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第53話 礼を試す白い鳥

 白旗アウレリアは、朝の光の中で眠っているように見えた。


 歓迎の庭の中央。


 白い鳥像の上。


 羽のように重なった旗布を閉じ、細い脚のような軸を揃えている。


 風はほとんどない。


 それでも羽布の端だけが、時々かすかに揺れる。


 眠っている。


 見ていない。


 そう思いたくなる姿だった。


 だが、昨日の茶会で俺たちは学んだ。


 あれは見ている。


 かなり見ている。


 手。


 礼。


 視線。


 歩調。


 言葉の選び方。


 沈黙の置き方。


 たぶん、茶器の持ち方まで。


「無理」


 ネルが朝一番に言った。


 清々しいほど早い諦めだった。


 場所は、ルミナリア貴族魔法学院の第一礼庭。


 俺たちは、白旗アウレリアの性質を確認するための見学訓練に参加していた。


 見学訓練。


 名前は穏やかだ。


 だが、実際には「白旗がどの振る舞いに反応するかを、礼法担当の教師と競技部代表の監督下で確認する」という、かなり胃に来る時間だった。


 グラナートでは命令を受けた。


 ルミナリアでは礼を見られる。


 どちらも緊張する。


 ただ、緊張の種類が違う。


 グラナートの緊張は、背中を硬くする。


 ルミナリアの緊張は、指先を硬くする。


「何が無理なんだ」


 俺が聞くと、ネルは庭の入口に立つ礼法担当の教師を見た。


 淡い灰色の髪を結い上げた女性で、姿勢も声も隙がない。


 名前はマリエル先生。


 昨日の茶会で、クララに「記録の姿勢も礼に含まれます」と言った人だ。


「あの先生の前で歩くのが無理」


 ネルは言った。


「歩くだけだろ」


「歩くだけを見られるのが嫌」


 分かる。


 かなり分かる。


 マリエル先生は、俺たちを責めていない。


 微笑んでいる。


 その微笑みが、むしろ怖い。


「本日の訓練は、礼節の優劣を競うものではありません」


 マリエル先生が言った。


 声は柔らかい。


 だが、全員の背筋が伸びた。


「白旗アウレリアが、どのような振る舞いに反応するかを確認するためのものです。皆さまには、普段通りの動き、意識した礼、競技時の動きの三種類を見せていただきます」


 普段通り。


 意識した礼。


 競技時。


 三種類。


 アルフがすでにメモを取っている。


 コレットも表を開いた。


 クララは古代旗反応の欄を作っている。


 ノル先輩は椅子を探している。


「フェイン様には、こちらへ椅子をご用意しております」


 マリエル先生が言った。


 ノル先輩は眠そうに頷く。


「礼」


「ありがとうございます、です」


 クララが小声で補足する。


「ありがとう」


 ノル先輩は言った。


 白旗アウレリアが、ほんの少し羽布を揺らした。


「今ので反応?」


 ロイが小声で言う。


「椅子を受け取る礼に反応した可能性があります」


 クララが即座に書く。


 ノル先輩。


 椅子。


 ありがとう。


 白旗微反応。


「椅子で反応する旗、難しくない?」


 ネルが顔をしかめる。


「だから見学訓練です」


 コレットが言う。


 今日のコレットは表を二枚持っている。


 一枚は白旗反応表。


 もう一枚はネル・レイナ衝突予防表。


 予防されている。


 かなり本気で。


「部長、その二枚目見えてる」


 ネルが言った。


「見せています」


「隠さないんだ」


「隠すと使えません」


 強い。


 表の運用がどんどん強くなっている。


 レイナ先輩は、今日も整っていた。


 昨日より少し柔らかい。


 でも、まだ緊張している。


 白旗アウレリアを見る目には、憧れがある。


 同時に、試される怖さもある。


「レイナ先輩」


 俺は小声で聞いた。


「大丈夫ですか」


「大丈夫ではないけれど、崩れる場所は選ぶわ」


「昨日よりかなり具体的」


「学習したの」


 彼女はそう言って、少しだけ笑った。


 その笑いは、昨日の茶会の最後に近かった。


 完璧ではない。


 でも、隠しすぎていない。


 白旗アウレリアが、彼女のほうを見た気がした。


