第53話 礼を試す白い鳥
白旗アウレリアは、朝の光の中で眠っているように見えた。
歓迎の庭の中央。
白い鳥像の上。
羽のように重なった旗布を閉じ、細い脚のような軸を揃えている。
風はほとんどない。
それでも羽布の端だけが、時々かすかに揺れる。
眠っている。
見ていない。
そう思いたくなる姿だった。
だが、昨日の茶会で俺たちは学んだ。
あれは見ている。
かなり見ている。
手。
礼。
視線。
歩調。
言葉の選び方。
沈黙の置き方。
たぶん、茶器の持ち方まで。
「無理」
ネルが朝一番に言った。
清々しいほど早い諦めだった。
場所は、ルミナリア貴族魔法学院の第一礼庭。
俺たちは、白旗アウレリアの性質を確認するための見学訓練に参加していた。
見学訓練。
名前は穏やかだ。
だが、実際には「白旗がどの振る舞いに反応するかを、礼法担当の教師と競技部代表の監督下で確認する」という、かなり胃に来る時間だった。
グラナートでは命令を受けた。
ルミナリアでは礼を見られる。
どちらも緊張する。
ただ、緊張の種類が違う。
グラナートの緊張は、背中を硬くする。
ルミナリアの緊張は、指先を硬くする。
「何が無理なんだ」
俺が聞くと、ネルは庭の入口に立つ礼法担当の教師を見た。
淡い灰色の髪を結い上げた女性で、姿勢も声も隙がない。
名前はマリエル先生。
昨日の茶会で、クララに「記録の姿勢も礼に含まれます」と言った人だ。
「あの先生の前で歩くのが無理」
ネルは言った。
「歩くだけだろ」
「歩くだけを見られるのが嫌」
分かる。
かなり分かる。
マリエル先生は、俺たちを責めていない。
微笑んでいる。
その微笑みが、むしろ怖い。
「本日の訓練は、礼節の優劣を競うものではありません」
マリエル先生が言った。
声は柔らかい。
だが、全員の背筋が伸びた。
「白旗アウレリアが、どのような振る舞いに反応するかを確認するためのものです。皆さまには、普段通りの動き、意識した礼、競技時の動きの三種類を見せていただきます」
普段通り。
意識した礼。
競技時。
三種類。
アルフがすでにメモを取っている。
コレットも表を開いた。
クララは古代旗反応の欄を作っている。
ノル先輩は椅子を探している。
「フェイン様には、こちらへ椅子をご用意しております」
マリエル先生が言った。
ノル先輩は眠そうに頷く。
「礼」
「ありがとうございます、です」
クララが小声で補足する。
「ありがとう」
ノル先輩は言った。
白旗アウレリアが、ほんの少し羽布を揺らした。
「今ので反応?」
ロイが小声で言う。
「椅子を受け取る礼に反応した可能性があります」
クララが即座に書く。
ノル先輩。
椅子。
ありがとう。
白旗微反応。
「椅子で反応する旗、難しくない?」
ネルが顔をしかめる。
「だから見学訓練です」
コレットが言う。
今日のコレットは表を二枚持っている。
一枚は白旗反応表。
もう一枚はネル・レイナ衝突予防表。
予防されている。
かなり本気で。
「部長、その二枚目見えてる」
ネルが言った。
「見せています」
「隠さないんだ」
「隠すと使えません」
強い。
表の運用がどんどん強くなっている。
レイナ先輩は、今日も整っていた。
昨日より少し柔らかい。
でも、まだ緊張している。
白旗アウレリアを見る目には、憧れがある。
同時に、試される怖さもある。
「レイナ先輩」
俺は小声で聞いた。
「大丈夫ですか」
「大丈夫ではないけれど、崩れる場所は選ぶわ」
「昨日よりかなり具体的」
「学習したの」
彼女はそう言って、少しだけ笑った。
その笑いは、昨日の茶会の最後に近かった。
完璧ではない。
でも、隠しすぎていない。
白旗アウレリアが、彼女のほうを見た気がした。
「最初は普段通りの歩行から」
マリエル先生が言った。
