ロイが小さく笑った。
ミラも少し笑った。
レイナの口元も、ほんのわずかに緩んだ。
明日はたぶん、笑えない場面がある。
だから今、笑えるところで笑っておく。
ガレスが、共同室の隅から皿を持ってきた。
小さな焼き菓子が載っていた。
「厨房から」
「もらったのか」
「割れた皿を直した」
「魔法で?」
「手で」
ガレスは焼き菓子をテーブルに置いた。
「食べる」
命令みたいな言い方だったが、たぶん気遣いだった。
ネルが一つ取る。
レイナも一つ取る。
二人の手が、皿の上で一瞬近づいた。
ぶつからなかった。
どちらも引きすぎなかった。
ただ、距離を測った。
白旗アウレリアが見ていたら、どう反応しただろう。
分からない。
でも、今日の最後に、それが見えたことを俺は覚えておく。
平民の手。
貴族の手。
届く手。
戻る手。
触る前に止まる手。
俺は、自分の手を見た。
風を呼ぶ手。
記憶を失う手。
誰かを庇おうとして、時々本人を刺す手。
最悪だ。
でも、まだ使い道はある。
明日、白い庭園で、誰かがレイナを物語にしようとするなら。
その前に、俺は一度、口を閉じる。
それから、必要なら言う。
下手でも。
間違えながらでも。
相手を棚に戻さない言葉を。
白い塔の鐘が、夜の空気を澄ませるように鳴った。
その音はやはり、姿勢がよかった。
俺たちは姿勢よくないまま、焼き菓子を食べた。
それでも、皿は割れなかった。
誰かの手も、乱暴には扱われなかった。
今日のところは、それで十分だった。