「最初は普段通りの歩行から」


 マリエル先生が言った。


 普段通り。


 その言葉に、全員が困った。


 普段通りを見られると、普段通りではなくなる。


 これは世界の罠だ。


「では、ロイ・キャベル様」


「俺!?」


 ロイが思わず大きな声を出した。


 白旗アウレリアが、ぱっと羽布を持ち上げる。


 反応。


 というより、驚き。


 ロイは両手で口を押さえた。


「すみません」


 小声。


 白旗が、少し羽を閉じる。


「大声と謝罪の差」


 クララが書く。


「ロイさん、大声で白旗を驚かせる。直後の小声謝罪により反応沈静」


「俺、開始前に記録されてる」


「重要です」


 ロイはしょんぼりしたが、少しだけ嬉しそうでもあった。


 記録されることに慣れてきている。


 グラナートの経験が残っているのだ。


 ロイは礼庭を歩いた。


 普段通りに、と言われた結果、明らかに普段よりぎこちない。


 腕と脚が同じ側で出かけた。


 戻した。


 戻した結果、さらにぎこちなくなった。


 白旗アウレリアは、首を傾けた。


 羽布が少し揺れる。


「笑ってる?」


 ネルが小声で言う。


「旗は笑わないだろ」


「でも、笑ってる感じする」


 マリエル先生が微笑む。


「アウレリアは、緊張を見ています」


「緊張」


 ロイが止まる。


「はい。礼は、緊張しないことではありません。緊張しても、相手を乱暴に扱わないことです」


 ロイは少し考えた。


 それから、白旗へ向かって小さく礼をした。


「緊張してます。でも、よろしくお願いします」


 白旗の羽布が、柔らかく揺れた。


 今度は、明らかに好意的だった。


 ロイが目を輝かせる。


 叫びそうになる。


 自分で口を押さえる。


 さらに白旗が揺れる。


 クララが忙しい。


「緊張の申告。小声。自己制御。白旗良反応」


 ロイは戻ってくると、ものすごく小さい声で言った。


「俺、ちょっと分かったかも」


「何が」


 俺が聞く。


「きれいな音じゃなくても、乱暴じゃなければいいのかも」


 それは、かなり大事な発見だった。


 ロイの音は大きい。


 でも、乱暴かどうかは別だ。


 命令ではない音。


 歓迎の鐘。


 そして、乱暴ではない音。


 彼の成長が、また一段進んだ気がした。


「次、ミラ・ガルド様」


 ミラは荷物を背負ったまま前に出た。


「荷物は置いても構いません」


 マリエル先生が言う。


「持つ」


 ミラは即答した。


 セシリアなら「素敵な考え方」と言っただろう。


 マリエル先生は少しだけ頷いた。


「では、荷物を持つ礼を見せてください」


「荷物を持つ礼」


 ミラは少し考えた。


 そして、荷物の紐を結び直し、背負い直した。


 重心を整える。


 肩に食い込まないように布を挟む。


 歩く前に、後ろにいる人へ一度視線を向ける。


「ぶつからない」


 それだけ言って、歩き出した。


 白旗アウレリアが、じっと見ている。


 派手な礼ではない。


 美しい礼でもない。


 でも、荷物が誰かに当たらないようにする。


 それは、たしかに相手を扱う礼だった。


 白旗が羽布を少し広げる。


 マリエル先生が頷いた。


「実用の礼ですね」


 ミラは振り返る。


「荷物は、背負い方」


「ええ。礼も、背負い方に出ます」


 ミラは満足そうに頷いた。


 ミラ理論が、また拡張された。


 礼も背負い方。


 コレットがすぐに書く。


「次、ジャック・バーネル様」


 ジャックが嫌そうな顔をした。


「俺、歩くだけで危険扱いされそうなんだけど」


「顔」


 ネルが言う。


「うるせえ」


 ジャックは前に出た。


 普段通りに歩こうとして、明らかに足が重い。


 壊してはいけないものが多すぎる場所だ。


 花壇。


 白い石。


 細い鳥像。


 礼庭の飾り。


 全部が「壊すな」と言っている。


 ジャックにとっては、かなりつらい環境だ。


 白旗アウレリアは、彼の手を見ていた。


 攻撃魔法が味方の近くを通る問題児アタッカー。


 一番壊してはいけないものを狙いやすい魔法。


 その手が、何をするか。


 ジャックは途中で止まった。


「無理」