普段通り。
その言葉に、全員が困った。
普段通りを見られると、普段通りではなくなる。
これは世界の罠だ。
「では、ロイ・キャベル様」
「俺!?」
ロイが思わず大きな声を出した。
白旗アウレリアが、ぱっと羽布を持ち上げる。
反応。
というより、驚き。
ロイは両手で口を押さえた。
「すみません」
小声。
白旗が、少し羽を閉じる。
「大声と謝罪の差」
クララが書く。
「ロイさん、大声で白旗を驚かせる。直後の小声謝罪により反応沈静」
「俺、開始前に記録されてる」
「重要です」
ロイはしょんぼりしたが、少しだけ嬉しそうでもあった。
記録されることに慣れてきている。
グラナートの経験が残っているのだ。
ロイは礼庭を歩いた。
普段通りに、と言われた結果、明らかに普段よりぎこちない。
腕と脚が同じ側で出かけた。
戻した。
戻した結果、さらにぎこちなくなった。
白旗アウレリアは、首を傾けた。
羽布が少し揺れる。
「笑ってる?」
ネルが小声で言う。
「旗は笑わないだろ」
「でも、笑ってる感じする」
マリエル先生が微笑む。
「アウレリアは、緊張を見ています」
「緊張」
ロイが止まる。
「はい。礼は、緊張しないことではありません。緊張しても、相手を乱暴に扱わないことです」
ロイは少し考えた。
それから、白旗へ向かって小さく礼をした。
「緊張してます。でも、よろしくお願いします」
白旗の羽布が、柔らかく揺れた。
今度は、明らかに好意的だった。
ロイが目を輝かせる。
叫びそうになる。
自分で口を押さえる。
さらに白旗が揺れる。
クララが忙しい。
「緊張の申告。小声。自己制御。白旗良反応」
ロイは戻ってくると、ものすごく小さい声で言った。
「俺、ちょっと分かったかも」
「何が」
俺が聞く。
「きれいな音じゃなくても、乱暴じゃなければいいのかも」
それは、かなり大事な発見だった。
ロイの音は大きい。
でも、乱暴かどうかは別だ。
命令ではない音。
歓迎の鐘。
そして、乱暴ではない音。
彼の成長が、また一段進んだ気がした。
「次、ミラ・ガルド様」
ミラは荷物を背負ったまま前に出た。
「荷物は置いても構いません」
マリエル先生が言う。
「持つ」
ミラは即答した。
セシリアなら「素敵な考え方」と言っただろう。
マリエル先生は少しだけ頷いた。
「では、荷物を持つ礼を見せてください」
「荷物を持つ礼」
ミラは少し考えた。
そして、荷物の紐を結び直し、背負い直した。
重心を整える。
肩に食い込まないように布を挟む。
歩く前に、後ろにいる人へ一度視線を向ける。
「ぶつからない」
それだけ言って、歩き出した。
白旗アウレリアが、じっと見ている。
派手な礼ではない。
美しい礼でもない。
でも、荷物が誰かに当たらないようにする。
それは、たしかに相手を扱う礼だった。
白旗が羽布を少し広げる。
マリエル先生が頷いた。
「実用の礼ですね」
ミラは振り返る。
「荷物は、背負い方」
「ええ。礼も、背負い方に出ます」
ミラは満足そうに頷いた。
ミラ理論が、また拡張された。
礼も背負い方。
コレットがすぐに書く。
「次、ジャック・バーネル様」
ジャックが嫌そうな顔をした。
「俺、歩くだけで危険扱いされそうなんだけど」
「顔」
ネルが言う。
「うるせえ」
ジャックは前に出た。
普段通りに歩こうとして、明らかに足が重い。
壊してはいけないものが多すぎる場所だ。
花壇。
白い石。
細い鳥像。
礼庭の飾り。
全部が「壊すな」と言っている。
ジャックにとっては、かなりつらい環境だ。
白旗アウレリアは、彼の手を見ていた。
攻撃魔法が味方の近くを通る問題児アタッカー。
一番壊してはいけないものを狙いやすい魔法。
その手が、何をするか。
ジャックは途中で止まった。
「無理」