 ネルと同じ言葉を言った。


「何が」


 俺が聞く。


「どこ見ても壊しちゃ駄目なものしかねえ」


 正直だ。


 かなり正直だ。


 マリエル先生は怒らなかった。


「では、壊してはいけないものを前にした礼を」


「何だよそれ」


 ジャックは困った顔をした。


 それから、壊れた支持金具の欠片をポケットから出した。


 グラナートから持ってきた、小さな記録。


 彼はそれを手のひらに置き、白旗へ見せる。


「壊さない」


 短い。


「今は、壊さない」


 白旗の羽布が、少しだけ揺れた。


 大きな反応ではない。


 でも、拒絶ではない。


 ジャックは舌打ちしそうになり、しなかった。


「……よろしく」


 白旗が、もう少し揺れた。


 マリエル先生が言う。


「よい礼です」


 ジャックが顔をしかめる。


「今のが?」


「はい。自分の危険を相手に知らせ、扱いを約束しました」


 ジャックは黙った。


 たぶん、褒められ慣れていない場所を褒められた。


 彼は戻ってくると、ガレス先輩の横に立った。


 ガレス先輩が短く言う。


「よかった」


「うるせえ」


 でも、ジャックは欠片を握りしめていなかった。


 手のひらに、そっと乗せていた。


「次、リリィ・クロフト様」


 リリィは微笑んだ。


「予定外を持ち込む礼ですね」


「まだ何も言っていません」


 マリエル先生が少しだけ困った。


 リリィは迷子一号を取り出した。


 白い礼庭に、ただの石。


 ものすごく浮いている。


「これは置いても?」


「その石は」


「迷子です」


「……落とし物ではなく?」


「迷子です」


 マリエル先生は少し考えた。


「では、迷子を置く礼を」


 対応力が高い。


 リリィは満足そうに、迷子一号を白い石道の端へ置いた。


 中央ではない。


 邪魔にならない場所。


 でも、完全に隠れない場所。


「予定外です。踏まないでください」


 白旗アウレリアが、首を傾ける。


 羽布が揺れる。


 それは困惑に見えた。


 リリィは楽しそうだ。


「予定外を無礼にしない。これが私の礼です」


 マリエル先生が、少しだけ笑った。


「覚えておきます」


 白旗は迷子一号をしばらく見ていた。


 礼庭の白さの中に、ただの石がある。


 でも、踏まれないように置かれている。


 予定外にも場所を与える。


 それも、礼なのかもしれない。


「次、クララ・ヴェルム様」


 クララは記録帳を抱えて前に出た。


「記録の姿勢も礼に含まれる、でしたね」


「はい」


 マリエル先生は頷く。


 クララは白旗へ向かって礼をした。


 やや硬い。


 それから、少し下がって記録帳を開く。


 書く。


 白旗を見る。


 また書く。


 問題は、顔が近い。


 記録に集中しすぎて、白旗を観察対象として見すぎている。


 白旗アウレリアが、少し身を引くように羽を閉じた。


「あ」


 クララが気づく。


 マリエル先生が言った。


「記録は、相手を保存する行為であると同時に、相手を固定する行為にもなります」


 クララの目が見開かれた。


「固定」


「はい。見られすぎると、旗も身構えます」


「鉄旗とは逆ですね」


「アウレリアは、見られる礼も見ます」


 難しい。


 かなり難しい。


 クララは記録帳を少し下げた。


 そして白旗へ言った。


「見すぎました。距離を取ります」


 白旗の羽布が、少しだけ戻る。


 クララは嬉しそうに記録しようとして、また手を止めた。


 記録したい。


 でも、今は見すぎない。


 葛藤が顔に出ている。


「クララ、顔」


 俺が小声で言う。


「記録したいです」


「あとで」


「あとで必ず」


「必ず」


 彼女はようやく戻ってきた。


 白旗は、少しだけ満足そうに見えた。


「次、アルフ・メイナード様」


 アルフは前に出た。


 いつも通り静かだ。


 礼も静か。


 過不足がない。


 白旗は、じっと見る。


 アルフは礼庭の床に線を引こうとして、手を止めた。


 石筆は持っていない。


 ここは線を引く場所ではない。


 彼は少し考え、自分の足元に目線だけで短い基準を置いた。


 線を引かない戻り線。