ネルと同じ言葉を言った。
「何が」
俺が聞く。
「どこ見ても壊しちゃ駄目なものしかねえ」
正直だ。
かなり正直だ。
マリエル先生は怒らなかった。
「では、壊してはいけないものを前にした礼を」
「何だよそれ」
ジャックは困った顔をした。
それから、壊れた支持金具の欠片をポケットから出した。
グラナートから持ってきた、小さな記録。
彼はそれを手のひらに置き、白旗へ見せる。
「壊さない」
短い。
「今は、壊さない」
白旗の羽布が、少しだけ揺れた。
大きな反応ではない。
でも、拒絶ではない。
ジャックは舌打ちしそうになり、しなかった。
「……よろしく」
白旗が、もう少し揺れた。
マリエル先生が言う。
「よい礼です」
ジャックが顔をしかめる。
「今のが?」
「はい。自分の危険を相手に知らせ、扱いを約束しました」
ジャックは黙った。
たぶん、褒められ慣れていない場所を褒められた。
彼は戻ってくると、ガレス先輩の横に立った。
ガレス先輩が短く言う。
「よかった」
「うるせえ」
でも、ジャックは欠片を握りしめていなかった。
手のひらに、そっと乗せていた。
「次、リリィ・クロフト様」
リリィは微笑んだ。
「予定外を持ち込む礼ですね」
「まだ何も言っていません」
マリエル先生が少しだけ困った。
リリィは迷子一号を取り出した。
白い礼庭に、ただの石。
ものすごく浮いている。
「これは置いても?」
「その石は」
「迷子です」
「……落とし物ではなく?」
「迷子です」
マリエル先生は少し考えた。
「では、迷子を置く礼を」
対応力が高い。
リリィは満足そうに、迷子一号を白い石道の端へ置いた。
中央ではない。
邪魔にならない場所。
でも、完全に隠れない場所。
「予定外です。踏まないでください」
白旗アウレリアが、首を傾ける。
羽布が揺れる。
それは困惑に見えた。
リリィは楽しそうだ。
「予定外を無礼にしない。これが私の礼です」
マリエル先生が、少しだけ笑った。
「覚えておきます」
白旗は迷子一号をしばらく見ていた。
礼庭の白さの中に、ただの石がある。
でも、踏まれないように置かれている。
予定外にも場所を与える。
それも、礼なのかもしれない。
「次、クララ・ヴェルム様」
クララは記録帳を抱えて前に出た。
「記録の姿勢も礼に含まれる、でしたね」
「はい」
マリエル先生は頷く。
クララは白旗へ向かって礼をした。
やや硬い。
それから、少し下がって記録帳を開く。
書く。
白旗を見る。
また書く。
問題は、顔が近い。
記録に集中しすぎて、白旗を観察対象として見すぎている。
白旗アウレリアが、少し身を引くように羽を閉じた。
「あ」
クララが気づく。
マリエル先生が言った。
「記録は、相手を保存する行為であると同時に、相手を固定する行為にもなります」
クララの目が見開かれた。
「固定」
「はい。見られすぎると、旗も身構えます」
「鉄旗とは逆ですね」
「アウレリアは、見られる礼も見ます」
難しい。
かなり難しい。
クララは記録帳を少し下げた。
そして白旗へ言った。
「見すぎました。距離を取ります」
白旗の羽布が、少しだけ戻る。
クララは嬉しそうに記録しようとして、また手を止めた。
記録したい。
でも、今は見すぎない。
葛藤が顔に出ている。
「クララ、顔」
俺が小声で言う。
「記録したいです」
「あとで」
「あとで必ず」
「必ず」
彼女はようやく戻ってきた。
白旗は、少しだけ満足そうに見えた。
「次、アルフ・メイナード様」
アルフは前に出た。
いつも通り静かだ。
礼も静か。
過不足がない。
白旗は、じっと見る。
アルフは礼庭の床に線を引こうとして、手を止めた。
石筆は持っていない。
ここは線を引く場所ではない。
彼は少し考え、自分の足元に目線だけで短い基準を置いた。
線を引かない戻り線。
一歩進む。
一歩戻る。
礼をする。
「見えない線?」
俺が呟く。
アルフは戻ってきてから答えた。
「線を引く許可がない」
「だから?」
「自分だけが使う線にした」
白旗が、ゆっくり羽を揺らした。
マリエル先生が頷く。
「場を傷つけず、自分の基準を持つ。よい礼です」
アルフは少しだけ考えて言った。
「採用」
「何を」
「見えない戻り線」
また新しいものができた。
コレットが忙しい。
「次、ノル・フェイン様」
ノル先輩は椅子から立ち上がろうとして、少し眠そうに揺れた。
ガレス先輩が支える。
「寝ていい?」
「訓練中です」
マリエル先生が微笑む。
「眠気も、その方の一部です。無理に隠さず、相手に失礼にならない形で扱ってください」
ノル先輩は少し考えた。
そして、白旗へ向かって礼をした。
半分寝ているので、かなりゆっくりだ。
「眠い」
正直。
「でも、聞く」
白旗アウレリアが、静かに羽を揺らした。
ノル先輩はそのまま椅子へ戻り、座った。
「眠気を申告し、聞く意志を示す」
クララが小さく記録する。
今度は距離を保っている。
成長が早い。
「次、ガレス・モルン様」
ガレス先輩は無言で前に出た。
大きい。
無骨。
白い礼庭に立つと、かなり浮く。
でも、本人は気にしていない。
彼は礼をした。
少し不器用。
それから、足元に落ちていた小さな花びらを拾った。
踏まれそうな位置にあったものだ。
それを花壇の端へそっと戻す。
「直す礼」
ミラが言った。
白旗が大きく羽を揺らした。
今日一番の反応かもしれない。
ガレス先輩は少しだけ目を瞬いた。
マリエル先生が微笑む。
「壊れたもの、乱れたものを、目立たず戻す。とてもよい礼です」
ガレス先輩は短く頷いた。
「手でなら」
魔法では壊すことしかできない。
でも、手でなら直せる。
その手を、白旗は見た。
俺は少し胸が温かくなった。
「次、コレット・セイン様」
コレットは表を持ったまま前に出た。
白旗が、表を見る。
昨日も少し反応していた。
コレットは礼をする。
そして、表を閉じた。
「今は、見ます」
彼女は言った。
「書くのは、あとにします」
クララが少し衝撃を受けた顔をした。
コレットが表を閉じる。
それは第七部にとって、かなり大きなことだ。
敗北を表にする部長。
見えなかったものを拾う部長。
でも、今は書く前に見る。
白旗アウレリアが羽を広げた。
静かに。
コレットはその反応を、目で受け取った。
すぐには書かない。
戻ってきてから、深く息を吐いた。
「難しいです」
「書かないのが?」
俺が聞くと、彼女は頷いた。
「はい。でも、相手が見られることに敏感なら、書く前に受け取る必要があります」
強い。
コレットの表も、変化している。
「次、ルカ・ヴァレン様」
俺の番が来た。
正直、かなり嫌だった。
白旗は手を見る。
俺の手は、風を使うか使わないか迷う手だ。
レガリアでの名前も、ここでは知られている。
カルミアのルカ、と呼び直されたことも、まだ胸に残っている。
俺は前に出た。
礼。
どの程度が正しいのかは、やはり分からない。
昔は知っていたのかもしれない。
忘れたのかもしれない。
最初から知らなかったのかもしれない。
白旗が見ている。
俺の手。
俺は、手を開いた。
「作法は、たぶん忘れました」
正直に言った。
温室ではないが、礼庭の空気が少し止まる。
「でも、今はカルミアとして来ています」
白旗の羽布が、かすかに揺れる。
「風を使うかどうかは、ここでは関係ないかもしれない。でも、使う前に戻る言葉を決めています。礼も、たぶん戻る場所が要る」
何を言っているのか、自分でも少し分からない。
でも、嘘ではない。
「だから、間違えたら教えてください」
俺は礼をした。