 一歩進む。


 一歩戻る。


 礼をする。


「見えない線?」


 俺が呟く。


 アルフは戻ってきてから答えた。


「線を引く許可がない」


「だから?」


「自分だけが使う線にした」


 白旗が、ゆっくり羽を揺らした。


 マリエル先生が頷く。


「場を傷つけず、自分の基準を持つ。よい礼です」


 アルフは少しだけ考えて言った。


「採用」


「何を」


「見えない戻り線」


 また新しいものができた。


 コレットが忙しい。


「次、ノル・フェイン様」


 ノル先輩は椅子から立ち上がろうとして、少し眠そうに揺れた。


 ガレス先輩が支える。


「寝ていい?」


「訓練中です」


 マリエル先生が微笑む。


「眠気も、その方の一部です。無理に隠さず、相手に失礼にならない形で扱ってください」


 ノル先輩は少し考えた。


 そして、白旗へ向かって礼をした。


 半分寝ているので、かなりゆっくりだ。


「眠い」


 正直。


「でも、聞く」


 白旗アウレリアが、静かに羽を揺らした。


 ノル先輩はそのまま椅子へ戻り、座った。


「眠気を申告し、聞く意志を示す」


 クララが小さく記録する。


 今度は距離を保っている。


 成長が早い。


「次、ガレス・モルン様」


 ガレス先輩は無言で前に出た。


 大きい。


 無骨。


 白い礼庭に立つと、かなり浮く。


 でも、本人は気にしていない。


 彼は礼をした。


 少し不器用。


 それから、足元に落ちていた小さな花びらを拾った。


 踏まれそうな位置にあったものだ。


 それを花壇の端へそっと戻す。


「直す礼」


 ミラが言った。


 白旗が大きく羽を揺らした。


 今日一番の反応かもしれない。


 ガレス先輩は少しだけ目を瞬いた。


 マリエル先生が微笑む。


「壊れたもの、乱れたものを、目立たず戻す。とてもよい礼です」


 ガレス先輩は短く頷いた。


「手でなら」


 魔法では壊すことしかできない。


 でも、手でなら直せる。


 その手を、白旗は見た。


 俺は少し胸が温かくなった。


「次、コレット・セイン様」


 コレットは表を持ったまま前に出た。


 白旗が、表を見る。


 昨日も少し反応していた。


 コレットは礼をする。


 そして、表を閉じた。


「今は、見ます」


 彼女は言った。


「書くのは、あとにします」


 クララが少し衝撃を受けた顔をした。


 コレットが表を閉じる。


 それは第七部にとって、かなり大きなことだ。


 敗北を表にする部長。


 見えなかったものを拾う部長。


 でも、今は書く前に見る。


 白旗アウレリアが羽を広げた。


 静かに。


 コレットはその反応を、目で受け取った。


 すぐには書かない。


 戻ってきてから、深く息を吐いた。


「難しいです」


「書かないのが?」


 俺が聞くと、彼女は頷いた。


「はい。でも、相手が見られることに敏感なら、書く前に受け取る必要があります」


 強い。


 コレットの表も、変化している。


「次、ルカ・ヴァレン様」


 俺の番が来た。


 正直、かなり嫌だった。


 白旗は手を見る。


 俺の手は、風を使うか使わないか迷う手だ。


 レガリアでの名前も、ここでは知られている。


 カルミアのルカ、と呼び直されたことも、まだ胸に残っている。


 俺は前に出た。


 礼。


 どの程度が正しいのかは、やはり分からない。


 昔は知っていたのかもしれない。


 忘れたのかもしれない。


 最初から知らなかったのかもしれない。


 白旗が見ている。


 俺の手。


 俺は、手を開いた。


「作法は、たぶん忘れました」


 正直に言った。


 温室ではないが、礼庭の空気が少し止まる。


「でも、今はカルミアとして来ています」


 白旗の羽布が、かすかに揺れる。


「風を使うかどうかは、ここでは関係ないかもしれない。でも、使う前に戻る言葉を決めています。礼も、たぶん戻る場所が要る」


 何を言っているのか、自分でも少し分からない。


 でも、嘘ではない。


「だから、間違えたら教えてください」


 俺は礼をした。


 完璧ではない。


 たぶん、かなり普通。


 白旗アウレリアは首を傾けた。


 そして、羽布を一枚だけ開いた。


 昨日、レイナ先輩に応じたときと似た反応。


 マリエル先生が言った。


「不足を認め、教えを乞う礼です」


「それ、礼なんですか」


「はい」


 少し意外だった。


 礼というのは、完成した形だけではないらしい。


 足りないと認めることも、相手を尊重する形になる。


 俺は戻ってきた。


 ネルが小声で言う。


「まあまあ」


「顔診断?」


「礼診断」


「増えるな」


 次は、レイナ先輩だった。


 空気が変わる。


 彼女自身も、それを感じたと思う。


 昨日、白旗へ「失敗のあとの礼も見ていただけるか」と言った。


 今日は、それを試される。


 レイナ先輩は前に出た。


 礼は美しい。


 でも、昨日より少しだけ揺れている。


 隠していない揺れ。


 白旗アウレリアが見ている。


 レイナ先輩は、右手を上げた。


 小さな光の魔法。


 礼庭の空に、小さな白い花を咲かせるような簡単な魔法だ。


 一度目。


 失敗。


 光は花にならず、指先で散った。


 ルミナリアの生徒たちが、わずかに息を呑む。


 失敗が見えた。


 しかも、白旗の前で。


 レイナ先輩の頬が少し赤くなる。


 でも、彼女は手を下げなかった。


「一度目、失敗しました」


 声は震えている。


 でも、はっきりしている。


「戻ります」


 一歩下がる。


 礼。


 それから、二度目。


 光が花になった。


 小さな白い花。


 礼庭の空に、ふわりと咲いて、消える。


 白旗アウレリアが大きく翼を広げた。


 今日一番の反応だった。


 いや、ガレス先輩の花びらよりも大きい。


 羽布が光を受けて、鳥そのものが飛び立ちそうに見えた。


 マリエル先生が、静かに息を吸った。


「美しい礼です」


 レイナ先輩は礼をした。


 今度は、かなり美しかった。


 完璧だからではない。


 失敗が含まれているからだ。


 ネルは黙って見ていた。


 口を挟まない。


 茶化さない。


 ただ見ている。


 レイナ先輩が戻ってくると、ネルは少しだけ目をそらした。


「今のは、かなりよかった」


 レイナ先輩の口元が動いた。


「でしょう」


「そこで偉そうにするんだ」


「当然よ」


 二人の火花。


 でも、少し温度が違う。


「最後、ネル・アーレン様」


 ネルは露骨に嫌そうな顔をした。


 全員が見る。


 白旗も見る。


 マリエル先生も見る。


 逃げ場はない。


「あたし、礼とか無理なんだけど」


 ネルは最初から言った。


 正直すぎる。


 マリエル先生は怒らない。


「では、無理だと感じる方の礼を見せてください」


「何それ」


「無理を隠して形だけ整えるより、無理だと知った上で相手を乱暴に扱わない方法を探すことです」


 ネルは黙った。


 少しだけ意外そうだった。


 貴族校の礼法担当が、そんなことを言うとは思わなかったのだろう。


 俺も思わなかった。


 ルミナリアは全部が針ではない。


 針もある。


 でも、礼そのものには、ちゃんと意味がある。


 ネルは前に出た。


 歩き方は硬い。


 白旗アウレリアが見ている。


 ネルの手。


 鉄旗に触れた手。


 一瞬しか魔力が出ない手。


 彼女は白旗の前で止まった。


 距離は十分。


 触れない。


「あたしは、たぶんあんたに嫌われる」


 全員が固まった。


 白旗に向かって言う言葉としては、かなり強い。


 ネルは続ける。


「礼とか、名誉とか、そういうの苦手。綺麗な言葉で刺されるのも嫌い。だから、たぶん態度に出る」


 白旗は羽を閉じている。


 見ている。


「でも」


 ネルは手を開いた。


「触るなら、ちゃんと触る。逃げるなら、逃げたって言う。嫌なら、嫌って言う。あんたが嫌がったら、無理に追わない」


 それは礼なのか。


 分からない。


 でも、ネルの言葉だった。


「だから、今は触らない」


 ネルは一歩下がった。


 礼はしない。


 いや、した。


 彼女なりに、ほんの少し頭を下げた。


 ぎこちない。


 かなり不格好。


 でも、乱暴ではない。


 白旗アウレリアは、しばらく動かなかった。


 長い沈黙。