完璧ではない。
たぶん、かなり普通。
白旗アウレリアは首を傾けた。
そして、羽布を一枚だけ開いた。
昨日、レイナ先輩に応じたときと似た反応。
マリエル先生が言った。
「不足を認め、教えを乞う礼です」
「それ、礼なんですか」
「はい」
少し意外だった。
礼というのは、完成した形だけではないらしい。
足りないと認めることも、相手を尊重する形になる。
俺は戻ってきた。
ネルが小声で言う。
「まあまあ」
「顔診断?」
「礼診断」
「増えるな」
次は、レイナ先輩だった。
空気が変わる。
彼女自身も、それを感じたと思う。
昨日、白旗へ「失敗のあとの礼も見ていただけるか」と言った。
今日は、それを試される。
レイナ先輩は前に出た。
礼は美しい。
でも、昨日より少しだけ揺れている。
隠していない揺れ。
白旗アウレリアが見ている。
レイナ先輩は、右手を上げた。
小さな光の魔法。
礼庭の空に、小さな白い花を咲かせるような簡単な魔法だ。
一度目。
失敗。
光は花にならず、指先で散った。
ルミナリアの生徒たちが、わずかに息を呑む。
失敗が見えた。
しかも、白旗の前で。
レイナ先輩の頬が少し赤くなる。
でも、彼女は手を下げなかった。
「一度目、失敗しました」
声は震えている。
でも、はっきりしている。
「戻ります」
一歩下がる。
礼。
それから、二度目。
光が花になった。
小さな白い花。
礼庭の空に、ふわりと咲いて、消える。
白旗アウレリアが大きく翼を広げた。
今日一番の反応だった。
いや、ガレス先輩の花びらよりも大きい。
羽布が光を受けて、鳥そのものが飛び立ちそうに見えた。
マリエル先生が、静かに息を吸った。
「美しい礼です」
レイナ先輩は礼をした。
今度は、かなり美しかった。
完璧だからではない。
失敗が含まれているからだ。
ネルは黙って見ていた。
口を挟まない。
茶化さない。
ただ見ている。
レイナ先輩が戻ってくると、ネルは少しだけ目をそらした。
「今のは、かなりよかった」
レイナ先輩の口元が動いた。
「でしょう」
「そこで偉そうにするんだ」
「当然よ」
二人の火花。
でも、少し温度が違う。
「最後、ネル・アーレン様」
ネルは露骨に嫌そうな顔をした。
全員が見る。
白旗も見る。
マリエル先生も見る。
逃げ場はない。
「あたし、礼とか無理なんだけど」
ネルは最初から言った。
正直すぎる。
マリエル先生は怒らない。
「では、無理だと感じる方の礼を見せてください」
「何それ」
「無理を隠して形だけ整えるより、無理だと知った上で相手を乱暴に扱わない方法を探すことです」
ネルは黙った。
少しだけ意外そうだった。
貴族校の礼法担当が、そんなことを言うとは思わなかったのだろう。
俺も思わなかった。
ルミナリアは全部が針ではない。
針もある。
でも、礼そのものには、ちゃんと意味がある。
ネルは前に出た。
歩き方は硬い。
白旗アウレリアが見ている。
ネルの手。
鉄旗に触れた手。
一瞬しか魔力が出ない手。
彼女は白旗の前で止まった。
距離は十分。
触れない。
「あたしは、たぶんあんたに嫌われる」
全員が固まった。
白旗に向かって言う言葉としては、かなり強い。
ネルは続ける。
「礼とか、名誉とか、そういうの苦手。綺麗な言葉で刺されるのも嫌い。だから、たぶん態度に出る」
白旗は羽を閉じている。
見ている。
「でも」
ネルは手を開いた。
「触るなら、ちゃんと触る。逃げるなら、逃げたって言う。嫌なら、嫌って言う。あんたが嫌がったら、無理に追わない」
それは礼なのか。
分からない。
でも、ネルの言葉だった。
「だから、今は触らない」
ネルは一歩下がった。
礼はしない。
いや、した。
彼女なりに、ほんの少し頭を下げた。
ぎこちない。
かなり不格好。
でも、乱暴ではない。
白旗アウレリアは、しばらく動かなかった。
長い沈黙。
ネルの肩が少し硬くなる。
レイナ先輩も黙っている。
俺も息を止めていた。
やがて、白旗が首を傾けた。
羽布が、一枚だけ開く。
レイナ先輩のときより小さい。
ロイのときより慎重。
でも、拒絶ではない。
マリエル先生が言った。
「率直すぎます」
ネルが顔をしかめる。
「でしょうね」
「ですが、相手を乱暴に扱わない意思はありました」
ネルが目を瞬く。
「それ、礼?」
「礼の始まりです」
白旗アウレリアが、もう一度小さく羽を揺らした。
ネルは黙った。
戻ってくると、レイナ先輩が言った。
「ひどい礼だったわ」
「分かってる」
「でも、無礼ではなかった」
ネルがレイナ先輩を見る。
「それ、褒めてる?」
「かなり」
リリィ語。
ネルは少しだけ笑った。
「じゃあ、いい」
全員の普段通りが終わるころ、白旗反応表はかなり埋まっていた。
ロイ。
緊張を申告し、小声で礼。
ミラ。
荷物をぶつけない実用の礼。
ジャック。
壊さないと先に伝える礼。
リリィ。
予定外にも場所を与える礼。
クララ。
見すぎを認め、距離を取る礼。
アルフ。
場を傷つけない見えない戻り線。
ノル。
眠気を隠さず、聞く意思を示す礼。
ガレス。
踏まれる前に戻す直す礼。
コレット。
書く前に見る礼。
ルカ。
不足を認め、教えを乞う礼。
レイナ。
一度目の失敗から戻る礼。
ネル。
無理を隠さず、乱暴に扱わない礼の始まり。
「礼って、思ったより多いんだな」
俺が言うと、マリエル先生は微笑んだ。
「礼は形から始まることもありますが、形だけで終わるものではありません」
セシリアが頷く。
「アウレリアは、形だけの礼にも反応します。ただし、それだけでは近づきません」
「近づかない?」
コレットが聞く。
「はい。白旗は、礼の形と内側の意志がずれている相手から距離を取ります」
それはかなり重要な情報だった。
公式戦で、白旗は第七部の不和を見抜いて逃げる。
プロット上の未来を俺たちは知らないことになっているが、空気としてもう分かる。
形だけ整えても駄目。
内側の意志がずれていると、白旗は逃げる。
つまり、ネルとレイナ先輩が表面上だけ仲良くしても、たぶん通用しない。
逆に、火花を散らしていても、相手を乱暴に扱わない意思があれば、白旗は見る。
「面倒な旗」
ネルが言った。
レイナ先輩が言う。
「繊細な旗と言いなさい」
「面倒で繊細」
「少しは譲ったのね」
「かなり」
二人のやり取りを見て、白旗アウレリアが小さく羽を揺らした。
セシリアが少し驚いたように目を開く。
「今の反応は」
クララがすぐに書く。
「対立中の相互譲歩に反応」
「そんなことまで見るのか」
俺は頭を抱えた。
白旗攻略はかなり難しそうだ。
鉄旗は命令の奥に核文があった。
白旗は、礼の形と心のずれを見る。
別方向に厄介だ。
「次に、意識した礼を」
マリエル先生が言った。
全員が少し身構える。
だが、その瞬間、白旗アウレリアが大きく羽を閉じた。
そして、鳥像からふわりと降りた。
旗が飛ぶ。
いや、滑る。
羽布を広げ、白い軌跡を残して礼庭の中央へ降りる。
全員が息を止めた。
白旗アウレリアは、俺たちの前をゆっくり歩いた。
鳥のような脚部。
細い軸。
羽布。
近くで見ると、本当に小さな白い鳥のようだ。
ただし、目はない。
それでも、見られている。
アウレリアは、まずレイナ先輩の前で止まった。
レイナ先輩が礼をする。
白旗は、彼女の右手を見た。
一度失敗した手。
戻った手。
次に、ネルの前へ行く。
ネルは固まった。
白旗は、彼女の開いた手を見る。
触らないと言った手。
そして、二人の間に立った。
白い羽布が、二人へ向けて少し開く。
「試されてる?」
ネルが小さく言う。