 ネルの肩が少し硬くなる。


 レイナ先輩も黙っている。


 俺も息を止めていた。


 やがて、白旗が首を傾けた。


 羽布が、一枚だけ開く。


 レイナ先輩のときより小さい。


 ロイのときより慎重。


 でも、拒絶ではない。


 マリエル先生が言った。


「率直すぎます」


 ネルが顔をしかめる。


「でしょうね」


「ですが、相手を乱暴に扱わない意思はありました」


 ネルが目を瞬く。


「それ、礼?」


「礼の始まりです」


 白旗アウレリアが、もう一度小さく羽を揺らした。


 ネルは黙った。


 戻ってくると、レイナ先輩が言った。


「ひどい礼だったわ」


「分かってる」


「でも、無礼ではなかった」


 ネルがレイナ先輩を見る。


「それ、褒めてる?」


「かなり」


 リリィ語。


 ネルは少しだけ笑った。


「じゃあ、いい」


 全員の普段通りが終わるころ、白旗反応表はかなり埋まっていた。


 ロイ。


 緊張を申告し、小声で礼。


 ミラ。


 荷物をぶつけない実用の礼。


 ジャック。


 壊さないと先に伝える礼。


 リリィ。


 予定外にも場所を与える礼。


 クララ。


 見すぎを認め、距離を取る礼。


 アルフ。


 場を傷つけない見えない戻り線。


 ノル。


 眠気を隠さず、聞く意思を示す礼。


 ガレス。


 踏まれる前に戻す直す礼。


 コレット。


 書く前に見る礼。


 ルカ。


 不足を認め、教えを乞う礼。


 レイナ。


 一度目の失敗から戻る礼。


 ネル。


 無理を隠さず、乱暴に扱わない礼の始まり。


「礼って、思ったより多いんだな」


 俺が言うと、マリエル先生は微笑んだ。


「礼は形から始まることもありますが、形だけで終わるものではありません」


 セシリアが頷く。


「アウレリアは、形だけの礼にも反応します。ただし、それだけでは近づきません」


「近づかない?」


 コレットが聞く。


「はい。白旗は、礼の形と内側の意志がずれている相手から距離を取ります」


 それはかなり重要な情報だった。


 公式戦で、白旗は第七部の不和を見抜いて逃げる。


 プロット上の未来を俺たちは知らないことになっているが、空気としてもう分かる。


 形だけ整えても駄目。


 内側の意志がずれていると、白旗は逃げる。


 つまり、ネルとレイナ先輩が表面上だけ仲良くしても、たぶん通用しない。


 逆に、火花を散らしていても、相手を乱暴に扱わない意思があれば、白旗は見る。


「面倒な旗」


 ネルが言った。


 レイナ先輩が言う。


「繊細な旗と言いなさい」


「面倒で繊細」


「少しは譲ったのね」


「かなり」


 二人のやり取りを見て、白旗アウレリアが小さく羽を揺らした。


 セシリアが少し驚いたように目を開く。


「今の反応は」


 クララがすぐに書く。


「対立中の相互譲歩に反応」


「そんなことまで見るのか」


 俺は頭を抱えた。


 白旗攻略はかなり難しそうだ。


 鉄旗は命令の奥に核文があった。


 白旗は、礼の形と心のずれを見る。


 別方向に厄介だ。


「次に、意識した礼を」


 マリエル先生が言った。


 全員が少し身構える。


 だが、その瞬間、白旗アウレリアが大きく羽を閉じた。


 そして、鳥像からふわりと降りた。


 旗が飛ぶ。


 いや、滑る。


 羽布を広げ、白い軌跡を残して礼庭の中央へ降りる。


 全員が息を止めた。


 白旗アウレリアは、俺たちの前をゆっくり歩いた。


 鳥のような脚部。


 細い軸。


 羽布。


 近くで見ると、本当に小さな白い鳥のようだ。


 ただし、目はない。


 それでも、見られている。


 アウレリアは、まずレイナ先輩の前で止まった。


 レイナ先輩が礼をする。


 白旗は、彼女の右手を見た。


 一度失敗した手。


 戻った手。


 次に、ネルの前へ行く。


 ネルは固まった。


 白旗は、彼女の開いた手を見る。


 触らないと言った手。


 そして、二人の間に立った。


 白い羽布が、二人へ向けて少し開く。


「試されてる?」


 ネルが小さく言う。


「たぶん」


 レイナ先輩が答える。


「何を」


「私たちが、互いをどう扱うか」