「たぶん」
レイナ先輩が答える。
「何を」
「私たちが、互いをどう扱うか」
白旗は動かない。
待っている。
命令ではない。
礼の判定でもない。
試し。
ネルは少し迷った。
レイナ先輩も迷った。
そして、レイナ先輩が先に手を出した。
握手ではない。
貴族校の礼に近い、手を差し出す形。
ネルはそれを見て、嫌そうな顔をした。
「何それ」
「礼よ」
「握手でいいじゃん」
「ここでは、こう」
「面倒」
「でも、嫌なら握手でもいいわ」
レイナ先輩が言った。
ネルが目を瞬く。
譲った。
レイナ先輩が、形を譲った。
ネルは少しだけ考え、自分の手を出した。
普通の握手。
レイナ先輩は、その手を取った。
貴族校式ではない。
でも、乱暴でもない。
ネルが言う。
「さっきの礼、かなりよかった」
レイナ先輩が答える。
「あなたの礼は、ひどかったけれど無礼ではなかった」
「まだ言う?」
「事実よ」
二人は睨み合う。
手は離さない。
白旗アウレリアが、羽布を大きく広げた。
朝の光が、白い羽に反射する。
セシリアが小さく言った。
「アウレリアが近づきました」
白旗は、二人の握った手に近づいた。
触れはしない。
でも、今までで一番近い。
ネルとレイナ先輩は、同時に息を呑んだ。
俺もだ。
白旗は、礼の形だけを見ているのではない。
綺麗な手だけを好むのでもない。
不格好な譲歩。
火花の中の尊重。
それに、近づいた。
コレットが表に書く。
白旗アウレリア。
形だけでなく、相互の扱いを見る。
譲歩に接近。
火花を拒まない。ただし乱暴は嫌う。
「かなり難しい旗だな」
俺が言うと、アルフが頷いた。
「でも、条件が見えた」
「条件?」
「不和を隠すと逃げる。乱暴に扱うと逃げる。違いを認めて扱うと近づく」
アルフのまとめは、相変わらず鋭い。
クララがすぐに書いた。
白旗攻略仮説。
一、不和を隠さない。
二、乱暴に扱わない。
三、違いを礼として扱う。
「これ」
コレットが表を見た。
「試合で、とても重要になります」
白旗アウレリアは、ネルとレイナ先輩の手から少し離れ、鳥像へ戻った。
羽を畳む。
また眠っているような姿になる。
しかし、もう眠っているようには見えなかった。
見ている。
試している。
そして、近づく条件を少しだけ教えた。
マリエル先生が言った。
「本日の見学訓練は、ここまでにいたしましょう」
「意識した礼と競技時の動きは?」
クララが聞く。
マリエル先生は微笑む。
「アウレリアが先に答えを出しました。これ以上は、形の練習になります。それも必要ですが、今は皆さまが得たものを持ち帰る時間です」
得たもの。
白旗は形だけでは近づかない。
ネルとレイナ先輩の火花を、完全には拒まない。
ただし、乱暴に扱えば逃げる。
かなり厄介で、かなり面白い。
「ネル」
レイナ先輩が言った。
「何」
「手」
二人はまだ握手していた。
ネルが慌てて離す。
「言ってよ」
「言ったわ」
「遅い」
「礼よ」
「絶対違う」
二人がまた火花を散らす。
白旗アウレリアは鳥像の上で、ほんの少し羽を揺らした。
たぶん、見ている。
俺は胃にいい包みを握った。
第六章は、やはり面倒だ。
でも、少しだけ勝ち筋が見えた。
いや、勝ち筋というより、近づき方だ。
白旗アウレリアは奪われる旗ではない。
近づくに値する振る舞いを見せなければ、そもそも距離が縮まらない。
鉄旗とはまったく違う。
そして、第七部にはかなり難しい。
でも、不可能ではない。
ネルの不格好な礼にも。
レイナ先輩の失敗のあとの礼にも。
ガレス先輩の直す手にも。
ロイの小声にも。
白旗は反応した。
なら、こちらにも届く余地はある。
形だけではなく。
綺麗な言葉だけでもなく。
相手をどう扱うか。
そこに、白旗への道がある。