 白旗は動かない。


 待っている。


 命令ではない。


 礼の判定でもない。


 試し。


 ネルは少し迷った。


 レイナ先輩も迷った。


 そして、レイナ先輩が先に手を出した。


 握手ではない。


 貴族校の礼に近い、手を差し出す形。


 ネルはそれを見て、嫌そうな顔をした。


「何それ」


「礼よ」


「握手でいいじゃん」


「ここでは、こう」


「面倒」


「でも、嫌なら握手でもいいわ」


 レイナ先輩が言った。


 ネルが目を瞬く。


 譲った。


 レイナ先輩が、形を譲った。


 ネルは少しだけ考え、自分の手を出した。


 普通の握手。


 レイナ先輩は、その手を取った。


 貴族校式ではない。


 でも、乱暴でもない。


 ネルが言う。


「さっきの礼、かなりよかった」


 レイナ先輩が答える。


「あなたの礼は、ひどかったけれど無礼ではなかった」


「まだ言う?」


「事実よ」


 二人は睨み合う。


 手は離さない。


 白旗アウレリアが、羽布を大きく広げた。


 朝の光が、白い羽に反射する。


 セシリアが小さく言った。


「アウレリアが近づきました」


 白旗は、二人の握った手に近づいた。


 触れはしない。


 でも、今までで一番近い。


 ネルとレイナ先輩は、同時に息を呑んだ。


 俺もだ。


 白旗は、礼の形だけを見ているのではない。


 綺麗な手だけを好むのでもない。


 不格好な譲歩。


 火花の中の尊重。


 それに、近づいた。


 コレットが表に書く。


 白旗アウレリア。


 形だけでなく、相互の扱いを見る。


 譲歩に接近。


 火花を拒まない。ただし乱暴は嫌う。


「かなり難しい旗だな」


 俺が言うと、アルフが頷いた。


「でも、条件が見えた」


「条件?」


「不和を隠すと逃げる。乱暴に扱うと逃げる。違いを認めて扱うと近づく」


 アルフのまとめは、相変わらず鋭い。


 クララがすぐに書いた。


 白旗攻略仮説。


 一、不和を隠さない。


 二、乱暴に扱わない。


 三、違いを礼として扱う。


「これ」


 コレットが表を見た。


「試合で、とても重要になります」


 白旗アウレリアは、ネルとレイナ先輩の手から少し離れ、鳥像へ戻った。


 羽を畳む。


 また眠っているような姿になる。


 しかし、もう眠っているようには見えなかった。


 見ている。


 試している。


 そして、近づく条件を少しだけ教えた。


 マリエル先生が言った。


「本日の見学訓練は、ここまでにいたしましょう」


「意識した礼と競技時の動きは?」


 クララが聞く。


 マリエル先生は微笑む。


「アウレリアが先に答えを出しました。これ以上は、形の練習になります。それも必要ですが、今は皆さまが得たものを持ち帰る時間です」


 得たもの。


 白旗は形だけでは近づかない。


 ネルとレイナ先輩の火花を、完全には拒まない。


 ただし、乱暴に扱えば逃げる。


 かなり厄介で、かなり面白い。


「ネル」


 レイナ先輩が言った。


「何」


「手」


 二人はまだ握手していた。


 ネルが慌てて離す。


「言ってよ」


「言ったわ」


「遅い」


「礼よ」


「絶対違う」


 二人がまた火花を散らす。


 白旗アウレリアは鳥像の上で、ほんの少し羽を揺らした。


 たぶん、見ている。


 俺は胃にいい包みを握った。


 第六章は、やはり面倒だ。


 でも、少しだけ勝ち筋が見えた。


 いや、勝ち筋というより、近づき方だ。


 白旗アウレリアは奪われる旗ではない。


 近づくに値する振る舞いを見せなければ、そもそも距離が縮まらない。


 鉄旗とはまったく違う。


 そして、第七部にはかなり難しい。


 でも、不可能ではない。


 ネルの不格好な礼にも。


 レイナ先輩の失敗のあとの礼にも。


 ガレス先輩の直す手にも。


 ロイの小声にも。


 白旗は反応した。


 なら、こちらにも届く余地はある。


 形だけではなく。


 綺麗な言葉だけでもなく。


 相手をどう扱うか。


 そこに、白旗への道がある。


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